シノハラ
2025-07-26 18:31:12
49575文字
Public 戦パ
 

『最果てからずっと前』の進捗晒し

スパーク向けの戦パ本の予定の進捗晒しです。最終的にweb全文公開予定。『最果てから少し前』のアベンチュリンがレイシオの実家に連行されて猫と過ごす話。


 ウェヌスの前足を撫でながらふわりと欠伸をしたのを見計らうように、レイシオが今日アベンチュリンが使う寝室の説明をしてくれた。彼は今日は父親の部屋を使う事にして、アベンチュリンは彼の元子供部屋を借りる事になるらしい。
 自分がそんな部屋を使っても良いのかと尋ねる前に、今は時々客室として使われていると補足の情報をレイシオが寄越してくる。そう言われてしまうとさすがにリビングのソファで寝ますとも言いづらかった。
 歯磨きをしてから部屋に通してもらうと、学生が使いそうな学習机が置いたままになっているのが目に留まる。中がどうなっているかは分からないが、箪笥もベッドもレイシオが子供の頃に使っていたものだろう。
「明日は八時までに起きてくれていればいい。それ以上遅くなったら料理は君が温め直せ」
「分かった。それまでに起きるようにするよ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、いい夢を」
 寝る時間が遅くなる関係で休日でもそこまで長くは寝ないのだけれど、週明けの仕事を思えばたっぷり寝ておくに越したことはないだろう。ひらりと手を振ると、レイシオが相槌一つで受け止めてくれたので扉を閉める。そのまま踵を返そうとしたところでアベンチュリンが閉めた扉が開かれて、思わず声を上げてしまった。
「なんで?」
「ウェヌスだ。扉を開けておけば少なくとも扉を開けろと鳴かれる事もない。入ってこられた場合は腹の上に飛び乗られない限りは無事でいられる」
「ああ~なるほど?」
 ドアの前に留まっているレイシオの足にぐいぐいと額を押し付けながら、彼が動かないのが不満らしいウェヌスがタイミング良く声を上げる。この声量で鳴き続けられてしまっては、睡眠導入剤の頓服で意識を奪われるように眠ってでもいない限り目を醒ましてしまうだろう。
「じゃあ君のおすすめの通りにしておくよ」
 真冬や真夏の空調が必要な気候でもないので、それくらいは構いはしないだろう。レイシオに言われた通り扉に隙間を空けておきつつ、アベンチュリンは今度こそ一人になり部屋をよくよく観察する。
 学習机の棚には古びた辞書が並んでおり、その中にアルバムもいくつか混ざり込んでいた。お客さんを寝かせるところにこんなプライベートな物を置いていて良いのだろうかと首を傾げながら、成長に合わせて高さを調整できるようになっている木製の椅子を引いて腰かける。
 あるからには見てもいいのだろうと勝手に結論付けて、アベンチュリンはアルバムに手をかけた。表紙にある年代を見る限り、一般的には就学前の年頃のレイシオの写真が収められているはずである。
 表紙に指を滑らせながら、果たして彼がどういう子供だったのかと考える。図書館で大きな図鑑とにらめっこしている姿を想像してみたものの、さすがにありきたりすぎるかもしれない。
 ほんの少しの後ろめたさを拭いきれないまま、アベンチュリンは好奇心に負けてアルバムの表紙を捲った。一枚目は保護のための紙らしく、一つ呼吸をしてからそれも捲ってしまう。
 ――そこにいたのは乳歯が欠けているのが分かるくらいに屈託のない笑顔を見せている子供だった。泥だらけだったり、捕まえた昆虫を持っていたり、博物館で古い展示品を食い入るように見つめていたり。
 写真を次々に見るうちに、気がつけばアベンチュリンの口元も緩んでしまっていた。レイシオはどこかのつまらないインタビューで、自分は普通の男の子だったと自称していたはずだった。アベンチュリンを含めた多くの読者は適当な事を言っていると思ったはずだけれど、彼は本当に普通の男の子だったらしい。
 写真に写る子供時代の彼はいつだって世界に興味津々であるようだった。そうでなければ、学者になろうなんて思わなかったのかもしれない。
 どれを取っても良い写真だと思う。そして、彼がこの家でとても幸せに過ごしていたことが痛いくらいに伝わってきた。
 最後のページを見終わってから本を閉じて、次の年代を見るか少しばかり悩んだ。きっと全て見れば、あの薔薇色の頬をした子供が今の彼に近づいていく足跡を辿る事ができるだろう。そのある種の喪失を、アベンチュリンなんかが見てしまって良いのだろうか。
「あれ、おかえり?」
 新しいアルバムを引っ張り出すだけ出して悩んでいたところに、机にウェヌスが飛び上がってくる。突然の登場にびくりと肩を跳ねさせてしまってから、どうやら上手く足音を消して近づいてきていたらしいウェヌスに声をかける。当のウェヌスはそのままアベンチュリンの手の甲を踏んづけてから、アルバムの上にどっしりと倒れ込んだ。
……だめかい」
 まるでアルバムを見るなと言われているように思えてウェヌスに尋ねると、に、と微かな声で鳴かれてしまった。そっかあ、と相槌を打つ自分の声が思った以上に萎れていて、遅れて自分がこの家に拒絶されたように感じているのに気がついた。自分みたいな人間がそもそもこんな普通の家庭に受け入れられるはずがないというのに、何を今更落胆しているのだろう。
「じゃあ僕も寝ようかな。電気を消しても大丈夫?」
 レイシオ曰く、寝ている時に部屋に入ってくるのだからしっかり夜目は利くのだろう。そのため形式的でしかない問いかけになったが、ウェヌスは頭を撫でられながらんん、と喉元でコロコロと音を転がしてくれた。
 アルバムを戻したかったので体を持ち上げようとすると、ウェヌスはするりと机から降りてベッドに上がり込んだ。それを見届けてからアルバムを片づけて明かりを落として、アベンチュリンは蓄光を頼りにベッドに潜り込む。
 その蛍光色が分からなくなる頃合いになって、ウェヌスがアベンチュリンの顔の近くで丸まる気配があった。そっと手を伸ばすと温かな体が指先に触れて、不躾に突いてしまった部分を撫でてやる。
「レイシオにもこうしてあげてきたんだ?」
 そう尋ねても返事はなかったが、代わりに尻尾がぴたんとシーツを叩く音と微かな振動があった。きっとレイシオが眠るか、もう本もスマートフォンも触る事がないと確信するまでこうやって側にいたのだろう。
 さっさと寝ろとばかりに読書の妨害をするウェヌスの姿を想像して、アベンチュリンは少しばかり強張っていた神経が緩むのが分かった。ウェヌスはこの家の過去を覗き見るなとアベンチュリンに抗議したわけではなく、だらだらと夜を無駄遣いせずに寝てしまえと言っていたのだ。
……早とちりって良くないね」
 タイミング良く再びぴたんと跳ねた尻尾を感じながら、アベンチュリンはレイシオを思い出してしまった。彼はアベンチュリンの抱える病状に踏み込むことには慎重なものの、一方で随分と世話焼きなのだ。
「今日はありがとう。こんな僕を君の家に置いてくれて」
 先ほど触れた場所を思い出しながら、アベンチュリンはまたウェヌスに手を伸ばした。湯に浸かった後だったからか昼間よりもふんわりとした毛の下にある、ぽかぽかの体を指先で確かめる。
「君にとって大切な場所だろう?」
 ウェヌスに言っているのか、他の人に充てているのか自分でもよく分からなかった。無粋なんて言っていないで、レイシオにもちゃんと伝えた方が良いのかもしれない。
 本来であれば自らの意志で人を殺め、何の責任もないカンパニーの社員までを巻き込んだ詐欺事件を起こした自分がこんなところに来ていいはずがなかったのだ。けれどレイシオはその過去を知りながら、アベンチュリンに負担の少ない方法でこの家に招いてくれた。まるで、アベンチュリンの故郷に招待されたお返しだとでも言いたげに。
「くすぐったいよ」
 ウェヌスから手を離して顔の近くのシーツに下ろすと、ふさふさな尾が手の甲を微かに擦った。むずむずする感触に苦笑しつつ指摘したものの、ウェヌスは改めてくれるつもりはないらしい。
……僕の家族はね」
 くすぐったさを堪えながらアベンチュリンは砂の海の上でレイシオに告げた言葉をもう一度口にする。
「父さんと母さん、それに姉さんがいたんだよ」
 レイシオにはもっと具体的な話をいくつもつらつらとしたのだけれど、ウェヌスに伝えたい事は少し違うようにも思う。
「父さんは母さんと姉さんを大切にしてくれて、母さんは姉さんと僕を育ててくれて、姉さんは僕を守ってくれた」
 ウェヌスは自分の父と母を知っているのだろうか。きょうだいの事を少しでも覚えているのだろうか。
 分からないけれど、今のこの子が満ち足りていて、そういう幸せの形もあるのだろうとすんなりと受け入れる。それがアベンチュリンがどうしても受け入れられないでいる幸福の在り方だと理解しながら。
「足りない物だらけだったけど、僕にとって大切な物は全部そこにあったんだ」
 不思議とウェヌスの在り方を許容しながらも、過去に固執し続ける自分をつまらないものだとも思わなかった。同時にこの子が幸せだと感じているのなら、アベンチュリンがその幸福を否定する権利もない。
「君のお家はどうかな」
 ウェヌスは何も言わなかった。ただ、温かな暗闇がそこにあるのを感じて、アベンチュリンはそっと瞼を落とす。アルバムにいた幼いレイシオと同じように欠けた歯を見せて笑っていた時分、アベンチュリンがただのカカワーシャだった頃、夜にはそれが寄り添っていたのを覚えている。
 柔らかくて優しい手触り。全く知らないはずの懐かしい感覚だった。何もかもが違っているはずなのに、かつての家庭の香りが鼻先を擽った気がする。
 小さな声で父と母、そして姉の名を呼ぶ。そうすれば彼らの伝言を預かってきたとでも言いたげに、ウェヌスが相槌の如く尻尾を揺らした。
 それが眠りに就く前のアベンチュリンの最後の記憶だった。