ゆき
2024-03-24 12:43:50
13020文字
Public さめしし
 

さめしし お片付け箱

さめしし/短いのまとめて置き場。手前ほど新しい。


2025.2.16 さめししワンドロ「バレンタイン」
いつもと逆のことをする二人

そして、お出かけ前にお片付け


 約束の時間に村雨の家を訪ねると、勝手に上がってこいとドアロックを解除された。
 それ自体はそう珍しいことじゃない。一応、お邪魔しますとちいさく声をかけて、家に上がろうとした途端の違和感。というよりは、ドアを開けた瞬間から、甘い匂いが漂ってきていた。誰かいるのか? 今日は個人のチャットの方でやり取りをしていたから、他の友人がいるのとは違うだろうし。
 そもそも、さすがに獅子神にだって、玄関の様子を見れば村雨が一人でいるだろうことはあたりがつく。よほど何か仕掛けようと思っているわけでなければ、という注釈付きにはなるが。
 
 上着を脱いで廊下を進み、リビングに向かうにつれ暖かくなるのでジャケットも脱いで抱える。がさがさと紙袋が音を立てた。
 室温と同じくらい、リビングへ近づくたびにその匂いは一層強くなる。バターと砂糖の焼ける匂い、いや、これは。
「焦げてねぇか、村雨」
「む、でもまだあと五分ほど焼成時間がある」
「つーか、何してんの」
 滅多にキッチンに立つことのない村雨がオーブンレンジの前に立って、こちらを見もせずにじっとオレンジ色に光る庫内を見つめている。ソファに手にしていた荷物を置いて、キッチンへ近づく。
「見てわからんのか」
「お前がなんかオーブンで焦がしてることしか」
 少しムッとした表情を向ける村雨の横からオーブンを覗き込むと、天板の上にどっしりと生地が広げられて焼かれている。菓子を焼いている。
「時間前に出してかまわんのか」
「んー、よくわかんねぇけど、オレ見ていい?」
「背に腹は変えられん、頼む」
「竹串とかある?」
「そこにある」
 キッチンは目も当てられない惨状だった。ふるいにかけたらしい粉は広範囲に薄く積もり、おそらく卵がこぼれたあとや、生地が跳ねたようなあと。獅子神が持ち込んだ大小のボウルに至っては、使ったままの状態で生地が乾きかけている。これは逆に不幸中の幸いかもしれない。きっと、焼け具合を気にしてオーブンの前から離れられなかったのだ。
 そのわりに下準備はいい。ミトンは出ているし、ケーキクーラーもセットしてある。有り難くをそれを拝借して、獅子神は勝手知ったる村雨家のオーブンを、手順通り一時停止させて素早く天板を抜き取った。
 ずっしりと、重い。
「村雨、竹串」
「どこに刺すんだ」
「真ん中かな、底やぶんないようにゆっくりな」
「心得た」
 上は焦げはじめているが、元の生地の色と相まって少しわかりづらい。きっちりとしわなくセットされたオーブンシートの様子が村雨の性格を表しているようだ。そんなことを考えていると、すっと引き抜いた竹串が目の前にかざされた。
「どうだ」
 串の状態は、今少しだった。
「もうちょい焼いたほうがいいな」
「どうするんだ」
「このまま入れたら焦げちまうから、アルミホイルのっけて残りの時間焼けばいけると思う」
「なるほど。確か先日のあまりがこの辺に、あった、のせたらいいのか」
「そう、ちょっとくしゃっとして蓋みたいになるように、そう、熱いから気をつけろよ」
 指示を的確に理解した村雨の行動は早く、獅子神は早々にオーブンへ天板を戻し入れる。少し温度が下がってしまうだろうが、その辺は予熱も使ってやればうまくいくだろう。
 村雨がまたオレンジ色に光る庫内を見つめて、ホッと一息ついたのがおかしくてたまらなかった。
 
「で、これはどういう状況なんだよ」
「まだわからんのか、今日はバレンタインだ」
「おう。だからオレはお前の休みが被ってラッキーだと思って、百貨店の催事に朝から並んで片っ端からお前の好きそうなの買ってきたんだけど」
「私も浮かれてディナーの予約をとった」
「服装指定してきたから、そうだと思った」
「あなたいつもの格好だと、少しラフだからな」
 ジャケットを持つように指定されたので、獅子神は今日に合わせてチョコレートカラーのテーラードを選んだ。浮かれすぎかと心配したが、どうやらそうでもないらしい。
「ん、で?」
「チョコレートブラウニーだ。姪が作ったのを兄貴が見せてきた。小学生でもできる比較的簡単なものだと姪もいうので、私でもいけるのではないかと」
 この家に充満している甘い匂いの元凶。天板いっぱいのチョコレート生地に、ココア味の市販のクッキーやナッツが乗せられたそれ。
「焼きたてが食いてえなら、言えば作ってやるのに」
「違う。私じゃない」
「は」
「マヌケ、あなたに贈るものをつくっている。たまにはあなたのように、と考えたのだが、結局手伝わせてしまった」
 それにブラウニーは、焼いたら一晩置くものだ。そう言って村雨は、口をへの字に曲げてしまった。
……オレのなの」
「あなたの食生活を考えたら、ほかにもっと最適なものがあるのは承知している」
「ううん、すげぇ嬉しい。オレこういうの、はじめて」
 普段オート機能の温めしか使わない村雨が、わざわざオーブン機能を使うために引っ張り出してきた説明書。印刷されたレシピは、何度も確認したのか折れて汚れて、こすったあとがある。あの村雨が心配で前から離れられないほど気にかけて焼いたチョコレートブラウニー。
 誰かに手間を掛けてもらうのって、こんなにうれしいのか。気づいたら緩む口元が、止められなかった。
「あなたは本当に、素直でかわいいな」
「そりゃ、おまえ、嬉しいだろ」
「まあ、残念ながら口にするのは明日だが」
 先にあなたのくれるものをいただこう、と軽く唇を寄せられて、甘ったるい匂いに包まれたままをそれを受け入れる。
 村雨の後ろで、オーブンが焼き上がりの音を鳴らしていた。