紫輝
2024-10-12 10:49:53
36174文字
Public リオヌヴィ
 

【リオヌヴィ】200年振りのただいまを【原神】

人間としてヌ様と添い遂げて星に還った200年後に記憶を置き忘れて転生したセスリ殿が忘れ物を取り戻してヌ様に逢いに行く話です



200年振りのただいまを


「リオセスリ殿……っ!!」
 なんの変わり映えもしない、ごく普通の、よく晴れたある日。そんな日にはそぐわないひどく切羽詰まった声で名を呼ばれ振り返ると、先にいたのは心を鷲掴まれるほどの、瞬間呼吸を忘れてしまうほどの絶世の美人だった。
 豊かな白銀の髪と通った鼻筋。花弁を押し当てたような唇と切れ長の瞳。紺碧のまつ毛に彩られたそれは夜明け前の空の色をしていた。見つめていると何故か胸の奥が苦しくなる。
……誰だ?」
 一度見たら忘れられないレベルの美人だ。記憶の中にその人の項目がないことはすぐにわかって、だからリオセスリは首を傾げた。
 瞬間。
……ぁ、」
 その美貌に影が落ち、唇から震えた声がこぼれる。見開かれた夜明けの瞳に深い悲しみの色がよぎって、こちらへ伸ばされていた指がきゅ、と握り込まれた。
「あああ、すまない。人違い、だったようだ」
 その人が微笑 わらう。海中の泡のような、日に晒されて溶けていく氷のような、どこまでも透明でこわれそうな笑みだった。咄嗟に腕を伸ばしそうになる自分に心中で首を傾げる。いくら美人とは言え初対面の他人に腕を回して慰めようなどという感覚は持ち合わせていないはずなのだけれど。
構わないよ。よっぽど大事な人だったんだな」
 代わりにそう声をかけると、握った拳を胸の前で抱くように引き寄せたその人はくしゃりと顔をゆがめて囁く。
「私の――最初で最後の男だ」
 雑踏に攫われそうな声が耳を打つ。あまくて淡く、寂しげで、だからこそうつくしくて、まるで祈りのような声だった。
「すまなかった、時間をとらせてしまった。失礼する」
 何をも言えないまま立ち尽くすリオセスリに二度目の謝罪をくれて、その人は人波の中に消えていく。その姿が見えなくなって漸くできたことは、己の手を胸へ当てることだった。引き絞られるようにそこが痛む。何かとんでもない間違いを犯したような、取り返しのつかないことをしてしまったような、強い焦燥感。けれどそれの理由がわからなくてもどかしい。
……くそっ」
 悪態を吐いたところで雨が降り出した。音すらしないような霧雨。それがあの美しい人の涙にすら思えて、流石に妄想が過ぎると嗤いつつ道すがらの商店主に貸すよと言われた傘を断って足を動かす。耳に木霊するあの声はしばらく――もしかしたらこの先ずっとそうなのかもしれない――忘れられそうになかった。

* * *

 濡れ鼠で帰還したリオセスリを、社員達の慌てた声が迎える。フォンテーヌ廷の一角に拠点を構える、大きくはないが小さくもないそこそこの規模の警備会社の長。それがリオセスリの肩書きだ。職業柄着替え一式は職場に揃えてあるし、シャワーブースも備えてあるのが今回は幸いした。浴びてきてくださいと彼らにそこへ押し込まれ、熱いシャワーを被っても気持ちは晴れない。静かに降る霧雨。あの人の表情。声音。細い背中。瞬く間にリオセスリの心の中へ居場所を作ってしまったあの美しい人はどこの誰で、あの人が呼んだ『リオセスリ』とはどんな人物なのだろう。ぐるぐると考えながら、身支度を整えて席に落ち着いても頭が午後の仕事に切り替わらない。
「なあ、この街で銀髪の物凄い美人って見たことあるかい?」
 折良く確認お願いしますと書類を差し出してきたのは対外折衝を任せている社員で、外回りの多い彼であればあの美人に心当たりがあるのではと投げた問いに傾いだ首が答えた。
「銀髪の美人目立ちそうな人っスね。俺は見たことないですけどそんな人がいるなら会ってみたいなぁ」
「なんですかボス、ついに春が来たんですか?!」
「さて、どうだろうな。君たちが見たことも聞いたこともない人なら俺の幻覚かもしれない」
 目を通した書類にサインを書き込んで処理済みの山に載せつつ横合いから飛んできた聞くからにはしゃいだ声に肩を竦め、脳裏にちらつく硝子細工の微笑 えみにため息をつく。あの人の言葉ひとつひとつが、それらを紡ぐ澄んだ声音が、耳の奥で反響する。ちくちくと胸は痛んで、ざわざわと心は落ち着かない。こんなところで座っていて良いのかと、自分の知らない何かが語りかけてきているようで。
 己の何度目かの視線を受け止めた時計が定時までまだ一時間を残していることに思わず舌を打った段になって、リオセスリは観念した。これはもうあの人の――いや、あの人にあんな顔をさせる『リオセスリ』という男の素性を解明するしかあるまい、と。そうしなければこの据わりの悪い思いは消えることはないのだろう、と。もしも行く末がわかったなら、いつか再びあの人の顔を見るのが叶ったときに情報提供くらいはしてやれるな、と考えて、結果も出ていないのにそれが良い知らせであればいいと願う。美人は悲壮な顔も綺麗だと言うが、あんな顔は二度と見たくない、というのがリオセスリの正直な気持ちだ。
 幸い自分が出る予定の『外の仕事』はない。優秀な社員にも恵まれているし、しばらく自分が会社を空けても問題はないだろう。判断を下して、そうとなればと申し送り事項をまとめて。
 一週間ほど休みをとると部下達に告げて、リオセスリはその日の業務を終えたのだった。

* * *

 翌日。薄曇りの空の下をリオセスリは歩いていた。
 人を探すには大きく分けて二つの方法がある。人をあたる 聞き込みか、紙をあたる 資料探しかだ。今回のケースでは前者は使えないだろう。あの人が見間違えるほどに似ている人間、しかも同じ名でフォンテーヌ廷内に行動範囲があるのなら、「そっくりさん」である自分の耳にその話が全く入らないのは奇妙だ。それにあの人は、どうやら警察隊やその他の相談機関に『リオセスリ』の話を持ち込んでいない。根拠は先と同じだ。つまり『リオセスリ』に関して、あの人は専門機関の助力を求めていない。となれば『リオセスリ』は、事件事故ではなくもっと違う次元で起きた何かによってあの人の元を離れたのだろう。そもそも。
「一朝一夕であんな声出ないよな……
 『リオセスリ』を呼ぶひどく切羽詰まった声を、最初で最後の男だと紡いだ声を思い出す。あんな美人にあんな顔をさせてよくもまあ雲隠れを続けていられるものだ、とは思うが、『リオセスリ』の方にも何かのっぴきならない事情があるのかもしれない。今はそこを慮るときではないけれど。
 少なくとも『リオセスリ』の情報は最近の話題の中からでは探せないだろう。八割の考察と二割の勘でそう判断する。こういう時の自分の勘をリオセスリは信じていた。
 人から得られる情報がないなら紙をあたるしかない。パレ・メルモニアに似た佇まいの建物を見上げる。『フォンテーヌ国立図書館』――国内で発行された書物や新聞のほかパレ・メルモニアで独自に編纂された各種資料などが収められている、国内最大の図書館である。こうして足を運ぶのは初めてだ。
 扉をくぐった正面にはカウンターがある。そこにはメリュジーヌが座っていた。受付係なのだろう。にこ、と明るく笑った彼女が口を開く。
「こんにちは。この図書館のご利用は初めてですか? ではまず利用登録を致しますので、こちらのレンズを見つめてください」
 メリュジーヌの言葉に従ってレンズを覗き込む。ピピッ、と電子音が響いて、もういいですよと声がした。手元の端末を操作していた彼女があれ? と首を傾げ。
「リオセスリさん。もう登録されてますね。貴方には禁書庫の閲覧権限まで付与されています。書庫の近くには同じようなマシナリーがありますので先ほどと同じように認証を行ってお入り下さい。あ、持ち出しは厳禁ですので、ルールはしっかり守って下さいね」
 ふむふむとうなずき、さらりととんでもないことを口にする。
「ちょっと待ってくれ、俺にここを使った記憶はないんだが? 万が一使ったことを忘れていたとして、禁書庫の閲覧権限があるのはおかしくないか?」
 もしかしたら何かの機会に利用登録がされていたかもしれない。それはいい。けれどリオセスリはしがない一般人だ。国立図書館の、それも禁書庫に自由に出入りできる権限があるのは何かの間違いとしか思えない。下手をすれば機密漏洩の罪に問われかねない。
「そう言われましてもこれは最新の生体認証です。一卵性双生児も判別できる精度があります。一般の方を誤認証する事は考えられません。それとごめんなさい、私ここに配属されたのは最近でこの図書館について、先輩だったら何か知っていたかもしれないんですけど」
 予想だにしない状況に若干腰が引けたリオセスリに向かって、メリュジーヌは困ったようにそう答える。終いにはこのマシナリーが良いと言っているんだから大丈夫ですよ! と愛らしいガッツポーズで背を押され、リオセスリはおっかなびっくり開架書庫へと足を踏み入れることになったのだった。
 名前がわかっているのならまずあたるべきは人名簿だ。勿論フォンテーヌの全国民が網羅されているわけではないが、なんとなく、あんな人間離れした雰囲気を持つ人の知り合いなら載っていそうな気がした。
 鈍器のように分厚い名簿を捲り、目的の項目を探す。自分の名前をこんな仰々しい本の中から探すのも変な話だな、などと思いながら。
……あった」
 とある一行で指が止まった。リオセスリ。生年不詳。×××年没。名誉市民、爵位『公爵』――
「公爵ぅ?!」
 思わず声がひっくり返った。いきなり当たりを引いたのは喜ばしいが予想以上の大物が引っ掛かった。『公爵』といえばリオセスリの知る限り市民に与えられる最高位の爵位で、フォンテーヌの歴史上でも賜ったのは片手の指に足りる数と聞く、存在自体が逸話じみた爵位だ。(国史が確かであれば、という注釈が着くが)近年公爵位に叙された市民はおらず、最後に公爵位の叙爵を受けた人物はフォンテーヌの根幹を支えるクロックワークマシナリー製造拠点たる『メロピデ要塞』を、今の形に整えた大物だったはずだ。なるほど『公爵』であればあの人と知り合いでもおかしくは、
「いやおかしいよな?」
 名鑑によれば『公爵』は約二百年前に没している。そんな人をあんな声で呼べるのなら、あの人は『公爵』とよほど強い繋がりがあったのだろう(凄まじい告白も聞いてしまったことだし)。『公爵』が活躍していた年代のことを計算に入れると、少なくとも二百五十年前からあの人はこの国にいたことになる。流石に奇妙だ。
人間じゃないのかな」
 長命種、という種族の存在は知っている。この国にも『メリュジーヌ』と呼ばれる良き隣人がいた。フォンテーヌ国民が長命種と聞いて最初に思い浮かべるのは彼女たちだ。あの人もそういう、人間とは時の流れを異にする人なのかもしれない。
「いや、今は置いておこう」
 思い出しても罪悪感(感じなくてもいいはずなのに不思議でならない)で胸が潰れそうになる、あの美しい人の悲しげな表情を脳内から閉め出して、得た足がかりを元に更なる情報を求めてリオセスリは次の棚へと足を向けた。
 『歴史』と書かれたプレートのある棚の前で足を止める。あの人が呼んだのが『公爵』なら、調べるべきはメロピデ要塞の関連事項だろう。メロピデ要塞についてリオセスリが知ることといえば、「クロックワークマシナリーの製造拠点」であり「法を犯した者の更生の地」だということくらいだ。あとは『公爵』と呼ばれた人物が過去に要塞を統べていたこと。最初は要塞を統べていたから『公爵』と呼ばれているのだと思っていたが、現在の管理者は特にそういう爵位を持っていなさそうなので彼が特別だったのだろう。ますます大物感しかない。なんなんだ『リオセスリ』、と、二百年前のそっくりさんに頭を抱えて目的の本を探す。ここに来る前にあれば一発なんだがと寄った『伝記』の棚は空振りだった。書架をくまなく調べても、彼に関連する本は一冊も無かったのだ。名誉市民の、更に言えば希有と言っても過言ではない存在である『公爵』に関連する伝記が一冊も無いなど驚きを通り越して奇妙だ。
「秘匿されてる? そんな必要あるか?」
 ともあれ地道に調べるしかなくなってしまった。せめて要塞の事くらいは資料があればいいがと向かった棚に、一応それはあった。ぱらぱらと捲ってみた資料は左右の本と比べても明らかに情報の深度が違う。主にマシナリー製造拠点としての変遷を綴ったもので、巷の本屋でも読めそうな、興味を持った国民なら皆知っているような事項ばかりだ。『要塞』の意味を、ここにきて理解した。
「軍事系の棚か? いや、あそこがそういう風に使われてるとは聞いたことないしそもそもなんで『要塞』なんて呼ばれてるんだあそこ」
 新たな疑問を胸に一応手にした本を最後まで捲ってみるがやはり収穫はなさそうだ。奥付まで辿り着き、仕方なく本を閉じようとしたところで覚えた微かな違和感に手を止める。国立図書館の蔵書であることを示すスタンプがなにやらぶれて見えたのだ。押し誤りではなく、それそのものが震えているように。
 一度目を閉じ、ゆっくりと開く。改めて見つめたスタンプはやっぱり震えていた。例えるなら硝子についた水滴が振動で揺れるように。
 思わず触れたスタンプが蒼く発光し浮き上がる。意匠がするすると糸状に解け、空中へひとりでに文字を えがき出した。
『これを読むことのできた君。禁書庫の三番へ向かいたまえ。君の知りたいことはそこにある』
なんだ、これ」
 ふよふよと漂う文字に向かって呟く。明らかに元素力を利用した仕掛けだった。なんの変哲もない本の奥付に仕込まれているのはあまりにも不自然な。
 禁書庫の三番。復唱して禁書庫と思しき方向へ目を向けると、それで良いとでも言いたげに蒼い文字はぱしゃんと水に似た音を立てて弾ける。慌てて目を落とした奥付の端に元のように収まったスタンプは触れても撫でてももう動かなかった。
 ともあれ多分恐らくきっと有力な情報を掴んだらしい。本を書架に戻し、禁書庫に続く扉へ足を向ける。扉の横にはメリュジーヌが言っていたように、受付で見た物と同じマシナリーがあった。レンズと見つめ合うと、あっさりと鍵の開く音がする。どうやら自分には本当に禁書庫の閲覧権限があるらしい。疑問を更に深めつつ足を踏み入れた禁書庫は、必要最小限の明かりに照らされた書架がぼんやりと浮かび上がる、なんだか洞窟を思わせる場所だった。プレートを見上げ、目的の場所を探す。一番。二番。――三番のその場所は、他とは趣を異にしていた。通り過ぎてきた場所のように奥へ向かって書架が並んでいる構造は同じだが、突き当たりにランプの置かれたテーブルと椅子がある。それらを囲む書架は、書架と言うには小物類に占領されすぎていた。本の間に置かれているのは年季の入った工具であったり、何に使うのかもわからないパーツであったり、古びた紅茶缶などもあれば、どんな仕掛けがあるのかこんなところでも淡く輝いているロマリタイムフラワーなんかもあって、一見して法則性も不明だ。なんだか書架というよりも、秘密の書斎、といった表現が似合う気がする。
 テーブルの上にはランプの他に本が一冊出しっぱなしになっていた。ここまで来ると誰かに導かれているような気すらして少々首の裏がざわつく感覚はあるが、きっと悪いものではないのだろうと信じてリオセスリはその本を開いた。
 〝親愛なる僕たちの水龍のために〟――そんな一文から始まったその本はスクラップブックのようだった。工房の内部のような写真。フォンテーヌ廷内の写真。海中の写真。見覚えがあったりなかったりする風景たちに混ざって、自分にそっくりな人物と――恐らくこれが『リオセスリ』なのだろう――様々な年代の男女の写真が収まっている。かの公爵の経歴も綴られていたが中々ハードで違う意味で心臓が痛い。
「この人、」
 それらの写真の中に一番多く写っているのはあの美しい人だった。『リオセスリ』の傍らで様々な表情を見せている白皙に、彼が自分に向かってすまないと紡いだ時の影はない。本当に大切な人だったんだな、と、わかりきったことを再確認しつつ捲ったページには新聞記事が貼ってあった。『リオセスリ公爵、御逝去』。別人のそれと理解しているとはいえあまり気分の良いものではない一文に眉をひそめつつ目を通した記事は、見出しの通り『リオセスリ』がこの世を去ったときの様子を綴ったものだった。立場上その経歴や職務内容を秘されていた人だったのか、当たり障りのない感謝と冥福を祈る文章は失礼ながらわざわざこうして残しておく程のものではないように思えてしまう。流していた目が小さな写真と続く文章に留まった。
「最高審判官ヌヴィレット様は、公爵の逝去に際し声明を出された
 見間違いようもない。写真に写っているのはあの人だ。最高審判官ヌヴィレット。ようやくあの人の名前がわかった。最高審判官なる肩書きにはまだピンときていないけれど。
『リオセスリ公爵はメロピデ要塞の長として、フォンテーヌの秩序と正義のためその力を尽くしてくれた。
 私はその献身と功績に心からの感謝と感嘆を捧げ、共にこの国を支えられた事を誇りに思う。
 彼は私にとって生涯に掛け替えのない友人であった。彼の魂がこの大海で安らげるよう願ってやまない』
 最高審判官様がこのような声明を出すのは歴史上初めてで、などと続く文章から一旦目を上げ天井を睨む。何故かひどく息苦しかったからだった。『史上初』の声明。『リオセスリ』を呼ぶ声。葬儀の日は霧雨だったらしい。僕たちの水龍のために。水龍が悲しむと雨が降るという伝承はフォンテーヌの人間ならみんな知っていて。
「いやほんとめちゃくちゃ好きだったんだなぁ……
 まるで呻き声のようなそれが、禁書庫の空間に吸われて消える。「史上初めて」を成してしまうほど、あの人は彼を愛していたのだろう。この声明も、本当はきっと、『友人』ではない言葉を使いたかったに違いない。そんな人間(のそっくりさん)が今になって目の前に現れたなら、ああなるのも納得だ。転生だの生まれ変わりだのという不思議な現象は、「起こり得ないとは証明されていない」ので。むしろ『リオセスリ』でないことに罪悪感さえ覚える。ここまで導かれてこれを目にしているのも、あの仕掛けを残した誰かの人違いとすら思えてきた。重ねて申し訳ない気持ちになりながら最後のページを捲ると、最初の文章と同じ筆跡で文章が綴られている。
 〝公爵の意を汲むと意地を張って公式文書から彼の名と功績を秘匿してしまったヌヴィレットのために、二人の友人である僕たちがこれを残す。これを読んでいる君、もしまだピンときていないなら、ここに預けているものを必ず受け取って帰るように〟
「預けているもの?」
 思わず呟くと、文章が淡く光を放つ。まるで念を押すように。人違いだったらどうするんだと愛に溢れつつやや尊大な文章の書き手に向かって独りごちて、リオセスリはじくじくと痛む胸をさすりつつそこを後にした。


「リオセスリさんですね」
 受付には迎えてくれたのとは別のメリュジーヌが座っていた。彼女が「先輩」なのだろうか。ミトンに似た手が、机の上の箱を差し出してくる。
「『リオセスリ』という名前の、アナタのような特徴を持った人がもしここに来たら渡して欲しいと言われていたものです」
 あの文章の書き手が言っていた『預けているもの』はきっとこれのことだろう。フォンテーヌでは珍しくない金属製の小箱だ。底面の大きさは文庫本に近い。鍵穴に当たる部分には犬――いや、狼だろうか。動物の意匠が施されている。
「誰からだい?」
「それは申し上げられません。中身を見ればわかるからと、預けていった方からは言われています」
 どこか馴染みのある狼の目を見つめながら首を傾げるが回答を拒否されてしまった。やはり『最高審判官』と『公爵』の友人はそれなりの社会的地位がある人なのだろう。
「そうか。ありがとう」
「いいえ」
 であるならここで食い下がるより中身とやらを確認する方が早い。箱を受け取り礼を口にして踵を返す。無意識のうちに大股になっていたその背を見つめたメリュジーヌが「思い出してくれますように」と祈るように呟いた言葉は、当たり前だけれど耳には入らなかった。

* * *

 図書館を出たリオセスリを迎えたのは夕を告げる鐘のだった。結局丸一日図書館にいたようだ。それほど長居した感覚はなかったのだけれども。
 帰路に着く務め人や夕食の買い出しに出てきたのだろう人々で賑わう通りを足早に抜け帰宅する。脱いだ上着をその辺りに適当に放って、改めて小箱と向き合った。
 そういえば鍵を受け取っていない。解錠のための仕掛けがあるのか、そもそも施錠されていないのか。禁書庫 あの場所に置かれていた可能性にも今更思い至って、これは明日再訪問コースかな、と、とっくに閉館時間を越えた時計を見てため息をつく。
 そうでなければ有難いが。考えつつすりと撫でた狼の、目にあたる部分が輝いた。思わず手を離して観察してみるが、鉱石が使われているようには見えない。これも元素力を利用しているのだろうか。
 ぱきん、と、揺れていた光が音を立てて固まる。まるで凍結反応を起こしたように。次いでカチリと響いたのは錠の開く音。どうやら再訪問はしなくてよさそうだ。
 開いた箱の中には小さなディスクが一つと、不思議な意匠の宝石。
「『神の目』
 氷元素の紋様が浮かぶそれの、話を聞いたことだけはあった。強い願いを七神が聞き届けた時、その人間の下に現れるという宝珠だ。書物では宿った各元素の色に輝くとされていたそれは、今は灰色にくすんで沈黙している。『リオセスリ』は氷元素使いだったと、禁書庫のスクラップブックには記されていた。であればこれは彼の持ち物だったもの、なのだろうか。
 こつん、と指でつついてみても、神の目に変化はない。ますますこれを受け取らされた理由がわからなくなって頭を抱える。リオセスリが書き手の期待する成果を出せなかったとしたら、これはどこに返却すればいいのだろうか。やはり図書館だろうか。『最高審判官』様の肩書きも飛び出してきたことだし、いっそ執律庭に持ち込むべきか。その場合何らかの罪状を科されたりはしないだろうか――つらつらと考えながら一度神の目を丁寧に箱に戻し、ディスクを手に取る。それはレコード盤に見えた。見知ったものよりかなり小さいけれど。
 この手のディスクを再生するマシナリーは所持しているが、これは一般的なそれで再生してしまっていいのだろうか。これに万が一があればそれこそ何らかの罪状を科されそうな気がする。
 迷ったのは一瞬だった。ここまで来たのだ。あの仕掛けを施した『誰か』が、リオセスリに何かを――きっと『リオセスリ』に似た何かを――感じてくれたから、仕掛けは動き、リオセスリに彼らの記憶と、彼らに連なる大切なものを託してくれたのだとそう信じて、小さなディスクをマシナリーに預け起動する。ジジ、と、独特のノイズが走って。
『こんにちは、『公爵』』
 聞こえてきたのは鈴を振るような、愛らしい少女の声だった。
『アナタがこれを聞いているってことは、大事な想い出を置き忘れてきちゃったのね? もう。だったら絶対ヌヴィレットさんを泣かせたんでしょう。悪い人なんだから。ちゃんと思い出して、きちんと謝りに行くのよ? じゃないとウチがお説教に行くんだから』
 隠れても無駄なのよ、と姉が弟に言い聞かせるかに口にする少女は彼らと随分親しかったようだ。冷静に内容を分析する脳とは別に、心の内側がつきりと痛みを訴える。
『改めて、ウチはシグウィン。アナタとはうーん、長い付き合いなの。ウチが知っているだけのことを話すわね。これがアナタの想い出を手繰り寄せる鉤になりますように』
 どうやらシグウィンと言うらしい少女の語りは、そもそもアナタは要塞に来た時からとってもやんちゃな子で、という、まさかの出だしで始まった。愛らしい声が滔々と語る『リオセスリ』の思い出は無性に気恥ずかしくもあり、彼女が『リオセスリ』に向ける深い愛情を感じるものでもあって、何故か目頭が熱くなってくる。
――それでね、帰ってきたアナタは隠してるつもりだったのだろうけどとっても浮かれていたし、ヌヴィレットさんの匂いもしていたから、ウチ聞いたの。勇気を出したのねって。その時なんて答えたか覚えてる? 飛び込んできたんだ、って、ちょっぴり悔しそうに言ったのよ。諦められなくなっちまった、って』
 そうだった。正義の写し身、法の番人たるあの美しいひとと罪人の自分など釣り合うはずもないと分かっていて、けれど焦がれるのはやめられなくて、あのひとが人の感情を察するのが不得手なのをいいことに、なんとかついた『友人』の席に居続けるために無様に足掻いて。
「この感情は、墓まで、持っていく、つもりで」
 いたのに。あのひとが。
 言葉を、想いを、白い手を、差し出してくれて。
 眩いほどに煌めきながら頼りなく震えるそれを、受け取らないなんて選択肢が自分にあるはずもなくて。
 それからの日々は、まるで。
 カチカチカチ、歯車が回り噛み合う音がする。まるで走馬灯のように再生される映像は、甘くて、苦くて、泣きたくなるほど切なくて、胸が痛くなるほど愛おしい。その映像の殆どに、青と白銀の面影があった。
 ずるずるとその場に座り込む。立てた膝に顔を埋めて、すう、と、息を吸い込んだ。
「俺だったわ畜生………
 それから肺が空になるほど深く、深く、息を吐き出した。
 あんな美人にあんな顔であんなことを言わせる奴はどこの誰だ、なんて。
 もしかして人違いなんじゃないか、なんて。
 事情を知っている誰かがもしも聞いていたらどの口が言うのかと嗤っただろう。例えばそう、シグウィンとか。いや彼女なら烈火ならぬ濁流の如く怒っただろうか。
 再会の日のことを思い出す。首を傾げた自分に向けられた傷ついた表情。人違いだったと壊れそうな笑みで紡がれた謝罪。あんな顔見たくなかったし、させたくなかった。少なくともさせまいとして生きたつもりだ。それを他でもない自分自身がぶち壊すことになるとは。あまりにも不甲斐なくて胎海に飛び込みたい。最早溶けることはないが生まれ直すことくらいはできるのではないだろうか。そう考えてしまうくらいには、後悔と自身への憤りで押し潰されそうだった。実は寂しがりで、不器用に、けれど真っ直ぐに自分を想ってくれた――人ならざる身にしても長く感じるだろう時を待ち続けてくれていたあの美しいひとはどれほど衝撃を受けただろう。雨が降って当たり前だ。土砂降りにならなかったのがおかしいくらいだと、彼の気性を思い出した今なら言える。
 まだ間に合うだろうか。
 その顔を見て、悪かったと、待っていてくれてありがとうと、告げることは許されるだろうか。
 例え謝罪を受け容れてもらえなくても、せめて伝えることだけはしておきたい。
 あのひとを傷つけたままにしておくなど耐えられない。そう思うことすら最早エゴイズムでしかないのかもしれないけれど。
 目の奥が痛い。泣きたいのはあのひとの方だろうにと己を罵倒して、これからのことへ頭を切り替えた――ところで、ジジ、と機械の動く音がして顔を上げた。どうやら止まっていなかったらしいそれが再び、今にしてみれば懐かしい声を奏で始める。
『一回目の反省はそろそろ終わったかしら? それじゃ、一番大事なこと伝えるのよ。
ヌヴィレットさんがアナタを待っている限り、ウチもここにいる。ヌヴィレットさんと一緒に会いに来て。待ってるから。約束なのよ』
 ぴ、と小指を立てる愛らしい姿が脳裏で笑う。いつだって自分を励まし、支え、叱ってくれた頼れる看護師長に、今生も早速背を押されてしまった。彼女との約束を守るためにもここでへたれている場合ではない。
 まずはあのひとに逢うに相応しい装いをして、手土産を用立てるところから始めよう。深呼吸を一つして、腹に力を込めて立ち上がった。