シノハラ
2025-07-26 18:31:12
49575文字
Public 戦パ
 

『最果てからずっと前』の進捗晒し

スパーク向けの戦パ本の予定の進捗晒しです。最終的にweb全文公開予定。『最果てから少し前』のアベンチュリンがレイシオの実家に連行されて猫と過ごす話。


 帰りは行きとは違う道を歩いて、スーパーに立ち寄ってから家に戻った。てっきりホテルに泊まると思い込んでいたので、用意していなかった歯ブラシを確保する。レイシオが持つ袋にはこの星でしか流通していないらしいアイスが二つ入っていて、胃が落ち着いた頃に食べるといいとのことだった。
 ドライアイスを袋に入れてはいるものの、やっぱり溶けてしまうともったいないと思ったからかレイシオもアベンチュリンも足早になる。そうして戻ってきた家の玄関ではウェヌスが人間の帰りを察知して、じっとこちらを見つめていた。そう思うとレイシオの持っている袋が気になったらしく、にょろりと体を伸ばして袋に近づく。
「凍傷が起きるから止めなさい」
 ドライアイスがあるのを気にしたレイシオが袋を引くと、いかにも不当な扱いを受けていますと言いたげな声でウェヌスが鳴いた。告げ口の如く抗議をアベンチュリンに伝えているような気もしたが、さすがにレイシオの主張に反してウェヌスを危険に晒すわけにも行くまい。
 レイシオとウェヌスの攻防をしりめに靴を脱いだ後、レイシオから袋を受け取って彼にも靴を脱いでもらう。それから再び彼に袋を返すと、彼は真っ直ぐ冷凍庫にアイスを片づけに行ったらしい。そうなってはもう取り戻せないと分かっているのか、ウェヌスはレイシオを追いかけず代わりにアベンチュリンを恨めしげに見つめていた。
「先に風呂に入ってくれないか?」
「先にいただいちゃっていいのかい?」
「ああ、まだの人間がいると思うと気になるからな」
 すぐにリビングに帰って来ないと思ったら、タオルと着替えを取りに行ってくれていたらしい。一番風呂の方が良いのではないかと首を傾げたものの、どうやら順番待ちの方を気にしていたようだった。アベンチュリンとしては一日二日風呂に入らなくても平気なのだが、一日の汚れを付けて人様の家の寝具に潜り込むのも良くないだろう。
 タオルの上にある寝間着は手首と足首部分にゴムが入っているタイプで、ズボンのウエスト部分も紐で調整できるようだった。もしこれがレイシオの体格に合わせた物であっても、多分何とかなるだろう。
「じゃあアイスはお風呂の後にいただこうかな。お風呂はどこに?」
 何より家に上げてもらっている側の人間が強く抵抗するのも良くなかろうと、ウェヌスのクッションの横に座っていた体を持ち上げる。そうするとアベンチュリンが動いたのを気にしたのか、ウェヌスが顔を持ち上げてアベンチュリンの動きを追いかけた。
 レイシオの後を追って風呂場に向かって、使い方を尋ねないといけないこの星独特の設備がないことを確認した。湯船の外を濡らしても問題のない作りだったので、湯を張りながら体を洗う事にする。
 枕とシーツに触れる頭と顔、それに服からはみ出す手足をいつもより念入りに洗ってから、半分ほど湯が溜まった湯船に身を浸した。あともう少しだけ水位が上がれば、蛇口を閉めても良いだろう。
 レイシオならはきっともう少し上まで湯を貯めるのだろうが、アベンチュリン——というよりエヴィキン人にはたっぷりの湯は過ぎたものなのだ。これは卑屈な謙遜などではなく、水の少ない環境に適応していった生き物に往々にしてある体質らしい。レイシオのように時間をかけて全身を湯に浸してしまうと、体がしっかりと温まったと感じる前に逆上せてしまう。
 レイシオはアベンチュリンが烏の行水をする方だと知っている癖に何も言ってこないのは、砂漠の民の性質を知っているからかもしれない。医者でもある彼にとってアベンチュリンと言うより高級幹部特有の生活習慣のまずさは気になるどころの話でないはずだが、レイシオが強く窘めたり強制しようとしてきたりすることはなかった。
 彼はアベンチュリンが既に医者にかかっていると知っているので、治療方針に口出しをすることはない。食事の習慣が不規則になるのも、栄養食で済ませる事が少なくないことも承知しながら栄養を取れていれば問題ないと評価してくれた。自身の幸運を確かめる行為ですら、苦言と多少の提案をするだけで、強固な反対や妨害を受けたことはない。
 それが自分への関心の少なさを意味しているわけではなく、彼の医者としてのスタンスを示しているのだといい加減アベンチュリンも分かるようになってきている。治療方針は一本に絞った方が良いし、すでに一定の努力を行っている患者を自分の尺度で測って急き立ててもいい結果にはならないと彼は知っているらしい。
 だからレイシオはアベンチュリンを基本的に自由にして、時折大切な言葉をくれるのだ。それはたとえば祈りの形をしていたり、約束として立ち現れる。
 きっとレイシオはアベンチュリンの死後、骨をツガンニヤの砂漠へ返してくれることだろう。それまでの工程にどんな障害があるかはあえて調べてはいないが、アベンチュリンは楽観的に捉えていた。いや、どちらかと言うとなるようにしかならないという表現の方が正しいだろうか。レイシオが介入しようとしてどうにもならないのなら、他の誰がやってもきっとどうしようもない。
 そう分かっているから、アベンチュリンはツガンニヤに帰った折に自分の髪を撒いたのだ。からりと晴れ渡った青空に自分の空気に乗せてしまえば目立たない色の髪が混ざり、すぐに見えなくなってしまったあの日の事を思い出す。
 帰りたい。あそこにはもう誰もいないと分かっているのに。それでも、アベンチュリンはずっとあの砂漠に帰りたかった。
 砂漠の空気の温度を思い出させる水温を感じながら瞼を落とした瞬間、少し不服そうなウェヌスの声が聞こえてきて感傷が吹き飛ぶ。わあわあと鳴くウェヌスの様子を見るために湯船から上がって扉を開けると、隙間に首を突っ込んで無理やり中に入ってきた。
「お風呂場が好きなのかい?」
 足の辺りの毛を濡らすのも気にせずすたすたと歩くウェヌスの背に呼びかけると、返事がない代わりにぴょんと湯船の縁に飛び乗った。それからアベンチュリンが揺らした余韻の残る水面をじっと見つめる事で、こちらの疑問に答えてくれているようでもある。
 飼い主のお風呂についてきて、様子を窺う猫もいるらしい。ウェヌスもそのタイプなのだろうと納得した瞬間だった。湯船の縁に乗ったのと同じくらいの軽やかさで、ふかふかの塊がお湯に飛び込む。
「ウェヌス!」
 ばしゃんと上がった水音を掻き消す悲鳴を上げてしまってから、アベンチュリンは慌てて湯の中のウェヌスを抱え上げる。毛がぺったりと体にくっついて胴の細さが分かるようになったウェヌスはなんだか低い音を出していた。
 お湯が良くない所に入っているのではないかと慌てて耳を近づけると、ぐるぐると喉を鳴らしているだけのようである。あまり猫の生態を知らないアベンチュリンでも、この音が示す意味は知っていた。どうやらこの子はお風呂がどういうものかしっかりと理解した上で、お湯に入水したらしい。
「ウェヌスか? 君が嫌でないなら一緒に入ってやってくれ」
「本当に君にそっくり! 君の血とか混ぜて作ったって言われても驚けないよこんなんじゃ!」
 再び湯に浸かりたがって前のめりになったウェヌスに観念して湯船に入りながら、思わずレイシオに悪態を吐いてしまう。それを聞いたレイシオの反応は少し遅れたようだったから、もしかしたら笑っていたのかもしれない。
「両親も一時期自分達の頭がおかしくなって、二人して幻覚を見ているのかと心配したらしい。初めて帰省した時に車の中でもしかしたら言っていた猫はいないかもしれないと言われた時はどうしようかと思った」
 僕も家に猫がいると聞いて期待をしていたからなおさら、と表情が見えなくともその時の出来事を懐かしんでいるのが分かる声でレイシオが告げる。アベンチュリンの膝に乗ってふよふよと毛を漂わせているすまし顔のウェヌスの特徴を思うと、彼の両親の不安もさもありなんと言ったところだろう。
 自分の息子が若くして他の星で暮らし始めて寂しく思っていた時に現れた息子を思わせる猫が、なんだか息子と同じような嗜好をしている。それも無理やり関連付けているなんて話ではなく、レイシオを知っている人間なら考えすぎとは言えないくらいの水準で。
「僕が上がる時に連れて戻ればいいかな?」
「ああ、そうしてくれ。この子用のバスタオルも置いておく」
「ありがとう」
 のし、と鎖骨の下辺りに前足が乗ってくるのでどかしつつ、アベンチュリンはウェヌスの肉球の柔らかさを意識する。レイシオが宣言通り追加のバスタオルを取りに行ったのか気配がなくなってからも、アベンチュリンはウェヌスが気に入る場所を見つけるまで湯の中でとろとろに溶けた毛並みと遊んでいた。
 結局アベンチュリンが立てた膝と胴の間に収まりながら尻尾で湯をかき回し始めたウェヌスに付き合って、ここ最近で一番長く湯に浸かってしまったと思う。顔が熱くなって来ているのに気がついて、湯を飲むついでにアベンチュリンの膝を舐めているウェヌスに声をかけるとまずは無視を決め込まれた。
「このままじゃ僕が逆上せちゃうからごめんね」
 やっぱり無視してくるウェヌスに謝りながら身を乗り出し、湯舟の栓を抜くとじわじわ水位が下がっていく。そうすればウェヌスの体が湯の上に出てきて、ようやく不満を申し立てる視線がアベンチュリンに向けられた。
「ほら、上がろう」
 まずは絞ったフェイスタオルを使いながら水滴を絞ってやって、常に滴っていた雫を拭い去ってやる。その後に自分の体も拭いて脱衣所に戻ると、慌てて下着を履いてから廊下に出たがるウェヌスを捕まえて見覚えのないバスタオルをウェヌスに被せた。
 ウェヌスをごしごしと拭いたタオルがじっとりと濡れてから借り物の寝間着を着ると、手も足も引きずってしまって自分でも少し面白くなってしまった。が、まだしっとりと濡れているウェヌスを前にしては些細な話である。この後はドライヤーでも使って乾かさなければならないのだろうか。
「レイシオ、お風呂ありがとう……それ何?」
「猫用のドライヤーハウスだ。ウェヌス、おいで」
 基礎化粧品だけ付けて髪を後回しにしてリビングに戻ると、ソファの横に四角い箱が増えていた。用途が思いつかなくて首を傾げているうちに、レイシオが箱を開けてウェヌスに呼びかける。そうすれば、ぺったりしたままだったウェヌスが箱の中に吸い込まれて行った。
「君も髪を乾かしてくればいい。ここで乾かすとブレーカーが落ちるらしいから、洗面所を使ってくれ」
「分かった」
 レイシオが箱を閉めてボタンを押すとモーター音と共にウェヌスの髭の先がふよふよと揺れ始める。なるほど、手でドライヤーを使っていてはキリがないということらしい。平然と温風を受けている姿を見る限り人間用のドライヤーも嫌がらなさそうではあるがたまにの事であればともかく、風呂好きの猫を毎度乾かすのは人間の方が大変そうだ。
 レイシオの言う通り髪を乾かして風呂場を明け渡すと、彼が買ってくれたアイスを食べながらどんどんウェヌスの毛が軽くなって行くのを眺めていた。冷えたお菓子が頬や少しぼんやりした頭を落ち着けてくれるのを感じて、自分が逆上せかかっているのに気がついて慌てて水を飲んで再びソファに戻った。
 アイスをスプーンで掬っているうちにウェヌスがアベンチュリンが食べている物に気がついたようで、一声鳴いて呼びつけてくる。箱の蓋は開けないまま透明のプラスチック越しにアイスが見えるようにしてやれば、ぴたりと湿気た鼻を空気孔に押し付けて匂いを嗅ごうとしたようだった。
「分かる?」
 自分の声が柔らかく響いたのが分かって、随分と自分がこのふんわりとした生き物にめろめろになっていると突然自覚してしまった。もちろんトパーズが飼っているペットも社内にいる動物達も、アベンチュリンはちゃんと可愛いと思っている。けれど、ウェヌスに向ける気持ちが違ってきているのは、単純に過ごした時間が他の子よりも長くなってきているからだろうか。
 温風を送り出すモーター音にどうにか紛れ切らないくらいの声でウェヌスが返事をしてくれて、アベンチュリンは口元を緩めてしまう。この家で大切にされている子が人間そのものを信用している恩恵に与りながら、今度は意識的に目を細めた。
……かわいいね」
 ぺろりとウェヌスが透明な蓋を舐めて、その舌がなんの警戒もなしにアベンチュリンを舐めていた事を思い出す。この子が暑くも寒くもなく、必要以上にお腹を空かせる事もなくただ幸せだけを感じて生きてくれれば良いと思った。
 ウェヌスがアイスとアベンチュリンから興味を失うまで箱の前にいて、アイスを食べきってからソファに戻る。それから何とはなしにテレビをつけると、どうやら映画を流しているチャンネルがあるらしい。
 既に三十分は見逃していた名前も知らないタイトルの作品を眺めているうちに、乾燥が終わったらしいウェヌスがソファに上がってきてクッションに乗る。それからにゅうっと伸びをしてアベンチュリンの太腿に前足を当てて、その姿勢で落ち着いたようだった。
 映画は最初にしっかり登場人物の関係性を説明し終わった後だったせいか、いまいち分からない部分も多いまま終わってしまった。後からスマートフォンで調べて補完をしても良かったが、今は分からないままで放っておくことにする。タイトルは分かっているので、いつかちゃんと最初から通して観てみるのもいいだろう。