空席のロンド 4/5
日々は何事もなく過ぎ去っていった。理性が不可思議を糾弾すれば、感情がその言論を甘く溶かしていく。ピア嬢の名を聞いても胸がざわつかなくなったのは大きな変化だった。
そうしてゆったりと時を過ごしていたある日のことだった。
「カーネル!ちょうどいいところに来てくれた!」
週終わり、私がいつものようにエルの店を訪れると、予想外の歓迎を受けてしまった。
外にとあるものを調達しにいかねばならない一方で、上客に頼まれた品を量産しておかねばならず、言ってしまえば大忙しの状況だったらしい。困っているなら当然手を貸すと言ったは良いが、続く言葉に私は戸惑った。
「そんなわけだから、カーネルはピアと一緒にこれを作っててくれ!頼む!」
渡されたのは簡単な薬品のレシピ、作る量こそ多いが単純作業で済むものだった。そこまでは良い。問題は「ピアと一緒に」という部分だ。
それまでの私は、居るはずもないピア嬢の話が振られる度、エルの歪んだ論理にヒビを入れない程度にのらりくらりとかわし、肯定とも否定とも言えない言葉をただ付き合いとして吐き出してきた。私達の会話はエルの中では成り立っていたのだろうが、所詮それはピア嬢とエル、エルと私の一方通行な会話でしかなかったのだ。つまるところ、私とピア嬢が二人きりになるのは初めてだったのである。
だからこそ私は戸惑い、思わず口を出していた。
「この程度なら私一人でも手は足りるが
……」
「いや、ちょっと行き先に魔物が出るもんでな。ピアを庇いながらってのも効率が悪い。
……っと、はは、怒るなよ。大事な弟子を心配して言ってやってんだ」
「
…………」
後半の言葉はピア嬢に向けたものらしかった。照れくさそうに自身を庇うような仕草をしていたところを見るに、見えない腕で叩かれるなりしたのだろうと思った。
何にせよ、そう言われてしまえば無理に押しとおすこともできず、私は殊勝に頷いて見せた。
「ところで、どこへ何を取りに行くんだ? 店の事情を後回しにするなんてよっぽどのことだろう」
ふと好奇心で私が尋ねれば、エルは採集用の鞄を肩から提げて答えた。
「浜辺に、な。まあ安心しろ、すぐ戻るから。じゃ、頼んだ!」
近場に魔物の多い浜辺などあっただろうか、と、頭を捻っている間にエルの背は見えなくなり、扉がバタンと音を立てた。
◇◇◇
「
…………」
エル一人いなくなっただけで、店の中はずいぶんと静かになった。耳をすませれば窓越しに広場の賑わいが届いてはきたものの、見知らぬ女性の声が店内で響くなんてことは勿論無かった。
一応、エルがいなくなった途端に謎の気配が話しかけてくる、などという展開も覚悟していただけに、拍子抜けだった。一方で、やはりピア嬢はエルだけにしか見えない妄想なのだと安堵もした。
作業台の上に器材は全て揃っていた。作業自体も楽なもので、予定通り精製を終えればあとは時間つぶしをするだけだった。
読書や研究を進めるという選択肢もあったが、錬金術に神経を使った後となれば少しばかり身体を動かしたくなった。それに留守を任された身として何もしないというのも気が引けた。
手持無沙汰に辺りを見回せば、壁にかかった黒板が目についた。なんとなしに近づいてみると、エルの字で一週間の予定などが書き込まれており、ちょうど一番下が今日の日付になっていた。
『俺→浜辺 ピア→レッドポーションの精製 店→休み』
わざわざ用意されているピア嬢の欄を見て、また私の心はささくれだった。
エルが、頭の中だけでなくあらゆる場所を利用してピア嬢の存在を強調しようとする様は、いっそ痛々しいほどに感じられた。そう懸命にならずとも誰もおまえの世界を壊しやしない、と言ってやりたかったがしかし、これを口にすること自体がエルの中のピア嬢を揺るがすのだった。
私はしばし、虚しさとともにその文字を眺めていた。
何度も書いて消してを繰り返したのだろう、黒板は全体的にうっすらと白く汚れていた。溝に溜まったチョークの粉は近くで身じろぎしただけでも舞い上がってしまいそうだった。
水拭きしようと思い立ったのは自然の成り行きだった。掃除するついでにこの痛々しい日々が続いた証も消し去ってやりたいという傲慢な考えもあった。
けれども、第一歩から私は躓いた。何度も来訪し勝手知ったる家のような気持ちでいたが、肝心の雑巾一枚すら見つけられなかったのだ。錬金材料の貯蔵箱、資材用具置き場、一つ一つを目で確かめながら確認していると、ふと、音がした。
────カタ、
鉱物をガラス棚に置く時の音に近かった。決してうるさくはないはずの音はしかし、不思議なほど響き渡った。
音の出所は作業台の方向だった。錬金器具に何かあったか、雑な置き方でもしただろうか、と見れば、作業台の端にちょこんと雑巾が添えてあった。ああこんなところに、と。
…………こんなところに?
納得しかけた私はその異常に遅れて気付いた。
錬金の際に余計なものは作業台から除けておくというのは基本中の基本だ。分銅を必要とする繊細な計測、手が滑ったでは済まされない危険物、等々。あらゆる意味で机上は整理整頓されておくのが鉄則とも言える。布巾くらいなら置いておくこともあるが、埃や塵屑で汚れた雑巾とは別物だ。
次いで、よくよく机上を確認したが、物が落ちかけていたり傾いていたりすることはなく、硬質な音の発生源はわからなかった。
「
……エル、か?」
そんなわけはない、と知りつつも私は言葉を発していた。
答えはなかった。
その時、私の頭には確かにこんな考えが浮かんでいた。
ピア嬢ではないか、と。
雑巾を探す私を見かねて、ピア嬢がこっそりと、私でもわかる位置へと移動させてくれたのでは。そして、彼女を感知できない私に知らせるよう、どこかでわざと音を鳴らしたのでは。
思わず頷きかけたところで、私の理性が騒いだ。
考え違いだ、うっかりどこかの雑巾を作業台に置いてしまっていて、隙間風か何かの音でそのことに気付いたのだ。そんな強引すぎる考えで無理やり自分を納得させ、私は雑巾を手に改めて黒板へ向き直った。
だが、確かにこの時私の心は半分、いや、それ以上に彼女の存在を感じ始めていた。
◇◇◇
拭く前に念のため何か重要な書き残しがないか前もって確認し、一応はメモも取ったうえで掃除を始めた。いつ頃から放置していたのか、拭き掃除が終わるころには固く絞った雑巾の表面が真っ白になっていた。
粉汚れを落とし、雑巾を干して一息つこうとしたところで、勢いよく扉の開く音がした。
「ピア、カーネル、帰ったぞー!」
「
……あぁ、おかえり」
返したのは私一人だったが、エルは満足げに私と、私の横の空間を見て微笑んだ。そして膨らんだ鞄をじゃらじゃらと鳴らしながら降ろし、すぐさま鞄の中身を床に広げ始めた。くらげ型のブローチや布に包まれたサンゴなど珍しい物もありはしたが、目についたのは瓶一杯に詰められた輝く砂だった。
「そんなもの何に使うんだ?」
私は砂粒を使う錬金物をぽつぽつと頭に浮かべながら問いかけた。するとエルは何故か、悪事を見咎められた子どものような表情をした。
「あぁ、いや
…………」
だが言い淀んだのもつかの間、
「ちょっとな、砂時計の砂が減っててよ」
と、笑いながら答えた。隠しきれない誤魔化しがあった。
「減った? 零したのか?」
後から砂を注ぎ足すにしても慎重に測らねば誤差が出るだろうに。そう続けようとしたが、エルは私の言葉を遮ってこう言った。
「
…………使ったんだ。一緒にいるために」
「
……?」
私がその言葉の意図を図ろうとしたところで、パン、と小気味よい音が鳴った。エルが手を打ち鳴らした音だった。彼は作業台を目にし、まるで演劇役者のように両手を挙げて喜んでみせた。
「さ、そんなことより! 頼んでたもんは────おお、できてんじゃねーか!さっすが持つべきものは友達だな!」
あからさまな話の逸らしようではあったが、私とてそこを突くほど子どもではなかった。だから、強く背中を叩かれながら、自慢げな態度でエルに感謝を求めるなんてこともしてみせた。演技を合わせることには慣れてきていたし、もはやどこからがフリなのかもわからなくなりつつあった。
その後、勝手ながら黒板拭きをしたことを話せば、感謝が返ってきた。どうも惰性で汚れを放置しがちだったそうだ。
どこからともなく現れた雑巾のことは黙っておいた。ピアが用意してくれたんだな、と言いだすのはわかりきっていたからだ。
◇◇◇
その日の晩。
「せっかくだから泊まっていけよ」
そんなエルの申し出に私は遠慮なく甘えさせてもらうことにした。エルからピア嬢の話を聞いたばかりの頃であれば、泊まることで否応なしにエルの一人芝居を見させられることへの躊躇いを感じていたかもしれない。
だが、この時の私の脳裏に浮かんでいたのはあの黒板のことだった。
────エルが私に対してピア嬢の存在をアピールすることで、少しでもエルの理想の世界が強固になれば良い。それで、あの黒板にあったような、架空の一人分の予定を書き連ねるようなごっこ遊びが和らいでくれるのなら。
この頃の私はもう、エルの世界からピア嬢を剥奪することなどできないと思い始めていた。ゆえに諦め混じりに、エルとピア嬢の二人きりの関係を肯定しかけてもいた。
◇◇◇
食卓には三人分の食事が並んだ。手をつけようがないピア嬢の分は知らぬ間にエルが皿ごと下げてしまっていた。
手持無沙汰の身を椅子に降ろせば視界の端で何か揺れる気配がして、思わず窓を見た。いつ開けたのか覚えてはいなかったが、窓の外から静かな夜風が吹き込み、カーテンの裾をゆったりと揺らしていた。その向こうに見えたのは藍色の街並み、いつもの王都の夜の風景だ。
「
……うん?」
ふと、弦楽のような音が耳をかすめた。私の気付きに応えるようにその音はだんだんと大きくなり、意識せずとも届くほどになっていた。初めはエルが何かしているのかと思ったが、よく聞けばその音楽は外から聞こえていた。台所へ目を向ければ、ちょうどエルがこちらに戻ってくるところだった。
「おお、始まったな」
「始まった? 催し物の予定なんてあっただろうか」
「あー、そういう堅苦しいのじゃないらしい。おまえさ、広場によく居る楽譜売り知ってるか?
……ああ、ピアはあいつと仲良いんだよな」
エルの言葉が私宛てではなくなったタイミングで記憶を辿った。思い当たったのは目をひく髪色をした快活な女性だった。
「確かファニィ君といったか」
「そうそう、ファニィ。そいつと酒場のマスターが提携して、宣伝がてら数曲だけパフォーマンスするらしいぞ。多分広場の音がこっちまで届いて来てるんだろ」
「そうか
……。良い曲だな」
広場からそれなりの距離があるにも関わらず、一連の旋律が心地よく耳になじんだ。かすかに歌声も聞こえはしたが詞を聞きとれるほどではなく、しかしその絶妙な声量が静かな夜に華やかな彩りを添えていた。私達は黙ってその曲に耳を澄ませていた。
小夜曲がゆったりと音を潜めていき、次の曲が奏でられ始めたところで、エルがふいに口を開いた。
「よし、踊るか!」
エルの視線は傍らの空間に向いていた。何がどう繋がったのかはわからないが、彼にも響くものがあったということだろう。
一拍、私には聞こえない返事のための間が空いた。それは了承だったらしい。
エルは一人頷くと机をずらし、その場で大きく一周りできる程度の広さを確保しにかかった。私もついつられるように椅子ごと隅へ移動し、はためくカーテンの横に陣取った。
ガタガタと机を乱暴に動かしながら「曲が終わらないうちに」と慌てるエルの姿はとても微笑ましかった。あの人間嫌いの彼が自分から誰かに手を差し伸べるようになったのだと思えば嬉しくもあった。その相手が居もしない誰かなのだということすら、些細なことのようにも思えてしまった。
「私はもしかしてお邪魔かな?」
冗談めかしてそう問えば、
「なんなら三人で踊るか?」
などという照れ笑いが返ってきた。
朗らかな雰囲気と、軽快な曲、心地よい夜風。
様々なものが心を和らげ、私は自然と気を大きくしていた。だから、今まで禁忌のようにしていたそこへ、彼だけの世界へ、軽率に踏み入った。
「はは、馬に蹴られる趣味は無いとも。なあピア君」
私が向けた視線の位置はピア嬢に当たっていたのか、それすらもわからないまま、私は口走っていた。ピア君、と。
その時の。
その時のエルの表情を、私は一生忘れないだろう。
彼は一瞬だけくしゃりと顔を歪ませた。
遠くから届く美しい音色も夜風のか細いささめきも、ありとあらゆる全てが彼の一拍のためだけに身をひそめていた。何よりも貴い刹那だった。
泣きだすかと思いきや、エルは息を詰めた後、その口元を大きく歪めて笑顔を作った。涙を堪えるよう深く皺を刻んでいた眉間はなだらかに形を変え、ぎこちなかった口の端はゆるやかに持ちあがっていった。そうして気づけばそこには、晴れやかな笑みがあった。
私は愚かなことに、ここでようやく悟ったのだ。
エルが本当は、不安定すぎる自分の世界でピア君を信じ続けるのにあらん限りの勇気を振り絞っていたことを。
きっと、彼の壊れかけた楔に最後の一突きを入れてしまったのはこの私だ。私の軽率な肯定が、エルを完璧に、向こう側へと連れて行ってしまったのだった。
「そうだな。ああ、そうだ。そうだよカーネル」
エルの声は初めの部分だけ、か細く揺らいでいた。けれどもそれは続く言葉にかき消され、力強い呼びかけが最後には残った。こんなにも、全身が震えだすほどの、望みに満ちた呼びかけがあっただろうかと私は思った。
エルの表情にも声にも、もはや迷いは消え去ったのだ。
はっとした頃には再び世界全体が音を取り戻し、曲の終わりを示すように弦楽の響きが激しく高らかなものになっていた。まるでおあつらえ向きの展開だった。
月はずいぶん高くに昇ってしまっていたが、もしこの時に月明かりが射しこんでいたとしたら、それらは余すところなくエルに捧げられていただろうと思った。理屈ではなく、心で。
言葉にできない何かに決着がついたのを感じ、私は、ただ想いが急かすままに口を動かした。
「エル、曲が終わってしまう。ピア君と踊るんだろう?」
二人を繋げてやりたい、というのがその時の私の確かな気持ちだった。そんな私の言葉に、エルは歌うようにまた言った。
「そうだよ。そうなんだ」
そして彼は、宙に手を差し出した。
「踊ろう、ピア!」
一拍。エルの掌に重ねられる、ピア君のしなやかな指先が見えたような気もした。頭の片隅で幻覚だと呟く私がいたが、はためくカーテンが無粋な思考を遮った。揺らぐ白い布はまるでピア君の衣服のようで、そうと思ったらもう、部屋の中央で彼女は踊りだしていた。
「ああ、楽しいなピア。最高だな!」
ステップも何もなく、盛り上がりを過ぎた曲すらも無視して、エルはでたらめに足を動かした。中途半端に掲げられた片手はきっとピア君と繋がっているのだと私は感じていた。時に足を伸ばし、跳ね、腕を強く引き、抱き寄せるような仕草をして、つんのめりかけるくらい大きくターンし、くるくると、くるくると。二人は踊り続けた。そしてにこにこと、にこにこと。
エルはもう、ただ幸福だけを身に纏っていた。
◇◇◇
いつの間にか曲は終わり、辺りには再び夜にふさわしい静寂が戻っていた。
はしゃぎすぎたのか、エルは肩で息をしていた。振り回されたであろうピア君もきっとずいぶん疲れているのだろうと想像し、それでも二人で清々しく笑い合うのだろうとも思えて、気づけば私も微笑んでいた。そして、その場に満ちた宴の余韻を言葉にするようにそっと問いかけた。
「君達は今、幸せか?」
分かりきっていたことだった。
「ああ!」
ピア君の声は聞こえなかったが、鈴の音を鳴らすような一拍が、私達の間に広がった。その間を私とエルは確かに共有し、エルの少しばかり気恥しそうな顔を、私は拍手で迎えた。
それは紛うことなき祝福の証であり、全ての道が定まった合図だった。
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