史加
2025-12-19 13:39:23
62893文字
Public 原神(鍾タル)
 

春の湊で待っていて

鍾タル/自らを封印することにした鍾離と最期の三日間をともに過ごすタルタリヤの、春と恋の話


一.其は春雷にも負けぬ刃





 洞天を訪れるのは何もこれが初めてのことではない。もっと無秩序で混沌とした空間に放り出されたり、木の根の隙間なんていうとんでもない場所に落っこちたりした経験だってある。だというのにタルタリヤはその光景を目の当たりにした瞬間、あんぐりと口を開けて立ち尽くしてしまった。
 頭上には澄み切った青い空が広がっている。偽りの太陽から降り注ぐ光は温かく、吹き抜ける風も爽やかだ。目の前には満開の桜が何本も植えられていて、甘やかな薄桃色に埋もれるように小さな平屋が立っている。遺瓏埠で見るような石張りの外壁は白く、陽光に晒され光っていてまぶしい。タルタリヤにとって璃月の景色といえばあの活気あふれる港街が思い浮かぶので、同じ璃月の国で見られるものを取り入れていても眼前の景色は異国のもののように思えた。
 無論、これが足を運び慣れた洞天――旅人の塵歌壺であったのなら、タルタリヤとて驚きはしない。旅の合間のどこにそんな暇があったのか、彼女は定期的に洞天の中の設えを変えていて、訪れるたびに景色が異なっていた。モンドを彷彿とさせるレンガ造りの家々と風車に出迎えられることもあれば、鬱蒼と茂るスメールの雨林に似た森林に放り出されて邸宅にいたるまでちょっとした冒険をさせられたこともある。だからいきなり桜並木の前に立たされたって、今回は稲妻風にでもしたのか、とすんなり受け入れられただろう。
 だがこの洞天は違う。数日前に女皇より渡された手紙に記される手順に従い、洞穴の封印を解くための道具を揃えたり、元素石碑に光を灯したりと、数えるのも億劫になるほどの作業をこなし、やっとの思いでたどり着いた正真正銘璃月の仙人の洞天だ。だから黄金の空も、ひらひらと舞い散る却砂の葉も存在しない空間と対面するなど想定外である。
 一瞬これは夢ではないかと疑ったが、吹く風に混じるかすかな冷たさがそうではないことを教える。深まる春の中に残る冬の余韻は、年中雪に覆われる国で生まれ育ち磨かれた兵器の輪郭をなぞるのに十分なものだ。タルタリヤは大きく息を吸い込んで肺の膨らむ感覚を確かめ、ゆっくりと吐き出した。戦士たるもの、この程度のことで動揺してはならない。だがそれでも、と胸に引っかかるものはあり、拭うのも容易なことではなかった。
 慎重に一歩踏み出す。家の前まで敷き詰められた石畳の道は薄紅の影に染まり、淡い花の香が漂っている。ひらひらと降る花弁の雨に打たれて胸の奥がささやかに震えるのを感じながらも、数えること十数歩にして戸の前にたどり着いた。念のためタルタリヤは手紙を取り出し、その最後に記された手順を確かめる。一見するとただの普通の扉も、仙人の洞天ではひとつ手順を間違えるだけで一生開けられなくなってしまうおそれがあるからだ。
 軽く握った右手を上げて、とんとんとん、と規則正しく三回ノックする。手紙を懐にしまって一歩下がると、ぎい、と鈍い音を立てて目の前の扉が開いた。薄い茶の匂いとともに洞天の主が姿を現す。
「よく来てくれたな、公子殿」
 そう言って主――鍾離と名乗る仙人の祖は、穏やかにタルタリヤを出迎えた。
 これが泡沫の春の始まりにして、終わりだった。



 戦争の国と謳われるナタが約五百年に渡るアビスとの抗争に終止符を打ち、平和を勝ち得たのも束の間、テイワット各国で地脈の異常が観測されるようになったのは数年前のことだ。対処に追われる国々の隙をついて侵攻してくるアビスは勢いを増し、あちこちにばら撒かれた戦いの火種が炎となって盛っていくのにそう時間はかからなかった。やがて異邦の旅人を中心に据え、アビスに留まらずこの世界の根幹さえも揺るがすほどの戦乱となった記憶は、テイワットに住むほとんどの人の頭に鮮烈に残っている。
 七国はそれぞれの方法でアビスと戦い、この困難を乗り越え、平穏を取り戻すことに成功した。旅人も紆余曲折を経てようやく片割れとの再会を果たし、今はテイワット各地を旅している。大戦は人間たちの勝利で幕を下ろしたが、一方で犠牲となったものも多い。この世界のあちこちに戦いの傷跡が残っているし、事後処理もまだ終わっていない状況だ。その中でも特に大きなひとつが今回タルタリヤに下された命令と言えよう。
「この洞天にこもる前に翹英荘で買った茶だ。雑味がなくすっきりとしていて、茶を飲み慣れていない旅行客の間で人気の出ている品だと聞いた。俺もこの口当たりの良さは好ましいものだと思うが、いかがだろうか」
 家に上がり込んで十分と待たずに出てきた茶を前にした瞬間から、タルタリヤは物足りなさを覚えた。鍾離の行動も言葉も中身の詰まっていない、外側だけを取り繕った張りぼてのように思えたからだ。
 いついかなる時もその言動に貫禄と重みを伴っていた男とは思えぬ違和感がそこにあり、タルタリヤの胸をざわつかせている。生まれた動揺を隠すように茶杯を手に取り、薄緑色の透き通った液体を一口飲み込んだ。鍾離の言う通り、渋みがなくて飲みやすい。単調とも言えるそれは、璃月の茶をそれなり飲み慣れている舌には少しつまらなくもあった。
「確かに悪くないね。でも俺はもう少し苦味のあるお茶や、香りの高いもののほうが好きだな。先生だってそう思っているんじゃないか?」
「ほう。何故そう思った?」
「質問に質問で返すのは感心しないよ。まあ……少なくとも俺が今まで先生に勧めてもらったお茶はもっと味に深みがあって香りも華やかなものが多かったし、あんたもそれを飲みながら嬉しそうに蘊蓄を語っていたから、そう思っただけだ」
 答えて、抜け作のような茶を飲み干す。かつて良質な茶を飲んだときに感じたあたたかな余韻はない。鼻に残る香りも、舌の根に蘇る甘さもない茶など、目の前の男を満足させるにはほど遠いもののように思えた。
 タルタリヤの答えを聞いた鍾離は、唇を湿らせる程度に茶を啜る。その杯の中にはまだたっぷりと液体が残っていた。そっちのほうがわかりやすかった。
「正解だ」
 杯を置いた鍾離が微笑む。
「本物の公子殿だな」
……は? まさか俺の正体を確かめるためにわざわざ不味い茶を用意したのか?」
 ここに来てつまらぬ問答がタルタリヤを試すためのものであったことを知り、思わず低い声がこぼれた。
「そう怒るな。氷神に手紙をしたため、ひとつでも手順を間違えれば二度とこの地に足を踏み入れることが出来ぬよう術を施したが、それも万全とは言えない。お前が紛れもない「公子」であると自らの目で確かめなければならなかった。それほど事は重大であるとも伝えられているはずだが」
 鍾離の言葉に嘘はない。けれど別にタルタリヤだってこの程度のことでへそを曲げるつもりはないのに冷静に諭されて、なんだか面白くない気持ちになる。
 とはいえ不機嫌さの欠片をこれ以上見せてしまうことがあれば、それこそ目の前の男はタルタリヤに呆れて最悪この場から追い出しかねない。敬愛する女皇からの命令を受けてタルタリヤはここにいるので、任務失敗の報告を持って帰るわけにもいかなかった。これ以上ボロが出ないようにと居住まいを正して、話の続きを促す。
「俺が本物だと分かったなら説明してくれ。俺がここで為すべきことは、洞天に着いてから話す……手紙にはそう書いてあったよ」
 事前に預かった手紙に書かれていたのは、洞天へ立ち入るための方法と、入った後の詳細は直接話す旨だけだ。そもそもなぜ鍾離がこの洞天を作り、そこに引きこもることを選んだのかについては、事前に女皇が必要だと判断して直接教えてくれている。しかし彼女もタルタリヤが具体的に為すべきかまでは聞かされていないようで、くれぐれも手順と判断を誤ることのないように念を押された上で手紙を預かってここに来た。だからタルタリヤが任務を完遂するには、鍾離から与えられる情報が必要だった。
「何、そう難しいことではない。ただ封印が安定するまでの残り三日間をここで俺と共に過ごし、最後の日に鍵をかけて出ていって欲しいだけだ」
 タルタリヤの問いに鍾離は簡潔に答え、懐から一本の鍵を取り出す。ほのかに光を帯びて金色に輝くそれは決して普通の鍵ではない。元素視覚を使わずとも、極めて純度の高い岩元素で作られていることの分かる代物だ。間違いなく鍾離自ら生み出したものだろう。
「鍵、ね。この家のってこと?」
「そうだ。この鍵を使って戸締まりをすることで封印が完成し、鍵を持つ者以外は内側から出ることも、外側から開けることも出来ない檻となるよう術を編んでいる。お前にはその、最後の戸締まりを任せたい」
 つまりは封印の完成に必要で、他者の手なくしては為せないことをやってくれさえすればそれでいい、ということらしい。
 鍵の秘める元素力を考えると一般人に任せるのは無理な話だが、わざわざタルタリヤに頼む必要はないことのように思えた。鍾離の正体を知る者は多くはないが、少なくもない。彼を知る仙人の誰かに頼めばやってくれそうなことである。拒否する理由もないが、どうにも腑に落ちない。
「やるのはいいけど、鍵はどうしたら? ここを出たら先生の知り合いの仙人にでも預ければいいのかい?」
 岩王帝君の封印を解く唯一の鍵なんて貴重なもの、まさか異国の神の兵器であるタルタリヤが持ち歩き続けるわけにはいかないだろう。そう思い質問すると、鍾離は緩慢に首を横に振る。
「いや、そのままお前に持っていて欲しい」
「へっ?」
 間抜けな声が漏れるのも無理のないことだった。
 しかし鍾離はタルタリヤの反応など気にも留めずに言葉を続ける。
「施錠後、五十年から六十年ほどの時間をかけてこの洞天は璃月の境界を越え、地脈と融合し、その中に封印されている魔神モラクスも無害化されて消滅するように作ってある。だからお前にはその鍵を他の誰にも奪われぬよう守り続ける大役を任せたい」
 ――何が「そう難しいことではない」だ!
 タルタリヤは吠えそうになって、すんでのところでどうにか堪えた。この男は大役という言葉の意味すら忘れてしまったのだろうか。大役を任されるのは役者にとって栄誉であると同時に相応の責任を負う、困難に等しいものだというのに。
 若き戦士の動揺など露知らず、自分で入れた不味い茶を啜り、微妙な顔をする鍾離は腹立たしいほどにマイペースだった。一周まわって呆れてしまうほどだ。先ほどまでは迂闊な真似をすればタルタリヤのほうが呆れられるのではないかと思っていたのがすっかり逆転している。
……つまり先生は俺にこの家の戸締まりをした後、後生大事に鍵を持ったまま六十年生きろと」
「そういうことになるな」
「人間の平均寿命って覚えてる?」
「公子殿の今の年齢を考えれば十分生きていられる年数だと思うが」
「それはそうなんだけど、どう考えたっておかしいだろ。平均寿命と健康寿命は違うし、大体俺は世界征服を目論む戦士で、そう簡単に死んでやるつもりはないけど、そこらの一般人よりもよっぽど死に近いところで生きている。そんなやつに岩王帝君の封印を解く鍵を預けるなんて正気とは思えない」
 ふー、と長く息を吐き、タルタリヤは神経を鋭く研ぎ澄ませた。割れた薄氷を掴んで武器とし、手のひらの熱で溶ける前に一閃で獣の首を掻き切るときのように鍾離を見据える。見据えて、目にも止まらぬ速さでひたりとその首筋に水剣の切っ先を当てがう。
「冷静な判断も下せないほどに摩耗が進んでいるのなら、今この場で殺してやろうか」
 最古の魔神相手に純粋な殺気を向けられるくらい、タルタリヤは恐れ知らずの戦士であり、涙を知らないスネージナヤの兵器だった。
 ただの人間であれば顔色を変えて腰を抜かすか、恐怖に打ち震えるであろう場面でも、鍾離は微動だにしない。すっかり冷めた茶の残る杯に視線を落としたまま、唇を開く。
「やめておけ。仮に今ここでお前が俺を殺せば、魔神の死の余波に巻き込まれて無事では済まない。そう簡単に死ぬつもりはないのだろう?」
 タルタリヤを見つめ返すひとみは、果てのない海のように凪いでいた。
 はぁ、とため息をついてタルタリヤは水形剣を手放す。目の前の強敵相手に今の自分の全力を尽くし、より兵器として磨きをかけられるのではないかというほんのわずかな期待は、剣とともに形を失った。
……本気で言うには冗談が過ぎると思うんだけど」
 どかっと椅子に腰を下ろして、タルタリヤは嘆息混じりに言う。鍾離が正気を保っていることは分かったが、それにしたって自分が今後約六十年に渡り誰にも脅かされてはならないパンドラの箱の鍵を任されるのは、やはり荒唐無稽な話としか思えなかった。
 杯の中に残る冷えた茶を飲んだところで、胸の奥で燻る何かが消える気配もない。苛立ちとも困惑とも言い難い複雑な感情を抱くタルタリヤに、鍾離は目をすがめる。
「そう難しく考えなくていい。それに……俺も、お前を納得させられるだけの理由を持ち合わせていないんだ」
……え?」
 ぽつりと落とされた鍾離の呟きは、がらんどうのガラス筒の中に入れた鈴を転がしたようなものだった。
 空虚に響いたそれはタルタリヤの鼓膜を揺さぶり、残響を重ねていって胸の奥のやわいところまで届く。
「この鍵を作り、誰に任せるかを考えたとき、脳裡を過ぎったのがお前だった。例え今の俺が約六千年の記憶を失った、空っぽの魔神に過ぎないとしても、他に選択肢はあっただろう。だというのに真っ先に浮かんだのが、お前だったんだ」
 鍾離の声には困惑と、これが最適解であることを信じる意思が滲んでいた。
 タルタリヤを見つめ続ける石珀のひとみに迷いはない。おそらく、迷っている時間もないのだろう。
 わざわざ氷の神を通して「命令」とすることでタルタリヤがこの地を確実に訪れるようにしたのにはそういう事情もある。それだけ分かればもう十分だ。目の前の現実を認める以外に、タルタリヤには選択肢がない。
……本当に忘れているんだね」
 ここに至るまでに知らされたすべてを飲み込んだ喉から、寂しそうな声がこぼれ落ちた。
 此度の依頼が発生した経緯を、女皇は事前にタルタリヤに伝えてくれていた。けれど正直ここに至るまで半信半疑だったのだ。何せ鍾離には女皇と契約を結んだ上でタルタリヤを騙した前科がある。同じ轍を踏んでなるものかと身構え、慎重になるのは当然だろう。
 けれどこうして言葉を交わし、鍾離に付きまとういくつもの違和感を確かめた今、それは純然たる真実としてタルタリヤの目の前に存在している。
「ああ。今の俺にはもう、神として生きていた頃の記憶は存在しない」
 静かに首肯する鍾離を前に、女皇から聞かされた話を思い返す。
 ――先の大戦で、璃月も例外なくアビスの侵攻の被害を受けた。仙人と人が手を取り合い未来へと歩み出した国を彼らは脅威とみなしたのか、あるいは最古の魔神が神座から降りたのを好機と捉えたのか、その勢いは他国よりも激しく、苛烈なものだったという。
 戦う術を持たぬ民たちを守るために、座を降りた神は己の力を奮うことを選んだ。悪しきものとの戦いは彼が未来を託した者たちに任せ、彼はただ庇護のために今一度魔神として力を使った。
 それは璃月という地に立つ者全員へ贈られる、盤石の加護だ。広大な国ひとつに浸透する神の力が、璃月における戦士たちの戦いを支え、民への被害を最小に抑えたのは言うまでもない。他の国よりも圧倒的に犠牲者の数を抑えて、璃月は平和を勝ち取った。
 だがそれほどの力を神の心を手放した身で行使するのに、代償を必要としない訳がなかった。
 彼が力の源とすべく代価として捧げ燃やしたものは、彼が神として生きた約六千年の記憶だった。
「覚えているのは、俺が神の心を手放すと決め、お前たちファデュイを招いたときから今に至るまでのことだけだ。それより以前の記憶はもう俺の中には存在しない。俺が自らを「魔神」であるとかろうじて認識出来ているのも、お前や旅人にものを語ったときの記憶から、かつての俺に旧友がいたことや、仙人たちとの間に築いていた信頼関係があったことを確かめられるからという、ただそれだけだ」
 淡々と語る声を、タルタリヤはただ黙って聞いた。それも事前に女皇から知らされていることだった。
 魔神モラクスは約六千年の記憶を失った。今の彼が覚えているのは「鍾離」という名の凡人として生きることを決め、タルタリヤと出会ったあたりから今に至るまでの出来事だけだと。その記憶さえもところどころ穴が空いていて、崩れかけたものであるとも。
「お前を選んだ理由のひとつは、俺の記憶に強く残っているのがお前だからなのかもしれない。凡人となった後も交友を続けていた仙人たちはいたはずなのに、彼らのことは忘れているからな」
 それは鍾離という男にとって、本質的には受け入れ難いことであるのだろう。語る声音は淡白なものであるが、そのかんばせが苦虫を噛み潰したように歪んでいるのを見て、タルタリヤは目の前の男から璃月への愛着が失われていないことを確かめる。
 盤石の重みそのものとも言える記憶を失った魔神は、急速に摩耗したも同然で、失ったものを埋めるにももう器が耐えられる状態ではなくなってしまった。だから彼は自らが摩耗の果てに理性のすべてを失い、世界に仇なす存在となる前に封印して世界へ還ることを選んだ。しかしそれも既にほころびだらけの頭で考えたことであり、記憶の失い方とその度合いによっては、先程向けた刃をもう一度首筋に突き付けなければならなかった。そういう意味でもタルタリヤは女皇から、鍾離と対峙する際には覚悟をしておくようにと事前に伝えられていた。
 けれどその必要はないようだ。そう判断して、タルタリヤはひそやかに胸を撫で下ろす。
「きっと鍾離先生は気まずいのさ。やむを得ない状況だったとはいえ自ら忘れることを選んだ友人たちに、自分の最期を託すのが」
 己の胸中を悟られぬよう、鍾離の選択に対して素直に思ったことを口にした。
……そうなのだろうか」
 黄金のひとみが道に迷った子どものように揺れる。
 目の前の男を盤石たらしめる重みのほとんどを失いもすれば、途方に暮れるのも無理はない。むしろ己という存在の危険性を把握し、なるべく世界に危害を加えぬよう封印することを選んだのは偉業と言えよう。
 タルタリヤは今ここにいるのが自分でよかったのだろうかと思った。後世まで語り継がれることのない神の英断を見届けるのに適した者は他にいるのではと逡巡した。けれどやはり、自分でよかったのかもしれないと思い直す。片割れと再会したばかりの旅人に任せるにはこの鍵は重すぎるし、彼の旧友たる仙らに預けるには軽すぎるからだ。
 少なくとも執行官として、人を率いる立場に立った経験のある者として、知己を頼るという選択を取れなかった鍾離にタルタリヤは寄り添えるところがある。
 誰かの上に立つ者は、その背の広さを見せることで後に続く者を鼓舞し、希望を与え、奮い立たせる役目を担うことがある。一度その頼もしさを知った者たちの前で弱った姿を見せるなんてことは出来ない。タルタリヤも「公子」として、かの大戦ではいかなる危機的状況下であっても部下たちの士気を維持するため、努めてそのように振る舞い続けていたことがあった。
 だからこそ己をよく知る者たちに、朽ちゆく姿を見せるだけでなく、その後始末を頼むなんてことは許容しがたいのだろうと思えた。まして自ら忘れてしまった親しい者たちに、忘れられるだけでなく置いていかれる苦しみまで残していくなんてなおのことだ。
 タルタリヤだってもしも自らの死が母国に害なすものであると知ったら、その最期の処理は可能な限り自らの手でおこない、どうしても他者の手を借りる必要があるのなら縁の深い者よりもより公平かつ公正な判断を下せる第三者を頼る。情が選択を鈍らせて絶望に繋がる可能性も、あるいは致命的な傷となってひとりの人生を狂わせる可能性も、極力避けたいから。
「少なくとも俺の目には、先生は今までと同じように映ってる。璃月という国を愛し、そこに住む人を愛し、神として誠実に、公平に、公正に判断を下して人の世を守ろうとしている。だからきっと、俺を選んだのも間違いじゃない。先生がこの国を愛しているように、この国の人たちも先生のことを愛しているからね」
 愛と憎しみは紙一重で、簡単に片方がもう片方に転じる可能性を秘めたおそろしいものである。きっと鍾離ならそれを憂慮し、万一の際に最期を任せる相手として、自らが契約を結んできた仙や、未来を託した人間たちではなく、異国の神の兵器を頼るだろう。記憶を失ったとしても自らがそう決断出来るように備え、その結果今に至ったに違いない。
 だから案ずるなと、タルタリヤは胸を張ってみせた。こじつけでもなんでもいいから、結局は最後に神として終点に至ることを選んだ目の前の男のことを少しでも安心させてやりたくてそうした。
……そうか。きっと、そうだな」
 祈りに似た思いが届いたのか、ようやく鍾離は頬を緩めて笑みを浮かべる。それは風に吹かれて散る桜のように淡いものだった。
 杯の中に残る茶をひと息に飲み干して、タルタリヤは熱くなりかけた胸の奥を冷やす。それから話を元に戻そうと、鍾離が取り出した鍵へ視線を移した。
……それで、話を戻すけど、その鍵を使うのにも手順があるのかな」
 ここへ至るまでに面倒な作業をいくつもこなしてきたことを思い出して尋ねる。魔神の封印なんていう大役を任されたのだから、当然失敗は許されない。手抜かりのないようタルタリヤは今回の任務に当たる必要があった。
 いや、と鍾離は首を振って、黄金の鍵をタルタリヤの手の上に落とす。
「ただ鍵をかけるだけでいい。窓、寝室、玄関、すべてこの鍵ひとつで施錠出来るようにしてある」
「玄関だけじゃないんだ……
「この家自体が棺だと思ってくれ。鍵をかける順番も気にする必要はないし、見ての通りそう大きくない家だから苦労することはないだろう。ただ、一応案内はしておいたほうがいいな。ついてきてくれ」
 冷めた茶を残したまま立ち上がる鍾離に倣ってタルタリヤも席を立ち、その後ろ姿を追った。
 こぢんまりとした台所と浴室、それから鍾離の寝室と、その隣に用意されたタルタリヤ用の客室。順に案内されて、本当に最低限しか設えられていないことに物寂しさを覚える。こんな家では三日間暮らすのだって退屈を持て余してしまうだろう。
「三日間って聞いたけど、それは今日を含めて?」
 居間に戻ってきたところで、何となく落ち着かない気持ちになってタルタリヤは期間を尋ねた。
「ああ。今日、明日、明後日とお前にはここで過ごしてもらい、四日目の朝に俺が眠っていることを確認してから戸締りをしていってほしい」
「叩いたり殴ったりした方がいいかい」
「その必要はない。名を呼んでも反応がないかだけ確かめてくれ」
「それは「鍾離」? それとも「モラクス」?」
「どちらもだ。もし呼ばれて俺が目を覚ましてしまった時はもう何日か様子を見て、同じことを繰り返す」
 タルタリヤの質問に鍾離は澱みなく答える。その中で任務期間が延びる可能性を示唆されて、つい眉間に皺を寄せてしまった。
 年若い戦士の顔にあどけなさが浮かぶのを当然鍾離が見逃すはずもない。ふ、と口元に小さな笑みを浮かべて、なだめるような声で続ける。
「氷神にはそのことも事前に伝えてある。それに彼女は最近お前を働かせてばかりでいることを憂いていた。だからここでの日々は休暇だと思ってくれればいい」
「休暇ねえ。俺は任務でここに来ているんだけど」
「だが身体を休めるのに良い機会だろう。連日アビスの残党や侵食により凶暴化した魔物を討伐していると聞いている。いくらお前が屈強な戦士とはいえ、戦い続きでは刃こぼれしかねない。そうなるのはお前にとっても不本意なことではないか?」
 諭すような口ぶりでありながらも、その声音はやわらかく純粋にタルタリヤを案じている。記憶のほとんどを失っても盤石と謳われる男の根本にある芯の強さとたおやかさは変わっていないようだ。
 胸の奥にこそばゆさを覚えて、それはそうだけど、とタルタリヤは言い淀む。
 鍾離の言っていることは正しい。正しいけれど、一方でタルタリヤは自分がここに遣わされた理由に女皇からの信頼が含まれていることも理解している。万に一つのことが起こったとしても、栄光の刃たる「公子」ならばこの男が厄災となる前に屠ってくれるという期待と信頼を胸に彼女は命じた。それを忘れてのうのうと過ごすことは出来ない。
……お前に任せてやはり正解だな」
 口を噤んだタルタリヤを前に、ふ、と鍾離は穏やかな笑みを浮かべた。
 閉ざされたままの窓へと向かい、開け放つ背を見つめる。室内の重い空気を攫うように吹き込む春風がタルタリヤの頬を撫でた。漂う花の香りは璃月であまり馴染みのないもののはずなのに、目の前の男によく似合っている。
「正直俺は、今の俺のことを信用していない。記憶を失う前の俺は万一に備えてこの封印の施し方と為すべきことを手紙に記し、残していた。それに則り璃月に住む友人たちと別れを告げ、この洞天を作り最後を迎えることにしたが、記憶を失った俺には本当にこの手順が合っているのか、あらゆる危険性を排除した万全な策であるのかを確かめる術がないからな」
 振り返った鍾離が、陽だまりの中で目を伏せる。まばゆい光に照らされたその姿に神々しさはない。ただ、これより去りゆく者が帯びる淡い影だけが落とされている。
「だから岩王帝君への畏敬により視野が狭くなることも、情に絆され判断を誤ることもない者が傍にいてくれるというのは心強い。手間をかけるが、残り三日間頼んだぞ」
 持ち上がる瞼の下から覗くひとみがタルタリヤを捉えて、真っ直ぐと見つめた。
 常人ならば抱くはずの、記憶を失ったことへの不安感も、死に対する恐怖もそこにはない。幕引きを選んだ神の、美しい黄金色だけが宿っている。
 ああ、ずるいなとタルタリヤは思った。
 そのまなざしの強さだけは、かつての盤石の重みを彷彿とさせる。自ら導いてきた者たちより託された願いを、祈りを、命を背負い、険しい道のりを歩んだ経験のある者の目だ。
 そんな者がついに歩みを止めて誰かに託す側になるということがどれほど重たいのかなんて言うまでもない。この重みに耐えられなければ戦士としてこれ以上強くはなれないということも。
 ならば女皇に仕え、忠誠を捧げる栄光の刃として。兵器として己を磨くことを追求する者として。
 そして、彼に選ばれたひとりの人間として。
「ああ、任せてくれ」
 タルタリヤはしたたかな笑みを浮かべて、頷いた。