5日目
夢を見た。
水族館の中、水槽の中。青い世界。
ゆらめく光と、ごつごつした岩と、その隙間から伸びる海藻。
辺りには色とりどりの魚が泳いでいた。とりわけ大きな群れは、青、赤、黄色。その他、そこには属さないものたちもいて、個体の大小も様々だ。
各々に移りゆくそれらを、遠いような近いような距離でぼんやりと眺める自分も、いつの間にか水底に横たわっていた。
呼吸は問題なくできている。暗くはなかった。ただ、おそらくは遠くに揺れる水面を仰ぎ、まばたきをして過ごしている。
音のない、静まり返った世界は、けれども物寂しいどころかいっそ穏やかさでさえあった。無重力状態の空間では、全身を辺りそのものにまるごと委ねてしまうことすらできる。
そうして、そうあるだけで、いつも世界は事もなく済んでいた。
――そう。
お前は人魚などではない。
あえて言うなれば、足萎えの子。
ただどこにも行けないで、沈み揺蕩うばかりの女だ。
*
「
――――…………、」
目を覚ました場所は水中ではなく、見慣れた寝室だった。
薄暗い部屋に浮かんだ電球色の弱い明かりを見つめ、まだ夜は明けていないのか、とぼんやり思いながら身体を起こすと、隅の暗闇からふと影が揺らぐようにして少年の姿が現れる。
「起きたな。寝覚めの具合は?」
「
……アンデルセン、
……ごめん、あー、いや、
……少し打ったから、それが痛い、くらいかな。大事ではない程度」
「それは何よりだ。とっさの対応には多少慣れがあるのか」
「ん
……どうかなあ
……」
三琴は頬を掻き苦笑した。受け身の習いはないが、急な目眩に襲われた瞬間、頭だけはどうにか保護しようとしたことなら覚えている。
そういえば、倒れたのは台所のはずだ。意識を失う前の状況が徐々に蘇ってきた。
「きみがここまで運んでくれたの?」
「そんなわけあるか。俺は見ての通り非力な
子供だぞ。抱えるのは本の数冊くらいだ」
「え、それじゃあ、誰が」
予想と異なる返事に困惑する
三琴を見計らったようなタイミングで、枕元のスマートフォンが短い電子音を鳴らした。
「
――――」
条件反射で見やった画面に表示される通知。それだけで先の疑問の答えは暗に示されたものであったが、それでは、と彼女の中でまた諸々の疑念がもたげだす。
「
……足立さんと、会った?」
「連絡だけして倒れているお前を放置では、あまりに説明不足で用が足らなかったろうからな。まあ昨夜お前をベッドに運ばせたきりで、それからは丸一日経ったわけだが」
「え!? あっ、ほんとだ
……えっ? 丸一日寝てたってこと?」
「ああ。そのまま起きなかった可能性も考えればだいぶ軽症だな」
さらりと告げられた言葉に、
三琴は目を瞬かせた。
……そのまま、起きなかった可能性。現実味のない台詞が少女の中でじっくりと反芻され次第に重みを持っていく傍らで、アンデルセンは大仰に肩を竦めた。
「被害者ヅラをしているところで悪いが、言ってしまえば、この顛末はお前の身から出た錆のようなものだぞ。
単に昔の男の
足跡を辿っただけなら、あるいは池袋という街とお前の曖昧さに融和性が見出されなかったなら、俺が呼ばれることすらなかったやもしれん」
「は
……?」
「なんだ、豆鉄砲を喰ったハトのような顔をして。わからないか?
霊地と思しき場所のマナは薄く、その一方で明確にヒトならざるものがまるでヒトのように息づいている。
もともとおかしな場所なんだよ、この街は」
いくら本棚に各地の神話伝承を記した本が並んでいようとも、ファンタジーな世界観のゲームが混じっていようとも。
幼い子供に語り聞かせる教訓めいたおとぎ話ならいざしらず、
三琴くらいの年頃になれば、もはやそんなの虚構だと断じるほうが自然であろう。何故なら彼女はただの人間だ/魔術師ではない。
それは彼女にとってまさしく創作上の物語であり、棚における全てではないし、寧ろほんの一部のスペースしか占有していない。
けれどもきっとここでは実際に、何が起きても不思議ではない。それこそどこかで何かが揺らいだ拍子に、ヒトではないものが呼び寄せられることだってあるのかもしれない。
つまり、この地は異常と日常の入り交じる坩堝なのだ。多少おかしなものが混じっていようが平然と許容してしまうような、大雑把で不安定な。
「ただでさえそんな滅茶苦茶な土壌に情念込みで結び付けられれば、並大抵の輩はたまったものではない。愛は現実を歪めるものだ」
そうして
――これは言わばないものを探し歩き、ないのだと確かめることを以て完了する手続き。
結果として現れるのは、専らその『ないもの』によって存在を規定するという単一の機能。
聖杯などとは亜種としてすら到底言えない代物である。
「初めから疑わしかったとはいえ、何のことはない。やはりろくでもなかったな。ただひとりの女を己なければ成り立たぬものにせしめようとは、この上ないほどつまらん演目に与する羽目になった」
「
……え、えと。要するに
……?」
「お前はかの男がいないとこの街にいられない、と自ら言っただろう。此度の儀式はそれを真にするため仕組まれたものだということだ。
俺が選ばれたのはさしずめ作家として、ことの成り行きを綴り、お前を完成させる役割が欲しかったのか」
アンデルセンが小さくため息を吐く。心底呆れた、付き合っていられるか、とでも言いたげな気色を隠さず露わにする態度で。
「だが、あいにく俺がお前に書いてやれることはない。何しろ筆がぴくりとも進まん。
もとより器としてかたちを作ろうというなら、いっそ陶芸家を招くほうがよほど適していたろうな!」
いっそ清々しいほどにそう宣った童話作家に、少女はいまだ戸惑いを含んだ瞳を向け、問うた。
「つまり、君は
――君も、もう行ってしまうの?」
「は、馬鹿め。この数日で本当に理解できていないのか? 鈍感主人公仕草もいい加減にしておけ。
とうにお前はお前であるだけで存在できるものだ。何も特別ではなく、それが当然だ。然るに俺の手は必要ない。どこへなりとも行けばいい」
どこか最初の夜に似た、寂しげな幼子の如き声に。
答える彼の声色は何気なく、まるで眠る前にする読み聞かせの終わりを、そっと促すようでもあった。
「たとえ、『かたわもの』であれ
――ひょっとすれば何かの導きにその背を押され、表に飛び出ることもあろうさ」
<了>
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.