揺さぶられる感覚に、意識が徐々に覚醒する。
人がせっかく気持ちよく
……はないが寝ているというのに。
寝込みを襲う不届き者は誰だ。
「俺だ」
俺
……?
誰だ、それは。
……ああ、何だ、お前か。
…………くそっ、だから嫌なんだ。
お前が来ると、
■■■■■■自分がいるから――。
目を開けた瞬間、視界はビーマに占領された。
いかにも仕事帰りですというスーツ姿に、革製の口輪という格好は実に倒錯的で、背徳的で、正気を疑う。だがこの男は大真面目なのだから手に負えない。
「
…………カルナめ、ゴリラは呼ぶなと言うたのに
……」
そっと頬に触れてくる手のひらの温度が心地よくて、振り払うように寝返りを打った。 いまだ寝起きでぼんやりする頭で、帰宅後の行動を思い出してみる。
渋るカルナと玄関前で別れた後、気を抜けば力が抜けそうになる膝を何とか動かしリビングへと入って来た。それから、カルナが買ったものをとりあえず全て冷蔵庫に詰めた。その後はコートやらジャケットやらを脱ぎ散らかしてソファへ向かった。とにかく体が火照って仕方なかったからだ。ソファに倒れ込んで、震える手で抑制剤を口に放り込んだところで記憶は途切れている。気が付けばビーマがこちらを覗き込んでいた。
薬の効き具合からして二、三十分は寝ていただろうか。酷くだるいが寝室に行くかと思っていると、不意に肩がふわりと温かくなった。
(
……この匂いは、ビーマ、の)
ビーマが上着をかけたのだと理解したのは、つい手を伸ばして引き寄せてしまった後だった。暖を求めるフリをして、移り香の残るダウンジャケットに顔を埋めた。それだけで少し気分が良くなるのだから、まったくこの体が恨めしい。
「飯は食ったのか?」
「
…………」
「食えそうか?」
「
…………」
「粥作る。米はあるか?」
「
…………カルナが買っておった」
「よし」
人の気も知らないで、ビーマの阿保は暢気に飯を作りに行ってしまった。わし様の家のキッチンだというのに、勝手知ったるとばかりに立ち回っている。
「米の他には、と
…………まあ、二日くらいならギリ足りるか? お、スパイスも色々あるな。カルナの奴、案外気ぃきくじゃねえか。
……へえ、こっちでも買えるのか
…………うん、悪くねえ。後で店聞いとくか」
(
……どうして楽しそうなんだ、あやつは)
人の家で粥を作ることがそんなに嬉しいのか、ビーマは機嫌良さげにひとりごとを呟きながらゴソゴソしている。その内鼻歌でも歌い出すんじゃないかと聞き耳を立てていたが、冷蔵庫の物色後は黙って作業をし始めた。粥に入れる具を刻んでいるのか、トントントンと小気味良い音がする。普段まともに使用していないキッチンからそんな音が聞こえるのはおかしな話だ。それを聞き慣れたものと感じるのはもっと変だ。
ああ
……何だかまた瞼が重くなってきた。きっと暖房がつけられて、部屋全体が温まってきたからに違いない。
(粥ならそうすぐには出来上がらんか)
布団替わりのダウンジャケットをかけ直して、もう一度微睡みの中に落ちた。
成長するに従い、オメガ性はより俺を浸食していく。薬でどれだけ慎重に抑え込んでも、結局ヒートから逃れることは出来なかった。どれだけ平均値から遅らせることが出来たと言われても、一度発現してしまえば意味のない慰めだった。
最初のヒートはまさしく事故のようなものだったが、徹底した管理の甲斐あって二度目以降は世間のイメージにあるような状態になっていない。その代わり薬の副作用という代償はついて来たが、我を失くしてしまうよりずっといい。体調が悪い程度であれば、いくらでも誤魔化すことが出来る。
ただ一つ想定外だったのは、ビーマが毎度押しかけてくることだ。
奴はある時突然家に来て、あまつさえ飯まで食わせようとしてきた。ヒートの間の世話をさせろと迫って来たのだ。お互い社会人となってそれなりの歳になっていた。久方ぶりに正面から見た奴の顔は精悍さに磨きがかかっていて、思わず舌を噛みたくなった。
それにしても何故世話する側が高圧的なんだ。ああ、いちいち腹の立つ。何が「俺が作ってやるから食え」だ。誰がいつそんなことを頼んだというのだ。
なのに受け入れてしまったのは
……そうだ、あの日はたまたま体調が優れず、文句を言う体力すら残っていなかったせいだ。初めて処方された薬が全く合わず、自宅でひとり不調の波が過ぎるのを待っていた。そこにいきなりやって来るものだから、追い返したくても出来なかったのだ。
一度許してしまったせいで、あの傲慢筋肉クッキングゴリラはその次のヒート時も買い物袋片手に現れた。その時は前回よりも体調は良かったから、門前払いする余裕があった。だが奴は何故か分からんが諦める素振りを見せず、しばらく押し問答が続いた。いい加減面倒になった頃、扉を閉めて無視を決め込むことにした。
するとどうだ。ビーマは俺の想像を超える馬鹿っぷりを披露しやがった。
「お前の傍にいる時、俺は必ずこれを着ける。それならお前だって、
俺を警戒しなくて済むだろ?」
そう言ったビーマの手には、革製の口輪が握られていた。
何を考えているんだお前は。
流石に正気を疑うぞ。
そこまでする理由は何だ、何が目的だ
一体どんな顔で買ったんだ。
お前の兄弟達はお前の奇行を知っているのか?
着けているところを写真に撮って、お前を慕う者らに送りつけてやろうか。
「
…………馬鹿だな、お前は」
言いたいことは山のようにあったが、実際に口に出来た言葉はそれだけだった。
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