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史加
2025-12-19 13:39:23
62893文字
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原神(鍾タル)
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春の湊で待っていて
鍾タル/自らを封印することにした鍾離と最期の三日間をともに過ごすタルタリヤの、春と恋の話
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三.春の夜の夢を守る者
鍾離が記憶を代価につくった洞天の中は、まるで彼に残っていた記憶自体がそうだったかのように最低限のものしか用意されていない。だから出来ることは限られている。
たとえば。
「昼はサンドイッチにしてみたよ。たまご、ポテトサラダ、ヒレカツ、レタスとトマト、ラズベリージャムとクリームチーズ、色々用意したから好きなものを食べてくれ」
一日三回の食事の用意と後片付け。
「洗濯物はこれで全部かい? なら、せっかくだしシーツも洗おう。これから何十年と眠り続けるんだから、少しでも寝心地が良いようにベッドを整えておくのだって大切だろ?」
衣類の洗濯。
「はは、窓を開けっぱなしにしておくと部屋の中まで花びらだらけになってしまうね。少し掃除しようか」
部屋の掃除。
「ここの桜は見事なものだね。稲妻で飽きるくらい見たはずなんだけど、このままずっと見ていられそうだ」
どんなに花弁が散っても満開のまま咲き誇り続けている桜の鑑賞。
この洞天をつくるときに身辺整理を済ませたのか、小さな家の中にはかつて鍾離がたくさん有していたはずの本も骨董品もない。なのでタルタリヤは鍾離と共に薄紅色の花を愛で、時折細々とした家のことを片付けるだけの穏やかな時間に身を委ねるしかなかった。
それにどれほど緩慢であろうと時は流れていく。頭上にあったはずの太陽が傾き、空の色が青から朱、藍へと移ろうのは早い。退屈を持て余すかと思っていたがそんなことはなく、気付くと二度目の夜は訪れていた。
「そういえば、先生はいつからこの洞天にいるんだ?」
たった今ふと気になりました、と言わんばかりの声色を作って尋ねたのは、干し肉の炒め鍋を夕食として平らげ、食後の茶を啜っているときだ。
というのも、今日タルタリヤは洗濯をしたときに、溜まっている洗濯物が二日分以上あることに気付いた。それは鍾離がここで暮らし始めたのは昨日一昨日の話ではないということを示しており、妙な違和感を覚えた。
今の鍾離は率直に言うとポンコツだ。洗濯や掃除をするにも、洗剤を量る手は覚束ないし、はたきを使って棚の上の埃を落とす前に箒とちり取りを手にするしで、とてもじゃないが任せようとは思えない。だから九割はタルタリヤが請け負い、鍾離には本当に簡単なことだけを手伝わせて無事に済ませたのが昼間の話である。
ごく普通の生活を送ることすら難しいくらいにあらゆることを忘れているようなのに、タルタリヤは昨日この家に足を踏み入れたとき、室内が荒れているようには感じなかった。そこがどうにも引っ掛かって、見過ごしていけない気がした。きっと触れないままでいたほうが幸せでいられるのだろう。そんな予感はするけれど、タルタリヤはそれが万一に繋がることを防ぐ役目を担ってここにいる。だから目を逸らす訳にはいかなかった。
「二週間ほど前からだな。かつての俺が今の俺に残した手紙を読み、自らを封印することを決めたのはひと月前だったか。その頃はもう少し思い出せることも多かった。だから覚えているうちに知人たちと別れを済ませ、身の回りの整理をし、この洞天を作った」
「二週間、ね」
タルタリヤが想定していたよりも早い段階で鍾離は世俗を離れたらしい。彼の回答だと、一週間以上ひとりで生活していたということになる。
自炊すら出来ないくらいに耄碌している男は、それなりの期間一人で暮らしていた。けれどその顔は窶れておらず、見た目だけならかつてと同じ状態でタルタリヤを出迎えた。魔神であるということを差し引いてももう少し家の中が荒れ散らかっていたり、衰弱が見られたりしそうなものだが、はたして。
疑念が渦を巻き、タルタリヤの覚えた違和感をより明確にしていく。それがあるひとつの答えに辿り着くのにそう時間はかからない。
「
……
じゃあ、やっぱり先生はもう、忘れていくことしか出来ないんだね」
この洞天を作ったばかりの頃はまだ問題なく自活出来るだけの記憶があって、それが徐々に失われていったのだとすれば、違和感の数々にも説明がつく。
確信を持ってタルタリヤは言った。
鍾離は特に驚く訳でもなく、静かに首肯する。
「ああ。今こうしている間にも、かつてお前と過ごしたときのことを思い出せなくなっている。いや、むしろ未だにお前のことを覚えているのが奇跡だと言ったほうが正しいのかもしれないな」
語る声はやわらかく、その顔に不思議と悲しみの色は見当たらなかった。
六千年という途方もない歳月の記憶を抱え続けた魔神にとって、「忘却」とは長年待ち侘び、焦がれ続けてきたものだったのだろうか。忘れられぬがゆえの苦しみを誰よりも抱えてきた彼にとって、忘れられるようになることは救いであり、幸いであると言えるのだろうか。
否、きっとそうではない。彼は数多の離別から生まれた悲しみをその身に抱えながらも、寂しさと共に寄り添う過去の温もりを大切にしていた。少なくともタルタリヤの目にはそういうふうに映っていたし、たとえ彼に己を騙した過去があっても、この目で見て確かめた彼のすべてが偽りだとは思えなかった。
ならばどうして鍾離は今、こうも穏やかでいられるのだろう。彼が最後まで覚えている人物が彼の旧友たちではなく自分であるという事実を前に、かすかな胸の痛みと熱の両方を覚えてしまうのだろう。
「
……
そうかい」
心臓の裏側がちくちくと痛くて、くすぐったくて、タルタリヤは揺らいでしまいそうだった。けれどそれらを表に出さぬよう押し堪えて、目の前にいる鍾離の言葉も、態度も、すべてを真実として受け止める。
「どうして最後の最後まで覚えているのが、よりにもよって俺なんだろうね。先生が覚えておきたい人なんてもっと他にたくさんいるだろうに」
受け止めた上で、浮かび上がった疑問を軽口混じりに紡いだ。
鍾離は金のひとみをわずかに丸くした後、笑みを浮かべる。
「はは、面倒事を任されたのをまだ怒っているのか?」
「別に、最初から怒ってなんかいないよ。ただ不思議に思っただけさ」
過酷な戦いの日々を共に歩み、生き抜いた友や、凡人の身で結んだ様々な人々との縁、彼が築き上げてきた璃月という国そのもの。
鍾離の愛するものはあまりにも多く、どれかひとつを選ぶだけでも至難だろう。かと言って、多すぎて選びきれないからタルタリヤが選ばれた、というのは釈然としない話であり、理に適っているとも思えない。もっとも、何を忘れ、何を覚えておくのかを選べた状況でもなかっただろうから、たまたま最後まで彼の記憶に残ったのがタルタリヤだったというだけの可能性もある。どうしてタルタリヤが鍾離の記憶の最後の住人になったのか、その理由は本人に尋ねたところで分かるはずもない。
だから世間話の延長程度の軽さでタルタリヤは疑問を呈したはずだった。どうせ今の自分には分からないと、そう返してくるだろうと思っていた。
なのに鍾離は即答せず、答えを探す素振りを見せる。顎に手を添え、ほころびだらけの記憶を辿るのに時間を費やし、やがて静かに口元をほころばせる。
「
……
きっとそのくらい、かつての俺にとってお前はまぶしく見えていたのだろう」
夜空に輝く極星を捉えるように目を細めてタルタリヤを見つめた男の言葉は、心臓の痛みをひときわ鋭いものにした。
まるで今もそのように見えていると言わんばかりの表情にどくどくと心臓は高鳴り、呼吸の仕方を忘れさせようとする。己の身体を貫いた衝撃と胸の奥を焦がす痛みの名を、タルタリヤは知らない。
「
……
そんなこと言って、先生だって本当のことは分かっていないんだろう」
鍾離にタルタリヤを揶揄う気などないことくらい分かっているが、あえてタルタリヤは茶化すことを選んだ。今彼の言ったことを真正面から受け止めるのは悪手である気がしたからだ。
たどたどしく紡がれた言葉を鍾離は何と捉えたのだろう。わずかに熱を帯びるタルタリヤの頬を見て笑みを深めると、口を開く。
「確かにそうだ。あの時の俺にどれほどの選択権が残されていたのかさえ今はもう覚えていない。ただ」
「ただ?」
「
……
そうであってほしいと思っただけだ」
――
それは、他にも大勢いた大切な誰かよりも、異国の知人に過ぎないタルタリヤが選ばれたのが「偶然」であっては許し難いと思うからなのだろうか。それとも、かつての自分と今の自分がタルタリヤに対して感じているものが同じであってほしいと願っているからなのだろうか。
鍾離の考えていることは当然タルタリヤには分からないし、知ったところで春の終わりが来ることに変わりはない。ただ彼の声が切実であることだけは汲み取れた。
ならば、せめて。
「
……
だったら、俺も。そうであったらいいなって思うことにするよ」
武神としても世に名を残す彼にとって、覚えておく価値のある人間だとみなされていたのなら、兵器として、武人として悪くない気持ちになる。だから鍾離の言う通りであればいいと、寄り添うことを選んだ。
それに、だ。
もしもこれが本当にただの偶然だというのなら、世界というやつは六千年もの間人間のために尽力した魔神に対して慈悲が無さすぎるということになる。そんな報われない終わりなど、童話の夢を守る者としては気に食わないし、捨て置けもしない。
ずっと心臓が痛くてしかたないのは、そういうことだとしておきたかった。
たいして身体を動かしていないのだが、慣れない環境で生活しているからかそれなりに体力を消耗しているらしい。
交互に風呂を済ませ、鍾離が寝室へ引っ込んだのを見送ったタルタリヤは、二日目の夜に終止符を打とうと早々にベッドに横たわった。替えたばかりのシーツは滑らかで、ほのかに太陽と桜のにおいがする。疲労感に包まれている身体はすぐにでも夢の世界へ旅立てるだろう。
真っ暗な部屋の中で目を閉じると、窓の向こうで風がかすかに木々を揺らしている音が聞こえる。執行官という立場上、いついかなる時も周囲を警戒する癖がついてしまっているせいで、このところは実家に帰っている時であっても深く眠れない夜のほうが多かった。人の気配が多いところだと落ち着かないし、耳が痛くなるくらいの静寂の中だとかえって神経が研ぎ澄まされてしまう。だからこの洞天のように他者に脅かされるおそれがなく、自然の音が子守歌代わりに聞こえる環境は、凝り固まった警戒を解くのに丁度良い。
布団の中が己の体温で温まっていくと、心地の良い眠気がやって来た。余計なことは何ひとつ考えず微睡みに身を任せようとして、不意に木の軋む音や衣の擦れる音がタルタリヤの意識を掠める。
深い眠りへ落ちようとしていたタルタリヤは、当然身じろぎひとつしていない。聞き間違いかとも思ったが、かすかなノイズは壁を隔てて隣から断続的に聞こえてくる。昨晩は耳にした記憶のない音だ。それはつまり、異変の可能性を示している。
タルタリヤの意識は急速に冴えた。睡魔は身を引き、武人の理性が様子を見に行くべきだと訴える。たとえ日中は何も起こっていなかったとしても、相手は「封印」という手段を選ばなければならないほどに摩耗した魔神だ。本人ですら自分という存在が厄災と化す可能性を憂いているのに、氷の神よりこの地に遣わされた兵器が呑気に見過ごしていい理由はどこにもない。
音を立てずにタルタリヤは起き上がり、自室を出て隣の鍾離の部屋の扉の前に立った。肌に触れる空気に独特の緊張感や不穏さといったものは混じっていないが、物音が止む気配もない。軽く握り締めた右手を持ち上げて、コンコン、と二回ノックをする。
「鍾離先生、入るよ」
言い切って、タルタリヤは扉を開けた。
部屋の中は明かり一つついておらず、窓から差し込む月の光だけがぼんやりとベッドの上を照らしている。昼間のうちに整えたはずのシーツには皺が寄り、何度も寝返りを打った痕跡が残っていた。シーツを乱した張本人はと言うと、緩慢な動きで身を起こし、タルタリヤをじっと見つめている。黄金のひとみははっきりとしていて、少なくとも苦痛に苛まれたり、正気を失ったりしている訳ではなさそうだった。
「
……
公子殿か。どうした?」
「先生の部屋から物音が聞こえていてね。何かあったのかと思って、念のため様子を見に来たんだ」
「そうか。起こしてしまったのならすまない」
「別にこのくらい問題ないさ。一応確認だけど、急に具合が悪くなったとか、そういう訳じゃないんだね?」
今の鍾離が嘘をついたり、誤魔化したりするとも思えないが、念には念を入れてタルタリヤは鍾離の額に触れた。特に熱はないし、汗をかいた様子もない。部屋の中が暗いせいで顔色は分からないが、呼吸や脈拍も正常なので単に寝付けないだけなのだろう。
「
……
そう心配するな。俺は問題ないから、部屋に戻って休むといい」
じっと観察されるのが落ち着かないのか、鍾離はどこか歯切れの悪い声でそう言った。
確かに体調面での問題はないのだろう。ただ、明日はもう三日目だ。もし鍾離の中に何か心残りや引っかかるものがあって眠れずにいるのだとしたら、それを解消してやらないとタルタリヤの任務も延びてしまう可能性がある。
明日の夜には何の憂いもなく眠りにつき、朝を迎えても目覚めることなく、この洞天そのものが花筏となって地脈へ還るまで眠り続けてもらわなければならないのだ。ならばその障害となるものは今のうちに取り除いておかなければならない。
そう決心し、タルタリヤはどっかりと鍾離の隣に腰を下ろした。
「問題ない、とは言い切れないかな。明日が三日目だってことくらいは今の先生でも忘れたりしていないだろ」
「
……
」
「何か気になってることとか、眠りたくない理由があるなら話してくれたっていいんじゃないの。俺に鍵を託すことを選んだのは先生なんだから」
尋ねても鍾離がすぐに口を開く気配はない。ただ否定もしないということは、思うところがあるのは事実だと言っているようなものだ。このまま辛抱強く待っていれば、いずれ鍾離は話してくれるだろう。
暗闇の中、タルタリヤはそれ以上言葉を重ねることなくじっと待つ。窓の外では相変わらず夜風が桜を揺らしている音がする。耳を澄ませずとも互いの息遣いが聞こえる距離にいるのに、手を伸ばしても鍾離には届かないような、そんな錯覚を抱いてしまうのはどうしてだろうか。
……
自問するまでもない。あと二回夜明けを迎えたら、タルタリヤはこの春の終わりに鍾離を置き去りにしていかなければならないと分かっているからだ。
たとえば今ここで、鍾離に触れてみたとして。手のひらには先ほど額に触れたときに感じたものと同じ体温が伝わるだろう。武人の厚い皮膚を焦がすには至らぬ生温い温度が、けれど心臓のあるところにまで染み込んで鼓動と同化し、タルタリヤが終点へ辿り着く日まで消えることなくついてくる。けれど次に訪れる季節へと連れていけるのはそれだけだ。あとはこの三日間の記憶を出来るだけ持っていくくらいしか、タルタリヤにしてやれることはない。
それでもいいと鍾離が望むのなら、連れていく覚悟は決めてあげてもいいと思う。持っていくことはもう決めた。置き去りにする覚悟も。連れていくことだけは本人の許可なしにおこなってはいけない気がしたし、望まれてもいないのにそうするだけの勇気は振り絞れなかった。
だってタルタリヤは鍾離の前で精一杯に格好つけているけれど、所詮まだ二十数年を生きただけの人間だ。戦場で無数の死に立ち会ったことはあっても、日常の中で誰かの命の終わりに寄り添うのは初めてだ。だから終わりを見届けるにあたり自分に出来ることは何かと考えても、本人の意思を尊重し守るという陳腐な答えしか思いつかなかった。
冴え冴えとした月の光の下で鍾離と肩を並べているだけの時間は現実味が薄く、夢を見ているようだった。けれどこれは決して夢ではない。揺らぎそうになっては取り繕っての繰り返しですっかりいびつになった胸の痛みが、これは現実なのだと切に訴えている。
「
……
公子殿」
やがて、どれほどの時が経ったのか。明確に計る気にはなれないが、タルタリヤを呼ぶ声が響いた。
ベッドの上に投げ出していた手に、覚えのある温もりが触れる。
「情けないと、笑うか」
「
……
笑わないよ」
何を、とは聞かなかった。もう揶揄って誤魔化したり、茶化して目を逸らしたりはしないとタルタリヤは腹を括った。
鍾離の手がタルタリヤの手を静かに握り締める。縋るように擦り付けられた指先の温度と皮膚の感触はなんと生々しいのだろう。故郷にいる家族の手を握ったり、抱き締めたり、頬にキスをしたり、そういったスキンシップの経験はいくつもしてきたのに、今この瞬間刻まれた鍾離の体温はあんまりにも鮮烈で、馬鹿みたいに心臓が跳ね上がる。
どく、どく、とタルタリヤの全身へ送られる血液に、鍾離の熱が混じった。もう後戻りは出来ない。この心臓が止まる日まで連れていくしかない。これしか、タルタリヤは連れていってやれない。
だって終わらぬ春はないのだから。
「
……
今はまだ、お前が「公子」であると認識出来ている。今朝お前と共に何を食べたのか、日中何を話したのかも思い出せる。だが明日、目を覚ましたときにそうであるとは限らない。そう考えたとき
……
おそろしいと思ってしまったんだ」
月明かりの下、罪を告白するような声で鍾離は呟いた。その声にも、握られた手にも震えはない。窺った横顔にも怯えの色は滲んでいないのに、それが彼の本心であることだけはしかと伝わってくる。
「せめて最後までお前のことは一欠片だけでもいいから覚えていたいなど、呆れる話だろう。自ら記憶と引き換えに民を守ることを選んだというのに、今になってそんな未練じみた願いを抱えてしまうとは。今ここで眠れずにいる俺は
……
一体、何なのだろうな」
――
彼は座を降りて凡人となるために神の心を手放した。
己の責務を終え、未来をひとの手に託し、凡人として生きていくつもりでいた。
けれど六千年間生きてきて身に染み付いた神としての在り方のすべてが、すぐに失われてしまうことはない。愛する人間たちへと降りかかる厄災を前に、彼は代価を支払ってでももう一度神として力を振るうことを選んだ。そうして神様らしく、自らが厄災とならぬよう「凡人」とはかけ離れた最期を迎えることを選んだ。
そんな存在でありながら今更ひとの子ひとりの記憶まで忘れてしまうことを厭う自分が、何よりおそろしくて仕方ないのだろう。盤石であった神にとって己の心が揺らぐことは危機の前兆であり、最もおそれるべきことに違いないのだ。
なんと哀れなのだろうとタルタリヤは思った。この心臓が苦しいくらいに痛いのは、きっとあまりにもこの男が哀れに見えて仕方ないからだと思いたかった。本当はそうではないのだともう分かりきっているけれど、格好をつけるために必要な懊悩だった。
タルタリヤは鍾離の手を握り返す。けれどそれだけではまだ足りない気がして、無防備な身体を抱き締めた。衣服越しでもきちんと鼓動が伝わってくる。当たり前だ。だって。
「何を言ってるんだか
……
鍾離先生は鍾離先生だ。それに神であれ凡人であれ、嬉しかったことや楽しかったことをずっと覚えていたいと思うのは当然じゃないか」
このひとはまだ生きていて、記憶と共に心まで失ってしまった訳ではないのだから。
彼が忘れてしまった過去が、神として存在した歴史が、世界が彼に「神」を全うすることを求めているとしても、最後の鍵を託されたのはタルタリヤだ。だからこのひとがただの「鍾離」として春の終わりに眠るのを誰にも邪魔させたりはしない。もしもその前にこのひとが心さえも失うというのなら、そのときは兵器として片をつける。
そのために鍾離だってタルタリヤを選んだ。もうそのことさえも忘れているのだろうけれど、タルタリヤは覚えている。自分が覚えていれば、それでいい。
「
……
そうなのだろうか」
茫然とした鍾離の呟きを、どうしようもなく寂しいと感じた。けれど気取られてはならないと、タルタリヤは間髪入れずに口を開く。
「そうだよ。少なくとも今日俺と一緒にいた時間は、あんたにとってそういうものだったってことだ。はは、光栄なことだね」
おどけるような声に本心をひそませたところで、この男にはもう分かるまい。
「
……
なら、お前はどうなんだ。今日俺と共に過ごした時間を、お前も忘れたくないと思っているのか」
忘れて、擦り切れて、あらゆるものが抜け落ちた男はずいぶんとひどいことを言ってまたタルタリヤの心臓に傷をつけた。鍾離でなければ許していないということさえも分からないくらいに、彼は記憶を失くしてしまっている。なのにそんな張りぼての男の心の中にはまだ、タルタリヤという星の光のまぶしさだけが残っている。それだけは最後まで失いたくないと、がらんどうの男の内側から痛ましい欲望が生まれている。
それは決して空白を埋めるには至らないけれど、少なくとも春の終わりまで彼を留め置く重石くらいにはなってくれるだろうか。
そうなってくれたらいいとタルタリヤは願い、鍾離を抱き締める腕に力を込めた。
「もちろん。出来る限り忘れることなく覚えておきたいと思ってるよ」
「
……
」
「だからさ、先生。俺とひとつ約束をしよう」
「
……
約束?」
「ああ。明日の朝ごはん、何を食べたい?」
明日という言葉を耳にした鍾離の身体が明らかに強張った。無理もない話だ。「明日」は鍾離がこの世界で生きていられる最後の日で、その尊い一日の始まりである朝にどれほどのものを覚えていられるのか、もう本人にも分かりはしないのだから。
だけどそれはあくまで鍾離にとっての話であって、タルタリヤにとっての「明日」はただの通過点に過ぎない。今日が終わり、明日がやってきたらいつも通りにご飯を食べて、家のことを片付けて、夜を迎えて。そうして明後日の朝、鍾離が眠っていることを確かめたら戸締まりをする。その後はこの棺が世界に還るまでの間何人にも侵されることのないよう、鍵を守りながらも自らの野望を果たすために邁進する日々が待っている。「明日」なんていうのは他愛のない一日でしかない。
だから、ありふれた約束を交わす。
「もし先生がこの約束を忘れてしまっても、俺が覚えておくから大丈夫だよ。たとえ明日の鍾離先生が俺を見てお前は誰だとか言い出したとしても、俺がきちんと約束を守った後、残りの時間を使って俺の知っている俺と鍾離先生の話をする。それなら最後まで寂しくないし、怖くないだろ?」
「
……
」
「昔の先生と違って、人間はどうしてもいろんなことを忘れてしまうんだ。だから忘れちゃいけないことを覚えておくためにメモを書いたり、日記をつけたりするし、誰かと一緒に生活する。例え自分が忘れてしまっても、そのとき一緒にいた誰かが覚えていてくれればその日あったことが無くなったりはしない。先生が忘れたくないと思ったものは、俺がなるべく覚えておくよ。だから俺にあともう一日分、先生との思い出をくれないかな」
ぐずぐずに膿んで痛む心臓の悲鳴を、タルタリヤは優しい言葉となるように紡ぎ切った。明日をおそれるひとの前で、自分の痛みを見せるわけになどいかなかったから。立ち竦むなと伝えるために、そうしなければならなかった。
規則正しい互いの息遣いがすぐ近くに聞こえる。桜を揺らしていた風の音は遠い。布地越しにとくとくと聞こえるのは自分の鼓動だろうか。それとも鍾離のものだろうか。わからないなと思うくらいに体温が混ざり合っていて、すっかり引き剥がせなくなっている。
どれほどの間互いの存在だけを意識していただろう。
少なくとも一瞬ではないが、永遠と呼ぶにはあまりにも短い時間が過ぎて。
「
……
今朝と同じものがいい」
タルタリヤの背にささやかな衝撃が走った。
「お前が作ってくれたものの中でも、あれが一番美味かった。だからもう一度、食べたい」
縋り付く指の感触と鼓膜を震わせた願いの切なさをタルタリヤは記憶に刻んで、頷く。
「わかった。明日の朝は今朝と同じ料理を用意しておく。約束するよ」
とんとん、と鍾離の背中を優しく叩いてから腕の力を緩め、長い間抱き込んでいた身体を解放してやると、すぐに鍾離もタルタリヤの背に回した腕を下ろした。
「今日」はもうおしまいだ。だからきちんと「日常」を取り戻してから明日を迎えるために、薄闇の中で顔を見合わせ、いつもと変わらぬ笑みを浮かべてみせる。
「それじゃ、もう夜も遅いし寝よう。もしもまだ怖くて眠れないっていうなら、そうだな
……
子守歌を歌うか、添い寝でもするかい」
冗談混じりにそう言ってやると、整った眉がわずかに持ち上がり、金色のひとみが丸くなるのが見えた。
少し意外な反応だ。その必要はないと言って眠る準備をしてくれるかと思ったが、タルタリヤの想像に反して鍾離は少し考える素振りを見せた後、微笑みを浮かべる。
「
……
なら、一緒にいてくれ」
冗談だと言って逃げるにはもう遅すぎたし、ここにきて寂しい想いをさせたいほどタルタリヤは意地悪でもなければ、ひとでなしでもなかった。
「しょうがないなぁ」
幸い鍾離のベッドは大の男ふたりが寝そべってもまだ少し余裕があるくらいに大きい。大きな子どもの面倒を見るようなものだと思いながら、タルタリヤは鍾離共々ベッドに横たわり、ぐしゃぐしゃになっていた毛布を広げてどちらの身体にもかかるように掛け直してやった。
添い寝をするのなら当然相手に背を向けるような真似もしない。鍾離と向かい合う体勢を取ると、少しは安心したのか、あるいは決心がついたのかはわからないが、とろりと輪郭を失いつつある金色と対面する。
「おやすみ、鍾離先生」
努めて優しい声でタルタリヤは夜を終えるための言葉を紡いだ。
「
……
ああ。おやすみ、公子殿」
返ってきた声にはもう、躊躇いも恐れもない。
黄金が瞼の下に隠れ、静かな寝息が聞こえてくるのを確かめてから、タルタリヤも目を閉じた。
蒸し鶏と葱を入れて炊いた粥と、ほうれん草のお浸し、卵焼き。
質素で身体に優しい料理を作り終え、いざ食卓に並べようとしたタルタリヤの耳に、寝室の扉の開く音が届く。
背筋がぴんと伸びた。料理を盛った皿を持ち上げる前でよかった。じっとりと手のひらが汗ばむのを感じながら、タルタリヤは深く息を吸って吐き出し、ぺたぺたと素足で床を踏む音が近付いてくるのを待ち受ける。
「おはよう、公子殿」
ひょっこりと顔を出した鍾離は、寝起きの掠れた声でそう言った。寝間着姿のままで、黒橡の髪には寝癖がついている。
「おはよう鍾離先生。もう朝食が出来ているから、早く顔を洗って着替えてきなよ」
「そうだな。ちなみに今日は何を作ってくれたんだ?」
本一冊すら置いていないこの洞天での生活における楽しみなんて、一日三回の食事くらいだろう。だから献立を尋ねられるのは何もおかしなことではない。
タルタリヤは左手を背に隠してひそかに握り締めると、にんまりと口元を吊り上げて笑みを浮かべた。
「それは見てのお楽しみってことで。ほら、早く行った行った」
まだ目覚めたばかりでぽやぽやとしている鍾離を追い払い、大人しく洗面所へ向かう背中を見送った後、目を伏せる。
「
……
ほらね。大丈夫だって言っただろう。それに」
――
泡沫の温もりと記憶に傷付けられた心臓が痛くて仕方ない。当たり前のような時間が当たり前ではないことを思い知らされるたびに息が詰まって、叫び出したい気分になる。
だけど。
「独り占め出来るっていうのも、悪くないね」
そのひとの心を守り、終わりを見届けるために、自らの心は二の次にする。それが元より冬国の兵器として求められていることであり、氷神が他でもないタルタリヤをこの地に遣わせた理由のひとつだ。
だからどれほど揺らごうとも、取り繕い損ねることだけはない。
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