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はりぼて自家発電所
2024-01-21 18:21:55
65045文字
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カイオエ長編
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軟派な彼と難攻不落 最終章
1
2
3
4
5
6
7
8
愛を知った孤独の話
仕事の外回りでフラフラと歩いている時のことである。
やっぱりミスラかブラッドリーを道連れにすれば良かったと、オーエンはほんの少しだけ後悔していた。
カインや双子がやたらと一人での行動を控えろとうるさかったせいだ、と屁理屈をこねて、よく分からない感情に無理矢理答えをくっつける。
ふいに、先日祝われた自分の誕生日ことや、カインの実家に行ったことを思い出した。あんなに賑やかなのは初めてで、その残響が頭に残って煩わしい。
だけど、あの日、あの時、あの場所に居座ることを選んだのは確かにオーエン自身だ。後悔やわだかまりは、なにもなかった。
だからだろうか。今、一人でいることがどうしようもなく、不安だった。平和ボケしているような気がする。あの日の反動が今やってくるんじゃないかと無駄に辺りを警戒してしまう。
一般人がオーエンの鋭い目付きに怯えて、目を逸らし、距離を取る。その反応に満足して鼻を鳴らした。
けれど、空気を読めない奴が一定数いることも理解はしている。だから、自分に近づいてくる気配を敏感に悟りながらも、オーエンは気にしなかったのだ。その腕を、無遠慮に掴まれるまで。
「オーエン!」
怒鳴るような声に驚いて振り向くと、どこかで見たことのあるような表情を浮かべた男が立っていた。
「
……
誰?」
オーエンは素直に疑問を口にした。絶望したような、悔しげな男の顔は見ていてとても面白い。
「ふざけんなよ
……
っ! 恋人の顔も忘れたとでも言うつもりか?」
「?」
オーエンはカインの顔を思い浮かべて、目の前の男の顔と見比べた。どう見ても、似ても似つかない。それに、男の顔は好みでもない。
「おまえなんて知らない」
途端に興味が失せて、腕を掴む手を振り払おうとする。男は、痛いほど強い力でオーエンの腕を握り直した。
「
……
痛いんだけど」
「なあ、頼むよ
……
。俺も反省してる
……
おまえに謝りたいんだ
……
」
切実な声に、嫌悪感が増した。ここはなんの変哲もない道端で、周囲の視線が集まっている。オーエンの顔から表情が消えて、男はたじろいだ。けれど持ち直すように気を引き締めて、オーエンの腕を引いていく。
「ちょっと
……
っ」
「良いから、来いよ。ちゃんと話をしよう」
「話って、なんの話?」
「俺とおまえのだよ」
「はあ? 気持ち悪い。僕に話すことなんてないよ。離せって、言ってるだろ
……
!」
早歩きでどんどん進む男のせいで、足が縺れる。バランスを取るのに必死で、抵抗するどころか上手く歩けない。
「いやだ、離して
……
っ」
思わず、情けない声が漏れてしまった。進んで行くに連れて、その景色に既視感を覚える。必死で思い出そうとするけれど、頭に浮かぶのはどれもこれも違う記憶だ。知ってる気がするのに、分からない。なにか、忘れている。
連れてこられたのは、サラリーマン向けの寂れたマンションだった。その一階にある部屋の扉が開かれた瞬間、オーエンはその中に放り投げられた。
「
……
っ、なに」
廊下に転がったオーエンは、室内を見渡した。何も無い部屋だった。部屋の主が引っ越して、引き払った後のような雑然さだ。だけど、思い出せないけれど、この感覚は知っている気がした。
男が縋り寄ってきて、オーエンは尻もちをついたまま後ずさった。この、自分に執着する、ほの暗い色に溶けた目を、オーエンは知っている。
「オーエン
……
」
男はオーエンの両腕を拘束しながら覆い被さってきた。暴れても、意外にも鍛えられた巨躯はビクともしない。
「あっ
……
、いや
……
」
次に思い出したのは、恐怖だった。あの時はその感情が恐怖だとは分からなかったから、ただ自分に向けられるドロドロした感情が可笑しくて、分からないまま嘲笑った。今にして思えば、あれは多分、恐怖に怯える自分自身を、嘲笑っていたのかもしれない。
だけど、今は違う。帰る場所がなかった、あの時とは違う。夏の日差しにも負けない、眩しい笑顔で迎えてくれる、カインの元に、帰りたくなった。
男の顔が、唇を合わそうと近づいてきて、手の甲で口を庇いながら必死で顔を逸らした。苛立ったように腕を引っ張られ、ひとまとめにされて、頭上で縛り上げられる。自分がこんなにも弱かったことに、愕然とした。否、違う。もともと力が強かった訳ではない。諦めていたのだ。抵抗する気力を奪われて、後で覚えてろ、と怒りを内に秘めながら、この男が己に無体を働くのを許していた。無防備な所を襲えば、オーエンだってこの男に勝てたのに。
男の手のひらが、オーエンの体を這った。
「ひっ
……
ぅ」
ぴくり、とオーエンが反応したことに気を良くしたのか、男は引きずり出したシャツの裾から手を入れて、白い肌に直に触れる。
「ぁ、んっ
……
! いや!」
「なんだよ、可愛い反応できるじゃねぇか。
……
あいつに仕込まれたのかよ」
「うるさ、い! 触るな
……
っ、く、んぅ
……
っ、ふあ! あ! やだ!」
唯一自由な足をばたつかせるが、両足の間に体をねじ込まれる。ごりごりと硬い肉を擦り付けられて、オーエンは体を縮こまらせた。
「優しくして欲しかったんだろ? ちゃんとやってやるから、暴れるなよ」
「いらない! 嫌い! おまえなんか嫌いっ、気持ち悪い、吐き気がする
……
っ」
悪態をぶつけてやると、パン! と乾いた音がした。その部位が熱くなったから、頬を打たれたのだと気づく。歯を食いしばりながら睨みつけると、男は恍惚としながらオーエンの頬を手で包み込むようにして、その視線を合わせてきた。ぞっとしたのも束の間。男は噛み付くようにオーエンの唇を奪った。
「んっ! んん!」
入り込もうとする舌を噛んでやると、唇はすぐさま離れた。絡んだ唾液と血液を反射的に吐き出そうとするが、その前に口の中に指を突っ込まれる。
「う! んあ、ぇ!」
無理やり口を開かされる。オーエンは縛り上げられてまとめられた腕を振りあげて、指を組んだ拳を男の頭に打ち付けた。男は舌打ちして、オーエンの細い両腕を捻りあげてくる。
「やだ! いや! きらい、嫌い、大嫌い! しね!!」
男の精神を追い詰めるような余裕は無かった。子供の駄々のように、なりふり構わず拒絶する。そんな無駄な抵抗を嘲笑うように、男はオーエンのシャツやズボンのボタンを引きちぎった。
「っや、ぁああっ!!」
オーエンは、ただ叫んだ。渾身の力で、全身全霊で、拒絶の意志を貫くために。なんの解決にもならないとしても、このままなにもせずには居られなかった。そんなオーエンに、男は腕を振り上げて、胸を殴りつけてきた。一瞬、呼吸が出来なくなる。拒絶の言葉が出なくなっても、何度も、何度も、鳩尾の辺りを殴打される。
「かは
……
、っふ、
……
ん、ぐ、ぅう」
「苦しいか? ごめんな、でも、おまえが悪いんだ
……
、ぜんぶ、おまえのせいだ
……
」
呼吸困難で朦朧とする意識の中、その言葉がぼんやりと思考を埋め尽くす。
あなたのせいよ。私がこんなにも、不幸なのは。
おまえのせいだ。おまえのせいでぜんぶめちゃくちゃだ。
誰かが言う。
目の前の男だけじゃない。悲壮な女の声が、憤った男の声が、オーエンの全てを支配して、否定して、押し潰そうとする。
誰?
怖い。
怖い、怖い。
忘れて安心していた感情を引きずり出される。無理矢理思い出させられた恐怖を今突きつけられても、飲む込むことなど、到底出来ない。
ごめんなさい。
そう言ってしまいたいのに、息が詰まって声も出なかった。体の中に、何かが入り込む。苦しくて、辛くて、得体の知れない感覚がバラバラに蠢いて体の中を襲う。
「ん、ぅぐ
……
。っあ
……
ぃ、ぎ
……
」
濁った呻き声が、肺の奥から絞り出される。力の入らなくなった下半身を抱えられて、男の下半身が滑り込む。そして、凶悪に反り勃ったモノを、ぐりぐりと押し付けてくる。
その様を、ただ睨みつけることしか出来ない。悔しいのに、もう、涙もでない。
「いれる、からな
……
」
はあ、はあ、と獣のような呼吸が、顔に吹き付けられると、臓物にちり、と痛みが走った。ただ痛いだけだ。下半身だけじゃない。痛みに強ばった上半身も、ぎしぎしと悲鳴を上げている。
「
……
っあぐ
……
!」
「オーエン、オーエン
……
」
気持ち悪いほど甘ったるい音をした自分の名前。それは、オーエンの求める声じゃない。
「ぃっ
……
! あっ!
……
っやぁ
……
」
痛くて、喋るのも動くのも億劫なのに、摩擦の酷い律動に耐えきれず、悲鳴にもならない声が溢れる。男は直ぐにイった。そして、無遠慮に、容赦なくオーエンの中を掻き回す。気持ち悪くて、最悪だ。目の前の男を殺したいのに、何も出来ない自分が情けなくて、悔しくて。
「すきだ、オーエン。すきなんだ
……
」
「ん゛
……
、ふ、くふ、はは
……
」
朦朧としてきた意識の中、うわ言のように囁かれた言葉が、漸く見つけた、男の弱み。それがあまりにも滑稽で、オーエンは痛みに呻きながらも、笑う。愛の伝え方も知らない獣の癖に、こんな行為で縛り付けようなど、嗤わせる。
「ぼく、が、ほし、ぃの
……
?」
喋る度、体が悲鳴を上げた。
けれど、言ってやらなければ気が済まない。
「あは
…
、ざん、ねん
……
。ぼくの、みも、ここ、ろも
……
、ぜんぶ、ぜーんぶ、
……
かいんの、もの、だよ
…
」
その言葉を聞いた瞬間、男の感情が爆発した。動きが激しくなって、八つ当たりのように、腰を打ち付けてくる。痛みと快感の区別もつかなければ、この唇から漏れるのが、喘ぎなのか、悲鳴なのかももう、分からない。
「ンあ、っあ゛
……
! ぃあ、
……
っ、か、いん
……
、かいん
……
っ、ひ、あぅ
……
! カインっ」
「他の男の名前を呼ぶな
……
!」
助けを求めるように、ひたすらカインの名前を呼んだ。そうじゃないと、正気を保って居られなかった。痛みを忘れて、快感を追いそうになってしまいそうだった。
途方もなく長く感じる陵辱に耐えていると、玄関のドアを激しく叩く音と、怒鳴り声が聞こえた。男の動きが一瞬止まる。開放されるかと思ったけれど、男は開き直ったように歪な笑みを浮かべた。
「いいじゃねぇか、見てもらおうぜ。俺たちが愛し合ってるところ」
「ひ、ぐ
……
っ!」
「ほら、俺のこと好きって言って、腰振れよ」
「だ
……
れが
……
っ、いう、もんか
……
!」
「こんな、誰にでも腰振ってる姿見りゃ、あいつも愛想尽かすだろ、なあ?」
髪の毛を掴むように顔を上げさせられる。確かに酷い有様だった。こんな男に良いようにされるしかない、弱くて、惨めな姿を見られたら、恥ずかしくて、滑稽で、もう生きていけない。
「ぃ、や
……
。いや
……
」
「いやじゃねーだろ。可愛くおねだりしてみろよ。そうしたら、優しくしてやるから
……
」
オーエンは首を横に振った。すると、男はオーエンの中からずるりと抜け出した。終わったと思った。最後の最後まで頷いてやらなかったと、どこか達成感さえ覚えていた。だが、いきなり視点が反転して、顔が床に押し付けられる。オーエンのものか男のものかも分からない、くしゃくしゃに丸められた服の上に。息が出来なくて、視界が霞む。
「ん゛! んむ
……
っ! んっ
……
」
腰を高く上げさせられて、男の怒張が再び突き入れられる。もう何がなんだか分からない。ただひたすら辛いだけだった。
「オーエン!」
この間にも、ひたすらドアを叩く音が響いていて、漸くばきり、と玄関の扉がこじ開けられた音と一緒に、誰かが飛び込んできた気配がした。カインだ。こんな姿を見られて、最悪だった。オーエンの瞳から、枯れていた筈の涙が溢れる。
「この、野郎
……
っ」
ガシャン! と激しい音がして、漸く男がオーエンから離れた。体が軽くなった瞬間、オーエンは弾かれたように体を必死に動かして、隅に逃げる。
はしたなく、汚れた体を隠すように自分を抱きしめるけれど、そうした所で酷いものは酷かった。呼吸もままならなくて、息の仕方を思い出すのに必死で、男がどうなったかなんてもう意識の外だった。
「カイン、こやつは我等に任せればよい。オーエンを見てやってくれんか」
双子の声が聞こえた、ということだけ理解出来た。その直後、懐かしくて安心する匂いが、オーエンを包み込む。カインが上着を着せてくれた。
「オーエン、オーエン! 大丈夫か? 俺がわかるか!?」
目の前には、涙の膜のせいでぼんやりと映る赤い髪。のっぺらぼうが必死になったその様子が、面白かった。だからそう言ってやりたかったのに、オーエンの口から零れるのは下手くそな呼吸音だけだ。
カインが縛られたオーエンの両腕を解放してくれる。
「ひぅ
……
、ふ
……
っぅぇ
……
」
「焦らなくていい。ゆっくりでいから、くそ、っくそ!」
焦っているのはどう考えてもカインの方だった。そう思ったら、不思議なくらい落ち着いてくる。だけど落ち着いているのは心だけで、体は言うことを聞かない。
「
……
っ、
……
う。
……
かい、ん
……
」
酷く掠れた声で、何度も呼んだ名を絞り出す。
「オーエン
……
」
「かいん」
上手く動かない腕を必死に動かして、オーエンはカインに抱きついた。可笑しいくらいに震えたカインの腕が、壊れ物を扱うように優しく、オーエンを抱きしめ返す。
「遅くなって、ごめんな
……
」
「
……
ん
……
」
どう返せば良いか分からなくて。
オーエンはただカインの腕の中で安心していた。
「いかん! 二人とも、避けるのじゃ!」
もう、大丈夫。そう油断していた。
オーエンが伏せていた重たい視線を上げると、カインの背後で男が拳を振り上げていた。まずい、と漠然と思うけれど、オーエンの体も思考も、それ以上ピクリとも動かなかった。オーエンを生かそうとする血液と、緊張したカインの鼓動だけがやたらと煩く騒いでいる。
そして次の瞬間、血の気が引いた。カインが咄嗟にオーエンの頭を抱え込んだのだ。いやだ、やめて。そんな声も出せないまま、衝撃に身構える。容赦なく振り抜かれた拳に、鈍い音がした。オーエンとカインは二人して床に倒れ込む。視界の端で、男はすぐに双子に拘束されていた。オーエンの体に巻きついたカインの腕から、力が抜ける。
「か、
……
い、ん
……
?」
音になっているかどうかも怪しい声で、必死に呼びかけた。重たくて震える腕をどうにか動かして、カインの顔を隠している髪の毛を掻き上げる。彼の暖かな光を宿した瞳は、瞼の奥に隠れてしまっていた。打ちどころが悪かったのだろうか。殴られただけなら死にはしないはずなのに、オーエンは気を失ったカインに不安を覚えずには居られない。
けれど、彼の安否を確かめることも出来ぬまま、オーエンの意識もまた、闇に呑まれていってしまったのだ。
★
深く沈んでいた意識の中から、浮上するように目が覚めた。長い時間眠っていたかのように頭が重くて、意識を手放す前のことが全く思い出せない。今日は学校へ行く日か、休みか、それすらも分からなかった。
「
……
どこだ、ここ」
指を動かすのも億劫な体が、腕の中に違和感を訴えた。何かが足りない。喪失感に不安になりながらゆっくりと上半身を起こすと、そこは見知らぬ場所だった。クリーム色のカーテンの中、カインはベッドの上で、白いシーツに包まれている。
「
……
ん」
小さな声と衣擦れの音がして、この空間にもう一人誰かいることに気づく。銀糸がカインの体の横で散らばっていた。その人は、カインのベッドに縋りつくように上半身を預けて、青白い顔で眠っていた。血の気のない頬には痛々しい痣があった。思わずそっと手のひらで柔らかい頬に触れると、髪と同じ銀色のまつ毛が震える。ゆっくりと開いた双眸は、カインのものと同じ色彩をしていた。
「カイン
……
?」
美しい音をした声が、カインの名前を呼ぶ。
甘えられているような、懐かしいような、ずっと聞いていたいような不思議な声。両目を開いた彼は、痣の存在を差し引いても、恐ろしいほど整った顔立ちをしていた。
「あ、えっと
……
」
「このまま、目が覚めないかと思った」
彼は上半身を起こしながら、少し怒った顔で囁くようにカインを詰った。
「自分のことも大事にするとか言ってたくせに、なに人のこと庇ってるの。馬鹿じゃないの」
辛辣な言葉だが、その音の中に優しさを感じる。カインの身を案じてくれているのがなんとなく分かった。
「
……
俺、どうしたんだ?」
「殴られて気を失ったんだよ。情けない自分に呆れた? それとも身を呈した自分に酔ってる?」
「あー、あんたが助けてくれたんだな。ありがとう」
「は?」
嫌味を受け流して、カインはなんとなく導き出した結論を口にした。その瞬間、彼の美貌が歪んだ。ただでさえ冷たい印象だったのに、そこから更に感情が抜け落ちたようだ。まるで、人形のように。
「
……
覚えてないの?」
「悪いが全く覚えてない
……
」
「どこから、どこまで?」
「最後に思い出せるのは学校から家に帰ってきた所。そこからどうやって殴られるに至ったか全く思い出せないな」
つまり、なにも覚えていないということだった。
彼の表情に少しだけ人間味が戻った。目を見開いて絶望を垣間見せ、泣きそうに目を細めたかと思うと、見間違いかと思うほど、鮮やかにその痕跡が消えた。
「
……
そう」
人形に戻った彼は、カインと目を合わさないまま席を立った。歩く姿は、壊れた機械のように歪だった。頬に痣もあったし、彼も怪我をしているようだ。
「おい、大丈夫か? あんたも怪我を
……
」
頭に違和感があるだけのカインよりも重症そうな背中に声をかけるも、彼はフラフラと部屋を出ていってしまった。呆然と見送りながら、カインの頭には一つの疑問が浮かんでいた。
どうして、クラスメイトの想い人がカインの傍に居たのだろう。
カインは、同級生の女子が見せてきた写真を思い出していた。
★
オーエンは逃げるようにカインの病室から抜け出した。カインの言葉が聞こえるけれど、カインの声だと思えなかった。
どうしよう。胸が苦しくて、カインの傍で安心したいのに。カインはオーエンのことをすっかり忘れてしまっているから、そんなことはできなかった。大学も卒業して働いている筈なのに、最後の記憶が学校から家に帰ってきた所だなんて、笑い話にもならない。
「
……
ぼくのせい」
忘れるなんて、最低。
もう一度頭を殴れば、思い出す?
そんな考えは、声にならなかった。
だって、カインを巻き込んだのはどう考えたってオーエンのせいなのだ。カインと一緒に居られて幸せで、それ以外のことを全て忘れて現を抜かしていたから。
だから、これは、罰なのだ。
「オーエン? どうしたの、こんなところで」
いつの間にか、壁に寄りかかって蹲っているオーエンの前に、誰かが立った。
「
……
フィガロ」
「今から様子を見に行く所だったんだけど、手洗いに立って動けなくなっちゃった? きみもまだ本調子じゃないって言ってるのにカインの看病なんて買って出るから
…
」
「ど、しよ
……
」
フィガロの話を遮って、オーエンは彼をぼんやりと見上げた。弱った姿を隠さなくなっているオーエンに、フィガロは驚いた。けれどその態度をさっと引っ込めると、片膝を着いて目線を合わせ、もう一度優しく「どうしたの」と尋ねる。
「どう、しよう、カイン、僕のこと、忘れちゃった
……
」
途方にくれたように、ゆっくりと言葉を紡ぐオーエンの言葉尻がじわりと涙を含んで震えていた。フィガロは務めて冷静に言葉を紡ぐ。
「頭を殴られたからね。記憶が混乱してるのかもしれないな。もう一度殴ったら思い出すかも?」
「そんなことしたら、許さない」
「あはは、分かった。じゃあ最終手段にしよう」
「カインの記憶、戻る?」
「戻らないかもしれない。でも、手を尽くすよ」
「
……
僕のこと、思い出したくないかもしれないのに?」
迷子の子供のようなオーエンを、出来るだけ安心させようとフィガロは優しい笑顔を浮かべたまま尋ねる。
「どうしてそう思うの?」
「カインが殴られたのは、僕のせいだ。それなのにフィガロは、どうしてまた頭を殴るなんて言うの? はは
……
そんな所、あなたの大事なルチルとミチルに見られたら、どうなっちゃうのかな
……
」
無理矢理作ったような笑顔と意地悪な言葉に、フィガロが呆れたようにため息を吐く。
「まったく。元気そうだね。
……
って言いたいところだけど。俺はカインだけの先生じゃない。オーエン、きみのこともずっと診てきた。二人にとって、一番いい治療法があるなら、なんだって試すよ」
「ルチルやミチルに、軽蔑されても?」
「あの子たちは軽蔑したりしないよ。きみが幸せになってくれることを、俺よりも願ってる。なにもしない方が、怒られちゃうよ」
フィガロは笑った。その笑顔に安心したなんて口が裂けても言えなくて、オーエンは唇を噛み締める。けれど、その瞳に滲む涙は止められない。最近、涙腺が馬鹿になっている。見られたくないと思ったのと同時に、フィガロがオーエンの頭を隠すようにその胸に抱き寄せた。
消毒液の匂いが、オーエンの心を落ち着かせる。
「大丈夫。カインが記憶を失ったとしても、その心のあり方はそう簡単には変わらない。きみが気持ちを伝えることを諦めなければ、カインはきっと応えてくれるよ。きみたちはちゃんと、心を通じ合わせていただろう?」
オーエンは答えられないまま。フィガロの白衣を涙で濡らし、ただその言葉を聞いていた。
★
あの人の、人形のような顔が脳裏にこびりついて離れない。
カインは案の状、数年の記憶を失っていた。
彼が病室を出ていったあと、フィガロという医者が来ていくつかの質問に答えると、そう診断されたのだ。カインの持ち物だと渡された鞄とその中にあるものは身に覚えがないものだったが、スマホは変わっていてもパスワードはずっと変えていないのか、記憶にあるもので開くことが出来てしまった。日付を確認すると、確かに数年ほどタイムスリップしているようだ。
記憶喪失以外に問題が無かったので、カインは翌日には退院することができた。連絡を受けた母親が飛んで来てくれたが、フィガロと事件の状況を知っているという双子に連れていかれて、カインは手持ち無沙汰になる。これからどうすれば良いのかわからず、カインは病院の待合室でぼんやりしていた。
そこに、誰かが近づいてくる。
「こんにちは」
人形の彼が、薄笑いを浮かべて立っていた。幽霊のような儚さを感じるその笑みに、何故か安心感を覚えながらカインは笑顔を向ける。
「ああ、こんにちは。良かった。もう会えないかと思っていた」
笑みを向けられると思ってなかったのか、彼は不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「俺、殴られたんだろ? その衝撃でここ数年くらい記憶を失っちまったみたいで、それであんたのこと覚えてなくて、傷つけたと思ってたからさ。ごめんな」
目覚めて初めて見た彼の様子を思い浮かべる。大人びた幼い子のようなアンバランスな顔は、それでも酷く安心していたように思う。だけど、カインに記憶がないと悟った瞬間から、感情は影も形も見れなくなった。
「
……
べつに。数年分の記憶を失って、きみの方が大変なんじゃない」
冷たい表情は、それが皮肉であることを物語っている。だけどカインは、あえてそれに気づかない振りをした。
「あー、そっか。数年も経ったら、人間関係もすっかり変わってるもんな。なぁ、あんたの名前聞いてもいいか?」
「
……
オーエンだよ」
ほんの少しだけ躊躇ってから、オーエンは呟いた。その名前に、カインは霧が晴れたみたいに笑顔を広げる。
「ああ、やっぱり! スマホのやり取りが一番多かった名前があって、そうなんじゃないかなって思ってたんだ。えっと
……
職場の同僚とかか?」
生憎、やり取りは簡素な物が多すぎて関係性まではわからなかった。オーエンは居心地悪そうに目を逸らす。カインはその態度に首を傾げた。
「
……
違うけど、きみの職場には連絡が行ってるよ。後で説明があるんじゃない」
「そうなのか。ありがとう!」
「
……
きみにとって、この数年の記憶なんてあってもなくても同じなんだね」
オーエンは意地悪く嗤いながら、柔らかくカインを詰った。その顔はどこか妖しく、憂いを帯びていて、ぞっとするほど美しく、不安を煽ってくる。
「あ
……
その、忘れちまって悪いと思ってるし、べつに不安が無いわけじゃないんだ。けど、不思議とあんたの顔見てたら、ほっとするって言うか
……
。目が覚めた時、あんたが傍にいてくれたからかな」
照れたようなカインに、オーエンが瞠目した。
しかし彼の表情はまた曇ってしまう。
「
……
俺たちがどんな関係だったか、聞いてもいいか?」
カインは気になっていたことをはっきり尋ねた。ただの知り合いだろうか、友達だろうか。それとも、もっと深い仲だろうか。そうだとしたら、この質問はあまり歓迎されるものではないだろう。
だが、知りたかった。
喉から手が出るほどどうしようもなく。
今すぐに彼との関係に名前を付けたかった。
「
……
さあ、知らない」
「知らないってことはないだろ」
しかし思ったよりも苛烈に、カインはオーエンに睨みつけられてしまう。
「言いたくないって分からない? 記憶を失って何も分からない可哀想なきみに免じて許してあげるけど、二度目はないよ」
鋭い拒絶。不躾な質問であることは自覚していたので、カインは素直に謝罪の言葉を紡ぐしかない。
もしかして、取り返しのつかない関係だったのではないか。彼の怒りを買うほどに、カインは忘れてはいけないものを忘れてしまっている。
しかし、思い出せないものは仕方がない。
申し訳なく、悔しそうにするカインに、オーエンは、また不自然なほど優しい笑みを浮かべる。
「はは
……
。あんまり憐れだから、少しだけ教えてあげる。きみが不幸なのは、全部、僕のせいなんだよ」
「え?」
「きみの記憶がなくなったのも、その記憶を思い出せないのも。ほら、今だって僕に虐められて、途方に暮れているんでしょう?」
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。違う、そんなはずない。そう思うのに、根拠の無い言葉は出てこない。
「もっと悪夢を見せてあげようか。きみが僕のことをどう思ってたかは知らないけど
…
、僕はきみが好きだよ」
息を飲む。冗談みたいに、ぐらぐらと頭の中で思考が揺れる。
好き? どういう意味で?
知りたいのに、声を出すことは許されない。告白されたのは初めてではない。カインはモテる方だ。なのに、軽く受け流すことがどうしてもできない。
「ねぇ、どうしたの、顔色が悪いね」
くすくす、と鈴の鳴るような声を転がして、オーエンは毒まみれの言葉を吐き出しながら、無邪気に笑った。
「僕ときみが付き合っていたか、憎しみあっていたか、はっきり言って欲しい? でも、記憶のないきみが僕の言葉を信じられるの? ねぇ、騎士様?」
彼がカインを『騎士様』と呼ぶ意味は、カインに全く伝わらない。悔しいような、苦しいような、胸の内側に空いた穴はどんどん広がっていく。それを見て、オーエンは楽しそうに笑い続ける。
「きみがこれから吐き出す言葉は、全部嘘になると思った方がいいよ。じゃないと
……
」
ごくり、と喉を鳴らして言葉を待つカインに、オーエンは今までの笑みをあっさりと消して吐き捨てるように言った。
「振り回される方が、馬鹿みたいだろ」
苦し気に喘ぐような声音に、カインは思い知った。
自分が、酷く彼を傷つけているということに。だけど、返そうとする言葉はどれも空虚だった。何も覚えていないカインには、彼に謝ることも、慰めることも、
――
抱きしめることも、叶いはしない。
気まずい空気の中、待っていることしかできないでいると、母がフィガロと双子を伴ってやってきた。カインは漸く見知った顔を見て安堵する。真っ先に口を開いたのはオーエンだった。
「はじめまして」
母はぱちくりとオーエンを見つめた。
「カインにはいつもお世話になってます。今回は、彼を巻き込んでしまってごめんなさい」
謝りながらにこりと笑うオーエンに違和感しかなかった。全てが演技がかって、作り物のようだ。それに、分厚い壁があるような気がする。だけどカインにはその正体が分からない。
「
……
あなたが、オーエンさんね。カインから話を聞いてたの。こちらこそ、息子がいつもお世話になってます」
「いいえ。僕でよかったら、彼の身の回りのお世話をしようと思っているんだけど
……
」
「あなたも怪我をしているようだけど、大丈夫なの?」
「はい。これくらい平気」
初対面にも関わらず、本気で心配している母に、貼り付けたような笑顔を浮かべて事務的に答えるオーエン。二人のやりとりに、カインは段々心細く、不安になっていく。そんな心中を察してか、フィガロが穏やかに笑った。
「あはは。オーエン、きみ、敬語使えたんだね」
「うるさいよ」
「カインも記憶以外に問題はなさそうじゃ。今勤めている会社に戻っても差し支えないじゃろう」
「もし不安なら我等の会社で一時預かることもできる」
「母君さえ良ければ、任せてもらえぬじゃろうか」
フィガロとオーエンに笑って、今度は双子が口をはさむ。
「あなたたちが傍に居てくれるならあたしも安心です。カインもそれでいいかい?」
「あ、ああ。それは大丈夫なんだが
……
」
母が安心しているのを見て、カインも安心した。だけど、カインは母に、どれだけのことを話しているのだろう。カインと彼らがどんな関係なのか、聞いてしまいたいが、そうしてもいいのだろうかという不安がある時点で、何も聞いてはいけない気がした。
そんなカインに答える代わりに、母は子供に言い聞かせるように手を伸ばして頭を撫でてきた。もう高校生
……
どころか社会人らしいのだが、その手を振り払うことは出来なかった。
「カイン。あんたも記憶がなくなって大変かもしれないけど、分かってくれてる人がこんなにいる。だからあんたも、できる範囲でいいからこの人を助けてあげるんだよ。怖い目に遭ったみたいだから
……
」
彼が怪我をしている理由すらも、カインには教えてもらえなかった。ただ、カインよりも、隣に立っているオーエンの方が戸惑ったような気がした。逆にカインは自分がこれからどうすればいいかがほんの少し見えて、霧が晴れたようだった。母が笑う。
「二人でいれば、大丈夫だね」
居心地悪そうに身動ぎするオーエンを横目に、フィガロも控えめに頭を下げた。
「オーエンのこと、よろしく頼むよ。平気な振りをしているけど、本当はすごく寂しがりなんだ」
「ちょっと
……
、勝手なこと言うなよ」
「でも、本当のことだろう?」
オーエンは言葉に詰まる。どうやら事実らしい。彼の今までの言葉が全て寂しさの裏返しであるなら、確かに辻褄が合うような気がした。
「オーエン。迷惑かけると思うけど、あんたも困ってることがあれば教えてくれ、助けるからさ」
「
……
」
意を決してそれだけ言うと、オーエンが眩しそうにカインを見た。そして、ぽつりと呟く。
「
……
下手な口説き文句」
既視感を覚えたけれど、思い出せることは、残念ながら何も無かった。
「はい。ここがきみの住んでる家」
オーエンに案内されて帰ってきた場所は、初めて見るはずなのにどこかしっくりくる部屋だった。大学生になったら一人暮らしを始めるつもりだったし、ここは受けるつもりだった大学と、最寄り駅が一緒だった。
ただ一つだけ気になるのは。
「誰かと、一緒に住んでたのか?」
洗面台に歯ブラシが二本あることや、カインの趣味とは合わない小物や衣服。男物のそれだが、これは自分のものではない、と思った直感を信じて尋ねると、オーエンはちらりと部屋を一瞥して、こともなげに答える。
「さあね。何度か泊めてもらったから、それじゃない?」
一緒に暮らしていたわけじゃないらしい、とカインは密かに落胆した。彼のことが気になっているし、彼はカインのことが好きだと言った。スマホのやりとりから、この数年間の自分も少なからずオーエンに好意を抱いていると思った。恐らく、今の自分の気持ちも同じだということも分かる。
だけど、分からない。オーエンの本当の気持ちが。好きだと言われたのに、それが恋愛感情なのか、いまいちよく分からないのである。
もし両想いなら、過去の関係がどうであれオーエンと想いを通じ合わせてしまえばいい。なのにそれが出来ないのは、オーエンが二人の関係を『言いたくない』と言ったからだ。その理由を聞かないまま、無視したまま、カインは彼に気持ちを伝えられない。
「あのさ。よく考えたんだけど、赤の他人に面倒見られるって嫌じゃない?」
「
……
え?」
突然言われて、カインはオーエンを見た。オーエンの表情はずっと変わらず、同じだ。
「僕も面倒だし。きみのママやフィガロはああ言ったけど、もう、これっきりしようよ。この先、きっと会うこともない。どう? 安心した?」
「は? いや、ちょっと待ってくれ。急にそんなこと言われても困る」
「困らないよ。何に困るって言うのさ」
きっぱりと言いきられ、カインは二の句が告げなくなる。確かに、今勤務している会社も事情を知っていて、快く受け入れられ、大丈夫だと言われて。彼がいなくても、カインは日常を取り戻せる。取り戻せてしまう。
「けど、俺だってあんたのことを頼むと言われてる
…
」
「必要ないよ。今までだって一人で生きてきたんだから。きみが居なくなったところで、元に戻るだけだよ」
カインは焦った。急にそんなこと言われて、引き止める理由も、方法も、見つからない。今まで、カインはどうやって彼とコミュニケーションを取っていたのだろうか。高校の同級生でもない、職場の同僚でもない。記憶のない間に知り合った人間と、どう接したら良いか、分からない。
せめて彼の好きな物でも分かれば、それを使ってとりあえずでも引き止められるのに、記憶を失ったカインには、生憎と思い出せない。
「それじゃあね。
……
さようなら」
「ま、待ってくれ」
切ない声に応えるには、最高に格好悪い言葉だと思った。その細腕を掴んで、引き寄せて、抱きしめたい衝動に駆られる。けれど、そうしてもいいのだろうか。
無知による恐怖が、カインの理性を煽る。どうすることも出来ず、オーエンを見送る。本当に、それでいいのか。二つの相反する感情に振り回されていると、インターホンが鳴った。奇しくもそれで、オーエンの足が止まる。
「
……
誰か来たよ」
「あ、ああ」
出ろ、ということだろう。誰だかは分からないが、扉の向こうの存在に感謝しながら、カインは玄関を開けた。
「はい、どちらさ
……
」
「カイン!!」
果たして、訪問者はドアを開けるなりカインに抱きついて来た。ふわりと甘い香りに、高い声。けれど、オーエンの時に感じた安心や、慣れた気配はしなかった。得体の知れないものが急に自分のテリトリーに入ってきた、という事実に体が固まる。
「良かった無事で
……
! 事件に巻き込まれたって聞いたから、それで、私
……
っ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺、記憶がなくなってるんだ。あんたが誰なのか、先に教えてくれないか」
「え
……
? そんな
……
私のこと忘れちゃったの? あんなに、愛し合ってたのに」
「
……
は?」
低い声で唸ったのは、背後で様子を見ていたオーエンだった。カインは浮気現場を見られてしまったような心地になって、慌てて抱きついて来た女性を引き剥がした。
「つ、付き合ってたのか? 俺たち? ほんとうに?」
「酷い、疑うの? 私が何も知らずにここに来たのが何よりの証拠じゃない!」
カインが記憶を失ったことは、出来るだけ外部に漏らさないようにしよう、という話はしていた。記憶がないのをいいことに騙される可能性があったからだ。だから、女の言う通り、こんな風に当然のように来られると疑えなくなってしまう。
「えーっと、落ち着いてくれ。その
……
悪いがあんたの言葉と向き合う余裕が俺にはなくてだな
……
」
「そんなの気にしないで。これからもずっと、私があなたを支えるから
……
」
オーエンの演技がかった態度を思えば、彼女の様子は真に迫っているような気がした。一人でいたら彼女の言葉を信じていたかもしれない。
だけど、カインにはオーエンがいた。彼といることは、不思議と違和感がなかった。けれど、彼女の存在は直ぐに受け入れることができなかった。その言葉を鵜呑みにすることはできない。
オーエンが言った。「知らない人間の言葉を、どうして信用できるの」と。
あの言葉は、嫌味でもなんでもない、紛れもない事実。そして根拠もないのに心が叫んでいる。彼女は違う、と。
「あんたと付き合ってた痕跡がなにも無いんだ。だから」
「っ、そいつのせいよ!」
金切り声で、彼女は叫んだ。うしろにいるオーエンを忌々しげに睨みつける。オーエンの表情が緩く変わって、面白そうに薄い笑みを浮かべた。
「そいつから私を守るために、カインは私を隠してくれていたの。大丈夫、心配するなって
……
。だけど、こんなことになるなら、一緒にいればよかった
……
っ!」
「ふぅん
……
、随分面白いことを言ってくれるね」
オーエンが口を開く。彼女に惑わされそうになって混乱しているカインの代わりに相手をしてくれるらしい。このままカインと彼女を置いて、帰ってしまうんじゃないかと不安になっていたから、少しだけ安心した。
「あんたのせいでカインがこんなことになったのに、いつまでまとわりつくつもり? 男のくせに気持ち悪いのよ!」
「確かに、きみからしたら僕はさぞ目障りだろうね。だけど僕もきみと同じ気持ちだよ。というか、男が二人でいるだけでそういう勘繰りする方が不自然じゃない?」
「カインにベタベタしてた癖にしらばっくれないでよ!」
「へえ、きみの頭の中ではそんなことになってるんだ」
「どうせ記憶のないカインに、自分が恋人だって吹き込んだんでしょう。この嘘つき! もう黙っていられないわ! 私たちの前からさっさと消えなさいよ!」
「いや、オーエンはそんなこと言ってない」
「な、なによ。だったら尚更、どうしてそいつのこと信用するのよ
……
! カインの彼女は私よ!」
「あはは、必死になって、馬鹿みたい」
「おまえも煽るんじゃない!」
今にも掴みかかろうとする女を抑えながら、カインはオーエンを叱りつける。けれどオーエンは楽しげに笑うだけだ。何が本当で、嘘なのか、確かめる方法は何も無い。すべてすっぽりと抜け落ちているから。
ああ、もう。なにも考えたくない。
オーエンが去り、彼女がここに残るというのなら、もう好きにしたらいい。そんな風に思ってしまうほど、カインは疲弊していた。
「
……
きみはどうしたいの」
迷いと諦めに支配されていると、それを許さないかのようにオーエンが言った。
「自分の胸に聞いてごらんよ。
……
その女と付き合いたいなら、好きにしたらいい」
優しく諭すようでいて、試すような台詞。
カインはちらりと女に視線を向ける。
「信じて、カイン
……
」
「そういえば、僕と最初に会った時、好きな女がいるって言ってたよ」
女に縋るような視線が返される。その都合に合わせたようにオーエンは言った。ただの意地悪かとも思ったけれど、怯えているようにも見える。
もしかしたら、疑われているのかもしれないと思った。失った記憶の中のカインが、不貞を働いている可能性を。
正直、擦り寄ってくる女より、逃げようとするオーエンが気になって仕方がない。
浮気なんて、そんなことをするはずがないとは思っている。だけど、カインは自分を信じられない。記憶のない自分は最低な人間であったのかもしれない。不誠実で、無神経で。だからオーエンも怯えているのではないか。これ以上傷つくことを、恐れているのではないか。
「俺、は
……
」
オーエンが好きだ。二人を前にして、彼の方に視線を向けてしまうほどに。
「
……
ねぇ、カイン。私、お腹に赤ちゃんがいるの」
カインの視線の先に何があるのかに気づいたのか、遮るように女が言った。ハッとして見ると、彼女は歪な表情をしていた。泣いているような、怒っているような
……
嗤っているような。そんな顔。
「まだ、言うつもりは無かったけど、迷ってる貴方を見ていられない。ねぇ、お願い。私のところに帰ってきて」
もし、万が一、本当だったとしたら、と思うと怖かった。嘘だろう? そう思うのに言葉が出ない。都合が悪いから、記憶を失ってしまったとさえ思う。
「
……
どうせ嘘でしょう? 結婚もしてない相手と、カインはそんなことしない」
「避妊してたって妊娠する時はするのよ。
……
ああ、あなたは男だからそんな心配ないでしょうけど」
オーエンが不愉快そうに眉根を寄せ、女が勝ち誇ったように言う。カインの誠実さにつけ込んだ、女の卑怯な嘘だと分かるのに、オーエンはカインの性格をよく理解していた。誠実だからこそ、カインは彼女の言葉を、無碍にできない。
「記憶のないカインにこんなこと言うのは私も心苦しいの。でも、もしここで否定して、子供が生まれた時に後悔するのはあなただよ。よく考えて
……
」
「本当にカインがその子供の父親だったらね。でも、ありえないよ。DNA鑑定でもすればすぐにわかることだ」
「鑑定できるようになるまで、私を一人にするの?」
妊娠して、不安定な時期なのに?
「
……
」
そんなの知ったことではない。だけど心優しいカインなら、そんなことしない。オーエンは、これ以上言葉を募ることが出来ず、カインを見た。この先は、カインが決めるべきことだった。
一人に出来ないというのなら、オーエンだって、辛い目に遭ったばかりだとカインは思う。頬の痣だってはっきり残っているし、きっと見えない場所も怪我をしているのは明白だ。カインは、彼こそ一人にしたくなかった。
だけどオーエンはそのことを決して言わない。
「
……
あなたの怪我なんて、自業自得じゃない」
言ってもいないのに、きっと言うつもりも無かっただろうに、女がその傷を抉るように、言い捨てる。
「ねぇ、知ってる? カイン。この人、男の癖に色んな男と寝てるの」
「
……
」
「あなたもその内の一人だよ。いい加減、目を覚まして」
下世話な女を不快に思いながら、カインはオーエンを見た。カインが清いことを信じてくれている彼が、そんなことをするはずがないと思って。それが、無神経な信頼だなんて、思いもせずに。
「
……
」
オーエンは最後まで何も言ってはくれなかった。迷子のような顔をしている。それは、自分が罪を犯していることを、自覚している顔だった。
「
……
オーエン
……
」
「
……
そうだよ。きみが巻き込まれたのも、そのせいだ。全部全部、僕のせい。ずっと、そう言ってるだろ」
どうして。違う。そうじゃない。そんなことを言わせたかったんじゃない。
わざわざ自分を貶めるようなことを言うオーエンを、呆然と見つめる。それはあたかも、裏切られてショックを受けている被害者のようだった。
「ほら! カイン、聞いたでしょう? 早くこの人をここから追い出して。私とこれからの話をしよう?」
女がカインの腕に絡みついてくる。
どうしてこんなにも不快なのか、分からない。話だけを聞いていれば、カインはこの女の傍にいてやるべきなのだろう。だけど、カインは自分の心も偽れない。それだけが、カインの信じることの出来る唯一のもの。
「
……
二人とも、出て行ってくれ」
カインが出した答えは、保留だった。
「ごめん。自分の不誠実が招いたことだが、記憶のない今の俺には荷が重すぎる。一人で考えさせて欲しい
……
」
本当は、オーエンには残って欲しかったけれど、そんなことを言う権利はなかった。オーエンだけを贔屓にすれば女は黙っていないだろう。数秒の重い沈黙を破ったのは、オーエンだ。女の腕を掴んで、カインから引き剥がす。
「いくよ」
「はあ!? あんたなんなの、一人で出ていきなさいよ!」
「話を聞いていなかったの? 彼は一人にして欲しいって言ったんだよ」
「私は傍にいて欲しいのに? カインは自分のことを優先するの? 私はいつまで待てばいいの? ねぇ、カイン、やっとまた会えたのに
……
」
「自己愛もそこまでくると尊敬するよ。カインの優しさにつけこもうとするおまえのそれは、本当に愛なの? おまえの言ってることなんかほぼ嘘だって分かりきってるのに、彼はちゃんと考えるって言ってるんだ。
……
ほんと、反吐が出るよ」
「
……
っ!」
オーエンの言葉は、カインの胸にも突き刺さった。
本当はそんなオーエンのことを一番に考えたいのに、一番後回しにしてしまっている。それなのに、彼はそんなカインを優先して考えてくれている。言葉では詰りながら、カインの意志を尊重してくれているのが分かる。
「それじゃあね、カイン。今後不用意にドアを開けないこと。チェーンをかけること。それから、
……
馬鹿なことはしないこと」
「おまえが言うなよ
……
」
苦し紛れのように咄嗟に出た言葉に、オーエンも、カイン自身も、目を丸くした。カインはどうしてその言葉が出たのか分からなかったけれど、オーエンは思い出したように笑う。
その笑顔は、カインが意識を取り戻してからずっと見てきた歪んだ笑顔じゃない。穏やかで、少し嬉しそうな、かわいらしい笑み。そう、この笑顔が見たかった。カインは彼の魅せる本当の笑顔に、何度でも、恋に落ちる。
「
……
そうだね。気をつけるよ」
女の声がきゃんきゃんと雑音のように響く。台詞の内容はほとんど理解できなかった。
パタン、と扉が閉まり、鍵が閉まる。どちらかが鍵を持っていたらしい。すぐに閉まったから、オーエンが閉めたのだろうと思う。そうでしか有り得ない。そうであって欲しいと思いながら、カインは言われた通りにチェーンをかけて、扉に背を預けてズルズルと座り込んだ。
「
……
つかれた」
まだ、頭の整理が追いつかない。オーエンが最後に笑った顔が、頭から離れなくて、大切にしたくて、女の存在はほとんど薄れてしまっている。
だけど彼女を知らないふりをすることも出来ない。ならどうすればいい。
カインの願いはただ一つ。オーエンのあの笑顔を守りたい。ただ、それだけだった。
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