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シノハラ
2024-10-30 20:23:54
69821文字
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アルカヴェ♀
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不可視
2023/10/10初出 アルカヴェ♀
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カーヴェの見解に誤りは認められず、アルハイゼンが提示した三ヶ月の研究期間に堪え得るテーマだと調査から帰って早々の週末に結論づけた。アルハイゼンの休職についてはカーヴェに最初話を持ちかけられた頃一度に打診していた事もあり、三ヶ月程度であればどうとでもなるのは分かっている。カーヴェにも案じられていたが、周囲からも代理賢者の経験が遠因になっていると思われているようで、同情的に手続きが進んでいるのも追い風になっている。
ちょうどカーヴェが着手している仕事は設計の工程が終われば仕事は材料や人員の調達のため、一度カーヴェの手を離れるらしい。半年ほど時間を置いて、気候のいい時期を見計らって工期が設定されているのだとか。
ただ、その半年のうちの三ヶ月を休暇に充てるということは、少なくとも三ヶ月分の支払いに支障が出かねないということでもある。元々ある程度は突発的な事象を考慮した返済計画にはなっているらしいが当然予定変更には違いなく、サングマハベイとの合意が必要になるらしい。
債権者の許可を得るために朝の早いうちから出立した彼女はぐったりとしつつも、無事休みを勝ち取って帰宅した。今日くらいは甘えても良いだろうとアルハイゼンに上げ膳据え膳をしろと駄々を捏ね、久々に彼女に手料理を振る舞うと錆びないようにたまには作った方が良いし、汁物の作り方も覚えるべきだなんて言われて少々揉めた。
問答が落ち着いてから皿を片づけた辺りで彼女の奮闘を聞くに、休み明けにはサングマハベイが融通したスポットの仕事が三ヶ月分みっちりと詰められてしまったのだとか。彼女が寄こしてくれる仕事はアルカサルザライパレスに共鳴した富者が依頼主である事が大半なので、面白さはある一方でなかなかに気を使うらしい。そうやって困って見せてはいたのだが、直近のイベントに対する期待の方が大きいのかカーヴェはふわふわとした気配を絶やさなかった。
久々に学生時代めいた事ができるのが楽しみなようで、カーヴェの作業にも良い影響が出ているようだった。普段よりもずっと巻きで作業が進んでおり、彼女の機嫌が良いばかりか、夜中の模型弄りにアルハイゼンが悩まされることもない。
アルハイゼンが休職期間に入る一週間程前にカーヴェは無事、手持ちの仕事を終わらせた。一足先に余暇に入ったカーヴェは初日を寝潰して消化してから、あれこれと日持ちをする食べ物をリストアップし、ちまちまと買い集めて居間や台所に運び入れ始める。
冬ごもりの準備に勤しむ小動物のような挙動に首を傾げてしまったが、興が乗っている時の自分達の事は信用ならないとカーヴェはアルハイゼンに主張した。前の事を思い出してごらん、と言われて前回の共同研究を思い返してみると、たしかに何人もがここに籠城染みた事をしていた記憶が見つかった。あの頃の自分達は文字通り寝食を忘れていたと言って良い。カーヴェはもちろん、アルハイゼンですら彼らの生活にそれなりに影響を受けたはずだった。
床でも寝られるように寝袋を持ち込む者や、携帯食のストックしている者もいたくらいだ。食料が潰えた時はカフェに開店と共に転がり込んで、モーニングの時間帯に提供するとは思えぬ量を食べて研究所に戻る。今思えば大分迷惑な客だったが、学生としてはそう珍しくもない存在だったはずだ。
そんな生活があの結末に至る一因だったのだと評価するのは簡単だが、麻薬染みた魅力がそこにあったのは否めない。スメールの一番の教育機関に所属する学生であったとしても、あれほど一つの事象のためにどっぷりと研究に身を浸すのは誰もが初めての事だったのだ。あの魅力はそう簡単に抗えるものでもない。
「ルールを決めよう」
そうカーヴェが言い出したのは、アルハイゼンが休職に入る前夜の事だった。二人の好物が並んでいるせいで少々整合性が取れなくなっている食卓で、アルハイゼンは羊のひき肉と玉ねぎがぎゅうぎゅうに詰まった肉団子を口に放り込みながら続きを待つ。
「論争はあり、喧嘩はなしだ。時間がもったいない」
「
……
できることならいつもそうしたい」
具か皮かにアーモンドの気配を感じながら団子を飲み下し、素直な感想を述べるとカーヴェが口角を引き攣らせる。いつもであればぱっと火が着いたように捲し立ててくるのだが、さすがに自分が言い出した申し出を舌の根も乾かぬうちに反故にしたくはないらしい。
「受け入れる気があるのか?」
「本心を述べているだけだが」
「どうだか。まあ、本心だと言うなら少しは努力してくれよ。たった三ヶ月だ」
鼻息荒く吐き捨てられて、アルハイゼンは二つ目の肉団子を口にしながら頷いた。チーズを包んで揚げたパイの中身を少々伸ばしながらカーヴェが咀嚼してから、アルハイゼンがまた団子に手を伸ばすので目を瞬かせる。
「それ、初めて買ってきた奴を揚げてみたんだけど美味しい?」
「ああ。しばらく食べられる機会がないのが惜しいな」
途中まで調理されているものとはいっても、揚げ物は大分面倒な料理の部類である。カーヴェも一人暮らしではそうそうやる気にならなかったらしいし、今だってこんな日でもない限り自炊で拵える事はない。もちろん、アルハイゼンは二人暮らしになってからも何かを揚げるつもりになったことは一度もなかった。
無くならないうちにとカーヴェが一つ摘まんで口に入れると、すんと静まってしまう。もう一つ皿に移動させたので、好ましい味だったのだろう。
「頼んだら店で揚げてくれるかな
……
」
とはいえ、研究の片手間で揚げ物ができるとはカーヴェも思わないらしい。悩ましそうな声を上げるカーヴェを見ながら、アルハイゼンはビーツのサラダに手をつける。
結局それから眠るまで、喧嘩らしい口論もしないまま二人でゆったりと過ごした。風呂に入って少々上がった体温のままベッドに上がり、明日から三ヶ月は通勤も仕事もない事実をじっくりと味わう。
社会人の肩書きを得てしまってから長らく食いつぶされた時間が全て自らのものになるのだ。以前からぼんやりと思い描いていた将来設計ではあったのだが、研究が終わったら早期リタイアの計画をしっかりと立てようと考える。幸か不幸か仕事と趣味が両立しているカーヴェのような人間には理解が及ばないだろうが、少なくともそうでないアルハイゼンにとって重要な案件と言える。
手元にあるのはやたら格式ばった書類だった。過去に使用した研究所を複数人が住める住宅にリフォームし、アルハイゼンとカーヴェの両者に与えると記されている。分かりやすい目論見を持った研究結果の報酬と言えるのだろう。
ただその知らせを二人にもたらすのは少なくとも半年は遅かった。その頃の自分達であればひょっとしたらあっさりと共同で権利を受け取り同居して、それがいつしか同棲に名称を変え所謂学術的家庭とも呼ばれるものを作り上げていたかもしれない。
そこでぱちりと目を見開く。とん、とん、と遠くから音が聞こえてくるので、どうやらカーヴェが模型をいじくり回しているらしい。仕事は一旦手が離れているのだから完全に趣味の領域のはずで、しばらく触れなくなる名残惜しさが彼女の手を動かしているのかもしれない。
深くて長いあくびをしながら、アルハイゼンはカーヴェに起こされるまでに見ていた短い夢を反芻する。それは夢というよりもかつての出来事を思い返していたと表現するべきかもしれない代物だった。
教令院だってアルハイゼンとカーヴェの交流の結末はすでに理解していたはずで、二人がこの住宅に暮らすとは思ってはいなかっただろう。単に一度付けた予算は使い切る必要はあるし、成果物が相応の成果を上げた場合は何らかの形で報酬を渡さねば周囲に示しが付かない。
だから、教令院は自分達が住宅を売り払い、その金が二人の懐に入るとでも予測していたはずだ。だが、カーヴェは件の研究から発生した一切合切を受け取らない事にしたらしい。住所ならあると報奨を辞退した結果、この家の完全な所有権はアルハイゼンの下に転がり込んだ。
かつての彼女にとってこの家は不動産以上の意味はなく、同じ権利を持つはずのアルハイゼンには一切言及もせず、価値も見出さなかった。当時の関係を思えば当然であるし、彼女を変えられないまま酷く傷つけた者への因果応報としてアルハイゼンは受け入れるべきだった。
いや、実際に受け入れて異論を発したつもりもない。問題は結果を受け入れるだけ受け入れて、肝心の彼女への恋心を捨てきれなかった事なのだろう。
それから偶然に偶然を重ねて、アルハイゼンとカーヴェはかつて研究所を家に転用して二人で暮らしている。最初こそ間借りしている肩身の狭さが先立っていたのか、それともアルハイゼンを警戒してか暮らしぶりに硬さがあったのを覚えている。
喧嘩の決まり文句で出られるものなら今すぐにでも出ていきたいと騒ぎ立てながらも、彼女がこの家に一定の価値を見出し、愛着を覚えてくれているのをアルハイゼンは知っていた。時間をかけてこの住所に馴染んだ彼女がここを家と呼び、帰ろうと言ってくれた瞬間をアルハイゼンは忘れる事はないだろう。
ただ、その喜びは彼女に伝わるべきものではなく、アルハイゼンはその穏やかで柔らかなくせに心を焦がす感情を彼女から伏せながら暮らさねばならない。そこに全くの苦痛がないとは言えないが、隠すことでカーヴェに益があるのならそうあるべきだと思うのだ。
借金を背負って自立もままならない人間だと、彼女がこの家にいることに負い目を感じているのは知っている。けれど、それでもこの空間が彼女の家として、慈しむものの一つであってほしいともアルハイゼンは乞わずにはいられなかった。
そこでゆるりと開いたままだった瞼を落として、アルハイゼンは強制的に思考を断ち切る。過ぎた願いもそのまま握り潰せてしまえたらと考えながらも、今回もきっとうまくいかないだろう。
とん、とん、と音は微かに規則正しく鼓膜を揺らす。迷いがない彼女の制作の音は心地よく響いて、一度アルハイゼンを目覚めさせた癖にすぐに眠りに誘った。
普段の休日よりもいくらか早く、平日よりは大分遅くに目覚まし通りアルハイゼンは目を醒ました。微睡んだ時に見た夢以外はこれといって覚えておらず、質の良い眠りだったと言えるだろう。カーヴェが何時まで趣味の手仕事をしていたのかは分からないが、アルハイゼンよりも少々早く起きていたらしい。
朝一番に書斎にある窓に向けた作業机を付き合わせるように移動させ、しばらくは使わないだろう一人用の机を脇に寄せてしまう。夜中に光量が足りなくならないように照明の位置を調整しようとしていたら、アルハイゼンの所業に気づいたらしいカーヴェが大慌てですっ飛んできた。
模様替えには自分も参加したいから食事の後にしようと主張されて思わず首を傾げたところ、すぐに導線がどうだのとカーヴェが口走り始める。なるほど、アルハイゼンの適当な家具の移動に一言あるだけらしい。溜息一つで受け入れてやればカーヴェは満足したようで、そろそろ朝食ができるからとアルハイゼンを連れて居間に戻った。
痛みやすい葉物野菜が多い食事を平らげてから、カーヴェの指示に従って書斎を整える。難しい顔をしてああだこうだと指示をしていたカーヴェが満足して一度書斎から姿を消したかと思うと、彼女がここ数日で用意していたらしい本や資料が運び込まれた。
「
……
これは?」
彼女が抱えていた本を受け取ると幾つか知恵の殿堂の印が付いたものがあり、アルハイゼンは眉を顰める。あそこの本は教令院の学生と教師のみが敷地外に持ち出せるルールがあり、写しであればともかく、本を丸々一冊持ち帰れる身分には自分達はないはずだ。教師や学生が身近にいる場合は又貸しをしてもらうなんてこともあるにはあるが、カーヴェがそんな不正染みた行為に手を染めるとは思えない。
「ほら、この前僕が特別講師に呼ばれただろう? 規約を見直したら請求すればしばらくの間は貸出許可が出るらしいって分かってさ」
「いつから気がついていた?」
であれば家で読みたい本がいくらでもあったと少々の恨みを込めて問うたが、不正は認められないとやはりさらりと躱されてしまう。
「研究関連の本は必要に応じて借りてあげるから」
「なら」
「今言えるってことは大方君の趣味の本だろ」
だめだって、と語彙を強くしながらカーヴェがアルハイゼンを窘めて、半端な位置に移動させていた照明に興味を移す。部屋を見渡しながら夜中に作業するためにどこに移すべきかを考え始めたカーヴェを見ながら、アルハイゼンは背丈の低い机の横に本を重ねた。
かくして共同研究は無事始まったが、カーヴェの予言通り、アルハイゼンもカーヴェもまともに家から外に出なかった。それくらいですめばまだしも、ステンドグラスからの明かりを頼りになんとなく天候と時間を把握し、お互いが空腹感を覚えた頃に食事を摂るなんて大概乱れた生活を送っている。
必要な資料が増えて知恵の殿堂に向かうしかないとなってからようやくしっかりと湯を浴びるものだから、お互い普段よりも香水の匂いがきつくなってしまっているかもしれない。身支度を整えた辺りで自分の顔に隈がある事にカーヴェがようやく気がついて、今日は早く寝ようと提案してくるなんてこともあった。自分よりも必要な睡眠時間がずっと短いカーヴェがそう言うのだから、アルハイゼンもあまり良い状況ではないはずだ。
知恵の殿堂はアルハイゼンの職場の中にある。そのため、時折であるがアルハイゼンは職場の同僚に捕まることがあった。近況を伺う話題から、あの件の資料はどこだったかなんて問い合わせが続く。遠くからカーヴェが様子を見ているのに気がついて彼女を呼ぶと、途端に不機嫌そうに眉を顰められた。
彼と少々喧嘩中なので返してもらってもいいだろうか、とカーヴェがつらつらと説明すれば、アルハイゼンの同僚も事情を理解したらしい。喧嘩、と彼女は表現したが、図書館でのそれは口論寄りの議論と理解されただろう。雑誌を介してしばしばやり合っていた時期もあったため、現在の自分達の関係を認識している者も少なくはない。
同僚は勤勉な読者であったようで、ははあと相槌を打って納得したようだった。議題と結論は復職したら教えて欲しいと言う同僚に、事実を捻じ曲げられそうだとカーヴェが唸る。アルハイゼンの納得がいく結論に行き着くだろうから虚偽発言の必要はないと告げれば、割と本気の舌打ちをされた。
家への帰り道に喧嘩はなしだったのではないかと問うと、ぱちりと瞬きをしてからカーヴェが明日から職場復帰するつもりなら話を続けてもいいと告げる。研究を止めるつもりも、職場に戻るつもりにもなれなかったので口を噤めば、カーヴェが満足そうに少し笑った。
知恵の殿堂に行くついでに甘味や足の早い食べ物を買い集めて帰宅すると、すぐに資料を開きたくなるのを押さえて瑞々しい食事を堪能してどっぷりと眠る。夢も見ない、と言いたいところだが、結局夢の中でも二人で研究をしている始末である。翌朝顔を合わせたと思ったらあの件なんだけど、と保留になっていた点の話題を持ち出されることもあったので、きっと彼女も似たような夢を見ていたのだろう。
日中は遠くから喧騒が届くこともあるが、部屋では二人と時々メラックが小さく音を立てるばかりだった。そのメラックすら休眠状態にある時に思索に耽り始めると、かつてはそう珍しくもなかったはずの感覚に襲われる。
学問の可能性はここからどこまでも広がっているのに、まるで世界に二人だけしかいないような。閉じているようにも思えるのに、どこまでも開かれているような。閉塞感と共にあるのはある種の全能感に近い。全てがうまくいくと思うのは、きっと彼女も同じだっただろう。
そんな状況でろくに時計を見られるはずもなく、体内時計も次第に狂ってきているのが分かる。その証拠に今日はこの辺りで、とどちらかが切り出す時間はじわじわと後ろ倒しになってしまっていた。
元々寝起きが弱い自覚はあるが、部屋から出て顔を合わせた瞬間にもう少し寝た方がいいんじゃないかと苦笑されることも最近たまにある。そろそろ完全な休養日を設けるべきだと二人とも話題に上げながらも、目先の課題ばかりに気を取られて具体的な日すら決められていない。
ただ、立ち止まるのはもう少し後でも良いとも思う。確かな疲労の上で研ぎ澄まされる集中の塩梅が丁度良く、お互いがかつての勘を取り戻しつつあると感じていたからだ。
社会人として勤め始めてからも完全に手を引いたつもりはなかったが、やはり一日のほとんどを研究に費やす生活を送れたのは学生の身分だった頃だけだった。約束の日数が経過すればまた日中の大半を業務に割く羽目になる日々に逆戻りするのだと思うとぞっとしてしまうが、今はなるべく考えないようにするしかない。
それに、今はそんな未来の事に気を揉むよりも、目の前の事に集中していたかった。夢とうつつの境界線が曖昧になって、この蜜月めいた日々が長い夢のように思う瞬間がある。時折訪れる停滞と静かな興奮。カーヴェの本領を遺憾なく発揮して配置された明かりの下で、うまくはまらないパーツをああでもないこうでもないと言いながら二人で弄くり回す。
あともう少し、何かきっかけがあれば、とどちらも思っていたのだろう。味なんて度外視した濃いコーヒーに思考を働かすための砂糖をたっぷり入れて、ちみちみと啜りながら思いついた事を好き勝手に喋る。そのうちの一つがあんまりな内容で、真っ向から切って捨てた所でカーヴェがそれだとぱちりと指を鳴らした。
真夜中に似合わない明るい興奮と共に自説を展開するカーヴェの話を静かに聞いてやったものの、自分の発言の何がそれに当たったのかは結局分からなかった。けれど、彼女の考えは自分達の思索を突破しうるものだと言う事は分かる。
多分、自分達は一旦そこで解散して、自室のベッドで眠るべきだったのだろう。ただ、カーヴェ曰く
――
この点においてアルハイゼンも残念ながら異論はないが
――
そこでまともな判断をできるのであればそもそも自分達はこんなことはしていない。つまるところ、自分達は作業を継続したのである。
その結果がこの徹夜である。カーヴェにとっては珍しくも何ともないだろうが、アルハイゼンにとってはもういつぶりの事かも分からない。教令院の動向を注視しつつ旅人達とスメールのあちこちを移動していた時でさえ、睡眠だけは確保していたと言うのに。
夜明けに気がついたのはカーヴェだった。眠気か眼精疲労かをごまかすためにぎゅっと眉根を寄せて目を瞑り、ぱちりと瞼を持ち上げた直後にはたと彼女がステンドグラス越しに外を見る。一拍遅れてカーヴェの視線の先を追いかけると、まだはっきりとしない朝の明かりがステンドグラスをちかちかと弾いているのが見えた。
「朝だ」
ぽつりとカーヴェが口にしてから、ふわりと笑みを零す。脱力したような、少しけだるげでありながらも穏やかな笑みだった。
「前だって忙しくない時もやたら徹夜してたっけ。今思えばあんなに根を詰めなくても良かったのに何をやってたんだか」
「別に今だって寝ても良かっただろう」
今に限っては大分非現実的なアルハイゼンの指摘に機嫌を損ねた様子もなくまた笑うカーヴェを見ながら、アルハイゼンはすっかり冷えてしまったコーヒーのような物を口に含んだ。眠気覚ましという意味合いでは充分仕事をするだろう味に眉を潜めながら飲み干して、アルハイゼンは空になったコップを片手に席を立つ。
「コーヒーをもう一杯? それとも紅茶?」
「そうだな
……
紅茶にしよう」
「そしたらちょっと食べないか? ちゃんとした食事は一度寝てから食べるとして、とりあえずはお菓子でも摘まもうか。何がいい?」
たしかに言われてみれば腹はそこそこ空いている。体が追加の糖分を求めているのもなんとなく分かるので家にあったはずの菓子を思い浮かべてみたものの、数年ぶりの徹夜明けの頭では一向に候補を絞り込めそうになかった。なんでもいいのだから、どれか一つ適当に選んでしまえば良いのだが。
「棚の左から二番目の箱の」
「それ、中身分かってるか?」
静かに首を横に振ると、まあ選んでいるから良しとしようとカーヴェが苦笑した。それからカーヴェも腰を上げるのを見届けて、アルハイゼンは彼女の分のコップも手に台所に向かう。湯を沸かしながら紅茶を淹れる準備をして、本当ならその時間でコーヒーを入れたコップを洗った方が良いのは百も承知でやかんの中の湯が沸くまでぼんやりと眺めた。
かたかたと音を立てるやかんの音を聞いていると眠気が込み上げてきて、アルハイゼンが小さくあくびをする横をカーヴェが菓子の箱を片手に居間に移動していく。中身はおそらくクナーファだ。
湯をティーポットに注いでから、先にティーカップを居間の机に持っていくと丸いクナーファの細かい生地を音を立てて折りながら引き裂いて、大体一人分と思われる量をカーヴェが皿に移していた。机の上には蜜の瓶が用意されていて、更に甘くして食べるつもりらしい。
ティーカップを置いて箱に残ったクナーファを一口分追加でちぎって口に放り込むと、細い繊維状の生地に染み込んだ蜜が口に広がる。底の方にまでは滲んでいなかったので蜜の入り込む余地があるといえばその通りだが、ここから蜜を追加するのがあまりに過剰なのは火を見るよりも明らかだ。彼女は今、菓子を食べたいと言うよりもひたすらに糖分を摂取したいだけなのだろう。
菓子を咀嚼しながら台所に戻り、口内の甘さのせいで匂いがよく分からないままポットを持ってまた居間に戻る。盆を用意すれば一往復で済んだと気がついたのは、二つ目のコップに茶を注いでいる時になってからだった。
ティーカップを彼女の前に寄こせば、クナーファにたっぷりと蜜を浴びせかけているカーヴェが礼を言う。その後ナイフもフォークもないと気がついたらしい彼女はしばらく逡巡したようだったが、結局持ち上げた皿を傾けて直接齧り取ることにしたらしい。
「見世物じゃないぞ」
アルハイゼンがすればすぐにでも無作法だと指摘しそうな行為に及ぶ彼女を眺めていると、少々気恥恥ずかしくなったのか君の菓子を構えとばかりに視線を手で払われる。先ほどのつまみ食いが呼び水になっているのか空腹自体は感じているので、彼女の誘導通り小麦粉の塊を口にすることにした。
紅茶で口を洗いながら甘ったるい菓子を食べ終えると、カーヴェも更に甘く仕立てた菓子を食べきっていたらしい。人心地着いた、と満ち足りた音を彼女が紡ぐ。
「こんなに楽しい徹夜は久しぶりだな。あの時も楽しかったんだ。期限なんて関係なくて、楽しくて。あの時間を終わらせたくなかった
――
今だってそう」
二人がいるカウチは背もたれが遠く、彼女は肩と背を少し丸めながら隣に座っていた。ぽつりぽつりと零す言葉は旧懐を帯びていて、二人の記憶の中で殊更美しい部分を照らし出している。
「思い出した。君と研究をするのはやっぱり楽しい。だからこそ、贈る価値があったんだ」
こくんと一つ頷いて、確信を得た芯の強さのある言葉がカーヴェとアルハイゼンの間に浮かんだ。その鮮やかさに見惚れながら、もしかしたらとアルハイゼンは声にせず唱える。その続きの思いが立ち現れる前に、カーヴェが少し緊張した面持ちでアルハイゼンを見ているのに気がついた。それから、自分が相槌の一つ返せていない事にも。
「いや、これじゃあ僕の独りよがりだな。お祝いだなんて言って僕ばっかりが喜んでる」
「君を楽しませるために休職に入ったつもりはない」
「
……
なら良かった」
少し反らされた視線を取り戻すためにも本心を告げると、カーヴェがぱちりと瞬きをして再びアルハイゼンを見てくれる。じっと探るような視線を向けてからアルハイゼンの言葉に偽りがないと結論付けたのか、ゆるりと表情を緩めて息を吐くようにカーヴェが小さく笑う。
夢みたいだ、とカーヴェが囁く。その瞳はうっとりと美しいものを眺める時に等しい色をしている。
「はじめからこうしていれば良かったのかな。研究範囲を絞って二人だけでしていれば状況をコントロールできなくなるなんてこともなくて、あんな破綻の仕方もしなかった」
「それこそ夢物語だ。案自体は俺達が練ったが、最終的に方針や規模を定めたのは教授達だっただろう」
学生の身分で何もかも自由に決められるはずがなく、往々にして教授の思惑が介入するものだ。期待されればされるほど、華々しいものになるようにと外部からの介入は強まっていく。であれば、自分達に対するそれが過剰なきらいがあった可能性はあるが、実作業者以外の意思が研究に反映される事自体は特殊なケースだったと言うほどでもない。
「それはそうだけどさ」
む、と口を尖らせたカーヴェがアルハイゼンから視線を外して、残っていた紅茶に口をつけた。
「でも、そういう夢を見たくなるくらいに今の状況は良いと思う」
撤回をするつもりはないらしいカーヴェに同意してやれば、彼女はまた柔らかい笑みを浮かべた。最近よく見る彼女の笑い方で、彼女の精神が安定しているのが伝わってくる。
アルハイゼンの発言に過剰に噛みつくこともなく、いかに普段の彼女が抑圧下にあるのかが嫌でも分かった。今の彼女はよく笑うが、円満な関係だった頃の彼女はいつもアルハイゼンの前ではこうやって笑っていたようにも思う。学生時代の行動をなぞるような事をしているせいで、彼女の振る舞いが過去に引っ張られているのかもしれない。
「夢と言えば。クラクサナリデビ様の件は無事収束したんだっけ」
「ああ、それなりに前に」
夢、とカーヴェがぽつりと口にして、少々脈絡のない話題を口にする。アルハイゼンに事の顛末を伝えるクラクサナリデビには、アーカーシャ端末を停止した影響を憂慮する様子があった。そもそもアーカーシャを再起動する術がない今、スメールの民が将来の発展を代償に得ていた利便性を忘れ、現状に慣れる他に手だてがないのは重々承知の上で憂いてしまうのだろう。
失わなければならないと分かっている物でさえ、無くなってしまえば不都合が生じる。であれば、失わずとも良いものが零れ落ちていく痛みはいかほどで、どう取り繕って生きていけばよいのだろうか。その体現が日頃の彼女であるのは想像に難くない。
「こんなものを見せられていたら僕も危なかったかもしれないな。夢に閉じこもりたくなった人の気持ちも分かる」
もう危険がないからこそ言えるのだろう危うい言葉と共にカーヴェがティーポットに手を伸ばし、中身が空なのに気がついてポットをテーブルに戻す。それから一瞬立ち上がる様子を見せたが、すぐに先ほどよりも深くカウチに座り直す。おそらく立ち上がるのが億劫だったのだろう。
そのままくたりと背の力を抜いて普段は使われない部分に仰向けに倒れ込み、心地よさそうに声を上げながら背伸びをした。室内用の緩くカーヴェの胸を押さえている下着では肉の重みに堪えられないらしくとろりといくらか脇に流れて高さが減った分、肩甲骨まで浮き上がる反りが補う。丸まった背を伸ばしきって満足して、起き上がるかと思いきやその気力もないらしい。
彼女はもちろん、アルハイゼンだって相応に疲れていて眠いのだ。それなのにこの場から移動するのすら面倒で、脈絡のあるようでない話題をぽつぽつと話してしまう。
自分達が生産的な行為をしなくても時は決められた速度で流れて、次第に鳥の鳴き声や朝の支度をする者達の気配が外から伝わってくる時間になった。天窓から取り入れる明かりも時間を示すだけの代物ではなく、次第に室内を照らす役割を持ち始める。
「アルハイゼン、ちょっと」
ん、と喉を鳴らしたカーヴェがアルハイゼンを呼んだばかりか、がばりと起き上がって突然距離を詰めてくる。思わず身を引こうとしたのに腕を掴まれてしまい、言外にも動くなと告げられた。アルハイゼンの腕を服越しに歪める指先に感覚に息を詰めている間にもう一方の手が伸びて来て、人差し指がアルハイゼンの顎に触れる。
「君も髭が生えるんだな! 一緒に住んでるのに全然気がつかなかった」
一晩のうちに生えたらしい髭に気がついたカーヴェが目を丸くしながら顎から頬に指を滑らせる。ちりちりとした感触がくすぐったいのか指紋を髭が弾くのが心地よいのか、カーヴェはどこか楽しそうに目を細めた。
「君の色だと日に当てるとキラキラして綺麗だね」
「
――
カーヴェ」
もっと髭の様子を観察したいのか、カーヴェが緩く顎を押してアルハイゼンの顔の角度を調節しようとする。多少伸ばしても目立たないから僕らみたいな髪色は得だだのと言いながら、カーヴェは親指の腹でアルハイゼンの顎の内の柔らかい所を擽った。少々低くなった呼びかけに込められた制止なんて、これっぽっちも聞く気がないらしい。
「ふふ、さすがに産毛はすぐには分からないんじゃないか?」
どれだけ不躾な行為をしているのか知らしめてやろうと、アルハイゼンはカーヴェの頬に指を当てる。それから目尻辺りまで滑らせると、擽ったそうにカーヴェが笑って見せた。それに、最近綺麗にしたばっかりだから、と少しばかり生々しく感じる情報を教えてくれる。
なら、とアルハイゼンはカーヴェの指先を捕らえてみることにした。指の根元と第二間接の間、小指と手首の間、手首と彼女に忘れられた部分がないか確かめる。日頃から生活が乱れている分メンテナンスされている手の滑らかさを味わいながら腕に指を滑らせ、産毛の生えづらい手首側の境界線をなぞった。
はじめこそ、カーヴェもこの行為の意味を理解せず、くすぐったさに笑っていたはずだった。アルハイゼンの爪が肘の内側の柔らかい部分に当たった瞬間、あ、とカーヴェが掠れた声を上げる。そこでようやく、彼女がいつの間にか静まっていたのに気がついた。
意趣返しのつもりでしかなかったはずが、アルハイゼンは完全にやり過ぎていた。そんなまともな反省ができたのは彼女の様子を窺うために顔を上げるまでである。
先ほどアルハイゼンに触れられた頬が赤く染まり、わずかに肩が縮こまっている。羞恥と警戒と、一匙分の恐怖。二人で暮らし始めた当初は頻繁に見たそれとは、同じようでいて全く性質を異にするものだった。
ぱちりとあった視線がおろおろと泳ぎ、後者二つがいくらか薄まった代わりに目尻まで色づいていくのが分かる。カーヴェが恐る恐る腕を引こうとしたが、今度はアルハイゼンの腕がそれを許さなかった。
ここで手放しても、放さなくても同じだと胸中で勢いを増す焔が告げる。まともに逃げられないでいるカーヴェが悪いと思うのは、さすがに責任転嫁が過ぎるだろうか。えっと、と掠れた声がカーヴェから上がって、アルハイゼンの意図を読み取ろうとしているカーヴェが何とかアルハイゼンを見上げていた。
自分達がまだ制服を着ていた頃、彼女はアルハイゼンの瞳を良く褒めた。色のコントラストや希少性はもちろんだが、それもアルハイゼンの聡明な意思がそこに宿っていてこそだ、と。そう、アルハイゼンごとこの瞳を褒めたのは祖母と目の前にいる彼女だけしかいなかった。
今この瞬間、彼女が愛でた瞳はこの世から失われてどこを探しても見つからない。その事実がアルハイゼンをほんの少し不安にさせるが、衝動を冷やせる程のものでなかったのが悔やまれる。
今度こそ、彼女との研究を完成させたかった。たしかにそう思う自分がいる。それでもアルハイゼンはカーヴェのうなじに手を添えて、彼女の唇に口づけた。
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