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のま
2024-02-11 09:49:51
29550文字
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ストラグルなしじゃ終われない
2024.2.11.灼熱感謝祭合わせで発行した奥武高校オールキャラ短編集の全文です。過去のワンドロ4本(加筆修正済み)と書き下ろし3本をまとめています。
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もうひとつの物語
指先で軽く触れたカバディマットはひどく乾いていた。
いつもなら気にも留めない表面の細かな凹凸までもがやけに指先に引っかかるような心地がして、ヴィハーンは、変だな、と思う。
うすらぼんやりした違和感を覚えながらも、スポットライトに照らし出されたコートに駆け出す。観客の声援が地を揺るがす。その声援の大きさからしてここはホームスタジアムなのだろうか。そう考えながら、コートの外をぐるりと周回し、ライン際に整列した。
そこでふと、明確な異変に気付く。
隣に並ぶはずのチームメイトは、左右どこを見渡してもいなかった。空っぽのカバディコートに、ヴィハーンただひとりだけが佇む。
──あれ、どうしてだろう。
一人で立つコートはひどく心もとない。
観客席からはチームを応援する声が変わらず聞こえてくるので、だんだん焦りさえもが生まれてくる。募る不安に耐えかねてきょろきょろとあたりを見渡す。
その時、コートの向かい側から一人の男が現れた。
ヴィハーンと同じ、白を基調とするユニフォームを纏ったその男。ゆっくりとこちらに向かって歩を進めてくる。
同じチームの誰かだろうか。ヴィハーンは目を凝らすが、よくよく見るとその白いユニフォームは自身が着ているものとは少しデザインが異なっていた。袖から伸びる男の腕は、生白く、ひょろりとしている。プロとしてキャリアを積んできて、ベテランと呼ばれる域になってきたヴィハーンだが、その背格好に思い当たりはなかった。
すると、あの男は誰なんだろう。ヴィハーンは眉を顰める。
困惑をよそに、男はマットに軽く触れ両手を合わせる。コートに足を踏み入れ、センターラインまでゆっくりと進む。そして唇に少し笑みを浮かべた。黒い前髪が軽やかに揺れる。
ようやく、ある一人の男の名がヴィハーンの脳裏に浮かび上がった。
「ナオト・オージョー」
ヴィハーンはラインに張り付いたまま、その男──今は亡き憧れの選手の名を呟いた。
王城直人は、もう二十年以上も前に亡くなっているはずだった。
その死因は、事故や持病ではなく、突然死のようなものだった、とヴィハーンは聞いている。最もその知らせを聞いたときは、まだ十歳にも満たなかったので、憧れの選手の死を信じることはできなかった。しかし、その次のシーズン、おそるおそるスタジアムに行くと、王城直人は本当にいなかった。いなかったばかりか、その死についてさえ満足に触れられることはなかった。
今、このコートに、インドの地で忘れ去られたはずの王城直人がいる。
センターラインで佇む直人は手を差し出し、ヴィハーンに向けて目配せをする。それに誘われるように、ヴィハーンの足が動く。
コートの中央まで進んで、直人と対峙する。
ライン一つを挟んだ距離で見る直人は、二十年以上前に手を繋いで入場した時と全く同じ顔をしていた。
直人は少し微笑むと、片手を差し出す。ヴィハーンはやや躊躇してから、その手をおずおずと握った。皮膚の少し硬くなった手のひら越しに、人間の温かみが伝わってくる。
──あのときのナオトがここにいる。
あまりに確かな男の体温に、ヴィハーンは生唾を飲み込む。背筋に確かな震えが走る。
直人は握った手をゆっくり離す。
そして、
「始めようか」と言った。
前傾姿勢を取るとゆらりと前腕を揺らした。特徴的なレイドのフォームだ。
ヴィハーンの体は反射的に下がり、守備の構えを取った。
どうして直人がここにいるのか、しかも憧れた時の姿形のままで。それはヴィハーンには分からなかったが、憧れの人との対戦、どんな形であっても拒む理由はひとつもない。
息を呑み、ただ攻撃を待つ。
観客の声援は何も聞こえない。世界にはヴィハーンと直人、二人だけしかいなくなる。
直人の唇の端が上がる。それが攻撃の合図だった。
直人の動きは重力を感じさせない。まるで自由に舞うような攻撃だった。予想できない軌道のタッチに、ほんの一瞬体勢がぐらつく。その隙を狙って、鋭い指先がヴィハーンのユニフォームの肩口を掠める。ヴィハーンはすぐに体勢を立て直し掴みにかかるが、その勢いをうまく利用した直人は自陣に背中から倒れ込む。その指先は、白線をゆうゆうと越していた。
「くっ
……
」
明確な負けに、ヴィハーンは思わず声を漏らす。
「一点、だね」直人は立ち上がり、人差し指を立てた。
二人だけだからオールアウトはなし。
そう言って直人はすたすたと歩き出すと、今度は守備の位置につく。
ヴィハーンも立ち上がり、かすかに弾んだ息を整える。攻守交代だ。
ひとつ大きく息を吸い、相手コートに踏み込んだ。
「カバディ、カバディ、カバディ──」
キャントを続けながら、標的をしっかり視界の中央に捉える。
標的の動きを注意深く読む。ここだ、というところで飛び出した。
直人はひらりとその攻撃をかわす。ヴィハーンは、一度距離を取り、そしてもう一度飛びかかる。やたらと体が軽い。まるで背中に羽が生えたみたいに、コートの中を縦横無尽に駆け抜けることができた。直人もそれは同じなのか、いともたやすくヴィハーンの攻撃を避けて回る。コーナーにじりじりと追い詰めて、背後に脚を繰り出すとようやくカバディシューズの爪先に鈍い感触を得た。身体が信じられないくらい軽い。靴に手が掠めるが、ダッシュで振り払う。
倒れることなく、帰陣した。
「今度はおれの勝ち、だね」
そう言うと額に汗を滲ませた直人が心底楽しそうに笑ったので、ヴィハーンの胸は大きく高鳴る。理由もなく直感した。
これが、人生で一番楽しいカバディだ、と。
今までたくさんのレイダーと対峙してきたが、こんなにわくわくしたのは初めてだった。
「続けようか」と直人が言う。
ヴィハーンは、「もちろん!」と声を弾ませた。
そこからは戯れのようでいて、それでいて下手に動けば身を切られるような緊張感に満ちた本気の勝負が続いた。もはや時間なんてどれくらい経ったかわからないし、点数だってもはや数えていない。ただただ高揚感に満ちて、体を構成する細胞のひとつひとつが喜んでいるような瞬間が何度も訪れた。
何度攻撃と守備を繰り返しただろうか。
ライン際の攻防で倒れ込んだ直人に、ヴィハーンは息を弾ませて手を差し出す。
「ねえ、もう一回やろう」
しかし、直人は立ち上がることはなかった。首を振る。
マットに座り込んだまま、「楽しかったなぁ
……
」という呟きだけが落ちた。
ヴィハーンはしゃがみこみ、直人の顔を覗き込む。
「どうして? もう少し、あと一回だけでいいから! やろう、やろうよ!」
この至福の時間をずっとずっと続けていたかった。
直人はもう一度、首を横に振る。そして、ヴィハーンを見て、満足げに微笑んだ。額に張り付いた前髪は汗でびっしょりと濡れている。まるで疲れるまで存分に遊んだ子供のような表情だった。
その笑みを見て、ヴィハーンははっきりと分かった。
──これで全て終わりなんだ。
この男と会うのは、これで最後だ。もちろん、カバディをするのも。
直人は宙に浮いたヴィハーンの手を取る。そして、握手をするように力強く握り締めた。
ヴィハーンが驚いて直人の顔を見ると、直人はいっそう手の力を強めた。その力強さは、単純にいい試合をした、と讃える以上に、何かを託すようなそんな重さがある気がしたので、思わず息を呑む。何かを言いたいけれども何も言葉は浮かばなかったので、ヴィハーンは懸命に直人の手を握り返した。
行かなきゃ。
直人がぽつりと漏らした。終わりの時はもう近い。
その時、ようやく言うべきことが分かった。
ヴィハーンは消えゆくすべてに向かって叫ぶ。
「ナオト、おれも楽しかった!」
それを聞いた直人の顔を、ヴィハーンは一生忘れないと思った。
湿度の高い国。アップや軽いトレーニングで使う小さな練習場は、空調が万全でないからか、床までもが少し湿っていてどこか黴臭い。
その床に張り付いて誰よりも丁寧に膝裏を伸ばしている男は、ヴィハーンの報告を聞くなり、素っ頓狂な声をあげた。
「えっ! お前はまだ引退する必要ないだろ、ヴィハーン」
このシーズンを最後にプロを引退しようと思う、と告げると、その男──山田駿はたいそう驚いて、それから声をひそめた。「なんでだよ」
旧くからの友人となったこの男の反応は、想定内だった。。
「前々から楽しいうちに引退しようとは思ってたからね」
ほんの少し迷ったが、直人の夢のことは言わなかった。
身体のコンディションから考えても、今年が楽しくできる最後かなって──そう答えると山田は釈然としない表情を浮かべた。
「今シーズンもランキング入ってるし調子いいだろ。お前ならまだ十分やれると思うけどな」
唇を尖らせ、何かぶつぶつと呟いている。しかし、それ以上強く引き止めることもしなかった。
幾分あっさりとした反応に、ヴィハーンが試しに、
「止めないの?」
と聞いてみると、山田は膝をさすりながら、んーと唸る。その膝にはサポーターがきっちりと巻かれており、膝から内ももにかけてはテーピングが入念に施されている。
「まあ、もう若くねえのは俺も分かるからさ。毎年どんどん新しいすげえやつも入ってくるしよぉ、やってらんねえよな」
そして、練習場の真ん中でトレーニングを開始した若い選手たちを顎でしゃくる。今年プロデビューしたばかりの選手や、チームの二番手として控えている有力な選手が、活発に動き回っている。恐れも何もない動きは、ヴィハーンからしても、少し羨ましいくらいだ。
それを見て、山田はぽつりと漏らす。
結局、自分の選手生命を自分で決められるうちが幸せなんだよな。
その一言は、誰に向けての言葉かわからなかったし、それがヴィハーンの引退の決意の原因ではなかった。けれども、言葉自体はその通りだと思ったのでヴィハーンは素直に頷いた。怪我に泣いて辞める選手、指名が取れなくなって辞めざるを得なくなる選手、家業に呼び戻されて田舎に帰る選手、十年ほどになってきたプロ生活で、いろんな選手が泣く泣く競技を去っていくのを幾度となく見送ってきた。そういう意味で、楽しく終われる、というのは確かにいちばんの贅沢なのかもしれない。
はぁ、と山田は長い長いため息をつく。
そしてヴィハーンに問いかけた。
「なあ、引退したら何するんだよ」
「そうだね、カバディの楽しさを伝える側に回ろうかなって」
「チームのコーチとか?」
「プロチームのコーチよりは、もっと下の世代に教えるのがいいかなって思ってるよ」
日本で教えるのもいいかもと思っている、とヴィハーンは続けた。幼い日に王城直人に会っていなかったら、アカデミーの頃山田に会っていなかったら、誘われて日本に行っていなかったら、多分ここにはいなかったと思うから。
それが、あの夢を見てから出した結論だった。
山田はふうん、と頷くと、「日本代表の監督に話しといてやろうか? お前が日本に来るって言うなら引く手数多だよ」と言った。
ヴィハーンはほんの少し驚いたが、「ありがとう」と礼を言った。日本で教えるというアイディアは、まだ思い付きみたいなもので実現する方法は考えていなかったが、山田の一言で一気に現実味を帯びてきた。
ヴィハーンは立ち上がってジャージについた埃を払いながら、ふと考える。
──サンダーのこういうとこ、全然変わらないな。
この男は多分、これからも身近な誰かにそっと手を差し伸べながら、カバディを続けていくのだろう、と直感する。十代のころ、プロ入り前のあの絶望の夜と孤独な暗闇からヴィハーンを救うきっかけをくれたように。
それを思うと、胸に熱いものがこみあげてきた。ストレッチを終え、「お前がいないと張り合いが無くなるよなあ」とぼやく男に対して、ヴィハーンは手を差しのべた。
「サンダーにはまだまだやることあるでしょ、たくさん」
山田は差し伸べられた手を前に不思議そうな顔をする。
ほら、とヴィハーンが促すと、山田はようやくその手を掴み、立ち上がる。
ヴィハーンは山田の手をぎゅっと強く握りこんだ。その手は、夢の中の直人とはまた違う硬さ、温度を持っていたので、ヴィハーンは不思議な感情に襲われた。直人とも、ヴィハーンとも違う方法で、カバディを愛し、伝えていく男の手なんだな、と静かに、そして確かに思う。それは尊敬や感謝や祈りの入り混じったような感情だった。マットに触れて手を合わせる時の気持ちともよく似ている。
物言わぬヴィハーンに山田は困惑の表情を浮かべた。
「お、おう、なんだよ」
「えーと
……
」
ヴィハーンは頭の中から久しぶりに日本語を引っ張り出す。「ありがとう、サンダー」
山田は少し驚いた顔をして、それから
「
……
どういたしまして?」
と同じく日本語で返した。普段は英語でやり取りすることが多いからか、久しぶりの日本でのぎこちない会話は、なんだかくすぐったいように感じて笑いが漏れる。
「ヴィハーンの日本語、久々に聞くな」
「ふふ、サンダーの日本語、なんだかぎこちないね」
「おいおい、俺は日本語ネイティブだぜ!」
他愛もない日本語でのやりとりを続けていると、チームメイトがどうしたものかと何人か寄ってくる。二人で何話してるんだ、仲いいな。ニホンゴか、俺たちにも教えてくれ。そのあとヒンディーをもうちょっとシュンに教えてやるよ。
あっという間に、山田もヴィハーンもチームメイトの会話に巻き込まれていく。
喧騒の中、ヴィハーンはもういちどだけ、心のうちで感謝の言葉を呟いた。
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