1日目
朝。
……いや、昼?
……ともかく、アラームの鳴った記憶がない。
起き抜けの鈍重な身体をひとまず横にひねる。遮光カーテンの隙間から漏れ出る光の筋に目を細めた。
なんだか布団から出るのが辛い。もう一度寝てしまいたい。そんな邪念に苛まれつつサイドテーブルに手を伸ばしスマホを取った。ホームボタンに親指を押し込めばカチンと小さく音がして、ぱっとディスプレイに光が灯る。眩しさについ眉根を寄せる。睨むように見つめた画面の上、映った時刻はちょうど12時だ。
残念ながらというべきか、案の定というべきか。もはや寝坊だとか遅刻だとかそういうレベルではない事実に額を押さえるが、やってしまったものは仕方がない。
今日は体調不良につき欠席、ということにしよう。半ば開き直る一方いまだ取り憑いてくる睡魔の誘惑を決死の思いで振り切ってのっそりと起き上がり、クローゼットから適当な服を引っ掴んだ後黙々と身支度を整えた。
そうして、それから。
「
――……アンデルセン?」
そろり、押し開けた扉の影からリビングの様子を伺う。しんと静まり返って人の気配がない空間はいつも通りの見慣れた景色で。若干の戸惑いを覚えつつ少年の名を口にすると、微かに空気が震えた。
――昨夜と同じように、光の粒子が粛々と端正な少年の姿を映し出す。
「起きたか」
応えた声の、胸に響く深みに一瞬面食らった。一夜明けて改めて聞いてもやたらに良い音をしている
……なんてしみじみ考えてしまう。
どうやら彼が現われた事自体は自然と受け止めているというのに、変なところでまだ頭が追いついていないようだ。私はふいと軽くかぶりを振って、昨夜別れたときと同じ姿勢でソファに腰掛けている少年に迷いながら問いかけた。
「ええと、
……朝食、食べる?」
「必要ない。サーヴァントに食事は不要だ」
「そっか。それじゃ、」
ちょっと待ってて、と告げてキッチンへ足を向ける。昼まで寝続けていた身体でも情けないことに腹は減る。しかし手間をかけるのも難だし、今朝はとりあえず食パンと紅茶で済ませようか。そんな目星を付けて食器棚に手を伸ばした。
右手の甲に痣のようなものがあると気がついたのはちょうどその時だ。
……いいや、痣と言うには正直無理があった。訂正する。それは鮮やかな赤一色でくっきりと刻み付けられた、特徴的だが見覚えのない意匠の紋であった。
「あのさ、アンデルセン」
「あん?」
「つかぬことをお聞きするけど」
これって消せるかな。そう言いながら振り向くと少年はこちらを見て目を丸くしていた。
*
「
……まあ、そうだな。今回の場合は競争相手がいないしお前自身魔術を使えない、二つの面から見ても他のマスターに見つかるといった危険はない。仮にそこらの一般人に見られたとしても変わったタトゥーかと思われる程度だろうよ。
が、確かに令呪を隠すというのはそこそこ理に適っている」
「ここいらの魔術師共の情勢がどうだかまで俺は知らんしな」とぼやき、テーブルへ置かれた少女の右手、その上にかざした自分の手をそっと退けた。白く滑らかで柔らかそうな、なんの変哲もない女の小さな手の甲が目に入る。即興の目隠しを施したそれをしげしげと観察してから、少女はこちらに面を向け不思議そうに小首を傾げた。
「私みたいに一般人に見られるのが嫌じゃないなら、隠さなくてもいいのでは?」
「令呪を持つ人間、マスターが存在しているということは、即ち聖杯が存在しているということになるだろう。
もしこの地に聖杯を知る者が居たならお前に接触してくる可能性がある。そいつが話の通じるまともな奴だという保証はあるか?」
「なるほど」
「理解が早くて結構」
令呪を消したいだのと言い出したのには流石に面食らったが、昨夜説明を省いた点で一応俺にも落ち度が無いとは言えない。皮肉を言うのは止しておいてやろう。
飲みかけの紅茶が入ったマグカップ一つと、(先程までトーストが一枚きりだが乗っていた)空の皿が一枚。随分と貧しいダイニングテーブルを挟んで相向かいの椅子に腰掛けた少女は、黙々と確認するように再び自分の右手を眺めたり令呪の浮かんでいた部分を左手でさすったりしている。
まるで何も知らない幼子のようだと思ったが、よくよく考えるまでもなく事実その通りだ。何の因果かたった一人、戦争をしなくていいからと聖杯に選ばれてしまったらしい、何の力も持たないただの小娘。見れば見るほど、その有り様をひしひしと実感させられる。
「
――あ、」
不意に何かを思い出したような声が上がった。直後、こちらと少女の視線がばちりと噛み合う。
少女は既に見られていたことにやや狼狽えた様子だったが、きゅっと軽く唇を結びもぞもぞと背筋を正してから真っ直ぐ俺を見つめ返した。
「私の名前は、平和島
三琴です」
特に物怖じしているわけでも緊張しているわけでもない。肩の力の抜けたごく自然な声音だった。名乗りを飾る敬語もきちんと据わっている。
「ええと、何から話すべきなのか、さっぱりなんだけれども」そう言いながら苦笑しカップを手に取る動作にぎこちなさはない。
「
……フン。昨日の今日だというのに、俺のような得体の知れない存在のいる環境に順応できるだけ大したものだ。
或いはあれか、お前は寝たらゴチャゴチャとしたことは忘れるタイプか?」
昨夜と違いむず痒さを訴えた口を抑えることはせず、直球に評価を与え直球に毒を突きつけてみせる。すると
三琴少女はカップを傾けながらその縁に口付けて、こくりと白い喉を動かした後そっと目を側めた。伏し目がちの瞼に生え揃った睫毛が瞳の色を曖昧に隠す。
「ン、いや、それもそうだけど
……まあ、色々あって。慣れてるというか」
「ほう?」
いやに含みのある言い方である。
「あぁ、別に口に出すのが辛いとかそういうんじゃなくて、言葉通りで。
こう、何かと突飛な出来事に縁がある、的な感じかな」
俺の反応に何か思うところがあったのか、すぐにそのような台詞が付け足された。疲れと諦めの入り混じった顔の上で唇だけが申し訳程度に弧を描いている。俺は固い背もたれに身体を預けつつ、いよいよかとひとまず黙って次の言葉を待った。あぁ、勿論
――身の上話を聞かされるならば、それも甘んじて拝聴しよう、と。
なにせ俺はサーヴァントだ。バーサーカーでもなくこうして正気で現世に召喚されてしまったからには、主人の言うことには従うのが道理。傷を舐めてやる趣味はないがそれはそれ、なんとも世知辛いくびきである。
さて、それでは10代中盤かそこらの子供がどんな歪みを抱えているというのか、是非とも聞かせてもらおうではないか。
なに、大抵のものはくだらないと扱き下ろし笑い飛ばしてやれる心得があるぞ。
「
……ううん、
…………そうだな。とりあえず、まぁ」
要領を得ない独り言。コトリ、小さな音を立ててカップの底がテーブルに付く。
――断じて待ち望んでいるわけではない。いくらネタ探しのために喚ばれたと言っても汎用な瑣末事に心を逸らせるほど飢えてはいない。
しかし如何に汎用であれ、なんの肴もないより僅かばかりは退屈を誤魔化せよう。
――さぁ、遠慮なくその口を開くがいい
――今か
――今か。
そんな調子で動向を見守っていた俺に。
少女は突如あっさりと、脈絡無く、事も無げにこう宣った。
「ちょっと、出ようか。案内するから」
先程まで微かに顔を覗かせていたはずの物語の端緒を、まるで最初から無かったものにするかのように。
その
面には紙きれの如きへらりとした薄い笑いだけが乗せられていた。
*
「聖杯を探すって話だけど、どのへんにあるとかわかるもんなの?」
右耳に着けたイヤホンをいじり、スマホを眺める振りをしながら
三琴は小声で尋ねた。
『さてな。範囲としては一応この辺りの区域、池袋周辺に絞られているようだが』
「あ、それは決まってるんだ
……うん? いやわりと範囲広いな。ほとんどノーヒントもいいとこなのでは」
意識に直接届く声に平然とした風で応える。傍目には誰かと通話をしているかのように装って、少女はすぐ隣にいる見えない少年と会話する。
――外へ出ようと言ったは良いものの、アンデルセンの姿は街を歩くには些か不適切だ。まったくの時代錯誤な格好というわけではないがコスプレと言われるに違いないし、その容貌はヒトならざるモノの容易には言い得ぬ美しさを湛えている。よしんば顔くらいなら帽子で隠すこともできようが、
三琴は彼にちょうど良く着られるような服など流石に持ち合わせてはいなかった。つまり、おそらくそのまま出歩けばどうやっても目立つ。
どうしたものかと
三琴が首を捻り始めた所、アンデルセンから霊体化なる手段の提示があり、こうして二人揃って街へ繰り出したのである。
……問題としては、
三琴からアンデルセンに対してはテレパシーが使えないため、話しかけるには実際に口を動かす必要があり。
即ち人目の多い場所では、一人で喋っていても不自然ではない様相を繕わなければならないわけだが。
『ある程度近づくことができれば感知することもできるだろうが、あまり離れたところにあるものの位置を把握することはできん。
強いて言うならまずは霊地に近い場所、あるいはここ最近おかしな噂のある場所を当たってみるのがセオリーだな』
「霊地と、噂のある場所?」
『そうだ。魔力は生命力、と言ったな? それは別に人間だけが持つものではない。自然界に存在するあらゆる動植物の命、更には大気や土地、現象やエネルギー。星にも寿命があるだろう?』
しかしどうやってもわざとらしいような気がして不安になるし、できれば知り合いには会いたくないな
――と憂いを含んだ目をしていた
三琴だったが、アンデルセンの言葉には関心を擽られるらしい。ふむ、と納得のいった顔をした彼女にアンデルセンは更に説明を付け足した。
『もし聖杯がこの街から魔力を吸い上げて動いているなら魔力の流れが太い地点を使うのが自然だろうし、そうした場所ではないところで何らかの異常や歪みが発生していれば怪しいと見るのが当然だ』
「うーん、じゃあとりあえずそれっぽいところを虱潰しに歩き回るしかないわけか
……。まぁどっちにしろ君を案内するってのもあるし別にいいけど」
『何だ、動くのが億劫なら俺が勝手に探索しても構わんぞ? サーヴァントだけを前線に送ってこき使い、マスターは大人しく引っ込んでいるのも実際聖杯戦争では定石だ。これでも旅には慣れているしな』
「ん、
……いや、私がそうしたい、というか。まぁ、気晴らしみたいなものでさ。付き合わせて悪いけど」
再び首を捻り出した
三琴をアンデルセンが軽くからかうと、乾いた苦笑いが返された。またもどこか引っかかる物言いだ。そのくせ先を顕すような気配はなく、アンデルセンは思わず眉を顰めた。
そういえば、何故魔術のまの字も知らないような人間がサーヴァント召喚の儀式などを行なったのか。いったいその話はどこで耳にしたと言うのか。
そもそもこいつの、
三琴の聖杯を求める理由とは。
あまり話の先を急くのは無粋だが、まだどうにもわからない点が多いのは事実。
さて、と
三琴に見えないところで彼女の姿を横目に捉えていると、突然その歩みがぴたりと止まった。
「やっほー
三琴。元気してる?」
声に向かって前方に視線を移せば、そこには全身黒尽くめの女がいた。右手の平が
三琴に向けてひらひらと踊っている。
アンデルセンにとっては初めて見る顔、初めて聞く声であったが、親しげに話しかけてきたその女性が
三琴の知己らしいことは見て取れた。
「狩沢さん。珍しいですね、お一人なんて」
「そう? まぁ買い物のときなんかはよく渡草っちに車出してもらうし、言われてみれば確かにそうかも」
三琴もすぐさま自然な態度で彼女に応じたので、ともかくアンデルセンは閉口することにした。
歳はいくつか離れているようだが、ただの女友達というところだろう。気安い調子で言葉を交わす二人を黙々と観察する。
「そういう
三琴こそ珍しいじゃん。今日学校は?」
「あー、はは。ちょっと取り返し付かないくらいの寝坊したので、サボりです」
「うっそ、マジ?
三琴にもそういうことあるんだ」
バツの悪そうな表情で頬を掻く
三琴と、それをケラケラと笑う狩沢。二言三言の会話のみでも、普段の
三琴の有り様は薄っすらと推測できる。
要するにこの少女は少なくとも対外的にはそこそこ律儀な振る舞いをしていて、それ故に周囲からそれなりの信頼を得ているのだろう。平素から積み上げたそれがあれば、いざという時多少の酌量が認められやすい。無論失態の程度や相手にもよるだろうが、初めから素直に受け入れてしまえばそれ以上の追訴も受けにくいというもの。開き直るのとはまったく異なり、自身は罪を罪としてきっちりと認めながら、他人には「まあこいつなら今回は大目に見ても良いか」と自然に思わせる。
ただしその一方で性根は馬鹿正直でも馬鹿真面目でもない。そうであれば例え小さな悪事でも言い淀んだはずであるし、そもそもこの場に足を運んではいないだろう。基本的にはルールに従うが、時と場合によっては善悪いずれをも選択し得るわけだ。
「あ、それならちょっとお茶してかない? たまにはガールズトークと洒落込みたいっていうか、色々と積もる話もあるっていうか。
もし予定があるとかなら今度でも全然いいんだけどさ」
「ん、
……ええと、そうですね
……」
アンデルセンが目を瞑り少女たちの声に耳を傾けながらそんな認識を組み上げていると、不意にそこへ迷いが差し込んだ。
ちらりとすぐ隣を見上げてみれば、どうしたものかという困り顔で彼に視線を向けている
三琴と、ばちりと目が合う。
――否。 彼女にアンデルセンの姿は見えておらず、実際は”目が合ったように錯覚した”だけだ。
『
……構わん、好きにするがいい。咲きかけの花を横から摘み取るのも野暮だ。お前がガールズトークとやらを俺に聞かれたくないならそれはそれだがな』
しかし、少女がこの状況で他の誰でもなく自分のことを気にかけているのは明白だ。
どの道付き合うより他にないというのに、こいつは。
内心呆れつつアンデルセンが返すと
三琴はほろりと表情を綻ばせ、「いや、急ぎの用は無くて。ただブラブラしてただけなので、是非お供させて下さい」と狩沢に告げた。
*
「そうそう、例のおまじない。やってみたけど全っ然でさー。ワクワクして布団入ったのに、そのままぐっすりだよ」
青を基調としてそこかしこに星のモチーフが散りばめられた店内、その奥まった二人席。
星型のグラスに差されたストローをくるくると弄びつつ、「ちゃんと触媒まで用意したのになー。何がダメだったのかな、詠唱? ひょっとして詠唱カンニングしてたのがアウトだったりする?」とぶつくさ言う狩沢に
三琴は思わず苦笑した。
「私あんまり霊感とか無いし、どーも縁がないみたいなんだよねぇああいうの。ゆまっちあたりは何か変な夢くらい見てそうだけど」
「あぁ、なんでしたっけ、いつだったか夢魔がどうこうとかって」
「そうそう。あー羨ましいよう、私のとこにも夢でいいから超絶美少年とか出てきてくれないかなぁ」
「ははは
…………そうですねぇ
…………」
まさか『自分もカンニングしたし、なんなら超絶美少年が今まさにすぐ側で控えている』などとは言えるはずもなく、少女は気まずい思いをコーヒーと共に飲み下す。幸い狩沢には気づかれていないようだが自分で自分の相槌にやはりぎこちなさを禁じ得ないし、おそらくアンデルセンの方は気づいているだろう。そう思ってから間もなく聞こえた小さな溜息に
三琴は心の中で平謝りする。
ところが少年は溜息こそ吐いたものの何の文句も揶揄も零さず、ただ少女の傍らで腕組みをしながらじっと彼女の横顔を見下ろしていた。
「
三琴はどう? ちゃんと寝られてる?」
そうしてそんな事情を知る由もなく狩沢から発せられた、ごく普通の何気ない問いかけ。
「
……ふふ、まぁ、元々結構夜更かしする方なので。ご心配には及びませんよ」
――それを受けてからカタリとカップをソーサーに戻すと同時に、何ということもなく微笑んだ
三琴を見て、アンデルセンは目を細めた。
「怪しいなー。そりゃ『毎日がハッピー☆元気いっぱいお転婆っ子☆』ってキャラじゃないけどさぁ、最近ますます陰ある大人しい系ミステリアスヒロイン度に磨きがかかってるんじゃない?」
「いやぁ、そもそもヒロインという柄では。私なんぞはそのへんの通行人Aですらない、精々雑踏の中の台詞も名もなきモブキャラですって」
「またまた。私、
三琴を
コス界隈に引きずり込むのまだ諦めてないんだからね。あ、ちなみに次の併せはー」
「いえ申し訳ないですがそれは結構です、謹んで辞退させて頂きます」
「うわ即答。流石のツンデレツンガール、近寄りがたいかと思ったら意外と柔らかいと見せかけてやっぱり一筋縄ではいかない難攻不落の城
……!」
「狩沢さんと遊馬崎さんくらいですよそんなこと言ってるの」
「えー、そうかなー」
のらり、くらり。互いに取り留めのない台詞を並べ立てふざけ合いながら、狩沢は
三琴を探っているし
三琴は間違いなくそれから逃げている。
攻防とは言えない。そのように称するにはあまりに穏やかで、ゆっくりと同じ場所を何度も繰り返し行き交い揺蕩うようなやり取りなのだ。
まるでそこから先へは進むことが出来ない、けれどもそういうものなのだと
理解った上で、あえてそうしているように。
「まぁ、何だろ。詳しいことは知らないけど、
三琴にとってそんな簡単な話じゃないんだろうなっていうのはわかるからさ。
”別にいつも通り、何でもない”って顔しなくたって、思う存分気に病んだって誰も責めたりしないって。
あ、勿論、だからって無理に弱みを見せろってわけじゃないけど」
「
……はい」
「それにさー、実際もうあれだけ俺のものですーってバッチリくっ付かれてたら、後から入るとこないじゃん? 言わば運命の番っていうか、約束された勝利の存在じゃん?
いやそこに敢えて立ち向かっていくヤツもそれはそれで燃えるものがあるけど、私じゃ良いとこ行き詰まったときそっといい感じにアドバイスしていくサポートキャラポジ止まりで個別√とか無い友情エンドだろうし」
「いや、それは微妙にコメントに困りますね
……」
「あはは。なんならこれを機に百合百合エンド有りの乙女ゲームでもやってみる? ハードごと貸すよ?」
少女らの交わす言葉は互いに互いを知る分曖昧で断片的で、それだけでは部外者である少年が全容を把握することは流石に到底不可能だ。アンデルセンは
三琴に聞こえないようにして再び溜息を吐く。
……それにしてもどうやら今度はまったく明後日の方向に話が向かわんとしているらしい。
女どものお喋りはこれだからキリがない
――そう肩を竦めながら。
*
これから駅へ向かうという狩沢と「それじゃあここで」と喫茶店を出たところで別れた後。
ひらひらと手を振りながら彼女の後ろ姿が雑踏に混じっていくのを見送り、暫くしてからその場に佇んだまま
三琴は小さく口を開いた。
「ええと、今の人は」
『後で良い』
「話が早い」
『少なくともあの女のファミリーネーム、それからお前達がころころと話題を転換しつつ途中でコーヒーのおかわりとパフェを追加注文して分け合う程度に仲睦まじいことは充分に理解した。
他に今すぐ言っておきたいことがあるなら聞くが、わざわざここで立ち話なんぞせずとも帰ってからにすればいい』
「ウン、そうね、その節は大変申し訳ない」
頬を掻き苦笑いする
三琴を横目に、アンデルセンが片眉を微かに上げる。
『
……俺の言葉をどう取るかはお前の勝手だがな。今のは別に長話を咎めたわけじゃないぞ。一度は良いと言っておいて後からぶつくさ文句を零す狭量な男と思われても癪だ』
一拍置いて顕れたどことなく不満げな空気には、しかしすぐに異なる色が差した。
「ああ、うん、それはわかってるけど。そうじゃなくて私がただ、横で人を待たせながら、その人そっちのけで別の人とばかり話してるのも何だなあって」
聞いてもよくわからないことばかりじゃつまらないだろうし、置いてけぼりにしてしまうじゃない?
三琴は腕組みをしてそう自嘲し、やや憂いを帯びた目で行き交う人々を景色として眺めている。
「お誘いされたらなんとなくその場のノリで乗っかってしまうけど、今はちょっとよろしくなかったよなあ。
……かと言って狩沢さんがこっちの事情を知る訳はないし、折角楽しくお喋りしてくれてるのをないがしろにもしたくないし。
やっぱ居るのに居ないようにするって難しいな
……、せめて君にも暇つぶしとか何か食べたり飲んだりして待ってもらうとかできたらよかったんだけど」
ううん、と目を瞑って小首を傾げ、少女は至って大真面目に悩んでいるらしい。
アンデルセンは半ば呆れながらも、馬鹿馬鹿しいとは言わなかった。お前たちの
サブカル話を聞いているだけでもそこそこ暇つぶしにはなった、と言うのもやめた。
『ふん、執筆に行き詰まって脳味噌がマトモに働いていないのでもなし、たとえ勧められたとてあの甘ったるい砂糖と脂肪の塊に手を出しはしなかったさ。コーヒーならともかく、どちらにしても要らん気遣いだ。
それよりも探索の続きだろう、口じゃなく足を動かせ足を。往来で延々と独り言を吐いている女というのも不審
……失礼、不憫だしな』
「んん、いやまぁ、ごもっともで。私もそう思う」
代わりに違う憎まれ口を叩きはしたが
――それごと促す声を素直に受け入れる少女が、彼には儘ならないものに見えると同時に憎からず感じた。
*
その後の二人はと言うと特に当て所も無く、ただぶらぶらとサンシャイン60通りを歩き続けた。聖杯から現代の生活に関する一定の必要な知識は与えられているというアンデルセンに、それじゃあ今日は取り敢えず単に観光みたいなもので良いかと
三琴が導出した至極単純な道行きだ。
途中ゲームセンターや生活雑貨店等にふらりと立ち寄りつつ。緩慢な足取りでだらだらと他愛のないやり取りを重ねながら。
何の騒ぎも聞きつけないまま日が暮れて、さてそろそろ帰ろうかと踵を返して
――しかし、再び件の喫茶店が入ったビルの面する交差点に差し掛かり。
駅までは凡そあと5,6分という距離に辿り着いたところで、突然にそれは起きた。
「
……三琴?」
昼間よりも人の数が増えた雑踏。比較的小柄な少女の身体は他の多くの影に紛れ埋もれており、彼女もまた人混みを構成するただの一要素に過ぎない筈だった。にも関わらず、紛れもなく彼女の名を呼ぶ声があった。
始めにアンデルセンが声の方向へ目をやった時、彼はいったいどの人間が少女の名を呼んだのか断定できなかった。声は男のものだったが、
三琴と似たような年格好の者などそこにはいない。狩沢のように幾分か年上、あるいは既に声変わりを迎えている年下の男という可能性も一応あったが、そもそも足を止めてこちらを見ているような人間がいない。然る後に、彼は怪訝な顔をして
三琴の様子を窺った。
「ぅえ、
――やば」
そう小さく呟いた彼女の見据える先から改めてそれらしき人物を特定し、アンデルセンはますます眉間の皺を深くした。
それは長身痩躯、バーテン服を纏った金髪の青年。ハンバーガーショップの外壁を背に煙草を燻らせている彼はサングラスをかけており、視線の向きは窺えないがよく見れば顔はしっかりと
三琴に向いている。
青年から特別に否定的な感情は見受けられない。それどころか先程の声音には妙な柔らかささえあった。
けれども少女の顔は心なしか青ざめ、下ろした腕の先ではぎゅうとその小さな手を握りしめている。血の気が引くほど白い、必死に不安を押しつぶそうとしている拳。顔には今すぐにでも逃げ出したいという無言の訴えがびっしり貼り付いているのに、それと裏腹に彼女の肩や足はびしりと強張って動きそうにない。
二人の間の距離は数メートル。痛々しさすら覚えさせる少女と対峙する青年からアンデルセンは目を背けずに、右手をそっと自身の胸の前へ上げた。彼自身の身体をかたち造るものと同じ、不可視の青い光が集まり、そこに一冊の本を作り出す。赤い表紙にベルトで装丁されたそれは開いた状態で彼の肩幅くらいに大きく、ふわふわと宙に浮かんで静かに煌めいている。
『マスター』
蛇に睨まれた蛙の如き主人に少年は呼びかけた。返事があるかないかは彼にとってどうでもよかった。
ぼそぼそと誰にも聞こえない呪文が零れ落ちるに合わせて、誰にも見えない本は一瞬にして輝きを増す。
魔術とは神秘であるが故に価値を保障される。霊体化したままとはいえこの喧騒の中、公の場、どんな物であれどんな形であれ魔術を行使するのは原則的に避けるべきで決して褒められたことではない。魔術はとにかく秘匿するもの。それが魔術師の常識である。
けれどアンデルセンは魔術師ではなく
童話作家だ。清澄にして鮮烈な水色の瞳に一切の躊躇は無かった。
『あれから充分離れるまで、一言たりとも声を出すなよ』
泥のような逡巡に飲まれ切った少女の耳にはっきりとその言葉が刻まれた瞬間。
実際には触れることのない少年の手がしかと少女の手首を掴んだ瞬間。
信号が赤から青に変わる。
「おい、お前なんでこの時間にこんなとこ
――」
そして青年が口を開くや否や
――彼の前から
三琴の姿は消え失せていた。
*
「
……おい。またひどい顔をしているぞ」
今にも死にそうだ。霊体化を解きながらはっきりと言い放ったアンデルセンの
台詞に誇張はなかった。
既に上がり框かまちを越えた所に立っている彼に対して、少女は靴も履いたまま彼の足元近くに両の手と膝を付きへたりと座り込んでいる。
「
……あー、はは。
……ごめん、ありがと」
へら、と薄く笑いかける表情からも消耗している気配は見て取れた。どうにかここまで帰ってはこれたが、それきり張り詰めていた糸が切れたのだろう。むしろよく保ったものだとアンデルセンは口に出さないまでも半ば感心すらした。
人目がありすぎる場所で取れる行動は限られている。追跡を避けたいならば
三琴自身の身体をすっかり隠してしまうのが最も手っ取り早く簡単で確実な手段であったが、それでは無関係の第三者にも事象を観測されてしまう。眼の前で急に人が消えたとなればおそらく騒ぎは避けられない。けれど魔力は無尽蔵ではないし魔術は完璧ではないのだ。誤魔化すのにも限界があり、ましてやどこで誰が何を見ているかもわからないあの場では、どれだけの範囲をカバーしても充分とは言い難い。
故にあの男の目だけを眩ますように術を使ったのだが
――こんなことならこいつにも何か軽い暗示をかけてやるべきだったか。
俯いた
三琴のつむじを見下ろしながら不意にそんな悔いが脳裏を過ったが、ほんの
一時邂逅しただけであのザマなのだからそれこそ無駄なことだろう。アンデルセンは軽くかぶりを振って溜息をつく。
「まったく。世話のやける主人め」
そんな悪態とともに彼は
三琴の正面へ音もなく一歩踏み出し、そっと手を伸ばした。する、と少年の滑らかな指先が少女の頬をかすめ顎の付け根に沿わされる。唐突な肌の感触に
三琴は思わずびくりと肩を震わせたが、撫でるようにして顎のラインをなぞっていくそれに抵抗することはなく、気付けば導かれるまま素直に
頤を持ち上げていた。静まり返った湖畔を思わせる双眸と視線が交差する。
「
――あんでる、せん」
それでも未だ意識はどこか薄弱として上の空にある
三琴にアンデルセンは囁く。
「少しずつでいい、ゆっくり呼吸しろ。力は抜け。息をすること以外何も考えるな。目は閉じてもいい」
耳に流れ込むその言葉は至極淡々として事務的であるのに、内実は穏やかに宥めて聞かせるような、どこまでも深く落ち着いた声音であった。
三琴は自ずから言われた通りに自然と大人しく目を閉じ力を抜き、呼吸することだけに意識を傾ける。
するとアンデルセンはそれを見計らってひと呼吸置き身を屈めて、徐に顔を寄せ、更に
三琴の額と己のそれとをこつんと合わせた。
吐息が当たるほどの至近距離で、少年は少女の頬に手を添え真剣な眼差しでまじまじと彼女の顔を見つめる。
「
……?
…………――!?!?」
急に近づいたアンデルセンの気配に一瞬で心臓が跳ね上がる。
三琴は反射的に目を開けそうになったが、ぎゅっと瞼に力を込め決死の思いで踏みとどまった。
そうして今一度なんとか息を整えながら、暗闇の中、両の頬を包む手の優しさと、さらさらとした前髪越しに伝わる体温におそるおそる身を任せる。
やがて二人の呼吸と温度は少しずつ混じり合わさり、一つになって溶け合い馴染んで。少女の頭の中はじわり、段々と温かで不思議な浮遊感に包まれていく。
「
――……落ち着いたか?」
暫くしてアンデルセンがそう尋ねるとともに身体を起こした頃には、
三琴の顔色は平素通りと言って遜色ない程度に回復していた。
三琴は離れていく心地よい微睡みが惜しいと袖を引くような気持ちになりながらゆっくり瞼を上げた。が、自分を見下ろす少年と真正面から目が合った途端、急速に頭へ流れ込んできた得も言われぬ気恥ずかしさにはっとする。
「
――――、
…………、
……っあ、の、」
いまのは、という彼女の台詞が音になることはなかった。しかしアンデルセンは『お前の言わんとしていることなどわかっている』といった面持ちをして平然と
三琴に言葉を返した。
「なに、魔力の流れが乱れていたのを少し調整してやっただけだ。パスを通して俺と合わせた。根本から改善とは行かんが、多少はマシだろう」
本来ならマスターからサーヴァントに魔力を供給するものだがな、と皮肉を付け。片眉を下げ不敵に笑った少年の容貌は息を呑むほど端正で、
三琴は「な、なるほど」と咄嗟に相槌を打つ傍ら何となく胸元を抑える。
一方でアンデルセンは彼女の振る舞いを意にも介していない風で、ただ少女の身体を上から下まで一瞥した後くるりと背を向けぞんざいに片手を振った。
「さて、それでは俺はまた霊体化しているからな。その方が魔力の消費は抑えられるし、お前も何かと気兼ねなく過ごせるだろ」
「えっ」
思わず口をついて出た声に
三琴が自分で驚いたのと、アンデルセンが怪訝な顔をして振り向いたのはほぼ同時だ。
「あ
……いや、その、ええと。 きみに、話をするって言ったから」
三琴はしどろもどろに続ける。
「まあ霊体化してても話自体はできるんだし、そこは私の我儘なんだけど。
どっちかって言うと目に見えるように居てくれた方がありがたい、というか
……むしろ見えないのに居るってのもなんか逆に落ち着かない、というか」
「
…………。小娘の私生活を覗いて喜ぶような嗜好は持ち合わせていない、と突き返したいところだが
……
まぁ、『姿が見えないのでは何時何処を見られているのかもわからん』と言われればそれも尤もか」
自分でも整理が追いついていないことを誤魔化さんとして、あわあわと依然混乱した頭で思いつくまま、ろくに処理しないまま繋ぎ合わせて出力した台詞。
三琴自身辟易し、アンデルセンもまた同様の印象を持つだろうと口にしたそばから後悔するほどの稚拙な言葉。
ところがアンデルセンは少しだけ考えるような素振りを見せた後、「良いぞ、従ってやる」と彼女の申し出をあっさり承諾した。
「
――――…………え?」
「ただし、まずは消費した分の魔力と体力をきっちり取り戻せ。うっかり倒れられても叶わんし、心身ともに安定した状態で俺の実体化を保つためにもだ」
「え、あ、はい」
「それとさっきのような応急処置ならともかく、くれぐれも日常の雑事においては頼ってくれるなよ。確かに俺はお前のサーヴァントだが、断じて小間使いではない。自分の身は自分で養うんだな」
「う、うん
……?」
「よし。わかったらさっさと飯を食うなり風呂に入るなりして速やかに床に就け、俺も勝手に休ませてもらう」
それから目を白黒させる少女を矢継ぎ早に追い立てて、再び無愛想に背を向ける。
差し伸べかけた手の行き場を改め、少年は腕を組みつつずかずかとリビングのソファを目指した。
なお、取り残された
三琴がそのまま玄関先で「取り敢えず風呂
……いや、ご飯? 冷蔵庫何かあったっけな
……」とあれこれ思案し始め。
痺れを切らしたアンデルセンにせっつかれることになるのはこの
十分後である。
<了>