シノハラ
2024-10-30 20:23:54
69821文字
Public アルカヴェ♀
 

不可視

2023/10/10初出 アルカヴェ♀



 カーヴェがスメールシティを離れている間に母国は転換期を迎えていた。一つはクラクサナリデビによる実権奪取、一つは教令院の賢者達の失脚、一つはアーカーシャの停止処置。大きな、という形容詞では力不足に思える程のそれは表舞台に出た瞬間、瞬く間に決着したという。
 今はまだそれらの出来事は純然たる事実でしかなく、他者が評価し歴史になるにはしばらく時間がかかるだろう。当事者である面々は自らの行いをひけらかしたがる気質はなさそうなので、後世の学者達は頭を抱える事になるかもしれない。
 それとこれは純然たる余談であるが、同居人がスメールの英雄になっていた。本人は日常を維持するために身を投じ、流れに身を任せた結果でしかないと主張する。それがスメールにとってどういう意味を持つかは彼も当然理解しているが、他の協力者と同様に記録を書き留めるようなことは一切していない。
 書記官の名が泣くと嘆いたところ、地の底を這う声で今はその職を辞していると彼は指摘した。仰る通りではあるのだが、まあそういう話ではない。学者のはしくれであるのであれば、後世の者のために正確な情報を残すのは義務だろうに。そう言えば、現在は教令院に所属する公務員でしかないなどと彼は反論してくる。ああ言えばこう言う。
 彼の態度を慎ましやかで思慮深いと賛美する者も当然いるものの、そんなものに彼が欠片も興味がないだけなのをカーヴェは知っている。むしろ、彼はその名声を得た代償として用意――実際のところ押し付けられた代理賢者の身分を彼は心底煩わしく思っているようだった。
 閑話休題。それらの一連の出来事はスメールに住む人々に大なり小なり影響を与えている。ちょっとした疑問を解決するにも主体的に行動せざるを得なくなった不便さに閉口している者達も少なくはないようだが、失った権能を埋めるように自分達には夢が与えられた。いや、我らが草神曰く、そもそもずっと自分達が見続けていた夢を奪われていただけに過ぎないのだけれど。ともかくそれを色彩を取り戻したように感じたり、再び世界が広がったように感じたりする者も一定数いる。
 カーヴェも多分に漏れず成長するにつれ夢を無くした者の一人で、再び見るようになった支離滅裂な物語をそれなりに楽しんでいる。全面的にと言えないのは仕事関連の悪夢に留まらず、やたらと昔の記憶を焼き増ししたような内容をそれなりの頻度で見てしまうせいだった。それも楽しいものならともかく、苦さを孕むものばかりをカーヴェの脳は選んでいるらしい。
 カーヴェの脳が選びたがる記憶として筆頭に上がるのは、自身が教令院で共同研究をしていた頃だった。もっと具体的に時期を指し示すなら段々と人が減っていき、アルハイゼンとの仲も険悪になってくる頃合いである。もっと振り返るべき過去なんていくらでもあるだろうにと思うのに、カーヴェが制御しきれない自分自身はどうやらそう考えられないらしい。
「夢を見るようになったじゃないか」
 カーヴェの好みで夕飯に用意されたスープを不服そうに啜るアルハイゼンに投げかけると、彼は視線だけ寄こしてきた。まだ続きがあると踏んでいるのか、特にこれといった返事はない。正しい判断だと、胸中だけでカーヴェはアルハイゼンを褒めてやる。
「僕は昔の事を結構夢に見るんだけど、君はどうかなと思って」
 スプーンをスープの器に下ろして、アルハイゼンはちらりと視線をカーヴェから外す。きっと、記憶に残っている夢を思い返しているのだろう。
「そうだな。たまに見る。元々夢が記憶の整理及び定着の目的であるのなら、珍しくもないと思うが」
「んー、たしかにそうらしいけど、いつまで整理したら気が済むんだ? 元々夢は見ていたはずなんだから、僕らはもう何年も同じ記憶を整理している事になる」
 さすがに非効率過ぎやしないか、と漏らした不平に反論や指摘がなかったということは頻度こそ異なるだろうがアルハイゼンも似たような状況なのだろう。自分も彼もそうなのだから、別段珍しい事ではなさそうだと判断してもいいのだろうか。
「君はそれをいい夢だと判断しているのか?」
「うーん、いい夢かと言われると……ただ、あの頃からやり直せればと思うことはあるよ」
 アルハイゼンに尋ねられてカーヴェはしばらく考え込んだ。記憶としては良くないものの部類に入るのは間違いないが、最悪に到達する前のものがほとんどだ。はっきりと評価できないまま、カーヴェは素直な気持ちだけを吐露した。
 きっと、今の自分ならもう少しうまくできただろうと思うし、実際うまく振る舞う夢を見ることもある。ちょっとした後悔の積み重ねであの頃のカーヴェはできていたといっても差し支えないが、人間誰しもそういう部分はあるはずだ。
……どんな夢を見ている?」
……話したくない」
 君には、と文頭に付けそうになって、カーヴェは何とか喉の奥に飲み込んだ。アルハイゼンに伝えたくないのは事実だが、他の誰かになら伝えてもいいという話でもない。
「なら、訊き方を変えよう。君が見る夢は君の気分を良くさせたり、できればずっと見ていたい気持ちにさせたりするものだったか?」
 カーヴェの拒否を見越していたのか、あっさりと引き下がるアルハイゼンにカーヴェは引っかかりを感じる。彼がカーヴェから引き出したい内容は夢の詳細にはないのだろうか。
「いや、そういうものではないかな。もう一度やり直せるのならやり直してみたいとは思うけど、気分の良いものかと言えばそうでもない。どうしてそんなことを?」
「クラクサナリデビ様の沙汰を聞いていないのか?」
「クラクサナリデビ様? ああ、夢に執着しないように、だったっけ?」
 彼は母国の神を崇拝はしないが尊重はする。最初は面喰ったものの、言動を観察しているうちに彼なりに敬意を持っているとカーヴェは理解した。今となっては絶妙なさじ加減であるとは思っているのだが、スメールの英雄になった手前もう少し言葉に気をつけた方が良いのではないかと案じてしまう瞬間はある。まあこれは、草神に対してだけの話ではないのだが。
「過去に失ったものの夢を見た者が夢に囚われる事象が発生しているらしい。クラクサナリデビ様が直々に調査を進めているが、身近に似た症状が出る者がいれば報告するように言付けられている。それを踏まえて、君の夢において自覚症状はあるか?」
「そういうことか。はじめからそう言ってくれ」
 記憶と似通っているせいで鮮明に思い出せる夢の始終を思い返しながら腕を組んで小さく唸り、カーヴェはアルハイゼンの問いかけもついでに反芻する。
 カーヴェがかつて失った者。それは父であり母であり、そして眼前にいるこの男でもある。カーヴェは今までたくさんのものを取り零しながらここまで歩んできた。もちろん、失っていく一方だったなんて悲劇の主人公を気取るつもりは毛頭ない。ただ、事実としてカーヴェから滑り落ちていったものがあるというだけの話である。
「いや、そう深く考えない方がいいだろう。今の君にとっては該当する事態でなかったとしても、夢に魅了されるきっかけがあれば、同じ状態陥る可能性は非常に高い」
「ああ、たしかにそうだな。こんなことでクラクサナリデビ様のお手を今以上に煩わせる訳にもいかない」
 じゃあ訊くなと文句を言いそうになったが、訊かなければ判断のしようがないので致し方あるまい。草神が直々に対応しているのであれば自分にできることと言えば、被害を拡大させないよう注意するくらいである。
「とはいえ、誰かが意図的に引き起こしたものでなかったとしても、そうなる人はいるかもしれないな。何せ、何十年ぶりに見る人だっているわけだから、魅了されたっておかしくないだろう」
「ああ、そうだろうな」
 否定される要素はないとは思っていたものの、こうもあっさりと認められると少々意外に感じてしまう。アルハイゼンの事だから、多角度からの議論を求めて反証の一つ上げてくるかと思っていたのだが。
「おや、いやにあっさり同意するじゃないか。君にも何か思い当たる節が?」
「国内の睡眠導入剤の使用量が微量だが、増加傾向にあるらしい。もちろん、情勢の変化で不安が増大し、正当な手順で処方されている可能性の方が高いだろうが、長期的な観察は必要だろうな」
「君の個人的な所感だと思っていたんだが……まあ、そういうデータが出ているんなら何にせよしばらくややこしくなりそうだ」
 ちらりとカーヴェに視線を寄せたアルハイゼンが平坦な声で物騒な理由を披露してくるので、カーヴェは目を丸めてしまう。彼が言うように、国内情勢が起因であると考える方が妥当ではあるだろう。ただ、夢に浸るために薬に手を出してしまう者が全くいないとも言い切れない。
 厄介だな、と漏らした言葉にアルハイゼンは答えなかった。肯定なり反論なりをして会話を続けるつもりは彼にはもうないらしい。
 誰も気づかぬうちに簒奪されていたのはもちろん問題だったが、夢というものは戻ってきても騒動を引き起こそうとする。困ったものだと眉を顰めながらも、カーヴェはアルハイゼンと同様に食事に集中することにした。
 二人で食事を平らげてしまえば、就寝時刻までは思い思いの時間を過ごすことになる。余裕があれば居間に残ってこれ見よがしに居間に置いているアルハイゼンの推薦本に手を出しても良かったのだが、今は設計の進捗をもう少し進めたかった。食器を洗って軽く水回りを掃除する片手間に食後の茶を入れてから、最後にティーポットも洗って水を切る。
 コップを二つ持って居間に戻ると、アルハイゼンはすでに書斎へ引っ込んでいるらしい。廊下を淡く照らしている明かりを辿って書斎に向かうと、想像通りアルハイゼンがデスクの明かりを頼りに本を読んでいる。
「まだ熱いよ」
「うん、ありがとう」
 机にコップを置く前に彼が不用意に触ってしまわないように声をかけると、アルハイゼンが顔を上げないまま礼を言ってくる。ほとんど意識を手元の本にもっていかれているのに、彼はこういう時にちゃんとカーヴェに礼を言う。
 彼の育ての親でもある祖母の躾の賜物なのだろうが、アルハイゼンから他意なく謝意を述べられるのは少し気分が良い。自分の分を入れるからついでにというポーズを取りながらも、これを期待してアルハイゼンの分まで用意している節がカーヴェにはあった。
 少しだけ口元を緩めながら踵を返して私室に戻ると、カーヴェは中途半端なまま放っておいた図面に再び取りかかった。集中が切れた辺りで切り上げようと思ったのに、意外と順調に進んでしまったらしい。ふと気がついた頃には、随分と夜も深まっているようだった。
 折角入れたお茶も半分飲んだ辺りで常温に戻ってしまっている。コップを倒したり、鉛筆の削りカスを入れてしまったりしなかっただけまだましだろうが。
 そこそこきりの良いところだったので、カーヴェは先の丸くなった鉛筆を削って今夜の作業を切り上げることにする。どうせ起きたら同じ図面に向き合うので、片づけるのはちょっとしたことで無くしてしまいがちな文房具だけで良いだろう。仕上げとばかりにコップを一気に空にしてから立ち上がるとどっと疲れが押し寄せるのを感じて、こんなことなら先に風呂に入っておけば良かったと後悔する。
 一人暮らしであれば風呂も洗顔も諦めてしまっていたかもしれないが、アルハイゼンという同居人がいる手前そういう訳にも行かないだろう。人の外見を気にするような男ではないのは分かっているが、彼よりもカーヴェが気にするのである。
 ざっと湯を浴びて最低限の化粧水やら保湿剤やらを顔に塗りたくり、時計を見るとすでに日付が変わって一時間近く時間が経っている。時間を見たせいか余計にしょぼしょぼと眠気を訴える瞼をいなしつつ髪を乾かして、カーヴェは歯を磨いてから自室のベッドに潜り込んだ。それからコップを洗っていないのに気がついたが、もう腹痛にでも襲われない限りはベッドから足を下ろしたくなかった。
 甘い眠気に誘われながら、カーヴェはふと夕食での話題を思い出す。考えない方が良いと二人で合意したのに、即刻破ってしまったと思いながらも紡がれていく思考は止まらなかった。
 自分が夢見るように過去に戻れるならば、カーヴェはここで共同研究を最後まで全うできるのだろうか。できることなら完成稿までこぎつけたかったと思うのは、アルハイゼンが過剰な献身だと指摘するようなカーヴェの性質によるものではないだろう。
 だって、カーヴェはそのためにあれだけ自身を費やしてきたのだ。やり方はともかく心血を注いだものが台無しになった方が良かったなどと、どうして言えるだろうか。
 自分達が決別しなければ着手するはずだった研究のアプローチを夢現の狭間でカーヴェは思い出す。自分達の中途半端な研究結果を元に、多数の研究結果が発表されたのはカーヴェも知っていた。きっと、自分達が考えていた領域もすでに手をつけられていることだろう。
 悔しかった。当時のカーヴェはわんわんと一人泣き明かす羽目になったし、今だって悔しくて堪らない。そこにあるはずの何かを、自らの手で解き明かしたいと思うのは学院にいた者としての当然の欲求である。
 それと同時に、どうしようもなかったと今のカーヴェなら良く分かる。あの状況に陥らないようにする方法を今よりずっと若かったカーヴェは知らなかったし、アルハイゼンの正しくはありながらも手酷い指摘を自らの糧にする手法も分からなかった。
 いくらか経験を重ねたとはいえ今の自分がもう一度あの環境に身を投じたとして、上手く乗り切れるかも正直微妙なところだと思う。いかに舵取りが困難な状況だったか、歳を重ねるほどに分かるようになっていた。
 後悔と諦念の入り混じる思いを抱えながら、カーヴェはゆるゆると枕に頭を擦りつける。そのままぎゅっと目を閉じると、頭の大半を支配する眠気に沈むように意識を手放した。
 と、と、と歩く足取りは酷く重たい。酒精が抜けきっていないせいもあったが、この場合目的地の方が問題だろう。かつての後輩に先導されて登る坂にはカーヴェも覚えがあって、一歩足を前に進める度に予感が膨れ上がっていく。その家を見る前に予感は確信に変わっていたのだが、いざ目の当たりにしてしまうと動揺は押さえきれなくなってしまった。
 彼が住んでいたのは、かつて自分達が共同研究に使っていた建物だった。その建物を住居に転用し、アルハイゼンとカーヴェに授与するという話が教令院からあったのはカーヴェだって忘れていない。その時の自分には生家があったし、当時の記憶を呼び起こす物を所有するつもりなど毛頭なかった。故に自分は家の権利を放棄して、そのすべてをアルハイゼンが受け取る運びとなったのだ。
 その経緯に認識の相違はないだろうし、今だって別に不満はない。ただまさか、ここに彼が住んでいるとは思いもしなかった。
 家の前で立ち竦むカーヴェを一瞥して、アルハイゼンは平然と扉の鍵を開けてカーヴェを室内に誘った。戻る場所らしい場所もないのだから、覚悟を決めて入る他にない。
 ゆっくりと深呼吸をしてから意を決して敷居を跨ぐと、否応なしに当時の思い出が蘇った。まだ順調に研究が進んでいた頃の出来事から終末期の陰惨な雰囲気まで、ずっと蓋をして忘れていたつもりになっていた記憶がカーヴェの脳を支配しようとする。
 ほとんど正常な思考回路に戻ってはいるつもりだがまだ酒の影響が残っているのか、幸いその一つ一つの切れ味はどこか鈍く感じちくりと涙腺を差す程度だ。正常な頭でここに立ち入っていたら致命傷だったかもしれないと、カーヴェは体に残るアルコールの気配に少しばかり感謝した。
――どうしてこんな所に」
「ここ以上に職場に近い住宅はそうない」
 ぎいと音を立てて扉を閉め、戸締まりをするアルハイゼンに尋ねると、至極簡潔な回答があった。ああ、なるほど、と得心するついでに思考がそのまま音になる。
 仕事の申請絡みで教令院に出入りすることはそれなりにあって、彼の現在の職場くらいはカーヴェも把握できていた。そこから転職でもしていない限り彼は教令院に務めているはずで、ここ以上に良い立地があったとして、タイミングよく手放す者がいるとも思えない。
 とはいえ、である。
「良く住めたもんだな。あれだけ人がいた所に一人なんて」
「初めての事でもないからな」
 玄関の棚に鍵を置くと、アルハイゼンが暗い室内に明かりを灯していく。照らされた居間はやはり一人で過ごすには広すぎたが、彼はなんてことのない事として受け入れているらしかった。
 たしか、彼は両親も祖母も失っていたのだったか。両親は彼に記憶があるかも分からないくらい幼い時に事故で、祖母はまだ彼が子供と呼べる年頃に。家族が暮らしていたはずの場所に一人置き去りにされる感覚を思えば、こんなものは傷の一つにも入らないとカーヴェもこの身で理解しているはずだった。
「ごめん」
 あまりに不躾な言葉だったと謝罪したが、アルハイゼンはカーヴェに視線をくれただけで何も答えなかった。謝罪されれば許容すべきなんて考えはあまりに傲慢だと理性が鈍い思考回路に言い聞かせて、追加の文句がなかっただけ良かったと判断する。
「以前住んでいた家はどうしたんだ?」
「本を置いている」
 家にカーヴェを置いてもいいと酒場でカーヴェに提案したアルハイゼンはそれ以上旧家について説明するつもりはないようだった。一瞬そちらに住まわせてくれれば万事解決なのではないかと思ったが、自分の目の届かない自宅に人を住まわせたくない理由などいくらでもあるだろう。
 たとえば、幼い頃の記憶がある家に他人を上げたくないとか、そもそもカーヴェ自身が信用に値しないであるとか。自分達の今の関係を思えば、後者がより妥当な筋のように思える。であれば、自分が暮らす新居に置いた方がいくらか安心だ。
「ちなみに君を住まわせるつもりの部屋にも本を置いている」
「え」
「家具もないから週末までは居間のカウチを使って寝てくれ。居酒屋の長椅子よりかはましだろう」
「いや、そうだろうけど」
 居間には深入りせずに玄関から左手の廊下から繋がる部屋に案内されて、カーヴェは思わず閉口した。本棚もなく、本がぎっしりと詰まっているだろう箱が積み上げられているだけでこれといった家具もない。古本特有の黴臭さを感じながら、快適に暮らせるまでにはそれなりの労力と金銭が必要だと覚悟する。
 それからアルハイゼンの指示通り、カーヴェはしばらく居間で寝ることになった。アルハイゼンが成人としては異様な時間に就寝しがちだったため、特に不便を感じることもなかったのは幸いだった。いや、カーヴェが自室で仕事をするようになってからの問題の根源になるのだが、それはそれとして。
 使われていなかった部屋の空気を入れ替え、新しい家具を運び込み、他の部屋の本棚を整備して本を他所に移し替える。室内は家事や掃除はそれなりにしているらしくそう汚れてはいなかったものの、いかんせん本が多くてどこか雑然とした雰囲気が漂っている。すでに家主が読破しておりしばらく読み返す必要のない本をいくらか彼の旧家に送って、ようやくカーヴェが及第点をつけられる空間ができ上がった。
 そこでぴ、ぴ、と何かが鳴る音で目を覚ます。重たい瞼を開けるとメラックが淡く光りながらカーヴェが目覚めるのを待っていた。主人が目覚める時間を覚えたらしい工具鞄はいつの間にか目覚ましが鳴る少し前に微かな音を鳴らして、カーヴェを起こしてくれるようになったのだ。四角いケースを抱き込んで二度寝するとあからさまに萎れてしまうので、カーヴェが寝坊をすることはほとんどなくなっている。
「おはようメラック」
 あくび交じりに挨拶をすると、空中でぴょこんと跳ねたメラックがくるりと回って返事をくれる。相棒と呼んでも差し支えない我が工具箱は今日もすこぶる調子が良いらしい。
 寝巻のまま朝の支度をする間に、カーヴェは夢の内容を反芻する。この家に来てすぐの出来事をなぞるもので、掃除をしていた時に見た本も当時の記憶と相違ない。
 顔を洗って眠気を払い、室内用の軽い化粧をしてから朝食の準備をしていると、アルハイゼンがのっそりと私室から台所に顔を出す。いかにも不機嫌そうに見えるものの、彼は朝に弱いだけなので特に恐れる必要もない。いや、彼が恐ろしいことなど早々ないのだが。
「おはよう」
「うん、おはよう」
 コップ一杯の水を飲み干すのを待ってから朝の挨拶をすると、アルハイゼンが律儀に返事をしてくる。挨拶はコミュニケーションの基本であるというのはカーヴェの信条の一つなのだが、おそらく彼の祖母もそう考えていたのだろう。
 コップを置いて洗面台に向かう彼を見送って、カーヴェは再び朝食の支度に戻る。次に彼の顔を見る時には、アルハイゼンももう少ししゃんとした様子になっていた。
 朝食の時間はお互いのスケジュールを意識合わせの時間も兼ねている。クライアントとの打ち合わせで遅くなるから夕食は作り置きをしておくとか、今日は午後半休を取るから昼食を用意してほしいとか。少し前には万が一にもない事だったが、どうやら今日も定時で帰宅できそうにないらしい。可哀想に。
 自宅での自由時間の確保に心血を注ぐ彼にとって、代理賢者の職がどれだけ性に合わないかは想像に難くなかった。彼に能力がないとは言わないが、そもそも賢者のような政治にも関わる職など、相応の顕示欲や義務感がなければ割に合わない。緩く眉間に皺を寄せながら渋々予想の帰宅時間を述べてくるアルハイゼンに苦笑しながら、そろそろ温め直しても品質に差がない料理のレパートリーを増やすべきかと考える。
 代理と名がつくにしてはそこそこ長くなってきた彼の肩書きを前に、カーヴェの食事のバリエーションが厳しくなってきてしまったのだ。煮炊き物であればいくらでもあるのだろうが、汁物を好まない彼にとってはあまり好ましい料理とはいえないだろう。他人に作ってもらった料理なのだから文句を言わずに食べるべきという主張も正当ではあるが、望まぬ残業して帰ってくる者にその仕打ちはあんまりだ。
 アルハイゼンを仕事に送り出してから、カーヴェは記憶を頼りに廊下の本棚に目を通す。果たして夢で出くわした本はカーヴェが置き直した場所に押し込まれたままだった。
 古代文字の教本は背もボロボロになっていて、当時いかに使い込んだかを物語っている。そっと本棚から引き抜いて差し込んでくる朝日を頼りにページを捲ると、印刷の他に二種類の筆跡がそこここに見つかった。余白では足りないとばかりに紙切れに長々としたためた上で本に挟みこんでいるのはカーヴェの文字で、本に走り書きを直接書き込んでばかりなのはアルハイゼンの文字である。
 共同研究を行うにあたって、古代文字の知識は基本的に知論派の学生の力を借りていた。とはいえ、ある程度は自分も分かった方が効率が良く、初期段階でカーヴェはアルハイゼンから古代文字解読の手ほどきを受けたのだ。
 自分で書いたかすらも記憶にないものも少なくないメモを見返しながら、カーヴェは寝入る直前に思い起こしていたあの頃の研究予定を思い出していた。やりたいことがたくさんあった。そのすべてを、あの時の自分達は自らの手で解き明かせると確信していたに違いない。
――……ああ、そうか」
 アーカーシャに当時の研究資料を集めて提示するように要求しようとして、それがいくらか前に失われていた事を思い出す。市井が嘆くように、カーヴェもアーカーシャ端末を便利に使っていた部分もたしかにあったのだ。
 アーカーシャの発展のために学問が二の次とされていたという点には問題はあれど、学問をする上で大層便利だったのは間違いない。法と規則で縛って運用に注意を払えば問題ないとのカーヴェですら楽観的に感じる意見に、こういう時だけは賛同してしまいたくなる。けれど今までの支配から逃れるために、自分達は別の解法を選ぶべきなのだ。
 自分が抱えている仕事の進捗を思えば、午前中を余暇としてしまっても問題ないだろう。工事の監督役として現場に入らない限り、それなりに時間の融通が利くのは自営業の魅力と言える。もちろん、それが悪影響を及ぼすこともいくらだってあるわけだけれど。
 外出のために再度化粧を施して家から出れば、朝一番のタイミングで知恵の殿堂に辿り着いた。仕事量が増えているだろう司書を呼び止めて用件を伝えれば、一時間後には資料をまとめてくれるらしい。
 感謝を伝えてから自分でも目星をつけるために館内の本棚に目を通している最中に、アルハイゼンの姿を見ることはなかった。一介の書記官であった彼を探そうと思うと、デスクよりもまず知恵の殿堂を見に行ったものだったが、今はさすがに椅子に縛り付けられているのかもしれない。普段が怠けているだけと言ってしまえばそこまでなのだが、俄かに憐憫の情が沸き起こりそうになる。
「ん? ああ、ありがとう。時間だね」
 ほとんど連れ歩くのが癖になってきているメラックがぴ、と微かに音を立てた。まるで物音を立てるわけにはいかないとでも言いたげな控えめな音に、カーヴェは小さく笑ってしまう。
 図書館というと静寂が貴ばれる傾向はあるが、知恵の殿堂は少々性質を異にする。今はまだ学生が授業に出ているので静まり返っているものの、午後になればあちこちで議論に興じる若者の姿が見られるだろう。
 白熱するうちに口論めいてきて、隣の区画にいても内容を聞き取れるなんて事も珍しくもなんともない。それが喧嘩に発展しない間は彼らの意見交換を止める大人はどこにもいなかった。なにせ自分達もそうやって成長してきているので、そもそも止める側の立場がないのだ。
 不思議そうにカーヴェを見つめているメラックに後で理由を説明すると告げると、やっぱり小さな電子音が鳴るのでカーヴェは頬を緩めてしまう。そんな経緯を教えたところでメラックがどこまで理解できるか分からなかったが、知識とは所有している事が肝要なのだ。
 今分からなくとも、頭の片隅に記憶として残っていればいつかその子の糧になるとこの国の大人たちは考えている。カーヴェの父も同じように考えていたらしく、彼がこの世を離れて随分経ってからようやく真意を汲み取れたなんて事もいくらかあった。
 自らが生み出したか再び目覚めさせたかしたこの子はカーヴェが機能を停止させたり何かに破壊されたりでもしない限り、きっとカーヴェよりも長く活動するだろう。その中でたくさんの事に気づいてくれればいいと、カーヴェは願わずにいられない。
 メラックに先導されながら受付に戻り、司書から渡された研究資料の類をカーヴェは一つ一つ吟味する。まず自分達が中間報告として残した資料の詳細を押さえてから、そこから派生した他者の論文に目を通した。午前を過ぎて空腹を覚え始める頃になって、見覚えのある本に行き当たる。カーヴェの記憶が正しければ、たしかアルハイゼンの書斎でこんな背表紙を見たはずだった。
 序文に目を通しただけで、なかなかに品質が良さそうな文献だと見て取れた。あの書斎の品質を担保する一冊だと感じながらも、彼は共同研究に思うところが欠片もないのだろうかとちらりと思う。ひょっとしたら全く逆で、思うところがあるからこそ置いているのかもしれなかったが。
 司書から渡してもらった資料にざっと目を通したが、カーヴェの想像通り当時のカーヴェが明らかにしたかった部分はもう大体手をつけられてしまっていた。それでもまだ、手つかずの余白があるようにも感じられる。当時の未熟な自分には分からなかった側面を今の自分であれば、見出すことができるだろうか。