シノハラ
2025-07-26 18:31:12
49575文字
Public 戦パ
 

『最果てからずっと前』の進捗晒し

スパーク向けの戦パ本の予定の進捗晒しです。最終的にweb全文公開予定。『最果てから少し前』のアベンチュリンがレイシオの実家に連行されて猫と過ごす話。


 言われた通りにお菓子を食べ終えて皿を片づけた辺りで、アベンチュリンのスマートフォンにメッセージが一通舞い込んだ。それとあまり変わらないタイミングでレイシオのスマートフォンも鳴動し、液晶を確認したレイシオの眉根に少しばかり力が籠もる。
「少し対応が必要になった。君は好きに過ごしてくれ。そうだな……上の階の一番奥と、その手前の部屋以外なら入っても構わない」
「僕もちょっとやらないといけない事ができたみたいだ。ウェブ会議をしたいんだけど、どこか部屋を借りさせてもらっても?」
「なら、玄関から階段を上ってすぐの所に書斎があるからそこを使うといい」
 ありがとう、と礼を言ってからレイシオが指差した玄関に続く扉を開きに行くと、わあん、とウェヌスが一声大きく鳴いた。何事かと思って扉を閉じようとしていた手を止めたところ、滑らかさのある体がするりと隙間をすり抜けていく。なるほど、どうやら扉を閉めるなと言いたかったらしい。
 アベンチュリンの足元を通り抜け、ウェヌスはまるで先導するように先に階段のある方に姿を消した。玄関まで戻ってすぐにあった階段を路上も知らなさそうな柔らかな肉球でととと、と登っていくのを聞きながら、アベンチュリンも階段を上る。
 もちろんあちこちで階段を上る機会はあるものの、住宅の階段を上るのは初めてだった。たとえば駅のそれよりも少し狭く、段差も高めに作られた階段を上りながらレイシオがここを駆け上った事はあっただろうかと何とはなしに考える。
 階段を登り切ってすぐの所に書斎コーナーがあるのが分かったが、どうやらウェヌスはそこに用事があるわけではないらしい。階段が終わってすぐの所にある大きめの出窓に飛び上がって、備え付けられたクッションの上に座り込んだウェヌスは窓の外を眺めていた。どうやらここがお気に入りの場所のようである。
 一応お別れのために手を振ったが、振り向きもされないので苦笑しつつアベンチュリンは書斎に向かう。個室にはなっていないため書斎コーナーと呼ぶべきかもしれない場所の椅子に腰を下ろしてから、通話をしようと返信をすれば即座に着信が飛び込んできた。まったく、どんな失態を犯したのだか。
 それからほとんど泣き言のような報告を相槌を打ちながら聞いて、そんなことかと思いながらも顔には出さないようにして代わりに思案して見せる。たっぷり時間を置いてからこういうのはどうだろう、と提案をしているうちに廊下から何かがごにょごにょ言っているのが聞こえてきた。
 おそらくウェヌスだろうと思って、アベンチュリンの助言を頼りに考えをまとめているらしい部下に一言告げて離席する。階段の方に行くまでの間にぴたりと鳴き声が止まって、姿を視界に収める頃にはウェヌスはぺろぺろと自分の毛を舐めていた。
……喋ってなかった?」
 アベンチュリンの問いかけも聞こえないとでも言いたげに熱心に前足を舐めているウェヌスを見て、こんなに長い毛を舐めていては抜けた毛を飲み込んでしまわないだろうかと心配になる。にゅ、と舌にくっついてきた毛を引っ張る仕草を見る限り、やっぱりいくらかは胃の中に入っているのかもしれない。
 たくさんおしゃべりする姿は見られなさそうだと観念して書斎に戻って、部下と方針を決めた頃にはまたうにうに言っているのが聞こえてきていた。元々ウェヌスの声が小さいのもあるが、単一指向性マイクを使っているため部下には聞こえていないらしい。最後に週明けからよろしくなんて挨拶をして通話を終えてから立ち上がると、こしょこしょと音を立てているウェヌスの方に向かう。
「聞かせてくれないんだ」
 アベンチュリンが動き出したのに気がついたらしく、ぴたりとウェヌスの声が止まる。視界に収められた時はもうなんでもないような顔をして、やってきたアベンチュリンを見上げていた。
「じゃあ僕は戻るよ」
 ひらひらと手を振ってやれば条件反射か瞳孔が少しばかり縮まった。それだけに留まらず微かに頭が揺れるのを見てから、アベンチュリンは幅の狭い階段を下りる。どうやらウェヌスは付いてくるつもりはないらしい。
 リビングの境界になっている扉を閉めようとして、猫であれば通り抜けられるだろう隙間を残すことにする。リビングに残っていたレイシオは既に一仕事終えていたらしく、読書に戻っていた。
「あの子、ひとりのときの方が良くお喋りするんだね」
 隣に座るレイシオを揺らさないように気を付けながらソファに腰を下ろしつつ、戻ってきた事を伝えるついでに先ほどのウェヌスの様子を伝える。本からはまだ顔を上げずにああ、とレイシオはアベンチュリンの感想を肯定した。
「どうも独り言が好きらしい」
「やっぱり君そっくりだ」
 仕事に関係のない研究の事を考えているのか、ぶつぶつと何かを言いながらノートにあれこれ書き込んでいる姿はアベンチュリンにとっては珍しくもなんともない。最初こそそんなに堂々と研究内容を口にして良いものかと案じたが、今では全くの杞憂だったと理解している。
 彼の発声は様々な星の出身と交流することを想定しているアベンチュリンの共感覚ビーコンのインストール状況でも、意味のある言葉として捉えられなかったのだ。もうインストール一覧には上がってこないような古語でも使っているのだろうとは思うが、彼が生み出した人工言語である可能性も否定しきれない。
 その言葉を操るレイシオは普段よりも少しだけ声音が低く感じられるのだが、ウェヌスも同じように少しばかり低い声をしていたように思う。人に聞かせないことを前提にすると誰しもそうなってしまうのだろうか。
 アベンチュリンに独り言を指摘されたレイシオは本から顔を上げて、訝しげに己を振り返っているらしい。そんな顔をしても、アベンチュリンが目撃しているのだから否定のしようがないのだが。
「今度授業中にでもゼミ生に聞いてみたらいい。きっと僕が合ってるって教えてくれるに違いない」
……断る」
 そう駄目押ししてやってもちょっと納得していない様子だったので、今度内緒で録音してやろうと思う。そうすればどんな言葉を使っているかくらいは教えてくれるかもしれない。
 それから再びスマートフォンの通知が鳴る事はなかった、と言うとさすがに嘘になるが、二人ともちらりと確認する程度の案件しか舞い込まずに済んだ。アベンチュリンが短編集を読み終える頃には、レイシオはその三倍は読んだらしい。
 アベンチュリンだって速読の技術はあるものの、小説を読むときには使わないようにしているのが大差に繋がっているのだろう。まあ、彼が速読を使わなくともアベンチュリンの速読より早い可能性もそこそこあるのだけれど。
 日がとっぷりと暮れるのを待って、レイシオは結局降りてこなかったウェヌスに声をかけて一階に下ろしてから、アベンチュリンにも声をかけた。彼が夕飯のために行こうとしている店は歩いて二十分ほどのところにあるらしい。岩と石ばかりの砂漠にいる時は移動の単位が大体十キロメートルだったので、アベンチュリン自身には問題はないが今日履いてきた靴はどうだっただろうか。
「女の子をそんなに歩かせちゃ駄目だよ」
「なんだその無用の忠告は」
 そもそもここは自宅で向かう先は住宅地の人間相手の店なのだから、そういう想定は全く意味がないとレイシオが不快そうに指摘した。いや僕は女の子じゃないけどちょっとばかり足元に問題があるんだ、なんて不平を漏らしても良かったが、想定を越えた使い方をして靴の寿命が少々縮まっても構わないだろうと思い直す。
「君のペースで歩かせそうだなと思ってさ」
……君を置いて行ったつもりはないはずだが」
「ん、ああ、確かにそうかも? ありがとう」
 レイシオの言葉に今度はアベンチュリンの方が記憶を探る羽目になってしまった。元々身長差を考慮して彼と歩くときは意識してはいたが、背も高くて筋力も異様にある彼と歩いて苦労したことは少なくとも記憶に残す余裕がある範囲では一度もない。どうやら光栄にも、アベンチュリンの歩くスピードを把握して彼の方でも制御してくれていたらしい。
 ふん、とウェヌスと比べると随分と可愛げのない返事を聞きながら、アベンチュリンは鞄から現金の入った薄っぺらい財布を取り出してポケットに入れる。状況を思うと使わせて貰えるか分からないが、あるに越したことはないだろう。レイシオも同じくらいの身支度しか必要ないらしく、ふらっと散歩にでも行くようないでたちで外に出る。
 家を出て、車道と歩道の区別もない道に出ると、ぽつんぽつんと街灯が並んでいるのが見える。ピアポイントの本社付近の明るさとは雲泥の差がある道を二人で歩く途中で、通勤帰りらしい人やペットの散歩をしている人とすれ違った。
 こんばんは、とウォーキングをしている妙齢の女性が挨拶してくれて、レイシオがちゃんと挨拶を返すのに少し驚く。職場や大学ではもっと簡素な会釈で済ませていた記憶があるのだが、やはり親族が暮らしている町となると彼の振る舞いも変わるらしい。
 辿り着いた店は小規模な集合住宅の一階にあった。上の階に住んでいる人は窓を開けると美味しそうな匂いがして気になったりはしないだろうか、と勝手に心配になってしまう。
 予約していた時間と自分の姓をレイシオが告げると、対応をしてくれた妙齢の女性がお久しぶりとにっこり笑った。それ以上ああだこうだと言うつもりのないらしい女性に、レイシオはご無沙汰していますとこれまた丁寧に挨拶する。やっぱり、家族とも面識がある相手には彼も礼節をわきまえるらしい。
 店は既ににぎわい始めていて、年若い夫婦を初め、親子連れから所謂シニア世代まで幅広い客層が利用しているようだった。さして広くない店内の隅の席に案内されて、一応レイシオの顔が周囲から見えづらい方が良いのではないかと思いアベンチュリンは壁側の席に腰を下ろす。
 チェーン店よりかはいくらか特別感を出したい時に選ぶのが適切な店だった。きっと、レイシオも親に連れられた時はたとえば彼の誕生日だとか、お祝い事がある時だったりしたのではないだろうか。かといってそこまで肩肘ばった様子もなく、ドレスコードの類もなく皆平服で来店しているようである。
 出てきた食前酒もまあまあの価格帯と言ったところで、癖もなく万人受けするだろう味がした。やや厭味ったらしい表現になってしまったが、つまるところわざわざその製品の歴史や価値の文脈などを考えずに気楽に美味しいと思える良いお酒なのである。
「では、改めておめでとう、アベンチュリン」
「うん、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
 暖色の強い照明の下では少々色味が分かりづらいワインと前菜が出てきてからレイシオが軽くグラスを持ち上げたので、アベンチュリンもそれに倣う。かちんとワイングラスに小さな音を立てさせて、レイシオのお祝いにアベンチュリンはにっこりと笑った。
 それからほんの少し遅れておや、と思う。今の自分がどんな笑みを彼に向かって浮かべたのか、意図的な発露でなかったせいではっきりとしなかった。おそらく、そんなに質の悪いものではなかっただろうが。
 だって、アベンチュリンだってああいう終わり方は望んでいなかったのだ。仕事の最中に死の淵に立ちながら挑み続けた結果であれば受け入れもしたが、そのある種の熱狂の波も引いて冷ややかに静まった後の冷静な天秤にアベンチュリンは生死を委ねられたわけである。
 その先にある死をアベンチュリンが、幸運を貴ぶ一族が望む形をしているとはどうしても思えない。あの仕事がアベンチュリンの死と引き換えに幕を閉じるのであれば良かった。けれどピノコニーの物語の幕引きはアベンチュリンに悪夢をもたらしただけだったのだから、自分はすぐにでも地面に手を突いて立ち上がって駆け出さなければならないのだ。そういう生き方を、他でもない自身が選んだ。
 その生き方を苦痛に塗れているだけで、不毛だと考える者が大多数であることくらいアベンチュリンだって分かっている。目の前の男もどちらかと言うとそう考えている方であることは明白だが、今夜はおくびにも出さずにアベンチュリンをただ祝ってくれるつもりらしい。ならばアベンチュリンもそれに従うのが順当であるし、何より燃え尽きる瞬間の命の在り方を語るにはここはあまりにも穏やかな空間で相応しくなかった。
「そういえばこの星の料理じゃないんだね」
「観光目的の店というわけではないからな。あれが気に入ったのなら今度ピアポイントで良さそうな店を教えてやろう」
 見ただけで料理の名前がぱっと浮かぶ取り合わせに、今更そんな感想が浮かんだ。家から近いちょっと良い感じの店というだけなのだとレイシオに指摘されて、そう言われてみればそういうコンセプトだったと二度ほど頷く。それはそれとして、彼が見繕った郷土料理店も気になるので後で忘れずに教えてもらおう。
 彼が子供の頃からしばしば訪れていたはずの店を見渡すと、受付の壁辺りに色紙が並んでいた。おそらく地元で有名になった者のサインが並んでいるやつだろうと踏んで、アベンチュリンはレイシオに一言告げて席を立つ。少なくともそういう冷やかしを許さない店では、そもそもサインなんて並べていないはずだった。
 予想通りそこには色紙が並んでいて、古い物も新しい物もあるもののアベンチュリンが知らない名前ばかりだった。席に戻ってから調べるために一つ一つ名前を確認する中で、あ、と小さく声を漏らしてしまう。
 訂正。一枚だけ良く知る名前があった。少しばかり経年を感じる色紙には、今の彼の字とは大分異なる筆跡で丁寧に名前が記されている。いつもよりもずっと気をつけて書いただろうその筆跡をしばらく眺めながら、そりゃあ今の彼も丁寧に喋ってしまって当然だと納得してしまった。自分の子供の頃を知っている大人にあまり砕けた態度は取れないだろうと、子供の頃の記憶を何とか掘り起こしながら理解する。
「ねえあれ、いつの君が書いたんだい?」
…………
 前菜を平らげた後にサーブされていたらしいスープを口にしているせいで返事が遅れたのだと思ったけれど、そもそもレイシオは返事をするつもりがないようだった。何について尋ねているか見当が付かないのであれば、彼は省略せずに喋れと文句を言ってくるはずである。
「僕は別に君から聞かなくてもいいんだよ」
……真理大学に入学する直前だ」
 たとえば受付をしてくれた人とか、なんて口にする前にレイシオが溜め息を吐くと、渋々と言った調子で答えをくれた。
「しばらくは来られなくなるからと両親に連れてきてもらって、そういう話になったんだ。それでここの主人がきっと有名になるだろうからと青田買いで書くことになった」
「青田買い大成功だ」
 だといいが、と言いながらスープを再び口にしたレイシオに倣ってスプーンを咥えると、ポタージュにしたかぼちゃがとろりと口内に広がった。彼の事だからきっと謙遜の類ではなく、店主がサインの主が天才になると期待したこともあったはずだと言いたいのだろう。
「サインってどれくらい書いた事ある?」
「書類にならいくらでも」
 少なくともそういう代物を見たことがあっただろうかとドキュメンタリー本の帯を思い出そうとしながら尋ねたところ、レイシオに軽く肩を竦められた。つまり、それはそれは大層希少性が高いという事であるからして。
……もう一回見てこようかな」
「まったく、僕の席の斜め後ろの子の方が君よりいくらか落ち着いている」
 中腰になった辺りでぎろりと睨まれたので、諦めて椅子に座り直す。まあどうせ店から出る前に通る必要がある場所なのだから、焦る必要はどこにもないのだ。
 それから提供された料理はどれを取っても、非凡と賞賛することはできなかった。高級幹部として仕事をしている手前、当然ながらもっと良い物をアベンチュリンはいくらでも口にしている。支払額だって可愛らしいもので、今まで二人で食べた中で一番支払いが安かった。二人分を合算しても、普段の一人分に届かない。
 タクシーや電車で少し移動すればもう少し良い店にも行けただろうが、それでもレイシオはこの店を選んだ。その理由はきっと彼に二枚目のサインを頼まず、今日のように挨拶だけして放っておいてくれるからなのだろう。他の客からも妙に絡まれるような事もなく、アベンチュリンはただレイシオとの食事を楽しむことができた。
 美味しかったと会計の際に伝えて、予備で持ってきていただけの紙幣をチップとして自分からも添えたのはただのマナー以上の意味があった。ありふれた町の月並みなコース料理はアベンチュリンにとって確かにその価値があるものだったのだ。