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シノハラ
2024-10-30 20:23:54
69821文字
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アルカヴェ♀
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不可視
2023/10/10初出 アルカヴェ♀
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心身ともに疲れ果てている癖に、脳だけ興奮状態に陥って一向に寝付けなくなるのではないかと思っていた。実際は予想に反してカーヴェはどっぷりと泥に沈むように眠ってしまったわけだけれど。日が落ちて気温が下がり始めた頃に一度意識が浮上しかかって、布団をかき集めた時の記憶だけがうっすらと残っている。
丸まって布団の内側に籠もると、なんとなくアルハイゼンが側にいる気配がした。夢だ。そう思いながらも、髪先に触れるか触れないかの場所に彼の指先があるような幻覚をカーヴェは振り払えない。まだ眠たいからと瞼を開かないで済む言い訳に縋りながら、カーヴェはそこに誰かがいるような感覚を眠りに落ちる寸前まで味わっていた。
結局目を覚ましたのは一度落ちた日が顔を覗かせてからになってしまった。徹夜が主原因ではあるが、単にここ最近の積み重ねが長時間の睡眠を誘引したのだろう。慣れない寝具で長々と寝てしまったせいで、少し、いや大分節々が痛い。
唸り声を出しながら背を伸ばして、カーヴェはようやくベッドから足を下ろす。当然ながらカーヴェとメラックの他には部屋には誰もおらず、ゆめうつつに感じていた気配が本当に夢だったのだと実感した。
当然ではあるのだが、胸中に浮かんだ寂しさはなかなか消せそうにない。一人で暮らしていた頃はメラックすらいなかったのに、彼との生活はいつの間にかカーヴェに随分と馴染んでしまっていた。
喉の渇きを感じてコップ一杯分の水を飲み干すと、すっかり空っぽになってしまった胃がくうくうと音を立てる。ぺたんこになっている胃の辺りに手を沿えて宥めつつ、ひとまずカーヴェは台所にガスが通っていることを確認する。蛇口を捻って出てくる水は何ならスメールシティよりいくらか美味しいかもしれない。
アルハイゼンが残していった食材をいくつか拝借して、カーヴェは簡単に朝食を用意した。誰かの口に入ることを意識しないと、料理の組み合わせを気にしないで済む気軽さがある。もちろん、アルハイゼンが不服そうにするのは食事に対する水気だけで、一つ一つの味がちゃんとしていれば何も言いはしない。他人に食べさせるのだからとカーヴェが勝手に気負っているだけの話である。
調理の気軽さは良かったが、なんだか物足りなさを感じてしまう。その正体が作った量だと気が付いたのは、洗う皿の枚数の少なさを目の当たりにした時だった。これからは料理も片付けも洗濯も買出しの量も、全て半分になるのだ。楽になるのは間違いないが、手放しで喜べない自分がいる。
シャワーだけ浴びて身なりを整えてから、寝入る前に決意した通りカーヴェは埃っぽいシーツの類を洗濯し寝具を干す。寝室の埃を払ってから、自分が使うことになる場所を中心に掃除をした。水拭きくらいではどうにもならない所に対処するために買出しに出る必要があったが、なかなか外に出るつもりにはなれない。
彼との共同研究のために体を空けていたので、幸か不幸か仕事は一切手元になかった。手慰みに図面を引いてみようかと思ったが、なかなか集中できずに平凡なものばかりが仕上がっていく。少々のブランクはあるとはいえ、突然才能が枯れたのかと不安になるような仕上がりに眉を顰めていたら、少々荒っぽい調子で呼び鈴が鳴った。
慌てて玄関に向かうと、自分が選別していた荷物が届いたらしい。昨日の今日であることを考えると、運送業者ではなく冒険者協会にアルハイゼンは荷物を任せたらしい。雑用めいた事にもそれなりに対応してくれるのは冒険者協会の良いところと言えるだろう。
過不足がないか確認しようと封を開けてみると、最後の箱に見覚えのない紙が入っていた。手紙用の紙などではなくノートを千切っただけのそれには走り書きで、本のタイトルと配置場所が綴られている。どうやら、アルハイゼンがおすすめする本の一覧らしい。
善意なのか厚意なのか、はたまた抑えられない知的好奇心を端に発するものなのか。カーヴェにはアルハイゼンの動機の特定は叶わなかったが、ありがたく頂戴しておくことにする。乱読家故にくだらない本もいくらでも読むが、彼がカーヴェに読まそうとしてつまらなかった本は今まで一冊たりともない。
家事と食事と家屋の手入れ。それに必要な外出以外はせずに、カーヴェはアルハイゼンの旧家に籠もり本を読み耽った。図書館のように整然と整理されている訳ではないので、彼のおすすめを読み終えた後は手探りで本を選ぶ必要が出てきそうだ。
スメールシティの彼の家に初めて足を踏み入れて、落ち着いてから本に手を伸ばした時もそうだった。これはアルハイゼンが怠惰というわけではなく、どこの家庭でも似たような状況ではあるのだろう。仕事でもない限り、万人に一目で分かるような整理整頓をする必要はない。
つまるところ、特定の人物にはすぐに分かるルールで本は並べられている。彼の自宅
と旧家は同じ思想が取られているらしく、年代順に本が置かれているように見受けられた。ある程度ジャンルや作者でまとめながら、家の奥に進むほどに年代が古くなっていく。
彼の勧めた本は方々に散らばっていたが、ひとまず年代の浅い本から手に取ることにした。時たま見覚えのある筆跡のメモがページの余白に残っていて、彼の事を思い出してしまう。アルハイゼンが自分の事を忘れさせまいとしてのことなのか、そもそもこんな走り書きを残した事自体忘れてしまっているのかは判断がつかない。
時代を遡るにつれて、見知らぬ筆跡が現れ始める。途中で本の奥付を確認し、発行年から逆算して彼の祖母の物だろうとカーヴェはあたりをつけた。彼女の晩年の筆跡は安定していて、妙論派の知識に基づいたメモが展開されている。彼女の書いた論文をカーヴェは読んだことがなかったが、短い文章でも食指を動かすに相応しい知性が宿っていた。さすが、アルハイゼンに知性を授けた張本人というべきか。
もう少し奥に進んだ棚にあった本に、また知らない人物の文字を見つけた。そういえば、ここに暮らした祖母が彼にとって母方だったか、それとも父方だっただろうか。ひょっとしたら彼の両親が亡くなった時に彼らが暮らした家の書籍もこちらに移っていて、両者の筆跡が残っている可能性もあるが。
どちらにせよ、彼の家系に連なる者の思考の断片はどれも興味深かった。この件についてはこの本が詳しいとの導きに従い本棚を探し回ったり、彼らの疑問が他の研究者によって裏付けされていないか調べたくなったりすることもある。
読書や学問を苦にしない者であれば、この家ではそれこそ湯水のように時間を潰せるだろう。多分、幼少期のアルハイゼンもそうだったに違いない。幅広いジャンルの本が所狭しと並ぶ家で多くの時間を費やし、今では立派な乱読家に成長を遂げている。
そこまでの家庭環境にはなかったこともあり、ある程度興味が限定されるカーヴェが特に気を引かれたのは、彼の祖母が収集していただろう本だった。年代的にそろそろ古典に足を突っ込んでしまう本も少なくはなかったが、妙論派に関わる本がどの年代の本棚にも数多く収められている。
メモだけでも彼女の知性を感じるには十分だったが、本の選定からはセンスの良さも窺えた。つまるところ、現代の知識に照らし合わせても古臭かったり、否定されていたりする本の割合が大分少ないのだ。
ぜひ、彼女と話をしてみたかったと思わずにはいられない。カーヴェが彼女のよすがに出会う頃には彼女はもうこの世を去っていて、生前に二人を引き合わせるなんて土台無理な話ではあるのだが。
もう長らく触れていなかった古典の技法であるとか、基礎であるとかが書き連ねられた本を捲るうちに忘れ去っていた部分に血潮に似た養分が送り込まれるのを感じた。基本に立ち返る肝要を多くの人間は知っているはずなのに、いつもすぐにないがしろにしてしまう。もちろん、カーヴェもすぐに簡単な原則を忘れてしまう気忙しい人間の一人である。
一冊本を読み終えたタイミングで、カーヴェは再びこの家で図面を引いた。丸一日かけてでき上がったのは、基本に忠実な家主の隠れ家めいた書斎である。久々にしては良い線が引けたのではないかと、カーヴェはひっそりと自画自賛する。
少々の休みとは言え、本業に触れていないと途端に腕が鈍るのはこの家に来てすぐに痛感したところだ。その感覚が薄まったのは自分が技術と知識に触れ続けているからだと、カーヴェは確信している。強制的に一人の生活に戻されたとなればずっと寂しさが付きまとうとばかりに思っていたが、本を手にしてからは全くそんな気持ちにはならなかった。
きっと、かつてのアルハイゼンもそうだったのだろう。祖母から授かる叡智を一身に受けながら、時折亡き両親の言葉に触れる。そういう日々を彼はここで過ごしていた。
彼が暮らした家がどんなものか知りたくなって今一度あちこちを見て回ったが、ほとんど整理されてしまっていて生活の片鱗はほとんど窺えなかった。重要な遺品などは、今の家に移動させているのかもしれない。
それでも一つ一つの部屋を巡って、きっと彼の祖母の自室だっただろう場所を見つけ出す。確信に繋がった決め手の一つは、その部屋の扉だけドアノブが大振りな物に付け替えられていた点だった。きっと手の力が衰えた手でも開けやすいよう、改修を施したのだろう。
もう一つの決め手は、その部屋の片隅に児童書や絵本が詰まった箱があったことだった。祖母とアルハイゼンの思い出の数々を置くのがアルハイゼンの部屋でなければ、あとは祖母の部屋しか思いつかない。
少々色あせてしまった本の中には、カーヴェが読んだ記憶があるものもそれなりにあった。懐かしさに惹かれてページを捲りながら、彼にもこんなものを読むような子供時代があったのだと擽ったい気持ちが心をくすぐる。
「あれ
……
」
全てのタイトルを確認したくなって一つ一つ箱から取り出すと、急に小ぶりな癖に分厚い本が出てきた。首を傾げながら周囲の雰囲気とは異なるそれを手に取って初めて、それが日記だと気がついて開こうとした手をなんとか止める。
読んでいいか正直分からない。日記は本にされる場合もあるが、基本的には個人のもので非常にプライベートなものだ。アルハイゼンが読んでいいと言ったのは本だけで、日記を開いていいとは思わない。けれど、気にはなってしまう。
装丁の華やかさを思うに、彼の母か祖母のものである可能性が高そうだった。もちろん、彼の父やもしかしたらアルハイゼン自身が何かを記していることだってあるだろう。ただ、特にアルハイゼンのものであった場合は日記以外の何かであるかもしれない。
少々厚みのある児童書を読み終えるまでの間、ずっと日記帳のことを考えていた。日が落ちて夕食を取り、すっかり綺麗になったバスタブに身を沈め、眠る時間になっても頭から離れない。それでも布団に潜り込み、きっと長針が一周と半分は回った頃にカーヴェはとうとう観念した。
良くないことだと分かってはいる。たとえ、死者のものだろうと、プライバシーを探るような真似をしてはいけない。そう良心が責め立てる横から、同意しかねるとひんやりした、いつもの調子のアルハイゼンの声がする。まあ、幻聴にもなりきらないカーヴェの心に根付くアルハイゼンな訳だけれど。
彼曰く、学者というものは最も他人の日記を読む生き物である。歴史、言語、文学、政治、文化。分野については枚挙にいとまがないし、なんなら手紙だって読む。そうしてやっと、自分達は過去の人々の姿を掴んだつもりになれるのだ。
その有象無象の死者と、今カーヴェが気にしている死者の間に何の違いがあるのだろう。ある、とも言えただろうし、ないとも言えた。でも、自分と縁がある人物を題材にすると、どうしてもバイアスがかかるから研究対象からは避けがちじゃないか。そう反論すると、カーヴェの中のアルハイゼンは口を閉ざしてしまう。
きっと本物のアルハイゼンであれば詭弁のいくらかを弄してきただろうが、答えの見つからないカーヴェには彼を上手に再現できない。最後は静寂が訪れるかと思ったが、代わりにそう遠くない場所から森の囁きが聞こえてきた。
家の中で聞いてこそ心地よい音に耳を傾けながら、カーヴェは日記の表面を撫でる。どれくらいの時間そうしていたかカーヴェは気にしていなかったが、短いとは表現できなかっただろう。
「
……
ごめんなさい。内容によってはすぐに止めます」
だから許して欲しいと祈ってから表紙を捲って、内側にある筆記には向いていない飾りの紙を何枚か続けて捲る。一番初めに書いてあったのはアルハイゼンの生まれた日のことだった。
天気が崩れる少し前に生まれたのだと人から教えてもらったが、自分はそれどころではなく覚えていないのだとあるのを見るに、きっと母親の日記なのだろう。体重やら、泣く頻度やら、果てはふくふくとした頬の模写までが記されている。その日の最後の部分にはようやく文字を書く気持ちになれたので、忘れないうちに印象深い出来事を残しておこうと思ったと記されている。
ページを捲っていくと、初めてアルハイゼンが高熱を出した日の事や、突然立ち上がったと思うと派手に転んで大層泣いたこと、歯がむずむずしたのかすぐに本の端を齧ろうとして気が抜けなかったことが続く。可愛らしい出来事より、大変だった時の出来事の方が印象に残っているのかいきいきとした文体で描かれているように思う。
きっとアルハイゼンは欠片も覚えていない日々に宿る眼差しに、カーヴェは思わず目を細めた。乳幼児を育てるのが大変なのは周知の事実で、一人目であればなおさら未経験の出来事の連続だ。経験のないカーヴェにだってそれくらい簡単に想像がつく。けれど、日記の主の眼差しにはいつも愛情が宿っているように思えた。
アルハイゼンは惜しみない愛によって育まれていたのだ。何の捻りもなくありきたりな表現だったが、そうでなければならないと思う。きっと全ての子供達がそうあるべきで、カーヴェだってあの瞬間まではそんな子供の一人だった。
日記帳の半分も行かないうちに、平凡で何よりも大切な日々を綴った日記はふつりと途切れてしまった。理由は明白で、カーヴェの心臓がちくりと痛む。彼はこの日付より少し後に、全く責がないままに家庭を失ってしまった。
最後の日記を読み終えて、次の真っ白なページをしばらく見つめていると、紙面の奥からじわりと滲む色が見えた。ぱちりと目を瞬かせてじっとその辺りを観察して、それから息を詰めながらページを捲る。果たして、手帳用の薄い紙のいくらか先にはアルハイゼンの母親のものとは異なる筆跡が始まっていた。
それは、日記というよりは手記に近かった。ひとりぼっちになったことも分からない年頃の孫と共に暮らし、先行きがそう長くもない自分がその子のために彼の祖母がしたことが淡々と記されている。
あえて彼女が懊悩を露にしたのは、孫を教令院に送り出した時くらいだろうか。幼い頃から本に強い関心を抱いた彼に適切な段階を踏んで本を与えたはずだったけれど、先を急ぎ過ぎたのかもしれないとそこで彼女は悩みを吐露していた。
当時のアルハイゼンは教令院の授業に見切りをつけて、さっさと家に帰ろうとしたらしい。結局祖母はアルハイゼンの選択を尊重したようなので、祖母が健在であれば彼が再び教令院にやってくるのはもっと遅れていたかもしれない。下手をすれば教令院の学生なんて身分にもならないまま、今頃全く違う職に就いていた可能性だってある。
ともかく、祖母は決して彼に無理強いはしないものの、最大限にアルハイゼンに知識を詰め込んだ。丁寧に、慎重に、アルハイゼンが求めるままに。それもまた、彼の祖母の愛情だったのが分かる。その頃のアルハイゼンは遠くない未来に一人になるかもしれず、年若い子が一人で生きていくのには知識が必要だった。
この手記はここで筆をおくことにすると書かれて終わった日記帳を閉じて、カーヴェは深く息を吐く。そうしてやっと、自分がずっと浅い呼吸しかしていなかったのに気がついた。床に座り込んでしまっているのにもようやく気が行ったが、なかなか立ち上がる気持ちになれない。
この子は一人でも生きていけるだろうけれど、それでも共にいたいと思える人がいつか現れるといい。終わりに至るほんの少し前に、祖母はそう書き記していた。
どこにでもありそうなありふれた願いだった。ただ、アルハイゼンに対して願っていると考えれば急に難易度が上がってしまうと、きっと祖母も理解していただろう。彼ももうそれなりに生きてきたと言っても良いはずなのに、それでも対象になり得る人物はカーヴェ一人だけらしいのだ。そんな自惚れめいた感想を抱きながらも、どうして自分だったのだろうかと考える。
一人の人と長く共にいて、いつの間にかその人に思いを傾けてしまっていた。彼に理由を聞けば全く違う答えが返ってくるかもしれないものの、アルハイゼンがカーヴェを愛するようになった経緯の概要はとても陳腐に捉えることもできる。
思った以上に簡単な男だったのかもしれませんよ、と見たこともない彼の祖母に内心で語り掛けながら、一人きりで暮らしているアルハイゼンに思いを向ける。この人の願いを叶えられるのは少なくとも今のところカーヴェしかいないのだと思うと、腹の中の臓器が締めあげられるような不安を覚えた。
厚意、善意、愛情。そういうものを受け取るのがずっと怖かった。自身の望みが結果として父の死に繋がった時から、カーヴェは他者からの打算のない思いから逃げてきたと言っていい。彼らの気持ちは良くも悪くも対象の影響を受けるもので、カーヴェが彼らにどんな影響を与えるかずっと怖くて仕方がなかったのだ。
彼が。アルハイゼンがカーヴェを原因にして傷つくなんて事があったら、カーヴェはどうしたらいいのだろう。そう考えた瞬間、今更な考えだとぎゅっと胸を踏みつけられるような痛みを感じる。
きっとあの日、カーヴェはアルハイゼンを傷つけた。たとえそれが光に照らさなければ分からないほどに浅く、微かなものだったとしても、カーヴェは知らず知らずのうちに彼の心臓の表面に緩く爪を立ててしまった。
これ以上なんて、他でもないカーヴェが許せない。ぎゅっと指先に力を込めてしまって、指の腹が表紙を擦る感触にようやく日記帳を手にしたままだった事を思い出した。慌てて指の力を抜いたカーヴェは本の表紙に傷やへこみがないか、指先を滑らせて確認する。
少々摩擦のある表紙を指紋が擦り、指先が微かに温かくなったように思えた。ただの物理現象のはずだが、不思議とカーヴェにはそれだけとは考えられない。だって、この日記に込められているのは純粋な愛情なのだ。
カーヴェに向けられていないそれは酷く優しく、側にいたカーヴェの心を温めるものでもあった。自分が愛した相手が当然のように深く愛されていた事実が今ここに残って、確かに続いていることが何ものにも代えがたい奇跡に感じられる。
アルハイゼンがこの日記を読んだのか、カーヴェには分からない。そして、肉親からの思いにどれほどの価値を感じているかも、カーヴェは彼から聞いたことがなかった。けれど、この愛はたとえ彼がどこにいようともここにあって、アルハイゼンがこれっぽっちも意識しない瞬間にも彼を愛情で満たしている。
きっと、アルハイゼンの愛情もまたそういう形をしているのだ。そう、カーヴェはようやく思い至った。
両親や祖母の下で愛情を受け、アルハイゼンはその有り様を血肉にした。カーヴェに与えられた思いはほんの少し意味合いを変えながらも、在りし日に彼が受けただろうそれときっと似通った形をしている。
肉親の縁にも近いそれは、友人としての関係が徹底的に破壊されたところで終わりを迎えるものではなかったのかもしれない。今なおカーヴェと母の交流が断絶しきらないように。
ここにアルハイゼンはいないけれど、彼の厚意でカーヴェは暮らしている。カーヴェはアルハイゼンにあの家から追い立てられた向きもあったが、カーヴェがきっとそう望むはずだからとアルハイゼンはこの選択をしたとも言える。それが彼の愛でないと、一体誰が断言できるだろう。
自分達がまだ学生だった頃に関係が決定的な破滅を迎えた瞬間、彼はどんな思いでカーヴェの手を手放したのだろうか。一つの感情で染め上げることなどできはしないだろうが、そこにはきっと彼の愛が混ざり込んでいたのだと今更になってカーヴェは理解する。
苛立ちや怒り、不理解への絶望と諦め。そんなものでこの感情が消え去ってくれないことくらいカーヴェは身をもって知っていて、そこで朽ち果てるべき感情だったなんて断ぜられるはずもない。
カーヴェが受け入れようが受け入れまいが、ずっと彼の思いはカーヴェに注がれている。ずっと気づかないでいた温かさを一つも上手に受け止められず、カーヴェはぼろぼろと零すことしかできていない。なんて徒労だとカーヴェも思うし、アルハイゼンだって分からない訳ではないだろう。それでも今の今まで、アルハイゼンはずっとカーヴェを愛してくれている。受け入れられない痛みすら許容して。
そういうものを、人は無償の愛と呼ぶのではないだろうか。直視するのにもとんでもない覚悟を要する癖に、その灯りはこんなにもカーヴェを惹きつける。カーヴェがもっとも恐れ、同時にもっとも報われるべき類の人が持つ感情。自分が持つ感情の報いなんてものに、彼は興味はないのかもしれないけれど。
長く座り込んでいた膝を立てて、カーヴェはようやく立ち上がった。支えにした膝が少し震えたのは、きっと恐ろしいからだ。彼の気持ちをちゃんと受け止められないかもしれない。彼の感情に触れ、ようやくアルハイゼンとまっすぐに対峙したカーヴェの気持ちが変質してしまうかもしれない。また、あの時と同じ破綻を味わう日が来るのかもしれない。
一瞬の報いの先にあるものの形を、カーヴェは一つもうまく描ききれずにいる。有象無象の希望から絶望までが形を定める前にふわりと溶け落ちて、カーヴェの手元には一つも残らない。
不安は現実的なものから、空想染みたものまでいくらでもある。その一つ一つがカーヴェには怖くて仕方がない。きっと今まで以上にカーヴェがアルハイゼンを傷つける日が来るのだろう。アルハイゼンばかりか、自分もまたたくさん傷つくことになるかもしれない。
けれど、それでいいと思う。きっと彼はカーヴェの傷に値する人なのだ。たとえ彼がそれを望まなかったとしても。それでも、アルハイゼンには求めに応えられるだけの価値がある。今のカーヴェにはそれだけが確かだった。
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