Skorca
2025-06-23 22:39:43
37024文字
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精霊異聞 〜風の至宝〜



2.迷惑な策略

 先を進む彼に小走りで近寄り、ネリアは相手に声をかける。
「殿下」
 すかさず、王太子は手でネリアの二の句を制した。
「往来で殿下はやめろ。こんななりで人に聞かれたら悪目立ちすることこの上ない」
 相手の言うことはもっともだったので、ネリアは何と呼び掛けるべきかを思案する。
 名前でそのまま呼ぼうとしたが、考えてみれば王族は専用の名を付けられる。逆に言えば、アザルシスを王族以外が名乗るのは禁じられており、殿下と呼び掛けるのと大して変わりはない。
……何とお呼びすれば?」
 早々に観念し、ネリアは思い切って訊くことにした。王太子はしばし考える素振りを見せる。
……そうだな、サーイスでいい」
「サーイス、さま?」
 聞き慣れない名だった。確かに王族とは思われないだろうが、ありふれた名でもない。しかし彼は頷いた。
「敬称もいらんと言うところだが……まあ、いいか。で、なんだ?」
「屋敷に連絡を取ってはいけませんか? 昼食までには戻る予定だったのです」
「駄目だ」
 サーイスの応えはにべもない。ネリアは絶望的な表情になった。騒ぎになるような事態に発展すれば、今は黙認している父も、正式に無断外出を禁止せざるを得ないだろう。
 傍らで意気消沈した彼女をサーイスはちらりと一瞥したが、何も言わなかった。
 彼は通りの左手に続く店の並びに目線を移し、見えてきた二階建ての建物の入り口に下がった看板を確認して、口を開く。
「あの店に入る。少し早いが腹ごしらえだ」
 サーイスの身体の陰から顔をのぞかせ、ネリアは示された店を見た。看板に、おどけたような雄鶏と雌鶏が向かい合って描かれている。
 旅籠屋のように思われるが、窓から漏れる物音はそれにしては賑やかだ。その喧騒の雰囲気からすると、どうやら食事を主に提供する店らしい。
 中に入ると香辛料の香りが真っ先に鼻腔に飛び込んできた。四、五人掛けの卓についているのは、たいがいが商人らしき風体の人間である。
 西からの旅人が多いらしく、蒼い眼のハーディア人だけでなく、碧眼のリューシャ人や、灰色がかった眼をしたイルダ人などもいる。
 奥の横長の席では何人かの女たちが座っていて、気だるげにこちらに視線を向けた。入念に化粧をしたその顔には退廃的な雰囲気が漂い、おそらく商売女と思われる。彼女らは店に入ってきたサーイスに目を遣るなり、皆口許を妖しげに緩めたが、その背後にこの場とは不釣合いな娘が引っ付いているのが目に入ると、さもつまらなそうに鼻を鳴らして向こうを向いてしまった。
 現れた給仕の男にサーイスは、奥まった一角を顎で示す。
 給仕は軽く二人を一瞥すると無愛想なまま頷き、暗い奥の店内に案内した。衝立ついたてがそばに置かれた席だった。完全ではないが、店内からの視線のほとんどを遮る役割を果たしている。
 興味津々に辺りを見回しながら、恐る恐るネリアが椅子に腰を降ろす間に、サーイスは慣れた様子で給仕と二言、三言言葉を交わし、給仕は頷いて席を離れていった。
「こういう場所は初めてか」
 こちらに向き直ったサーイスが尋ねる。
「はい。街に参りましても市をのぞく程度ですので」
 飲食物に手を出すなど以ての外だった。いくら治安が良いとはいえ、身なりの良い人間に眠り薬を盛り、身ぐるみ剥ごうという輩もいないではない。
 この、やけに下町に慣れた様子の王太子が一緒なら、そういった問題は起きないだろうが。
 そこまで考えて、ネリアは唐突に緊張した。王太子の食事に同席するなど、本来なら第一級の栄誉である。こんな場所で名誉もへったくれもないが、どう振る舞うのが適当なのか、判断に困った。
 貴族の生活はしきたりだらけだ。逆に言えば、どの場面でどう動くべきか、すべて決まっていた。覚えてしまえば考えなくても身体が動くし、それを侍女たちが完璧に補佐してくれる。
 王太子が臨席するような場に空腹で臨むなどあり得ない。正餐せいさんの席では貴婦人の役割は場に華を添えることであり、料理には申し訳程度に手を付けるだけで、気の利いた会話と上品な笑顔を提供することが至上命題であった。
 今そんなものを求められているわけではないことは、ネリアも重々承知している。しかしかと言って、完璧に割り切ってしまってよいものか。場所柄が異なると言えど、遠慮なくネリアが食べ物を口に運ぶ姿を見た、王太子の記憶まで切り替わるわけではない。
 そんな迷いにネリアの頭の中が支配されているうちに、問題の料理が運ばれてきた。
 基本的に、庶民の料理の方が貴族の口にするものより味付けが濃く、香辛料の使われ方も豪快である。
 以前から街に出るたび辺りを漂うこれらの香りに、ネリアは興味をそそられていた。ついにそれらが自分の眼前に並べられたのである。
 小麦粉に水と塩を混ぜ、こねて薄焼きにしただけのパンに、数種の香辛料を擦り込んで焼いた鶏肉が載せられていた。焼きたてらしく、肉汁がしたたり落ちて下のパンに染み込んでいく。他にも果物や野菜の肉巻き、濃厚な豆とミルクのスープなど、どれもかぐわしい香りと湯気を立てている。
 思わず、ネリアはそれらに見入った。わずかに上体が前のめりになる。それくらい、彼女は真剣に料理を見つめてしまったのである。
 これを上品にほんの少しずつだけ賞味しろというのは殺生な話だった。しかし、仮にも名家の姫たる者、己れの食欲――及び好奇心――より体面を優先させるのが当然……
(いいえ)
 おもむろに、ネリアは背筋を伸ばした。今更、この期に及んで取りつくろったところで何になるというのだろう。下町で場違いに格好をつけたところで、かえって滑稽こっけいではないか。
 そう結論付け、意を決して彼女は言った。
「いただきます」
 その声があまりに真剣だったので、既に最初の一口を口に運びかけていたサーイスが思わず手を止め、こちらを見る。いささか赤面しながら、慣れない様子で料理に手を伸ばすネリアに、彼は軽く頷いた。
 その、食べて当然といった様子のサーイスの反応に、少しだけネリアは気が軽くなり、敢然と庶民の味に取りかかり始めたのだった。
 お互い、終始無言のまま、ひたすら食事を続ける。ネリアは食べ方が要領を得ず、見よう見まねで料理を口に運ぶので精一杯だったし、サーイスは空腹だったのか、結構な量を淡々と平らげていった。
 テーブルの全ての皿が空になる。ネリアは一息つくと、居住まいを正し、あらためてサーイスに尋ねた。
「わたくしが狙われたわけを、もう伺ってもよろしいでしょうか?」
 しかしサーイスはまたも首を振る。
「まあ、待て。こういう場は密談に不向きだ。耳だらけだからな。これから場所を移すが……。いいか、今から私が何を言おうが何をしようが、俯いて黙っていろ。動揺するな。私が立ち上がったらついて来い」
 一体今度は何事かと、簡単に頷く気になれずネリアは押し黙った。そんな彼女に、サーイスは辛抱強く続ける。
「無事に移動するためだ。うまくいったらそこで全て話す」
……分かりました」
 不安を隠しきれない声でネリアは答え、指示に従うためにヴェールを深く被り直した。
 サーイスは身を傾けて衝立の陰から顔を出し、店の奥に向かって何やら合図した。
 やがて店の主人らしき、恰幅の良い髭面の男がやってくる。彼に食事代の小銭を渡しながら、サーイスはぞんざいな口調で話しかけた。
「上空いてるか?」
 主人はじろりとサーイスと、向かいに座って俯くネリアを見、眉をしかめた。
「この辺りの決まりを知らんのか。連れ込みは夕刻からだ。日中はうちで置いてる馴染みとしか上がれねぇよ」
「堅いこと言うなよ。夜まで待てるんならわざわざ来ねえよ」
 そう食い下がりながら、意味ありげな視線でネリアを示す。主人の顔つきが更に険しくなった。
「こちとらまじめに商売してんだ。昼間っから揉め事はごめんだ」
「心配いらねえよ。こいつの亭主は今頃砂漠の向こうだからな」
(亭主!? 一体何のお話?)
 ネリアの頭の中を疑問符が飛び交う。
「なあ、金なら倍払う。見りゃ分かるだろうが、俺はここらの人間じゃない。明日にでも国に帰るんだ。あんたが今ここでちょっと首を縦に振ってくれりゃ、それで済むってもんだ」
 どうやらサーイスは自分をリューシャ人で通すつもりらしい。彼の瞳は父方から受け継いだ血を表すものであり、確かに外見だけならリューシャ人の方が近い。
 神秘主義の国民性にしては、いささか柄が悪い気がするが。
 倍額出す、と言われて主人の顔に迷いが生じる。
 そこに、他の客から主人を呼ぶ声が聞こえた。彼はもう一度ネリアを見、そしてサーイスがテーブルの上に置いて示した金に目を移し、しぶしぶといった様子で腰に提げた鍵束から一つを外してテーブルに放り投げた。金をつかみ、身体の向きを変えつつ、ぼそりと言う。
「上がって一番奥だ。ったく、なんだってここらの女どもはこう、リューシャの男に弱いのかね」
 サーイスは肩をすくめた。
「恩に着るぜ」
 鍵を取り、主人に向かって言うと、彼は立ち上がる。
「行こう」
 サーイスの言葉に従って、ネリアも俯いたまま腰を上げた。その間にテーブルをまわってこちらに来たサーイスが肩に手を回してきて、ネリアは飛び上がるほど驚いた。
 かろうじて、動揺するなと言われたことを思い出し、驚愕を無理やり抑える。
 奥のカウンターの横手から、階段が上へと伸びていた。サーイスはネリアの肩を抱いたまま、二階へと上がる。
 暗い二階には廊下があり、その両側と突き当たりに部屋の入り口らしき扉が並んでいた。
 突き当たりの扉の鍵穴に、サーイスが先ほど店の主人から受け取った鍵を差し込む。扉を開くと、薄暗い部屋に入った。
 殺風景な部屋だった。真ん中に大きな寝台と、壁際に簡素な鏡台が置いてあるだけである。正面に小さな窓があるが、日除けが下ろされたままになっていた。
 サーイスが後ろ手に扉を閉め、内側から鍵を掛けるとネリアの肩から手を離す。
「ここは旅籠屋でしたの? 食堂と思っておりました」
 彼女の言葉に、サーイスはちょっと首を傾げて言った。
「似たようなものだが、少し違う。ここは連れ込み宿だ」
「連れ込み……
 鸚鵡おうむ返しに呟き、それが何を意味する言葉なのか考える。
 部屋の割にやけに大きな寝台が目に入った途端、彼女は唐突に正解に思い当たり、凍り付いた。思わず、首飾りの包みを取り落としそうになる。とんでもない場所に足を踏み入れてしまった。
「心配するな。別に何もしない。話す場所として選んだだけだ」
 サーイスはあっさりと言って、さっさと寝台の端に腰を降ろす。
「そういう問題では……
 ネリアは反論しかけたが、サーイスは耳を貸さず、向かいの鏡台に付いた椅子を指差す。
 仕方なく、彼女は小さな椅子を引っ張り出し、腰掛けた。先ほどのサーイスと店の主人との会話が、ようやく彼女の頭の中で意味を成す。
「わたくし、大変不道徳な人間と思われたのですね……
 がっくりとうなだれ、ネリアは絶望的な声で言った。
 仕組んだ張本人は他人事のように、さもおかしげに喉の奥でくつくつと笑っている。
「だろうな」
 相手が王太子でもなければ、厳重に抗議するところである。ネリアは情けない顔でため息をついた。
 今日一番の災難は、殺されかけたことより、 この王太子に捕まってしまったことなのではないかという気がしてくる。
「だがあれは予定外だった。あの親父にあそこまで渋られるとは思ってなかったからな。最近何か厄介事に巻き込まれたと見える」
 サーイスはそう言うが、言葉にしなくても、そういう状況設定だったのは元からだろう。ネリアは騙されず、不信も露わな目つきで相手を見つめる。
 もっとも、サーイスはどこ吹く風といった様子をまったく崩さなかった。
 彼は両手を後ろについて上体を支え、高く脚を組む。作法の教師が見たら間違いなく零点を付けそうな態度が、呆れるほどさまになっていた。
「さて、長らく待たせたが本題に入ろう」
「はい」
 ついにサーイスが切り出したので、ネリアは背筋を伸ばした。