「
――――――たぞ。起きろ」
すぐ近くで■■■■の声がする。
唯一無二の■■が呼んでいる。
もっと、もっと傍に。
これだけでは足りない。
足りない、足りない。
その腕で、声で、匂いで、あらゆるお前で、
俺を■■■■■、■■■……そして、■■■■■■■■欲しい。
お前の全ては……――■■■■■■■。
「
――……がれトンチキ」
「ん
……うるさいぞゴリラ
……」
「粥を頭から食わせてやろうか?」
「
……野蛮な奴だ、まったく」
そんな起こし文句があるかと思いながら体を起こす。寝ている内にダウンジャケットをすっかり抱き締めてしまっていたことに気づき、無意識下の自分を殴りたくなった。
ソファに座り直すと、了承も得ずにビーマが隣に座った。うたた寝でまた少し冷えた身体が、傍に来た熱源に寄り添いそうになる。抱き枕にしていたダウンジャケットを膝に掛け、右に傾きたくなる衝動をどうにか堪えた。
「ほら」
隣でわし様が葛藤していることなどいざ知らず、ビーマはごく自然に粥を掬った匙を向けてきた。食べ慣れたそれに美味そうだな、と悔しいが心では思うものの、体は受け付けそうになかった。抑制剤の副作用は勿論だが、それ以上に周期外れのヒートが思いの外辛い。まるで何日も熱だけが下がらない風邪を引いたかのようだ。
なかなか食べようとしないわし様に痺れを切らしたのか、ビーマの眉間に皺が寄る。
「口開けろ。食わねえと無理矢理ねじ込むぞ」
なんと横暴な。わし様は今ガラス細工より繊細なんだぞ。もっと丁寧に扱え。というかそれが看病する奴の態度か。
「どうせまた点滴だけでやり過ごしてんだろ。食わねえと体力戻らねえぞ」
当てずっぽうで図星を指すな。ムカつくだろうが。
しかし食べなければ体がもたないというのは事実であるし、粥に罪はないのだから食べてやるとしよう。
少しだけ口を開けると、ビーマがスプーンの先端を差し入れてきた。上唇で米を掬い舌の上に乗せる。舌と上顎で潰したり奥歯で噛んだりしてみるが、今日は鼻も上手く機能していないのか、味がよく分からなかった。なんだかぼやけた風味しかしない。ビーマに味を訊ねられたのでありのままを言えば、自信過剰な言葉と共に二口目の粥が差し出された。
(
……まったく、なぁーにが「俺が作ったから美味いに決まってる」だ。いけしゃあしゃあと
………………ッ!!????)
呆れながらも大人しく粥を咀嚼していると、突然ビーマの顔が近づいてきた。しかも犬さながらにクンクンとわし様の匂いを嗅いでいるではないか!
(喰われる!? とうとう喰われるのかわし様!? やめろやめろ、わし様は不味
……い筈はないが心の準備というものがだなあ!!)
「何だいきなり
……ゴリラの次は犬の真似事か」
「ゴリラの真似もした覚えねえよ。
……お前今日どこ行ってたんだ? お前じゃねえオメガの匂いがする」
心中で嵐が吹いていることを悟られぬよう、努めて冷静かつ理知的に行動を咎めれば、ビーマは嫌なことを思い出させた。わし様以外のオメガの匂い
……つまりそれは考えるまでも無く、あの隠し部屋にいた三人の内誰かのことだろう。それとも三人全員か。いや、そんなことはどうでもいい。不愉快極まりないことには変わりない。
少しでも奴らの痕跡を遠ざけようと服を脱ぎ捨てていると、風邪をひくだの何だのとビーマに止められた。まだ不快感はこの身に纏わりついている。なら上書きするしかあるまい。
毛布を取りに行こうとするビーマに、毛布の代わりに上着を貸せと言った。ビーマは一瞬微妙な表情になったが、それでもすぐにダイニングからスーツのジャケットを持ってきた。嗅ぎ慣れない煙草と香水の臭いが気になったが、律儀にもオメガには会っていないと言うので許してやることにした。ジャケットを着ると、ビーマはソファに座り直し、またわし様の口に粥を運び始める。
「で? 何があったんだよ」
ご丁寧に話題の蒸し返しまでせずともよかろうに。ビーマはどうしてもわし様にあの最低な会食を思い出させたいらしい。心底嫌だが、教えるまで引き下がらんことは目に見えている。それでもしつこく聞き出されるよりはマシか。
合間合間で口に突っ込まれる粥を飲み下しつつ、今夜の出来事を端的に話してやった。
話すに連れてビーマの顔がみるみる険しくなっていく。最終的にはこいつ人ひとり丸めるんじゃないかという程凶悪な面構えになった。いや、怖。
かと思えば急に心許ない表情に変わった。あまり見たことのない類のものだ。不安そうというか、何かに恐れているような
……。
…………ビーマが?
………………………………………………。
「おい、ビ
――」
「それでお前はフェロモンの煽り食らってぶっ倒れて、カルナに俺を呼ばせたって訳か」
反対にこちらから問い質そうとした時にはもう、ビーマの顔から憂いは消え失せていた。あるいは初めからわし様の見間違いだったかのように。
追及し直そうにも、タイミングを逃したせいで気が削がれてしまった。腹も苦しくなってきて色々億劫だ。ビーマにしてはかなり気を使った量だったが、今日のわし様にとってはぎりぎりキャパオーバーである。
今日はもう寝てしまいたい気分だが、会食でつけられたオメガのフェロモン臭を洗い流さずには落ち着くことが出来ない。だるい体を残った気力で動かし、リビングを後にした。
「俺はアルファだってさ。おかしいよな、俺は何にも変わってねえのに、親戚連中はいきなり態度変えるんだぜ。こないだまで馬鹿力がどうのこうのと言って来てたくせにさ」
俺の部屋に突撃してきたあの日、仕方なく自分はオメガだと返した後の第一声がそれだった。その時の顔が妙にしおらしくて、ビーマの無礼を咎める気でいた俺は何も言えなくなった。今思えば、ビーマもそれなりに思うところがあったのかもしれない。だからといって絆されることは無いが。
一度だけ、お前は番がいないのかと冗談めかして聞いたことがある。返答次第では自分が傷付くだけだと理解していながら。
案の定、ビーマには数多の縁談が早い内から来ていたそうだ。だが同じくアルファで長男であるユディシュティラが、まだ番を決めていないため後回しにされていると説明された。だが当時は既に成人していたため、いくら後回しだろうと、そう先の話にはなるまいと思っていた。
だがビーマは
――
「でも俺は
……兄貴が結婚しても、自分の番は持たねえよ」
――と、やけに真剣な顔でそう告げた。
「ベータと結婚する気か?」
思わずそうツッコむと、ビーマは俺から視線を逸らした。
「
……まあ、結果的にそうなる可能性もあるかもな。アルファだ何だと言ってくる連中は昔から面倒だったんだ。お前じゃねえが、言うことなんざ聞かねぇよってずっと思ってた」
「
…………」
またひとつ、どす黒い感情が俺の中に降り積もっていく感覚に襲われた。
ビーマがアルファだと知った時、番になれる存在であることを喜ぶ自分が確かにいた。
だが“ドゥリーヨダナという男の矜持”は、それを良しとしなかった。一度番になってしまえば、一生ただ一人のアルファを求め続ける体にされてしまう。ビーマの番になるということは、俺にとって生殺与奪を握られることにも等しい。そんなこと、許容出来るわけない。
だからあの日
――最初のヒートを迎えた日、ビーマから差し伸べられた手を払い除けた。
けれど結局、ビーマが出す答えの中に、初めから俺は含まれていなかったのだ。どれだけ自分を殺したとしても、俺はビーマを手に入れることが出来ない。
(俺はベータにも嫉妬せねばならないのか
……)
奥底に埋めた想いを半端に掘り返された挙句、幽かな夢さえ見ることも叶わなくなった。
どうせ手に入らないのなら、俺の知らないところで他の誰かと添い遂げるのなら
――いっそ今すぐくたばってしまえ。
ベッドの上でままならない身体を持て余しながら、何度そう願ったことだろうか。
リビングに戻ると、口輪を外したビーマがソファで寝ていた。背もたれに体をすっかり預け、脱力しきっている。隣に座っても全く起きる様子がない。
(こいつ
……他人の家でよくこうもだらけられるな
……)
間抜け面を晒して眠るビーマの頭をそっと撫でる。素顔をこうして眺めるのは随分と久しぶりだった。この男は自身の宣言に従い、わし様の前で口輪を外そうとしない。だから今この瞬間は、とても貴重な機会である。 暫く撫でても身じろぎ一つしないことから、眠りは結構深いものだろう。だから、少しだけならいたずらをしても構わんだろう。そう、これはいたずらだ。人の家でぐーすか眠りこけるから悪いのだ。
「
…………ビーマ
……」
ソファが軋む音が鳴った。
「
……起きるなよ」
端正な顔を、これほどまでに近くで見るのは初めてだ。存外に長い睫毛が落とす影が、自分が作った影に呑まれる。
これが御伽噺であったなら、きっともうすぐビーマは目を覚ます。
でもこいつは毒りんごを食べていないから。
もう少しだけ、あと一回だけ。
この柔さと熱さを、死ぬまで覚えていたいから
――
「んんッ!?」
予想だにしない展開に思わず手が出た。
結構な勢いで頬を叩いてしまい、誤魔化すようにビーマの肩を揺さぶる。
「起きろ。おい。起きんか、この筋肉だるま」
「んぁ
……?」
寝ぼけ眼がぱちぱちと瞬く。少しして、ぼんやりした瞳がわし様を見た。顔から膝の辺りまで、視線が上下に動いて、最後にバチッと目が合う。半分も開いていなかった目が、真ん丸になった。どうやら覚醒したようだ。
起きた途端、ビーマは慌てた様子で口輪を着けた。どれくらい寝ていたのかと聞かれたので、適当に答える。
「さっさと起こせよ
……」
うるさい。ここはわし様の家だぞ、わし様の好きにしていいだろ。本当のことなど口が裂けても言いたくないので、それらしいことを言って誤魔化し寝室へと逃げ込んだ。
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