シノハラ
2024-10-30 20:23:54
69821文字
Public アルカヴェ♀
 

不可視

2023/10/10初出 アルカヴェ♀




 ここ最近では考えられなかったくらいに軽い足取りでアルハイゼンが自宅に戻ると、居間で脱力しているカーヴェと出くわした。どうやらここ最近ずっとああでもないこうでもないと引き直していた図面がようやく形になったらしい。
 そのまま寝てしまった方が効率的なのではないかと思うのだが、そういう時は脳が興奮して結局寝付けないのでまずは落ち着かせる必要があるのだとか。自分で淹れたまま忘れてしまっていたのか、ぬるくなっているらしい茶を一気に煽ってから、カーヴェがアルハイゼンにけだるげな調子で挨拶を投げかけた。
「代金は俺持ちで構わないから飲みに行かないか」
「え、君の奢りだって⁉ ……どういう風の吹き回しだい?」
 帰宅の挨拶の代わりに提案すれば、一瞬喜色を浮かべたもののカーヴェはすぐに視線を鋭くしてアルハイゼンに警戒を示してくる。カウチに預けていた身を持ち上げて姿勢まで正してくる気の入れようだ。できる事ならアルハイゼン以外の誰に対しても同じ態度で接してくれれば良いのだが。
「今日は代理賢者の退任日だ。これ程祝杯を挙げるのにふさわしい日もそうないよ」
 アルハイゼンはそもそも賢者なんて役職に就くつもりは毛頭なかったのだ。いや、途中からクラクサナリデビを無事本来の地位に戻せたなら、相当数の賢者の首が飛ぶのは予想できていた。であれば、自分が標的にされることくらい、ある程度は覚悟してはいたが。
 あの出来事に関わっていた面々は物語のフィナーレを迎え、早々に日常へと帰っていった。そんな中、帰属先を盛大に破壊する結果になったアルハイゼンはある意味貧乏くじを引いたと言ってもいい。その責任を取るために一人だけ本を閉じる事も叶わず、アルハイゼンは代理賢者として職務に奔走する羽目になったわけである。
 賢者の仕事が自身の手に余るとは思わなかったが、久々に残業を恒常的に味わう結果となった。代理の名を外してはどうかと提案されることもあったが、誰が好き好んでこんな長時間労働に身を投じるものか。
 そんな日々もようやく終わりを告げたのだ。週明けからはまた一介の書記として、自らの関心のままに業務に当たる日々が始まる。それまでに辞表が受理されるまでの攻防やちくちくとしたやり取りを綺麗さっぱり洗い流せればなおいいと、アルハイゼンは考えていた。
「久々に酔い潰れた君を肴にして飲みたくなった」
 要するに気分が良いのだと伝えてやると、カーヴェは反射的に何かを言おうとして口を噤んだようだった。人が酔い潰れるのを前提にするななどと言いたかったのだろうが、下手な事を言ってアルハイゼンに撤回されたくないのだろう。彼女は酒を悪用することも多いが、純粋に愛してもいるのは間違いない。そんな彼女だから、ただ酒の機会を逃そうとは思えないのだろう。
「ちゃんと連れて帰ってくれるなら、ご相伴にあずかるのもやぶさかではないかな」
 しばらく難しい顔をわざとらしく作ったかと思うと、カーヴェは白々しい答えを返してくる。なんなら、彼女が本来の意味合いで言葉を使っているのか、誤用なのかもはっきりしない。ただ、どちらにせよつまりたらふく飲むぞ、という宣言であることには違いなさそうではあるが。
 成人女性の仲間入りをしてそれなりに経っているにも関わらず、カーヴェは泥酔すると野外で夜を明かそうとする傾向にある。その気質を知っている顔見知りの店主はカーヴェの酔い具合を見て、無理に外には出さず店の床に転がしておいてくれることもあるらしい。そういう時は一晩屋根のある安全地帯を提供してもらった代価として、店の掃除を手伝ってから家まで帰ってきているのだとか。
 よくもまあそんな飲み方をして、今の今まで誰かに乱暴されていなかったものだと思う。ひょっとしたら本人が気づいてないだけかもしれないが。
「良いだろう」
「よし! 今からかい?」
 そこで思考を断ち切って返事をすると、カーヴェが勢いをつけて椅子から立ち上がる。少しだけ時間がほしいと願い出るや否や彼女は自室に引っ込んだので、化粧でも施すつもりなのかもしれない。家にいる時もアルハイゼンの目を気にしてか朝一番に少々の化粧を施しているようだが、それだけでは外出するつもりにはなれないらしい。
 彼女の美的感覚に基づいて整えられるかんばせに価値がないとは言わないが、正直どちらでも構いはしないのにとは思ってしまう。そもそも一日中在宅の予定であれば、化粧の必要もないとすらアルハイゼンは感じている。そう指摘すれば彼女は口を尖らせて、アルハイゼンのためにしているのではないと苦言を呈するのだろうが。
 彼女の準備が済むまでと、アルハイゼンは昨夜読みかけのままで積んでいた本に手を伸ばす。半ばまで読み進めてすでにその本がアルハイゼンにとって実りあるものではないと分かってはいたが、時間つぶし程度には丁度良い。そうやってじっくり彼女を待つ心づもりはあったのだが、カーヴェは想像よりも大分早く化粧を終えて部屋から出てきてしまった。
 アルハイゼンを待たせているからか、はたまたただ酒が余程魅力的だったのか。経験則に基づけばもう少し時間がかかると思っていたので、読書の進捗は章の終盤という中途半端な状況である。今度はアルハイゼンが少々カーヴェを待たせる事になったが、彼女は文句の一つもなく区切りの良いところまで待ってくれた。
「さあ行こう。店はもう決まっているのかい?」
 アルハイゼンが本をテーブルに戻したのを見て、カーヴェが意気揚々と立ち上がる。ぐずぐずしているとカーヴェに腕を引き上げられてしまいそうだったので、アルハイゼンも早々に腰を上げた。
 外向けに施し直したらしい彼女の瞼と頬の色は普段より少々淡いように思えた。それに合わせるように唇の色も控えめに感じたが、むしろ真逆に捉えるべきなのかもしれない。つまり、そもそも食事ですぐに取れてしまうと諦めているため口紅は控えめになり、全体のバランスを取ろうと他のポイントメイクのトーンも合わせる必要が出てきたというわけだ。
 後れ毛が目立たないように髪を結い直したカーヴェは、派手に晒されたうなじから背筋を夜気から隠そうと薄いストールを一枚羽織る。一方で、切れ込みの深い服の胸元までは隠しきれていないせいで、やや片手落ちの感は否めなかった。彼女の趣味にとやかく口出しをするつもりはないが、大概な服を好むとはアルハイゼンも思っている。
 時折まじまじと彼女の胸元を見る者がいるが、ほとんどが驚愕によるものなので往々にしてカーヴェが悪い。他者が如何様な服装をしていたとして、不躾な視線を寄せるべきではない。なるほどたしかにその指摘も間違いではないが、彼女は服装でもって万人の自制心に挑戦を仕掛けていると表現しても差し支えないとアルハイゼンは考えている。
「特には。酒が美味ければどこでもいい」
「ちょうどいい。行きたいところがあるんだ」
 ならばと彼女が上機嫌に上げた店の名でツケを作られたことはまだなかった。おそらく店内で一晩昏倒させてもらえるほど、店主と懇意になっていない店なのだろう。特別値段が張るわけでもアルハイゼン自身が店を嫌っているわけでもなかったので、二つ返事で了承する。
 少々残業をしたのか遅れて帰宅する人々に紛れて、アルハイゼンとカーヴェは街を歩く。カーヴェはアルハイゼンと共に暮らしている事実を隠したがっている割には、共に過ごしている姿を誰かに見せるのを躊躇わない。
 自分が思うほど、他者は自分に興味がないと彼女は考えているようだった。その判断は世間一般では妥当な思考であるはずだが、残念ながらカーヴェはその対象には当てはまらない。
 彼女はアルハイゼンより余程名も顔も売れていて、自分が所謂有名税を支払うべき立場の人間であるという自覚に欠けるきらいがあるように思う。しかも最近はアルハイゼン自身が非公式ながら英雄なんて称号を得てしまった手前、同行者の注目度もそれなりに上がっているのだ。
 うっかりカーヴェが漏らした相手以外にも、自分達の関係を察している者はそれなりにいるだろう。それどころか、現実に即さない行き過ぎた憶測をしている者がいても強く非難はできなかった。彼らの憶測よりも現状の方がいくらか異常であり、常識的な判断では真相には辿り着けるはずもないからだ。
 時折自身とカーヴェに注がれる視線を感じながら酒場まで辿り着くと、背の高いボックス席のテーブルに案内された。店員は二人と面識はなく、単なる男女の仲にあると判断しての接客だったのだろう。座席は周りの客から視線を遮れる配置になっており、カーヴェが醜態を晒すには最適な席だった。
 喧噪と呼ぶには少し弱い騒めきに負けない声で、カーヴェが矢継ぎ早に注文する。一つもアルハイゼンの意向は尋ねなかったが、アルハイゼンが好みそうな酒とつまみが混ざっていたので付け足す必要もない。彼女の財布が痛まないからか少々値の張る物がテーブルに並んだものの、今日くらいは文句を言わずにいてやることにした。
 これが美味い、こっちと合わせると良いなんて言いながら三、四杯を重ねた辺りでカーヴェはふわりとあくびをする。そこから追加で頼んだグラスの中身を半分残して、早々に抗いがたい眠気に襲われたらしい。完全に睡魔に引きずり込まれるまでは眠気に抗うためか随分と喧しかったが、正直なところ周りの客の声と同様に聞き流してしまったため内容はろくに覚えていない。
 覚えているものも脈絡のない話題や仕事の愚痴ばかりだったので、カーヴェもぶつける相手がいればそれでいいと思っていたのだろう。こちらがろくに相槌を打たなくても、アルハイゼンの態度にカーヴェが文句を言うことはなかった。
 ただ、頬杖に使っていた手から滑り落ちた頬をテーブルにつけた時はたしか、アルハイゼンのリクエスト通りだと口にしていた気がする。字面だけであれば悔しさが滲みそうなものだが、どこか満足そうで達成感すら覚えていそうな響きに少々口角を刺激されてしまう。
 それから少しして本当に寝入ってしまったカーヴェを眺めながら、アルハイゼンはゆっくりと杯を重ねていった。ぺったりと頬を机に付けた時に巻き込んだカラメルのように色づく甘そうな髪がくすぐったいのか、時折居所を探すようにカーヴェの頭が揺れる。
 しばらく様子を窺っていたが一向に居所が定まらないようだったので、アルハイゼンはまだ化粧崩れをしていない頬から髪を剥がして引き抜いてやる。そうすると不快感がなくなったためか眉間に掛かっていた力諸共、彼女の体の強張りが抜けていった。
 カーヴェが頼んでおきながらあまり好みでなかったのか残されていた料理を摘まんで、彼女がしばらくアルハイゼンに見せていなかった表情をまじまじと観察する。遅れて視界からの情報を優先してろくに動かせていなかった歯で料理を咀嚼すると、アルハイゼン好みの味が滲んで舌を刺激した。どうやら彼女の好みの問題ではなく、元々アルハイゼンに譲るつもりで残されていたらしい。
 ほんの少しの身じろぎで、カーヴェの髪がちかりと光を弾く。このわずかな照明の中でもちらちらと光るきらめきを、アルハイゼンは好ましく感じていた。当然ながら、その理由だって正確かつ的確に理解している。
 彼女を愛するが為だった。虹彩も、耳の形も、仕事柄他の女よりも無骨になりがちだと気にしている指先も。何もかもがアルハイゼンにとって特別なものなのだ。
 幼い頃の自分は恋とはもっと劇的で、徹底的に日常を乱すものだと思い込んでいた。己が求める生活とは極地にあるはずのそれがアルハイゼンにとって縁遠いものだとも。
 その先入観が自らの内に芽生えた感情を見えなくしていたのだろう。何せ、彼女との日々は今までにないくらい充実して、刺激的とも評価できる一方でとても穏やかでもあったから。それはアルハイゼンが知ったつもりになっていた恋情とは全く異なる手触りをしていたのだ。
 自分の精神の片隅に住み着いていたそれの名を知ったのは、アルハイゼンが飲酒の許可が降りる歳を目前にした時のことだった。その日の記憶はカーヴェがアルハイゼンを酒場に誘うところから始まっている。
 脈絡もなく飲みに誘ってきたカーヴェに、アルハイゼンはさすがに怪訝な表情を向けたはずだった。他人に完全な清廉潔白を求めるつもりはないものの、公衆の面前で未成年に酒を勧めるのはよろしくない。最悪マハマトラの出番になってしまう。
 アルハイゼンの反応に首を傾げたカーヴェとしばらく噛み合わない問答をして、ようやく彼女が後輩の誕生日を綺麗に一ヶ月間違えていたのが判明した。今まで律儀に誕生日を祝ってくれていた彼女がそんな勘違いをするとは想定できずに、さしものアルハイゼンも面喰ったのを覚えている。今思えば、厄介な課題を自分からしょい込んで勝手に疲弊していたのが原因だったのだろう。
 己の豪快な勘違いに気づいたカーヴェは大きく声を上げてからアルハイゼンに謝罪し、再びアルハイゼンを食事に誘う。お詫びだと思ってほしい、としょげる彼女のために二つ返事で了解したアルハイゼンは彼女の選んだ店に行くことになった。
 食事がメインではあったものの、酒がある程度用意されている店を彼女は選んでいたらしい。結局は彼女が飲みたいだけだったのだろうと当時のアルハイゼンは結論づけたが、その判断におおよそ間違いはなかったはずだ。
 ただ、今の自分であれば彼女がその選択をした事実に興ざめすることはない。一度飲むと決めていたら、多少計画が狂ったとしても何としてでも飲みたい。酒とはそういう物であると、アルコールを嗜むようになってからはアルハイゼンも理解できるようになっている。
 そう強くもない癖に、カーヴェはその頃から酒を飲むのが好きだった。これといった予定もなかったのもあって彼女について行ったアルハイゼンにおすすめの料理を与えながら、カーヴェは次第に今日のようにうとうとと船をこぎ始めた。とろりとした赤い瞳が一度瞼の裏に隠されて、カーヴェがふるふると頭を振ったのを覚えている。
 睡魔に抗いたいらしいカーヴェに声をかければ、少し恥ずかしそうに頬を緩めて苦笑しながら水をもらってほしいと乞うてきた。さすがに未成年の前で完全に酔い潰れるわけにはいかないと当時のカーヴェも思っていたらしい。
 酒に潤まされた瞳と紅潮する頬の色合いをアルハイゼンは今になっても忘れられない。お気に入りの後輩に醜態を晒している恥に弱る眉を見た瞬間、アルハイゼンは突如として彼女に対する自身の感情を理解したのだ。
 酷く新鮮でありながらも、大きな動揺を示さずに済んだのはきっとそれがずっと前からアルハイゼンの中に存在していると理解していたからだろう。カーヴェの代わりに店員を呼び止めて水を持ってきてもらうと、彼女は緩んだ声でアルハイゼンに礼を述べる。その声に満たされる心の動きも、名前を知らなかっただけで以前からアルハイゼンがカーヴェから与えられていたものだった。
 他の誰であってもこうはならない。彼女だけ、カーヴェから触れられるその瞬間だけ、アルハイゼンの心は僅かに揺らいで満たされる。
 これが恋だというのなら、側に置いてやっても良いのかもしれない。気分が悪くならないようにとちみちみと水を飲む彼女を見ながら、アルハイゼンはそう考えていた。少しくらいなら寝ても構わないと誘惑すると、カーヴェは苦く笑ってからお言葉に甘えそうになると呻いたのだったか。
 結局あの日のカーヴェはなんとか眠らずに持ち直したのだが、今のカーヴェには到底できない芸当であったらしい。アルハイゼンの奢りという事も手伝ってか、普段よりずっと飲むペースが速かったので当然の帰結ではある。店の喧しさに少々利かせていた遮音機能を切ると、すうすうとカーヴェの立てる寝息が聞こえてきた。その穏やかな音に耳を傾けながら、アルハイゼンは飲み差しの酒に口をつけることにする。
 アルハイゼンが満足するまで飲んでも、カーヴェが目覚めるには足りなかった。声をかけても軽く肩をゆすってもむにゃむにゃと機嫌の良いことしか分からない声が上がるばかりで、一向に目覚める様子はない。特段珍しくも何ともない事態ではあるためアルハイゼンは小さく息を吐くに留めて、ひとまず会計を済ませてしまう。
 頬を緩く引っ張っても眉間に皺の一つ寄らないので、一瞬頭から水でも浴びせてやろうかとも思ってしまう。ただ、それで起きなければびしょびしょに濡れた女を背負う事になるのはアルハイゼンである。起きたとしてもカーヴェの文句を聞くことになるのは免れないのだから、諦めて最初から背負っておくのが一番被害の少ない対処だろう。
 安全を優先して店員の手を借りて背中にカーヴェを負うと、くたりと力の抜けた体の重さが伝わってくる。無遠慮に押し付けられる胸や視界の端で頼りなく揺れる白い腕、アルハイゼンの前腕にかかる膝裏の温度。相応に酒が入って弱った理性が少々どころか大分厳しいと訴えかけるのを聞きながら、アルハイゼンは上がり続ける悲痛な声を無視して自宅への道のりを歩んでいる。
 アルハイゼンがカーヴェを背負って帰るのは合意の行為であるはずだが、結果的に自分が消費されているなんて彼女は考えたこともないのだろう。もしくは、アルハイゼンが女性の肉体に一切関心を抱いていないと思い違いをしているか。
 何をどうしたらそうなるのだと彼女を責めたい気持ちもあるが、彼女には何か月と成人した異性が共に暮らしていて何も起きていないという強固な証拠が存在する。もちろん反論の手だてはあるものの、そうなれば自分達の関係は再び瓦解してしまうのは間違いない。
 一度壊れてしまった関係がこの先どうなるかよりも、彼女が再び路頭に迷いかねない未来をアルハイゼンは危惧している。彼女の体に魅了されそうになる自身はその事態を誘引する要因であり、真っ先に押さえ込まなければならないものだった。
「起きたか」
……いいや」
 帰路も半ばを過ぎた頃になって、カーヴェがもぞりと動く気配がした。起きたのであれば歩いてもらおうと腕の力を緩めかけたが、ゆるゆると背中で首を横に振ってカーヴェがアルハイゼンの肩に縋りつこうとする。寝てるよ、と続けるカーヴェの声は芯がなくなっていて、まだ覚醒しきっていないのは充分伝わってきた。
「お疲れ様」
 肩口に頭の重さが乗ったと思ったら、脈絡もなくカーヴェに慰労される。抵抗の意味でしがみつかれたのかと思っていたが、もしかしたら別の意味も籠もった行為だったのかもしれない。
「君の気質を考えれば、一時とは言え賢者なんて正気の沙汰ではなかっただろう」
 アルハイゼンの愚痴めいた帰宅予定時刻の予告を苦笑しながら聞いていた彼女の姿を思い出す。時間が安定しないから夕食の準備しづらくなったなどといった文句を言わない代わりに、カーヴェは今の今まで賢者の職に就かざるを得なくなったアルハイゼンに過剰な憐憫も垂れなかった。半端な慰めで気が紛れる人間ではないと彼女も理解していたのだろう。
 よく頑張ったね、と酒精に溺れているとは思えない穏やかで柔らかな口調でカーヴェがアルハイゼンを称賛する。こんな褒められ方をするのはもしかしたら、アルハイゼンが祖母よりもずっと背が低かった頃以来かもしれない。
「辞められて良かった」
「うん」
 解放感ばかりが先立っていたが、カーヴェに慰めるように褒められるうちに知らず知らずに溜め込んでいたらしい疲労感が湧き上がる。代理程度で済んでいて本当に良かったと思いながら相槌を打つと、素直な反応を気に入ったのかカーヴェがくすくすと小さく笑った。
「ところで、もう君は書記官のアルハイゼンなのかい?」
「ああそうだ。週明けからはこれまで通り書記の仕事に戻る」
 記録すべき会議に出席し、繰り広げられた議論をまとめて保存手続きをする。機密性が高く慎重さを求められる仕事ではあるが、一方でルーチン化されていてつまらないとも思われがちな業務でもある。もちろん、アルハイゼンは書記官という仕事のそういうところをそれなりに気に入っている訳だが。
 アルハイゼンの答えを聞いたカーヴェは少し困ったようにううん、と声を上げる。話の流れを考えても、自分が元の職に戻る事でカーヴェに不都合が起きるとは俄かには思えない。そんなことをしたところで見えはしないのだが、彼女の意図を窺おうとアルハイゼンは首を少々後ろに回してしまった。
「これを期に少し休んで、僕とまた共同研究ができればと思っていたんだけど」
 通りにはアルハイゼンとカーヴェしかいないのに、まるでアルハイゼンにしか聞かせたくないとばかりの声量でカーヴェが口にする。突然の、本当に欠片も想定していなかった彼女の申し出に、アルハイゼンは足を止めないでいるのが精一杯だった。
……解消を求めたのは君からだっただろう」
「たしかにそうだったけど、僕が言わなくてももう破綻していたのは君だって分かってたんじゃないか」
 きっと彼女は不服そうに口先を尖らせているのだろう。少し拗ねた口調で反論しながら、先ほどまではテーブルに押し付けていた頬を今度はアルハイゼンの肩にぺたりとつける。
「今ならまあ、今以上に悪くなんてならないし、それに僕が君にできるお祝いなんてそれくらいじゃないか?」
 カーヴェの指摘に異論を見つけられないアルハイゼンが黙り込んだのを、カーヴェは肯定と取ったのだろう。少し機嫌を良くしたらしく、カーヴェはつらつらと動機をアルハイゼンに開示する。たしかに彼女の言う通り今更共同で着手した研究が空中分解したところで、かつてのような深刻さはないはずだ。
 そして、彼女がアルハイゼンに与えられるものなどそう多くはない。金銭を使ってしまうとそんなことをしていないでツケを返せという話になってしまうし、健全な肉体労働はすでに彼女の日常に組み込まれてしまっている。
 例えばアルハイゼンが食に拘る人間であれば、彼女もやりようはあったかもしれない。しかし、生憎アルハイゼンは食べやすくてある程度旨ければ満足してしまうある意味作り甲斐のない人間である。
 そんな状況で彼女が選べたのは、アルハイゼンの知的好奇心を満たす行動くらいしかなかったということだろう。正直なところ、これ以上ないくらいに魅力的な提案だった。学生時代のように時間を気にせず二人で議論に耽る事ができるのであれば、実りのある日々になるに違いない。
 自分への祝福とカーヴェ自身の知的欲求のどちらが先立っているのかは分かりかねたが、正直どちらでも良いと思う。アルハイゼンを思ってのことであれば喜ばしかったし、アルハイゼンとの知的交流を彼女自身が望んでいるのであってもやはり嬉しい。
「そうだな。君がクライアントの意見に日々煩わされずに済むような日が来たら、俺もしばらく休んでもいいよ」
 その日々の果てに成果が生まれるかなどは二の次で、その過程を自らのものにしたかった。アルハイゼンの答えにぴょこんと跳ねたカーヴェがすぐに背中でん、と引っかかったような声を出す。
「それって結構難しくないか? 借金を払い終えても建築家はどうしても客商売なところはあるし……いや、これ、断ってるのと同義じゃないか!」
 自分で言いながら自身の将来に辟易したのか、小さく呻いたと思ったら急に耳元で大声を出されて顔を顰める。身を乗り出して問い詰めようとする彼女の音声を考えればヘッドホンのノイズキャンセリング機能を有効にしたかったが、いかんせん両手が塞がっていてどうしようもない。
「いいや、君と研究をするならまとまった時間を取った上で、集中できる環境がほしいと思っているだけだ。中途半端な状態でお互い満足できるとは思えない」
 窘めるつもりのアルハイゼンの主張に、カーヴェはむう、と不服そうな声を上げてから黙り込む。どうやら、折角やるなら中途半端はよくないと彼女も納得してくれたらしい。そのまま静かになってしまったので、寝たかと尋ねれば今度は起きてるよ、と先ほどとは正反対の返事がある。
 残り僅かな帰路をアルハイゼンは意識的にゆっくりと辿った。背中にあるはずの彼女の体温と自分の体温の境目はいつの間にか分からなくなってしまっている。
 カーヴェはアルハイゼンとは正反対の才覚を持つ人間で、だからこそ共にいる価値がある。自分達の関係が崩れていった日々でさえ、それはたしかにアルハイゼンにとって価値のあるものだった。
 とっくの昔に思い出として封をして、記憶の奥底にしまい込んでしまったかつての日々は未だに煌めきを放ってアルハイゼンを照らしている。それは時に暖かく、時に鋭く目を刺すように。
 ずっとずっと。たったひとりを思っている。いつからこの思いを飼っていたのかは、とうとう分からないまま今日まで来てしまった。別々の道を歩むと覚悟した日に握り潰し損ねたそれは、今もじりじりとアルハイゼンの心臓を焦がしている。
 何を信用してかは分からないが、人の背中で安心しきっているカーヴェのまろい呼吸が不始末のまま残った熾火に不用意にも薪をくべようとしていた。勢いを増そうとする熱源を今日もうまく踏みにじれずに、好きにさせる事しかできない。置いてやっているだけだったそれを煩わしく思いながら、アルハイゼンは気を紛らわすためにも話題を探す。
「そうだ。再来月の頭に一週間体を開けておいた方が良い」
……なんで?」
「なんでもだ」
 望んだ答えを得られなかったのが不満なようで、カーヴェは不服そうに声を上げた。ただ幸いにも大分酔いが醒めてきたのか、アルハイゼンが言葉を濁す意味をすぐに得心してくれたらしい。つまるところ、この情報は代理賢者として働く中で得た未開示情報を端に発しているのである。
「職権乱用じゃないか? それとも情報漏洩って言った方が適切かな?」
「はて、何の話だ? 俺はたまには君もまとまった休みを取った方が良いと提案しているだけだが」
 ちょっと面白そうに突いて来るカーヴェに白々しい芝居で返すと、喉を擦らせる調子で小さくカーヴェが笑う。気が向いたらね、と続けた彼女が本当に明日以降もこの会話を覚えているかなんて、きっと本人にも分からないだろう。