mishiadd
2025-08-15 15:39:53
32031文字
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曇天に唾を吐く

【本編軸】「俺でなんて興奮できないくせに」「言ったな?」とかいう若気の至りすぎる売り言葉に買い言葉でギッスギスの最悪で険悪な関係性のままなぜか肉体関係を持ってしまうクソデカ感情グッチャグチャ恋愛白書【剣伊】


二、

そもそも一体何に触発されたのかも、セイバーにはよくわからなかった。

売り言葉に買い言葉というやつか。伊織の言っている内容など最早どうでもよく、ただ単に彼に「できもしないくせに大口を叩きやがって」と挑発されたので、短気で血気盛んな江戸の町人のようにまんまと乗っただけか。
あるいは、そう挑発した伊織の眦がほんのりと色付いていたからか。あるいは彼の唇が、酒精に濡れて果実のように赤く熟れていたからか。あるいは彼のくれた流し目が、彼本人は意図していない誘惑を孕んでいたからか。

――あるいは。

酒に酔って普段の判断力の半分もないままに、ぼうっとした深遠な月夜の瞳で伊織がただセイバーを見ている。その胸倉を掴むように乱暴に引き寄せて、鼻先と鼻先が触れ合うような位置で、ひそひそとセイバーは言った。

「きみ、自分は大丈夫だなどと安心しきっているのではないよな? ……自分はとうにとうの立った独り身の冴えない大男で、誰もきみなど欲しがらないと」



その無神経で無遠慮なまでの無防備さと無自覚さに、セイバーの中の何かが苛立ったか。



セイバーが少し顔を傾ければ唇同士が触れ合いそうだった。それでも伊織はきょとんとした顔で至近距離のセイバーの顔を不思議そうに眺めているだけだった。危機感もまるでなく、意識すらしていない……その顔のなにがそんなに自分を苛立たせているのか、セイバーにはわからなかった。

くく、と口の端をつりあげて、セイバーが嗤った。

「私はきみでその気になれるよ、イオリ。……そしてそれを私に『証明してみせろ』と言ったのは、きみだからな」

熟れた果実にむしゃぶりつくように、セイバーが伊織の唇を乱暴に吸う。そのまま、伊織の身体を畳に縫い留めるように、彼の肩を押し倒した。



――きっと、セイバーは酔っていた。







翌朝、いつもならば朝の稽古をしている時間帯になっても伊織は布団から起きてこなかった。

律儀に朝食を作りに来た妹が、珍しく布団の中で丸まって眠り込んでいる伊織の背中を見て戸惑い、寝込んでいる兄を起こさぬよう一旦屋敷に戻り、握り飯をこさえて再び長屋までやってきた。
丁寧に礼を言ってカヤを見送ったセイバーが、二人分の握り飯を両手に長屋の中へと戻る。――それでもまだ、伊織が起きてくる様子はない。

畳の縁に腰掛けておむすびを口に運びながら、んん、と少しだけばつの悪そうな顔でセイバーが横臥している伊織の後頭部を見遣る。寝息とも、魘されているともつかないかすかな声を聞きながら、ぽりぽりとセイバーが頬を掻いた。

……そんなに酷くしてしまっただろうか、昨晩は。

正直、断片的にしか覚えていなかった。そもそも伊織は初めてだったようで、酒に酔って回らぬ頭でますます困惑し、ろくな抵抗もできずにセイバーにされるがままだった。
「痛、」と小さな声で抗議していたのをうっすらと覚えている。それでも、しばらくするとぐっしょりと濡れた声で喘いでいたのが鼓膜に残っている。「セイバー」と必死に名を呼ばれていたのを覚えている。――その、こちらに助けを求めるようなあえかな声に、目の前が真っ赤になったのを覚えている。酒のせいでそもそも弛んでいた自制心が吹っ飛んで、激しくしてしまったのをうっすらと覚えている。

ちらちらと揺らぐ行燈の灯りの中、伊織の切れ長の眦がきゅっと細められ、その白目がちらちらと光っていたのを覚えている。ふるりと長い睫毛が震え、普段は静謐で凍えるように冷静な月夜の瞳が、水面に映る月影のようにきらきらと揺らいで瞬いていたのを覚えている。いつもはつんと澄ましたような高い鼻梁の先が、ほんのりと赤く色づいていたのを覚えている。常ならば相対するものを見透かすようにきりりと凛々しくつり上がった眉尻が、まるでかよわい無垢な少女のように困惑気味に下がっていたのを覚えている。

ん、と小さく洩らした声と共に、くっと反らされた喉元の無防備な白さを、覚えている。



「セイバー」と、縋るように自分の名を呼ぶ伊織の、自分の手管に翻弄されて涙でくしゃくしゃになった端正な顔を、覚えている。



ごくりと喉の鳴る音を誤魔化すように、ぱくりと握り飯にかぶりつく。もぐもぐと咀嚼しながら、昏々と眠り続ける伊織から目を逸らす。――手加減が、できなかった。

断片的に強烈に脳裡に焼き付いた昨晩の伊織の姿がちらちらとフラッシュバックする。ふるふると頭を左右に振りながら、伊織が起きてこないので沸かせなかった緑茶の代わりに湯呑に注いだ冷水で、口いっぱいに頬張った米を流し込んだ。――とん、と残りの握り飯を、伊織の枕元に置いた。

極力なんでもないようなふうを装って、セイバーは言った。

「その様子だと、奇しくも我らはようやく私の言い続けていた布陣を取れそうだな? ――きみは戦闘にしゃしゃり出ることなく長屋に閉じ篭って身を守り、私は表に出て敵を一掃する。おかげさまで魔力の巡りもよい。……一石二鳥、というやつであったな?」
……セイバー」

嗄れた声にセイバーが一瞬びくりとする。――昨晩、完全に理性の吹っ飛んでいたセイバーに懇願し続けていた伊織の声が、鼓膜に蘇る。

「俺は――出るよ。……もう、起きる」
……う、む」

ふらふらと覚束ない様子で身を起こし、腰を庇うようにして伊織が立ち上がる。紺色の襦袢がするりと一瞬肩から落ちる。すぐに伊織が直したが、セイバーは見てしまった。――白い肩に、生々しい噛み痕と鬱血痕がいくつもついていた。
弱々しい生気のない声で、伊織が呟くように言った。

「外で――水浴びをしてくる」
「わか……いや待て。きみ、その恰好で外に出るつもりか」

うん、とよくわかっていない様子の伊織がセイバーを見る。泣き腫らしてほんのりと気だるい色気をまとった眦が赤い。ぎくり、と一瞬固まったセイバーはしかし、気を持ち直して言った。

「その――身体に、痕が残っている」
「うん……?」

伊織が襦袢の合わせ目を緩めて己の肌を見ようとしたが、自分ではよくわからないようだった。セイバーからは白い鎖骨にくっきりとついている自分の赤い歯形が見えていた。気まずげに目線を逸らしながら「……その、」とセイバーがぼそぼそと言った。

「私が――外に出ているから。中で沐浴せよ」
「うん? ……それは、ありがたいが――おまえが外に出る必要は特に……
「いいから」

言い張って、言うや否やセイバーが長屋の外に出る。後ろ手にぴしゃりと引き戸を閉めて、その場にずるずると蹲った。

ちかちかと、フラッシュバックしている。――潤んだ月夜の瞳が、火照った熱い肌が、甘く掠れる声が、必死にセイバーを呼んでいた。求められていたのかも、制止されていたのかもセイバーにはわからない。……ただ、我慢が利かなかった。

ぱしゃぱしゃと、伊織が水を使う音がくぐもって聞こえてくる。――わけがわからなかった。

わけのわからないままに、セイバーは己の頭を抱えた。