はりぼて自家発電所
2024-01-21 18:21:55
65045文字
Public カイオエ長編
 

軟派な彼と難攻不落 最終章








 彷徨う二人の矜持と行方 













「僕はきみを信じるしかないのに、きみは僕を……

 裏切るの?

 いつものように、意地の悪い言葉で詰ってやるはずだったのに、それはオーエンの口から出ることは無かった。どうしてだろう、鉛が喉に詰まっているみたいだ。

 覚悟なんて出来ているはずなのに、「そうだ」と言われることを恐れているかのよう。

 なのにカインは、こんな時ばかり察しが良くて、そして、



 残酷だった。



「俺は、――……











 カインの部屋から女を連れ出した後。
 目の前にはにやにや笑う女と、その背後で下僕のように付き従う数人の男達。彼等が現れた途端、女は勝ち誇ったように腕を組んで仁王立ちしていた。

「カインの前から消えてくれる? 男が好きなら、この中からどれでも好きな奴をあげるわ。それとも、前の男が良かった?」

 言われなくてもカインとは元より離れるつもりであったが、この女の言うことを聞くのは癪だった。彼女がこっそりカインと付き合っていたなんて眉唾物の嘘だが、そうでなければこのタイミングで女が来る理由が分からないのは確かだ。放っておく訳にも行かず、オーエンは警戒心を隠さないまま女に質問してやった。

「前の男? なんでおまえがそんなこと知ってるの?」
「私、結構顔が広いの。あれだけ男と遊んでれば、恨まれるのも当然よ」
「恨まれるようなことをした記憶はないよ。向こうが勝手に言い寄ってきて、勝手に被害者面してるだけ」

 オーエンは自分が誰にどう思われようが興味は無かった。そんなことよりも、この女がオーエンを襲った犯人であるあの男と繋がっていて、オーエンとカインが怪我をしたことを知って押しかけてきた、ということが分かってうんざりする。チャンスとでも思ったのだろう。どうせ返ってくるのは面白くもない話だろうから、詳しく聞く気は起きないのだけれど。
 女の汚い言葉遣いは、聞くに耐えない。

「ふうん。まあ良いわ、二度とカインの前に出られない体にしてあげる」

 男達がじりじりと近づいてくるので、オーエンは一歩後退しながら、迷わずスマホを出して双子の電話番号を呼び出した。背に腹はかえられない。

「呼ばせないで!」

 男達が飛びかかって来て、取り落としたスマホが踏み潰される。オーエンは舌打ちをして、長い足を振り上げた。足裏を男の鳩尾にめり込ませて、前かがみになったところで頭を引き寄せ、その顎を膝に叩きつける。反撃されると思っていなかったのか、容赦ない攻撃に他の奴らが怯んでいる間に、踵を返して走り出す。

「お、追いなさいよ!」

 すぐさま細い路地裏に入り、待ち伏せをして二人目の男の顔面を思いっきり殴りつけた。吹っ飛ばす予定だったのに、力が足りなかったのか相手はよろめいただけだった。苛立ち混じりの目潰しをして、間髪を入れず蹴り倒す。あと二人。警戒され始めてもう騙し討ちは通用しなさそうだったが、逃げる時間は稼げそうだった。
 なんとかやり過ごして、物陰に身を隠す。全力疾走なんてしてないのに、身体中の血液が脈打っていた。忙しなく空気を取り込んでは、吐き出す。胸を押さえる手は震えている。

 ―― 怖かった。

 力で敵わず、押さえつけられて、良いようにされた時の恐怖が甦った。一方的にボコボコにしたりされたりは何度もあった。喧嘩自体は学生以来のことだったけれど、こんなにも緊張したのは初めてだった。
 本当に、いつの間にこんなに弱くなってしまったのだろう。悔しくて滲みそうになる涙を、唇を噛んで堪える。

「カイン……

 思わず呟いてしまった彼はしかし、オーエンを助けてくれる余裕も、義理も、きっとない。それに、別れ際、あんな不安そうな顔を初めて見た。行かないで、と言われているみたいで、落ち着かなかった。オーエンは知っている。記憶がないということが、どれだけ恐ろしく、苦しいことなのか。
 地面に座り込んで、膝を抱える。どうしたらいいか分からない。
 どうしたらいい? そう問いかけて、オーエンが思いつきもしない、暖かな陽だまりみたいな言葉で応えてくれる声は、もうない。

「「オーエン」」

 嬉しそうに笑って、そう名前を呼んでくれる彼はもう、居ない。ぼんやりと顔をあげると、近い目線に幼い双子の顔があった。

「無事じゃったか。そなた、カインの世話をすると言っておったじゃろう」
「男が二人、路上に転がっておったぞ。このような所でうずくまって、一体どうしたというのじゃ」
……やめた」

 オーエンは簡潔に答える。

「「なに?」」

 首を傾げる双子を嘲笑い、自分に言い聞かせるように宣言する。

「カインに執着するの、やめた」

 まるで聞きなれない言葉を聞いたかのように、双子は目を見開いた。

「それで、どうするんじゃ」
「どうもしないよ。ただ戻るだけ」
「戻る?」
「そうだよ。カインと出会う前に、戻る」
「カインを忘れるということか」

 胸が苦しい。忘れられたから、仕返しに忘れるだけだというのに、頷くという、たったそれだけの動作が酷く難しかった。まるでそうすることを認めたくないみたいだ。

「そのようなことは出来ぬ」
「どうして?」

 ホワイトにはっきりと告げられて、浅く息を吐く。これがただの駄々であることは、自分でもなんとなく、分かっていた。幼い疑問に、スノウが答えてくれる。

「忘却は突然訪れるが、簡単にできるものでは無い」
「それは出会いも同じこと。そなたが一番よく分かっておるじゃろう?」
……よく、わからない」
「これ、分からぬふりをするでない」
「忘れられて悲しかろうが、それでも愛しておるはずじゃ」

 本心を言い当てられて、オーエンは自嘲して笑う。

「はは、愛なんて、馬鹿馬鹿しい……
「そなたが馬鹿にしておる愛は、そう簡単には消えはせぬよ」
「ならば、全てのしがらみを断ち切ってみるがいい」
「「出来るものならな」」

 双子が声を揃えて言葉を切ると、鋭い怒りを帯びた赤と黄の瞳が睨む。しかし双子にはそれすらも微笑ましかった。感情を失っていた子供が、喜びを覚え、悲しみや怒りを露わにする。それがどんなに素晴らしいことか、本人以外の誰もが理解してくれるだろう。
 双子は幼子を慈しむように微笑んだ。

「オーエンや、これだけは覚えておれ」
「我等はなにも、意地悪でこのようなことを言っておる訳ではない」
「「我等もそなたを愛しておるのじゃ」」
……最悪」
「今は理解できずともよい」
「いずれ分かることじゃ」

 オーエンの両端から双子が両腕を伸ばし、小さな胸で抱きしめる。彼の体温は、子供のそれからすれば酷く冷たい。だからこそ、この温もりは一層明確に感じるはずだ。その証拠に、オーエンがそれを拒むことはなかった。ただ、抵抗力のない言葉だけが、呪いのようにこぼれ落ちる。双子はそれを静かに聞き入れ、抱きしめる腕に力を込めた。











 カインからオーエンへのメールは届かなかった。電話も通じない。あれで終わりだというのだろうか。そんなの、納得できるはずもない。
 カインが一晩考えて出した答えが、正しいのか間違っているのか、わからない。ただもう一度話がしたくて、話を聞いて欲しくて。だけどそれに、意味は無い。多分、声が聞きたいだけだから。不安を煽るあの声を聞いて、安心したかったのだ。この感情の全ての原因がオーエンであるならば、どれも愛おしく思えるから。なのに、彼と繋がれる手段はなにも残されていない。
 途方に暮れていると、インターホンが鳴った。緊張しながらドアスコープを覗けば、あの女だった。思わず「まじか」と呟いてしまう。

「カイン。カイン、いるんでしょう?」

 まるで留守を疑わない穏やかな口調は、軽くホラーだった。カインはドア越しに深呼吸をした。

……すまないが、このままでいいか? 記憶がない以上、誰も信用することができない。あんたも、あの人もだ」
……でも、お腹に赤ちゃんがいるのは本当よ。つわりも酷いの……
「なら、近くのカフェで話をしよう。すぐ出るから、エントランスで待っててくれないか? 椅子があったはずだ」
……わかった」

 素直な女の様子に罪悪感を抱きながら、カインはホッと息を吐いた。情けないことだが、たった一人の女性が何故こんなにも恐ろしいのだろう。分からない。分からないことは恐ろしい。この記憶が空っぽなことが、何よりも。
 カインが準備を済ませてエントランスホールに降りると、女は言われた通りに座って待っていた。声をかけると、嬉しそうに笑って、腕を組んできた。恋人なら自然な動きかもしれないが、今のカインには違和感があった。

 わざと遠回りをして、道路側を歩くために腕をさりげなく外した。この辺は治安が悪いからと嘯いて鞄をカインがいる側に持たせ、両腕を使えるようにしておくと、頼もしいと熱っぽい目で見られた。
 カフェへの道のりは事前に調べたので分かるが、治安が悪いかどうかは知らない。けれど彼女は盲目的にカインを信じて着いてくる。まるで、カインに記憶がないことなど、忘れてしまっているかのように。
 目的の場所に着いても、彼女は頼んだ飲み物も飲まずに真剣に話すカインをただひたすら見つめていた。話を聞いていないようにも見えるが、「あんただけのそばに居ることはできない」と言うと、突然眦を釣り上げ、カインを罵った。
 男であるカインには、子供ができるということがどれだけのことか、正直分からない。けれど、オーエンも大変な目に遭い、怪我をしている。そのどちらかの優劣を決めることは、カインにはできなかった。しかしそんなカインの気持ちを、女は汲んではくれない。被害者のように弱りきった様子で、こちらの間違いを責めてくる。
 これでは埒が明かない。

「私より、あの男が大事なの?」

 その通りだった。だがそんなことを言おうものなら、彼女が何をしでかすか分からない。

「酷い、私との関係は、遊びだったの? この子を堕ろせって言うの? 無責任だわ」

 問いかけに答えられないカインに、女は表情を消す。

「あいつの存在が、カインを苦しめているのね」
……それはあんたが気にすることじゃない。腹の子に障るぞ」

 下手をすればオーエンに危害を加えそうな様子に冷や汗をかきながら、さりげなく諭す。女は鼻で笑った。

「そうね。今頃カイン以外の男とよろしくやってるわよ」
……
「昨日、カインの部屋から出たあと知らない男と消えたの。カインが大変な時に、ほんと、最低よね」

 不自然に目や唇を歪めて、女は怒っているのか嗤っているのか分からない表情をした。オーエンも人を馬鹿にしたり意地悪を言ったりする時はよく笑うが、こんなにも歪んでいると思ったことはない。やはり、顔の造形が整っているからだろうか。
 というか、男と一緒にいたなんて、怒りよりも心配が先に立つ。無事だろうか。オーエンも、その男も。いや、なんで見知らぬ男すら心配しているのだろう。オーエンが酷い目に遭ったと聞いているのに、彼がただで終わるはずがないと、カインはなぜか確信している。

……オーエンは悪いやつじゃない」

 彼女の神経を逆撫でするかもしれないと思いながらも、否定せずにはいられない。女はやはり不機嫌になった。

「そう。私だけが悪者扱いってこと?」
「そんなことは言ってない。あんたもオーエンも、俺は見捨てるつもりはない」
「私を愛してるなら、私だけを選んでよ!」

 愛してなんかいない。カインが愛してるのはオーエンだ。だけどそれは流石に言えない。彼女の怒りはもう噴火直前である。

「死んでやる……

 けれど、彼女の愛に応えられないカインに痺れを切らしたのか、女は呪詛を吐いた。

「死んでやる、死んでやるわ。お腹の子と死んでやる!!」
「早まるな。命をそう簡単に扱うものじゃない」
「私を粗末に扱っているのはあなたじゃない!」
「粗末に扱っているつもりはない。もしそう感じるのなら、俺に記憶が足りないせいだ。すまない」
「記憶がないなんて、そんなことのせいにするの!? 私はそんなあなたでも愛しているのに!!」

 記憶がないことをそんなことで済ませられるなら、それでも好きだと言える覚悟など高が知れている。いっそ、こんな女、見捨ててしまいたい。カインは疲弊しながらそう思った。
 カフェ店内にいる人間が、カインを最低な男だと認識して、胡乱な視線を向けてきているとしても、どうでも良かった。
 オーエンは、他人の目など気にしなかった。凛として、自分の足で立つことを止めなかった。美しいと思った。その背を追い越して、彼に手を伸ばせる人間になりたかった。
 今も。

 けれどその手は空を掴む。暗闇の中でも酷く目立つ白い彼は、いつしか闇に溶けて消える。まるで、自ら姿を隠してしまうかのように。彼が本気を出せば、カインの手の届かない場所に、いとも簡単に行けてしまうのだ。
 彼女を見捨てて、見えない彼の背中を追いかけ続ける自分の姿は、上手く、想像できない。

……だからおまえは、俺の前から消えたのか」

 喚く女の声に、カインの呟きもかき消される。その問いに答える言葉など、聞こえるはずも無い。けれど、彼の無言の声は、カインがずっと歩んできたその道を、外れることを許さない。

……すまないが、俺の考えは変わらない。話は終わりだ。これからはあんたが必要な時に呼んでくれ。可能な限り助けに行く。もしその子が俺の子だとはっきりしたら、……その時は責任を取る。それでいいか」

 逃げていたのかもしれない。怖かったのだ。本当に自分がしでかしたことかもしれないと、それを疑うばかりで、目を逸らし続けていた。本当にそうだとしたら、それを認めてしまったら、もうオーエンと会う資格がなくなってしまうから。だから自分がそんな不誠実な人間だと、思いたくなかった。思えなかった。
 オーエンが、信じてくれた自分を、信じたかった。
 だけど、記憶がない以上はどうしようもないのだ。今はこうするしかない。彼女を手助けしながら、オーエンを探しだして、迎えに行く。約束はできない。取らなければならない責任がもうないと、はっきりしないうちは。
 卑怯かもしれなくとも、それが今の最善策。

「このあと用事があるから俺はこれで。また連絡してくれ。……すぐ会いに行くから」

 カインのスマホでは、彼女と連絡を取り合っている様子も無かった。関係を隠していたと言うが、それにしても些か不自然だ。そのため、彼女の言葉は殆ど虚言であることは間違いない。
 だからこそ、カインは、疑うことも辞めた。
 彼女がこちらの連絡先を知っているか知らないかも、どうでもいい。確認するより前に、カフェ店員にペンを借り、紙ナフキンに電話番号とメールアドレスを殴り書きし、それを置いて有無を言わさず立ち上がる。
 その行動が既に彼女を疑っているのだが、彼女は状況をよく理解できていないのか、ぽかんとカインの残したメモを見つめていた。
 カインは笑ってみせる。

「お大事に」

 文句なんて、言わせなかった。










 女と別れたあと、オーエンとの唯一の接点を思い出したカインは、小さなカードに記載された地図を見ながら彷徨う。病院で目覚めた時、何かあれば連絡するようにと双子に渡された名刺だ。それには彼等の会社の連絡先と、場所が示されている。
 彼等はオーエンと親しかったようだから居場所を知っているかもしれないと電話をかけただけなのだが、オーエンはそこの従業員だった。しかも双子はカインの連絡を大喜びし、快く会社に招いてくれたのだが。

「うーむ、迷った……

 うっすらとこの辺な気がすると思ってろくに地図で確認をしなかったせいで、尚更分からなくなってしまった。視界が悪いせいだろうかとあまり意味もなく長い前髪をかきあげて辺りを見回す。なんとなく、近くであるという既視感はあった。
 ただ、感覚を頼りにしていたら日が暮れてしまうのは分かっている。双子に電話して、迎えに来てもらおうとスマホを手に取った瞬間、すれ違った中年の女に肩を掴まれる。

「坊や!」
「うわ、びっくりした」

 何事かと警戒するカインに構わず、女は必死の形相でカインの目を覗き込み、安堵の表情を浮かべた。

「ああ良かった。もう会えないかと思った。ずっと探してたのよ」

 わけの分からない女に耐性がついてしまっているカインは、慎重に言葉を選ぶ。

「えーっと、すみません。何処かでお会いしましたか?」
「またそんな意地悪を言って、母さんのことを忘れたの?」

 いや、流石にそれはない。とカインは冷や汗をかいた。記憶を失ったのはここ数年だ。親の顔や、学生時代の友人の顔まではしっかりと覚えている。だけど女は、そんなカインに構わなかった。

「あの、多分人違いだと……
「そんなことない。ほら、顔を良く見せて。私があなたの顔を間違えるはずないんだから」

 いや、間違えてるだろう。明らかに。奇妙なくらい目が合っているのが、なんだか狂気を感じる。

「ああ、見つかったんだな。良かった」

 次に現れたのは、女と同年代の男だ。うんざりしながらカインはその男に目を向ける。プラチナブロンドの髪と真っ赤な瞳。その色彩に、一瞬頭に過ぎる顔があったが、別人だと言うことはすぐにわかった。そう言えば、直前まで至近距離にあったのは金色の目だ。カインとオーエンの、オッドアイと同じ色彩。なにか、嫌な予感がする。

「また、お金を貸してくれないか。……オーエン」

 縋るような、媚びを売るような視線にぞっとした。そして思った。ダメだ、彼らをこのままにしてはおけない。

……ちょっと待ってくれ」

 カインはそう言って、スマホで双子のメールアドレスを呼び出した。確実に捕まえる方法は、これしかない。

「何してるの? 誰を呼ぶつもりなの?」
「いや、俺はオーエンじゃない。オーエンを呼ぶから、少し待って欲しい」
「あらまあ、そうなの」
「親切に、ありがとうございます」

 聞き分けの良い子供のように、オーエンの両親と思しき男女は笑う。なんの疑いもせず、カインの言葉を信じて待っている。その様子は、まるで。

『小さな部屋で、迎えが来るのを待ってた』
『寂しくなかった。辛くなかった。誰も、いなかった』
『最悪だよ、死ねって返した』

 途切れ途切れに思い出す、誰かの言葉。忘れてなどいなかった、オーエンの声。手に汗をかきながら、頭のおかしい人間相手に他愛ない話をして、時間を稼ぐ。ふと、どうして自分はこんなことをしてるんだろうと頭に過ぎった。だけどそうせずにはいられなかった。
 双子はすぐに来てくれた。なぜかフィガロがいて、二人をあっさりと捕まえて双子の事務所に連行していく。その後に着いていきながら、カインは言い様のない安堵と、感情に苛まれた。
 もう大丈夫だと抱きしめたい。
 もう大丈夫だと、抱き締め返して、甘えて欲しい。
 どうして彼は、こんなにも、遠いのだろう。

「ありがとう。約束を果たしてくれて」

 そんなカインに、フィガロが微笑んで感謝を伝えてくる。約束など覚えてない。
 けれど、失ってもいない。最初から。
 忘れても、遠くても、その想いは決して消えることはない。



 ――会いたい。オーエン。











『カインが会いに来たぞ。そなたはどうする?』

 カインのことを断ち切ろうとした結果、自分の部屋のベッドで死んでいたら、双子からそんな電話がきた。面倒だな、と思いながら気だるい上半身を起こす。

 簡単だと思っていた。たった一、二度ほどこの部屋に泊まりに来ただけのカインの私物などたかが知れている。捨てたところで、大した変化などありはしない。カインより前に付き合っていた、あの男のように簡単に捨てられる。それだけで断ち切れると、そう思っていたのに、オーエンはやる気を無くしてベッドに転がっていた。ただ呼吸する植物のようにピクリとも動かず、死んでいた。

『その様子では、まだ未練を断ち切れていないと見える。どうじゃ、きちんと腹を割って話してみるがよかろう』
「必要ないよ」
『嘘つきじゃのう。そなたの言葉は逆さまじゃ。しかし、カインの傍では、素直に笑っておったであろう。そのままの気持ちを言葉にすればよい』

 素直になれ、と双子は言う。
 今まで、どんな言葉で惑わせても、カインは間違った選択はしなかった。だからこそあの女の虚偽を、カインは疑えないだろう。その記憶がない以上、真実を知るのはあの女しかいない。たとえ傍から見れば分かりきった馬鹿馬鹿しい嘘でも、カインはそれを打ち捨てはしない。
 だから、いつだって彼は清廉潔白で、誠実であって欲しい。残酷なまでに正しくいて欲しい。そんな彼を穢すことを、オーエンが良しとしなかった。いくら言葉巧みに惑わそうとも、あの太陽を陰らせることはできない。
 だけど。

……僕は、彼を堕落させたいわけじゃない」

『そばにいて』

 たったそれだけ、囁けばいいのだろう。いつものように。だけど、この言葉でカインが一も二もなくそうしてしまえることを、オーエンはもう、確信してしまっていた。期待でも、希望でも、自惚れでもない。ただ純粋に、信じている。もはや疑いようもないくらい、カインはオーエンを好きでいてくれる。記憶を失っても、彼の自分を見る目は変わらなかった。
 一緒に堕ちてきてくれるなら、それはどれだけ甘美なことだろう。けれど、汚い世界に、オーエンは飽きている。カインが見せてくれる、綺麗な世界に夢を見ている。この地獄の底から這い上がってみたい。この目が眩むほどの光で、外の世界に導いて欲しい。
 全てが本心だからこそ、たったの五文字が言えない。

「最初に僕を突き放したのはフィガロだ。そのあとカインに無理矢理連れだされた。最悪な気分だよ」

 待っていた迎えは来なかった。
 助けて欲しいのに、応えてくれなかったフィガロ。
 金を無心してくる両親と名乗る赤の他人。
 今更、期待なんかしたくないのに、カインが無理矢理引っ張りあげてきて、うんざりしていたはずだった。

「堕ちるのは簡単だよ。だけど、僕にまだ救いがあるというなら、それを証明してよ。僕を納得させてみせて。そうしたら、目の前に餌をぶら下げられたけだものみたいに、この地獄から這い上がってもいいよ」

 一緒に堕ちようだなんて言わないで。おまえは悪くないと言って、そのままで良いなんて甘やかさないで。
 あんな強烈な光を見たら、焦がれずにはいられない。
 助けは要らない。
 自分の足で歩ける。
 あなたの光を、道標にするから。

……困った子じゃ。我等が許そうとも、そなたは自ら苦しい選択をするというのじゃな』
「そんなの、あなたたちが楽なだけだろ。けだものを上手く走らせる自信もないの」
『ほほほ、良かろう。ならばカインが足を踏み外さぬよう、我等が支えておくとしよう』

 その足場をわざと崩して、彼を上から見下ろすのもいいなと一瞬だけ思う。カインは地獄に目もくれず、這い上がってくるのだろうけれど。
 オーエンは弱った演技をする。悲しい演技をする。ほんの少しの本心を覗かせれば、カインの心は簡単に騙せる。けれど、彼もただの馬鹿じゃない。そう何度も騙されてはくれない。
 オーエンも知らない、本当の気持ちを、躊躇いなく拾い上げてくれる。




 ―― だから好き。





……オーエン」

 双子の事務所に出向いてやれば、カインは緊張した面持ちで、オーエンを迎えてくれた。期待はしない。これで最後になるかもしれないことを自分に言い聞かせて、オーエンは笑って見せる。

「おまえの愚かな考えを聞かせてよ」

 カインは苦しそうな顔をした。
 双子に何を言われたか知らないが、オーエンの望み通りにしてくれたなら、あとは息をするように彼を追い詰めればいいだけ。簡単だ。オーエンはいつだって、そうやって生きてきた。

「おまえが何を考えているのか、手に取るように分かるよ。僕はきみを信じるしかないのに、きみは僕を……

 裏切るの?

 いつものように、意地の悪い言葉で詰ってやるはずだったのに、それはオーエンの口から出ることは無かった。どうしてだろう、鉛が喉に詰まっているみたいだ。
 覚悟なんて出来ているはずなのに、「そうだ」と言われることを恐れているかのよう。
 なのに、カインはこんな時ばかり察しが良くて、そして、残酷だった。

「俺は、あんたの気持ちに応えられない。少なくとも、今は」
……そう」
「けど、もし俺が潔白を証明して戻ってこれたら……、その時は、あんたを抱きしめにきてもいいか」

 それは、誰もが認める正しい道。それがどんなに遠くても。茨が覆っていたとしても。

……おまえの無実を信じてる僕を無視して他の女の所に行くくせに、僕に待ってろだなんて、虫が良すぎない?」

 カインは困ったように笑った。

「そうかもな」
「あの女はあの手この手で、きみの気を引こうとするだろうね」
……それは、あんまり考えたくないな」
「あはは。偽善者」
「耳が痛いよ」
「約束なんてしないよ」

 オーエンはカインの目を見ながら言った。

「きみはどうしようも無いほど善人だから、目の前の困ってる奴を見捨てられない、臆病者。いつか自分の善意に食い潰されて、馬に蹴られて死ねばいいのに」
……
「それでもきみは、地獄の底で太陽みたいに笑ってるのかもしれないね。それって道化師みたい。しかたないから、その姿を看取りにくるくらいはしてあげるよ」
「それって、褒めてるのか?」
「馬鹿なの? 褒めてないよ」
「だよな」

 でも、何故だろう。
 カインには激励のように聞こえてしまう。
 彼に関する記憶なんて殆ど無いはずなのに、一見理解できない彼の言葉の裏を、何となく感じ取れてしまうのだ。自分の思うようにやればいいと、言ってくれているように聞こえる。本人はカインに意地悪を言ってるつもりなのだろうけれど。
 色んな意味で、嘘がつけないのだろう。だって彼の言っていることは、全て事実なのだから。

……ねえ、カイン」

 オーエンがカインの名前を呼ぶ。
 その丁寧な音は、大切な宝物をそっと手に取って、慈しむような響きをしていた。

「さようなら。しばらく顔を見せないで。その間に、きみのことを……忘れたいから」

 貼り付けたような笑顔で、悪魔のように甘ったるく囁いたオーエンは、そのまま双子の事務所を出ていった。
 カインはその背を見送りながら、言われた台詞をただ受け止めて、まだ抱きしめることを許されない己の腕を見た。

 たとえ忘れられても。

 それでも、きっと迎えにいくと心に誓って。