「ショウメイのヒ」

エガキナマキナ
/ 見上深雪・見上透夏・ヒガン
/ Event:自戒予告



00-「傷迷の日」



 本当は、自由なんかいらなかったのかもしれない。

 ふと自分の手が止まったことに気がついて顔を上げた。
 先ほどまでとそう変わらない景色が広がっている。誰かの音楽が鳴り響いて、誰かの筆先が走り続けて、誰かの夢が紡がれている。
 手元の原稿用紙には、歩きながら書き進めているせいで、ミミズがのたくったような文字が連ねられている。そんな文字だろうと書き直しも消しもしない。誰にも読めないだろうな、と喉で笑うだけだ。
 誰かに見てもらいたくて始めたことではなかった。
 俺にとっての創作は、きっとどこまでいっても、俺の為のものだった。
……それでもここにいるのは、なんでなんだろうな)
 明確な解答はいつまでも見つからない。大して見つけようともしていなかった。
 それでも、この場所が居場所だということだけは、しんから信じているつもりだった。

 どこにも居場所がなかったから、たったそれだけのこと?


* * *

 学生時代。
 図書室にある本は、手当たり次第に乱読した。少なくとも八割は読了したのではないかと思う。電車に乗って図書館にも通いつめたし、本屋にも足繁く通った。
 本さえ読んでいれば、教室で誰かが話しかけてくることもなかったし、誰とも会話していない自分が、変に浮くこともなかった。
 ――たくさん本を読んでいて偉いね。
 ――なにかおすすめの本はある?
 ――本もいいけど、僕たちとも遊ぼうよ。
 ――今週末、みんなで出かけるんだけど一緒にどう?
 日墨くん、と甘ったるい口調で呼ばれるたびに、胸の奥から何かが迫り上がってくるような気がして、嫌だった。
 何がこんなにも受け付けないのか。当たり前のような会話、当たり前なはずの気遣いに、いつも息が詰まって仕方がなかった。それがなぜなのかという理由もわからないまま、なにを間違えたのかも定かではないかまま、ただただ闇雲に物語に手を伸ばしては裏切られていた。
 本の中にはここではない世界が広がっている。なのにどんな世界も変わらず優しくて、それが苦しくて仕方がなかった。
 手を伸ばすことが当たり前で、優しくするのが当たり前で、傷をつけるのは悪いことで、当然のことを正しく行っていれば報われる。
 たったそれだけのことができないから、俺はこうしてページを捲っているのに。
 どこにも。どこにも、俺のような人間の存在が許される世界はなかった。

 俺のような人間は可哀想だから救われるべきらしい。
 俺のような人間には優しくするのが正しいらしい。
 だから、誰もが甘ったるい声で、真綿のような哀れみをくれる。装飾過多の自意識がまざまざと醜く見える。

 そんな風に感じてしまう、そのこと自体が「正しくない」ことを知っていた。
 周囲との剥離が恐ろしかった。それでも合わせられない自分が嫌だった。両親への罪悪感で押し潰されそうになっていた。呼吸の仕方を忘れる日もあった、眠れないまま文字を追いかける日もあった、爪痕が腕に残る日も、喉が焼ける日も、何度も、何度も。


……今思えば、当然のことだ。俺の居場所は「正しくない場所」にしかねえんだから)
 家の押し入れから出てきた、世間一般に言う不健全な本に救われたあの日から。
 文字の向こう。街灯ばかりの新月の夜、血塗れの男を見下ろす少女の瞳を、血の滴るナイフを、確かにこの目で見上げたあの日。
 あんなもので救われてしまったのだから、俺が、世間と迎合できるはずもなかったのだ。
……俺には誰も理解できないように、俺のことも、誰も理解できないんだ。 それは当たり前のことで、別段、それは罪じゃない)
 死だけが、普遍的事実だ。死だけが平等で、死だけが現実を以て俺を襲ってくれる。それを運んでくるのは、あの日、文字の中で目の合った少女のような子供がいい。俺のことを正しく愛せないような少女がいい。
 模範解答みたいな愛も、死もいらない。
 どうせ俺の人生は、間違えなければ進まないのだから。


* * *

 ふ、と息を吐いて、舞い散っている紙に視線を動かす。よくは見えないが、そこにはイラストが描かれている、マンガが描かれている、文字で埋め尽くされている。
 いかんせん小説以外の創作活動には疎い自覚はあるが、それでも最近は、知人の影響でいろいろと見ているつもりだ。良し悪しがわかるレベルではないが、いずれも――いずれも、愛すべき創作であることくらいは、手に取るようにわかる。

 人は人を理解し得ない。学生の時分に得た知見は、今も俺の根本に座しては揺るがない。
 誰も理解できないし、誰に理解されずとも良い。
 俺の世界は俺で閉じている。
 それでも。

 ひときわ大きな声が上がって、高らかな音が響いた。没の戦闘だろう、どこかで爆発音が聞こえている。
 今、息ができているのは紛れもない事実だ。
 なぜここにいるのか、その理由は未だ掴めない。けれど、ここにいればもっと良いものを生み出せると信じていることも確かだ。
……世界は、広がるモンだな)
 死以外の普遍性。俺と同じものを、誰かの向こうに見いだせることの幸福。
 創作への熱だけが、俺を走らせ、突き動かしている。

 その炎症が、いつかの傷も掻き消していくだけだ。