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のま
2024-02-11 09:49:51
29550文字
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ストラグルなしじゃ終われない
2024.2.11.灼熱感謝祭合わせで発行した奥武高校オールキャラ短編集の全文です。過去のワンドロ4本(加筆修正済み)と書き下ろし3本をまとめています。
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ストラグルの果て
ホテルの給湯器は、昨夜からずっと壊れているようだった。
目もさめるようなつめたい水が、むきだしの水道管から勢いよく噴き出す。それを手のひらに受けて顔をすすぐと、山田は洗面所の鏡に映った己の顔をじっと見つめた。
インドの強い日差しによって一段と灼けた皮膚。ほんの少し眠たげで目つきの悪いまぶた。目尻にこまかく刻まれた皺。シーズン中のためか少し痩せぎみの頬。
──だいぶ老けたもんだよな、俺も。
ごわついたタオルで水滴を拭いながら、しみじみとそう思う。
だが、今日だけは老いを感じさせるわけにもいかない。
山田は鏡を覗き込むと、額にかかるやや伸びてきた前髪を人差し指ではらう。それから洗面台の脇に置いた整髪料のチューブを手に取った。
硬めのワックスを手に取り、念入りに伸ばしていると、
「シュン」扉の向こうから、男に呼びかけられた。「そろそろ出てくれないか? 俺も洗面所を使いたい」
山田はすこし声を張り上げる。
「オーケー、すぐ出るからちょっと待っててくれ」
両の手を使って、サイドの髪を後ろに勢いよく流す。それから片手で前髪をざっと掻き上げると、先ほどよりもこざっぱりとした男が鏡に映っていた。
急いで手を洗い流し、洗面所のドアを開ける。
「待たせたな」
ドアの前で待っていた男に声をかける。男は、「シュンはいつも支度が早いな」と笑って、かわりにドアの向こうに消えていった。
豊かな黒髪とよく鍛えられた体を持つその男とは、今シーズンをずっと同室で過ごしている。台湾出身でチーム期待のレイダーであるこの選手は、山田の半分程度の年齢で、プロカバディリーグに参加するのは今年が初めてだ。
「シュン。うちのチームのこととか、シーズン中の過ごし方とか、色々教えてやってくれよ。海外選手同士分かることもきっと多いだろ?」
とヘッドコーチに背を叩かれたことがきっかけで、山田はこの男とこの数ヶ月を一緒に過ごしてきた。山田がありとあらゆることを教えたおかげもあってか、彼は初めてのリーグ戦でも輝かしい結果を残している。
山田はマットレスに座り込むと、いつものようにリュックの中から愛用のサージカルテープを取り出す。
年を重ねた体はもはや笑えるほどガタガタだった。まるで機械が段々と壊れていくみたいにあちこちが噛み合わない。数年前に怪我をした膝の靭帯のあたりはもうずっと軋んでいるし、シーズン中に痛めた肘だってまだ完治していない。言うことを聞かないパーツたちを宥めて、今日だけは動いてくれよ、と念じながらテーピングで丁寧に丁寧に繋ぎ直していく。
サージカルテープのうすい剥離紙をゴミ箱に放る度、山田は思う。
──もうとっくに辞めるべきだったんだよな。
脳裏には、多くの人に惜しまれつつ引退した数々の名選手が浮かび上がる。その中にはもちろん、ヴィハーンもいた。スタープレイヤーの引退とあって、多くの惜しむ声が殺到したことが今ではもう大昔のように感じる。
テーピングやサポーターによってぎりぎり繋がっている自身の肉体を見下ろして、山田はほんの少し苦笑する
ここ数年、ゲームに出してもらうよりも若い選手の育成がメインの役割となりつつあった。今やチームで一番の古株となった山田にとって、同室の台湾の選手のような若手の選手がチームに馴染めるように土台を作ることが、期待されている役割だ。半面、肝心のゲームの出番は片手で十分数えられる程度だった。そのような形でずっと現役を続けたことを、未練がましい、と笑うものも多分いるだろうとは思っている。やはり、引退時期を間違えたのかもしれない、と今更ながら考えた。
再び、シュン、と呼ばれた。
マットレスに腰を下ろしたまま振り返ると、洗面所から身支度を整えた若い男が姿を現す。
「今日はもちろんゲームに出るんだろ」
ついに引退の日だな。そう言った男の顔は、やけに神妙で強張っていた。
思わず笑いが漏れる。
「お前が引退するみたいな顔するなって!」
そして、しょぼくれたように背を丸める青年の背中を叩いて激励する。「今日もかましてくれるんだろ? エース」
男はなぜだか泣きそうな顔をして「ありがとう」と言った。
嵌め込みの小さな窓から見える空は、突き抜けるように青い。
その眩しさに目を細めながら、山田はチームジャージを羽織った。
ふわりとした風が、ホテルのカーペットの細かな塵を舞い上げた。
最後の試合だというのに、驚くほど実感はなかった。
いつものようにベンチの中で、チームメイトと肩を寄せ合って試合の展開を淡々と見守る。
──後半十分。
三点ビハインドの拮抗した状況下、選手交代を告げるホイッスルが鋭く鳴り響いた。
コーチから耳打ちを受け、山田はようやくベンチから立ち上がる。
「頼んだぞ、シュン」
交代する選手は、汗を流しながら山田の肩を叩く。
「シュン、悔いのないプレーをしてこいよ」
何年も世話になったヘッドコーチの激励を受ける。
「シュン、本当にありがとう」
山田より若い選手たちが口々に言う。
それらを背に受けて、マットに足を踏み入れて深呼吸すると、ようやく〝引退〟の二文字が胸に迫った。何十年も前、初めてこの異国のコートに立った時みたいに、胸がふるえて指先がつめたくなっていくのがわかった。
そこでふと気がついた。──別にここまでぼろぼろになるまでやったことが間違いではない。引退時期を間違えたわけでもない。そもそも全てが間違っていたのだ、と。
日本一になれる、という言葉につられて幼馴染を連れてカバディを始めたことも、中学の時に初めてこの国に来て世界のレベルを知ってしまったことも、自信が底をついて辞めようと思ったことも、それでもやめられないのだと悟ってしまったことも、他の選手のように格好良く終われなくてこんなにぼろぼろの姿になるまで続けたことも、全てが全て、人生をかけた大間違いだったのだ、と知った。
でも、不思議なことに何度生まれたとしても、どこかでやり直せるとしても、きっと間違えると思うのだ。
異国の地、スタジアムの高い高い天井を見上げる。
山田の名前がコールされると、観客の誰かが小さな拍手を始めた。やがてそれはさざなみのように広がって、スタジアム中が熱気に満ちていく。
この国はとても暑い。いつだって。
山田は拳を握りしめると、最後の舞台となるコートへ駆け出した。
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