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シノハラ
2024-10-30 20:23:54
69821文字
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アルカヴェ♀
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不可視
2023/10/10初出 アルカヴェ♀
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触れるだけの口づけだった。緩く合わせた唇の間から、ふ、と声になりきらなかったカーヴェの呼気が漏れる。その生暖かさがうなじをぞわりと沸き立たせたが、その熱さがどこかに向かうことはなかった。これが最初で最後だと、アルハイゼンは痛いくらいに理解していたから。
全身から伝わる強張りも、それでも伝わってくる彼女の体の温かさも、鼻先で香る少し甘い匂いも。今放してしまえば、もう二度と知覚することは叶わない。それで良いはずがないが、納得するしかない。アルハイゼンはそういうことを彼女にしていた。
裏切りだと誹られても、アルハイゼンは少しも反論できないだろう。ずっとアルハイゼンはカーヴェに恋愛感情も性的魅力も感じていないと思わせて、その点において信頼が寄せられるように振る舞ってきた。その積み重ねがなければ、強かに酔っていたとしても異性に負ぶわれていようなんてさしものカーヴェも考えはしないはずだった。
腕を解放してやると同時にうなじからも手を退けて、彼女を自由にしてやった。重ね合わせた唇から距離を置くのを最後にしてしまったのは、未練からとしか言いようがない。
「
――
いつから」
言いたい事ならいくらでもあったはずだ。けれど、うまく言葉を選べなかったらしいカーヴェは一度喉を動かしてから、なんとか短い問いかけをしただけだった。
「分からない。自覚した時には以前から君を恋愛対象として見て愛していた」
恋愛対象としてカーヴェを見ていたと告げた瞬間に、彼女の猫を思わせるまなこがほんの少し丸まった。精神の揺らぎに影響を受けた瞳孔が震えるように縮こまって、一度瞼の奥に長々と隠される。
カーヴェの気質を考慮すれば、単純な性の対象として扱われた方が余程気楽だったかもしれない。この男にも人並みの欲があったのだと、少々の動揺と嫌悪を飲み込んで済ませるだけで良かったのだから。ずっとこの思いを抱えてきたアルハイゼンからすれば、そんな思い違いで済まされるつもりにはどうしてもなれなかったが。
「
……
自覚したのは」
「君が俺の誕生日を間違えた時に外食して、正体をなくしかける手前まで酔っ払った君を見た時だ」
「もうちょっといいタイミングないか? なんかもっとこうあっただろ。いや、そうじゃなくて、その、だって君、僕とは今はもう喧嘩ばっかりじゃないか。あの頃ならともかく」
信じられないと言いたげでありながら、否定できるほどの説得力のある発想を得られないでいるらしい。自分達の関係はとっくの昔に破綻して、不毛な関係になり果てているという大前提が全て崩れてしっちゃかめっちゃかになった頭でも、アルハイゼンがカーヴェを好いていると考えた方が今までの経緯の辻褄が合うことくらいは分かるのだろう。
たとえ、彼女に恋愛感情を抱いているなんて事情がなかったとしてもアルハイゼンはカーヴェをこの家に迎え入れただろうから、カーヴェがこんがらがった頭で引いているはずの道筋は決して正確とは言い切れなかった。ただ、アルハイゼンの感覚と判断を理解できる人間はおそらく随分と限られており、カーヴェはきっと理解者には含まれない。
「それで捨てられたなら苦労はしなかった」
「いつも出ていけばいいって言う」
「借金の種なんて一つでも減った方がいくらか健全だろう。早く自立できるようになった方が君のためでもある」
「好きな相手なんだったら、もうちょっと支払いに甘くても良くないか?」
口を動かしているうちにどうやら少々いつもの調子を取り戻してきたのか、甘ったれた事を言ってくる。ちょっと拗ねたような口調をしているので、カーヴェはアルハイゼンに多少なら金銭を負担させてもいいと日頃から考えているのだろう。そうでなければ、出先で人の名前を使ってツケなんかを作らない。ただ、それは決して多少の域を越えなかった。
「君と俺との間で過剰な力関係を作りたいとは思わなかった。数万ならともかく何百万と俺に払うべきモラが免除されていると承知した上で、君は平気でいられたのか?」
アルハイゼンの指摘に、カーヴェがぐっと言葉を飲み込んだ。カーヴェにそんなことができるはずもないのは、誰よりも彼女自身が理解しているはずである。数千数万の端金であればともかく、ある程度まとまった金額には相応の意味を込めることができる。そこに宿るはずの思いを厭うのはカーヴェに他ならない。
「今帳簿を破っても構わない。君もあれにどれだけの額が記載されているかは分かっていると思うが」
半ば脅すように告げながらも、実のところ金額の把握が曖昧なのはアルハイゼンの方だった。ここは元々アルハイゼンが一人で住んでいた家である。相手がカーヴェでもない限り、他人を住まわせるつもりもなかった。つまるところ、この家には職場に近く、アルハイゼンが住むに最適である以上の利益などないはずだったのだ。
家賃にまで手が回らないことはあっても、日々の生活費だけはとカーヴェは必ずアルハイゼンに差し出してくる。そこに調子が良いと家賃の支払いと返済も上乗せになるので、その月は臨時収入を得たのと同然くらいの気持ちでいた。元々得るつもりもなかったあぶく銭をどうして細々と記録する必要があるだろうか。
「なら、そもそも僕を家に置かなければいい。家主と居候で力関係ができるのは極自然なことだ」
「
……
その答えを君はもう知っているだろう」
全く諦められていなかった人が家を失って酒場の二階で寝起きしていると知って、どうして置いて帰れると言うのだろう。アルハイゼンが拾わねば、いつか他の誰かが拾い上げたかもしれない。その相手がカーヴェにとって良き人であるとも限らなかった。そう、自分を棚に上げながらも思わずにはいられない。
感情的にならないように注意しながら指摘して、もし堪えなければどんな声音が出たのかとアルハイゼンは考える。それでも低くなった声が不機嫌そうにも響いて、カーヴェが警戒を強めたのが分かった。
自身に恋愛感情を持ち、それを発露したばかりか手まで出してきた相手だ。今は安定状態を保っていると言えるが、いつまた均衡を崩すか分からない。男女の体格差を考えるまでもなく、きっとアルハイゼンはカーヴェを簡単に組み伏せてしまうだろう。彼女の反応は至極当然で、アルハイゼンは己の行動の結果を甘受するべきだった。頭ではそんなことはもちろん分かっている。
「冗談だと言ってくれ。それか僕の脇の甘さに対する制裁でも、なんでもいいから。君もその方が良いと分かっているんじゃないか? なあ、アルハイゼン」
最後に堪えかねたようにカーヴェが乞うた願いをアルハイゼンは真っ向から否定できなかった。きっと彼女の言うように、うやむやにした方がお互いのために違いない。
そう結論付けて唇を僅かに開いたはずが、何も言えないままにアルハイゼンは口を閉ざしてしまった。何を言うべきかは理解していたのに、どうにも心身を制御できない。
カーヴェの思うようにしてやってもいい。一度はそう思ったはずなのに、アルハイゼンは結局彼女が願う言葉のひとかけらも寄こしてやれなかった。
こんな願いくらいなら簡単に叶えてやれると思っていた。それなのにそのたった一言がどうしても告げられない。
「好きだ」
彼女の願いを叶えようとした口で、アルハイゼンは押さえ方の分からなくなった恋情を伝える。それがきっと彼女を惑わせると知っていて。
* * * *
君を愛している。そう、アルハイゼンは続けた。伝える気もなかった。ましてや、思いを返してほしいなどと言うつもりはどこにもない。ただ、ここに迎え入れたのも、君がほんの少し楽になれるならそれでいいと思っただけだった。
これは自分の落ち度だとアルハイゼンが言った時、彼が何を言わんとしているのかカーヴェには分からなかった。場違いにもぱちりと瞬きをして少しだけ首を傾げてしまったのが滑稽だったのか、アルハイゼンがずっと緊張させていた表情をわずかに緩める。
「君に俺の気持ちを知らせてしまったことだよ」
こんな補足がなければ分からなくなってしまっているなんて、と嘆くでもなくアルハイゼンはカーヴェを酷評してカウチから立ち上がる。思わず視線で彼の動向を追おうとしたが、彼はどこかにいくつもりはないらしい。
「君も、もうこんなところにはいられないだろう」
アルハイゼンが言わんとしている事は理解できた。交際関係にもないのに恋愛感情を示す者の家にその対象が暮らすのは不健全で、多分お互いにとって良くない。もしこれが他人の話であったら、早々に荷物をまとめて家を出るべきだとカーヴェだって主張しただろう。
「え、あ、それは
……
困る」
それでも、今のカーヴェに行くあてなんてどこにもない。急に思考が冷えて、背筋にひやりとしたものが滑る。アルハイゼンと再会した頃よりはずっと懐具合も安定していたが、だからと言って家を借りられるかと言えば話は別だ。もちろん、ただ暮らすだけの簡素な住宅であればなんとでもなるだろうとは思う。
けれど、それだけでは駄目なのだ。カーヴェにとって、家は仕事場でなくてはならない。余裕さえあれば事務所やアトリエを用意する手だってあるが、当然ながら今のカーヴェにはそんな金銭的余裕は欠片もなかった。職場としての価値が下がれば、仕事のパフォーマンスも悪化する。仕事の出来に影響が出れば、少なからず借金の返済スケジュールにも支障が出るはずだ。そんな事態に自身を追い込むわけにはいかなかった。
「今の君は俺の話をどれくらい理解できている? 俺の落ち度だと言っているだろう」
「君ねえ
……
こういうときくらいもうちょっと殊勝にしていたらどうなんだ」
急に普段の彼の調子が顔を覗かせて、カーヴェは思わず眉を潜めてしまう。先ほどの現状分析も相まってか、自分の声もいつもの刺々しい口調が戻ってくる。研究期間中は喧嘩はしないようにと自分からルールを作っていたのもあって、随分と久しぶりにこの声音を作った気がした。
「スメールシティの中心からは離れるが、家がある」
「君のおばあ様のおうちかい? まだ手放していなかったのなら最初からそっちを貸してくれれば良いじゃないか」
「何度君に愛を囁けばいい?」
好いた相手を手元においておきたいと考えるのは、普遍的で分かりやすい欲求だとは思う。もちろんそれだけではないけれどとアルハイゼンは他の理由を匂わせたが、もう言い訳にしか聞こえないのは彼だって分かっているはずだ。
この家がアルハイゼンにとって、カーヴェに対する分かりやすい好意の表れだったのだ。そう意識してしまえば最後、まともに話し合いなんてできなくなるとカーヴェは溢れ出そうとする思考になんとか蓋をする。
「ここに君を住まわせるよりもずっと面倒だったと言うのもある。今では書庫同然だから、悪くなっているところもあるはずだ」
「それこそ僕の十八番じゃないか。それくらいなら住まなくてもやったのに」
「疑わしいな。それに手を入れてもまともに使わないなら元の木阿弥だろう。それがもったいないと言われたら君を住まわせるしかないが、俺はサングマハベイに大分恨まれる事になっただろうな」
意外な名前が出てきて、カーヴェは眉を顰めてしまう。意図の説明を求めるカーヴェの視線を見たアルハイゼンは、溜息混じりに家があるらしい地名を上げた。
「
……
なるほど」
遠いの一言に尽きる。アルハイゼンでなくともそこからスメールシティの中心地まで通勤する気にはかけらもならないだろうという場所に、彼の祖母の家はあった。もちろんもう仕事をする歳でないとか、住宅の近所で就労しているのであれば全く問題もないだろう。むしろ、都会の喧騒を離れ知識と寄り添い暮らすのであれば、なかなかに魅力的な立地である。
だが、カーヴェの仕事は家に籠もって模型を作るだけではない。線を一本引くにも依頼主との打ち合わせは必須なのである。初期段階であればあるほど綿密な意識合わせは重要で、そうなればスメールシティで宿を借りる事になってしまうだろう。そうなれば無駄に費用が掛かって、返済に割ける金額が目減りしてしまう。なるほど、彼女の名が出てくるわけだ。
「俺の休職が終わるまでに、君の眼鏡に叶う不動産を見つけよう。君が払えないと思う部分は俺が補填する」
アルハイゼンが提示した条件は口づけの代償としてはあまりに高く、カーヴェはすぐに応じる度胸を用意できなかった。待つまでもなくカーヴェの答えが分かっているとでも言いたげな彼に、ちくりとカーヴェの胸が痛む。
もしかしたら、かつての破綻は彼にとっても傷であるのかもしれない。カーヴェから再び絶縁を叩きつけられるのを恐れて、アルハイゼンはカーヴェの意思を拒んでいるとも言える。彼の恋情が本物だと言うならば、もう二度と味わいたくない瞬間だと考えたっておかしくはない。彼を傷つけるのは本意ではなくて、カーヴェは口にしたい事のほとんどを押さえ込むしかなかった。
「
……
うん、分かった。それで君が納得するのならそうしよう」
「君は納得していないようだな」
「当然だよ。さっき君が指摘した通り、青天井で人に支払わせて平気でいられるほど厚顔無恥であるつもりはない」
思ったよりも不貞腐れた声が出るのをごまかす理由を作りながら、後追いでそれもまた事実なのだろうと思う。けれど、カーヴェの声帯を押さえつけたのは、アルハイゼンの身勝手さに対する不満に他ならない。
恋人の関係にもなるわけでもないのに、一方が恋慕を明らかにしてしまっては共に暮らせない。アルハイゼンが自分達の関係を再び破壊したと認識し、責任を取ろうとしているのも分かる。とはいえ、あまりにも一方的過ぎるのではなかろうか。
全て自分一人で結論まで導いてしまう悪癖が彼にあるのは承知しているし、自分達の関係がその気質を加速させているのも分かっている。だからと言って、すんなりと納得できる訳でもない。
カーヴェがアルハイゼンの判断に不満を持っていることくらい、彼にも分かっていただろう。しかし、癇癪にもなり切っていないカーヴェの気持ちをアルハイゼンは無闇に刺激しようとはしなかった。いらないことまであれこれと告げてくる普段のスタンスを崩してでも、アルハイゼンは我を通したいのだろう。
後から必要な物は送るとアルハイゼンはカーヴェに告げた。仮眠もせずに最低限の荷物をまとめると、荷物を分け合って二人で家の外に出る。
全景を見られる場所まで歩みを進めると、カーヴェは踵を返して今まで自身がいた場所を視界に収めた。もう、強かに酔っていても辿り着ける、馴染みの深い場所になったカーヴェの居場所だった場所。
アルハイゼンはもうここにカーヴェを置きたがらない。それが、酷く寂しくて仕方がなかった。
また壊してしまった。かつてのそれは自分達の共同研究でもあり、同時にカーヴェが生まれ持っていたはずの家庭でもある。誰になんと言われようとも、ここはアルハイゼンとカーヴェの家だった。
アルハイゼンが普段と区別が付かない声音でカーヴェを呼んだ。いい加減動こうとしないカーヴェに痺れを切らしたらしいので、渋々彼に従いカーヴェは一歩ずつ自身の家から離れていく。
アルハイゼンの旧家に辿り着くまで、お互いほとんど喋らなかった。ようやく辿り着いた彼のもう一つ家は庭もほとんど管理されていないらしく、ぱっと見で空き家のように見える。アーカーシャの停止をきっかけにして、以前より本の価値が相対的に向上した昨今において随分と不用心だと感じた。
アルハイゼンに鍵を開けてもらって家に立ち入ると、淀んだ空気の中に埃とカビが混ざった匂いに迎えられた。あちこちに本棚があり、木箱に入れたままになっている本もそこら中にある。ぱっと見ただけでも、並みの乱読家では太刀打ちできない本の量なのが分かった。
まだ見ていないが、今から二階の床が心配になる。元々本を詰め込むつもりの家として作られてはいそうではあったが、何事にも物には限度というものがあるのだ。
祖母と二人暮らしをするには随分と広い家だが、その余白を全て本が埋めてくれているように見える。アルハイゼンの生活の余白も、きっとそうやって満たされて来たのだろう。
埃を払った床の上に荷物を置いて、食料を買ってくると告げてアルハイゼンはさっさと出ていってしまった。後から周囲の環境を知るためにもついて行った方が良かったかもしれないと気がついたが、今更どうしようもないと家の中を点検することにする。
彼が泊まる時に使っているらしい部屋は思いの外ちゃんとしていたが、他はアルハイゼンが言った通り痛んでしまっている部分が見つかった。特に水回りが怪しく、メラックの力を借りながら簡易ではあるが手を入れる。本格的に暮らすのであればもう少し何とかする必要があるが、カーヴェであれば一人でも何とでもなる範囲である。
「どこをどれだけ直したかは記録しておくといい。その分はツケから相殺する」
「材料費さえ賄えたらそれでいいよ」
買い集めてきた食材を手に台所に入ってきたアルハイゼンがカーヴェの仕事の跡を見て、支払いをするつもりになったらしい。アルハイゼンからすれば放置していた旧家のメンテナンスに価値を見出しているのだろうが、カーヴェからしたらこれからの生活拠点を整えているだけに過ぎない。状況を考慮すれば、所謂市場価格に則る必要もないように思う。
「ここは君の好きに使ってくれて構わない。人を招いてもいいし、商談の場にしてもいい」
「
……
今無視したよな?」
カーヴェの申し出を完全に無視した彼の言葉に思わず声を低くすると、アルハイゼンがこちらに視線を向ける。
「交流のある相手から理由をつけてもらい渋るのは君の悪い癖だ。労働には相応の対価を支払うのがこの国の基本的な経済活動の形だと俺は認識しているが、君は違う文化圏で暮らしているのか?」
言葉数多くちくちくと刺されて、数時間前の彼の言動が全部夢だったのではないかと思う。そちらの方がカーヴェにとっても、アルハイゼンにとっても都合がいいのだろうが。
「この
……
くそ、分かったよ! でも、僕が住む分は加味してくれ。職人は依頼主の家では暮らさない」
追撃を喰らう気配を感じて、カーヴェは声を大にして許容する。強引に事を納めたい時は声が大きい方が強いのだ。もちろん、勝てない時は勝てないが。今回は仕方ないとでも言いたげにアルハイゼンが息を吐いて、カーヴェの要求を受け入れるつもりになったらしい。
「では、俺は家に帰って寝る。君も適当なところで切り上げて寝るといい」
「あ、待ってくれ。ここの本は読んでも?」
「ああ、好きにしたらいい。特に読んではいけないものもない」
アルハイゼンから色良い返事を得て、カーヴェは安堵の息を吐く。私設の図書館ほどの規模になりそうな本の山を前に、全く手をつけないでいられるならカーヴェはそもそもアルハイゼンともう一度研究をしようとすら思わなかっただろう。今からスポットの仕事を入れるのは難しいだろうから、今後のためになりそうな本を探して過ごせるといいと思う。
今度こそ別れの言葉を告げてカーヴェの前からアルハイゼンが姿を消してから、半端になっていたメンテナンスの続きに戻る。ひとまずの手当てが終わってから一息吐こうとすると、急に眠気が襲ってきた。そういえば、自分は徹夜をしていたのだったか。
一つ大きくあくびをしてから、彼が買い込んできた品々を確認する。どれを取ってもカーヴェの好物ばかりが選ばれていて、いかに彼が自分を見ていたのかと痛感した。脳に養分をやろうと砂糖塗れの菓子を口にして、残りは冷暗所に移動させておくことにする。
先ほど見つけたアルハイゼンの寝室に戻り、良くはないと思いながらも最後の力で窓を開け放って空気を入れ替えながら、埃っぽいベッドに潜り込む。明日、天気が良ければシーツを洗って、布団も干そうとカーヴェは即刻決心した。
彼がカーヴェに言付けない私用で家を一日以上開けることは早々なかったはずだが、この家に戻ってカーヴェと同じように埃をまとって眠ることもあったのだろうか。ほんの少しだけ眉に力を入れながら、呼吸を浅くして臭いを誤魔化すアルハイゼンの姿を想像する。
そうするうちに、カーヴェは彼の言葉を思い出した。ベッドに潜り込んでから温まる一方だった指先がしん、と痛むように冷えるのを感じる。
好きだった。いや、好きなのだ。今もずっと、アルハイゼンを。
アルハイゼンが明確な時期を示せなかったように、カーヴェもいつの間にか彼を思うようになった。ただ、心づいたのは彼よりも大分遅く、共同研究のあり方が延命治療めいてきた時期がそれに当たる。
それまでの二人の間にあった友愛や信頼を火にくべて代償にしながら過ごした日々でさえ、アルハイゼンはアルハイゼンのままだった。カーヴェがどれだけ腹を立てて、物に当たるような事があっても彼は決して自らのペースを崩すことはなかった。
カーヴェがどれだけ身を粉にして働いても、アルハイゼンは自身が定めた定量を超えようとはしない。後もう少し手を差し伸べてくれれば、そうすれば、と歯噛みをすることなんていくらでもあった。けれど、どこかでその姿に安堵する自分がいたのもたしかだったのだ。
苛立ちと嫌悪の隙間を埋めるように広がる疼きに似た痺れ。その正体を恋と形容するべきと受け入れたのは、全てが済んで一人になってからだった。
結局、あの時カーヴェはアルハイゼンを少しも変えられなかったのだ。何があってもアルハイゼンはカーヴェの影響を受けない。その事実はカーヴェをぐずぐずに煮とろかして、足腰を駄目にさせるくらい安心させた。
カーヴェが愛して特別にしていい唯一の人だと、どうにもできないまま一人きりになってようやくカーヴェは気がついたのだ。そしてこんなにも不格好な恋や愛がこの世にあって、それがカーヴェの中に息づいていることにも。
日頃、共同研究をしていた頃の夢を見るのもそれが理由だったのかもしれない。環境の変化を否応なしに察して、記憶の中の彼に縋り付いていてカーヴェは安心しようとしていたのだ。
だって、アルハイゼンは変わらない。意に沿わない事は一切許容しないし、あの時だって彼の忠告はある一面では正しかった。彼は間違わないしカーヴェが何をしても良くも悪くもならない。
海原で一所に留まり瞬く北極星のように誰かを導く存在でも、まっすぐ帰るべき道筋を示す灯台のような人でもない癖に、アルハイゼンはほんの少しも揺らぎはしない。そんな彼の下にいるのは酷く心地よかった。
けれど、それはカーヴェの思い違いだったのかもしれない。きっとその火が消え失せるまで隠し通そうとしていたはずの感情を、アルハイゼンは朝の訪れと共に発露してしまった。
あの瞬間、彼の内側がカーヴェで満たされているのを感じた。比類なき瞳の眼差しには糸の切れたような安堵と、彼の心を底からかき回すような旋風があったように思う。
一人の女に惑わされる瞳も、捕らえた獲物を逃さないようにうなじに回された手のひらも、その癖ただ重ねられるだけだった唇も。あの瞬間、アルハイゼンの全てはカーヴェのためのものだった。
ずっとずっと誰のものでもなく、誰かのためでもなく生きてきたように見えていた。そんな男がその全てをカーヴェに明け渡した瞬間、カーヴェも彼で満たされて一杯になる。それでも足りずに心から溢れたそれを震える吐息に変えて吐き出して、カーヴェは何とか自身の内が弾けてしまわないようにした。その熱を知っているのはこの世でたった一人、アルハイゼンその人だけで、その瞬間のカーヴェはアルハイゼンだけのものだったのだ。
沸き立つような歓喜と身を焦がすような幸福。月並みだろう感情の中に、たしかに足元から崩れ落ちるような不安と恐怖があった。
彼は伝えるつもりなどなかったと言ったのだ。伸ばされた手も、与えられた体温も、本当ならカーヴェは今も知らないはずだった。そうあるのが正しかったと彼は言う。
つまり、彼は間違えたのだ。スメールの天地をひっくり返したような事件に関わった時ですらきっと間違わなかっただろうあのアルハイゼンが、カーヴェの取り扱いなんて些細な事で間違いを犯した。
彼が間違うのであれば、もうカーヴェにとってたしかなものなど何もない。きっとカーヴェの言葉や振る舞いが彼を傷つけることもあっただろう。それが今はただ、恐ろしくて仕方がない。そうやって恐れてしまうこと自体が、アルハイゼンに鈍く刃を立てる行為なのだとカーヴェはもう知ってしまった。思いを返すことすら、アルハイゼンを、ひいては自身を痛めつける結末に繋がっているとしか思えないでいる。
「
――
メラック、おいで」
部屋の片隅にあった机に乗せておいたままだったメラックを呼ぶと、ふわりとカーヴェの様子を窺うように覗き込んでくる。カーヴェが眠りに就くつもりだと理解しているのか、上げる電子音が控え目なのが可愛らしい。
「やっぱり喋れるようにした方が良かったかな」
腕を伸ばせば届く場所にいたので引き寄せながら布団に乗せると、主人の聞き捨てならない言葉にメラックが今度は鋭い音を立てる。今更そんなことを言うな、なのかそれ見たことか、なのかは皆目見当が付かない。そういうところがメラックの良いところではあるのだけれど。
ごめんね、と背を撫でながら謝ればちょっと後に引く悩まし気な音をメラックが上げた。その音が可愛らしくて小さく笑うと、またぴ、とメラックが小さく音を立てる。
メラックを抱き締めながらころりと寝返りを打つと、少女の姿をしているという草神を脳裏に思い描く。彼女が解決したという事件を思い返して、すでに終わっていて良かったと心の底から思った。もし、今の自分が標的になっていたら、少しも抵抗できないまま夢に囚われていただろう。彼と何もなかった平穏な日々の中に。
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