空席のロンド 2/5
念のためと辺りを見回してみたが人影はなく、誰かが隠れているとも思い難かった。なんて言ったって、その空席の後ろは壁なのだ。人が隠れる隙間などどこにもありはしなかった。
それでも私はまだ理解が及ばず、いや、理解すること自体を躊躇い、ことさら明るい口調を心がけて言った。
「なんだエル、悪い冗談はよしてくれないか」
私の言葉に、エルはますます眉をひそめた。その怪訝な眼差しは本来私がするものだと、誰にともなく言いたくなったが、まさか目前の相手に言う訳にもいかなかった。
また、一拍の間が開いた。
ブリキ仕掛けのからくりが動作の前準備をしているかのような、どことなく落ち着かない間だった。
エルはやがて、一人で納得したかのように頷くと、こう言った。
「そうか、すぐに紹介しなかったから拗ねてるんだな。まったく嫌味な奴だぜ」
そして私に戸惑う暇も与えず、空席のほうを改めて手で指し示した。
「カーネル、紹介するよ。こいつはピア。まぁ色々あって
……俺の弟子になることになったんだ」
「
…………は」
勿論、そこには誰もいなかった。
私は初めて友に対し鳥肌を立てた。
だが、そんな私の態度が目に入らないとばかりにエルは続いて私を手で指してから、空席のほうへ目を向けた。
「で、ピア。こっちはカーネル。前言った通り宮廷錬金術師で、この王都で働いてる。今日はお忙しい合間を縫って来てくれたってわけだ。なっ!」
同意を求めるようにエルが私のほうへ顔を戻した。その朗らかな口調も親しみやすい笑顔も、過去に幾度も見たものであり、馴染み深いものだった。異常な言葉と平時の態度、埋めがたいギャップがそこにあった。
渇いた笑いが、漏れた。
それでようやくエルも、私の様子に気づいてくれたらしかった。
けれども、その真意までは伝わらなかったらしく、「おいどうしたんだよ」と心配そうな声をかけてくるばかりだった。その気遣いがまたエルらしいからこそ、私の脳はいっそう混乱した。
「
…………どういうことだ?」
自分で思う以上に重苦しい声が出た。
「何がだよ?」
対する向こうは普段の通りだった。この場で起こっている全ての不和は、日常の些細なボタンの掛け違いであると言わんばかりの、軽薄すぎる声だった。
「エル、もう一度訊こう。ピア嬢はどこにいる?」
「
……だから、何言ってるんだよ。ここにいるって言ってるだろうが」
私の再度の問いかけにエルもついに語尾を荒くしたが、その反応はむしろ遅すぎるほどだった。私が初めに訊いた時点でそうやって返していてさえくれれば、この異様な不気味さは薄れていただろうに。
先ほどまでのそれと異なり、雰囲気は剣呑なものに変わった。
私は喉を鳴らし、大きな覚悟を持って、口を開き、
「はっきり言おう。エル、私にはその人が見えない。そこは、ただの空席だ」
そう、言い切った。
空席であるそこを見やって、誰もいないことを確かめながら、きっぱりと。
しかし、言い切った後も私はまだ、一縷の望みを抱いていた。
例えば、己の身を透明にする薬品を使っていたとか、特別製の身隠しの布を被っていたとか。もっと言えば、ピア嬢は人ではなくエルのように特殊な存在であるため私には感知できなかったとか。この世の不可思議に幾度も出会った私には、そういった形の説明をされれば受け入れられるだけの余地はあった。むしろその時の私は、超常的な何かを求めてすらいた。
そういった事情さえあれば、知己の友はまだ、私の及ぶ範囲に留まっていてくれるのだ。
だが、答えは、なかった。
「
………………」
続く無言に私は視線をエルのほうに戻し、瞬間、息を呑んだ。
無。
先ほどまでころころと表情を変えていたその顔は、あらゆる人間味を削ぎ落されていた。私が目を離した隙に木偶人形とすり替えられたのだ、と、言われれば信じてしまえそうなほどだった。
「
…………エル」
私は馬鹿のように口を開けてただただその光景を見ていた。私の一言が彼の何かに致命的なヒビを入れてしまったということは簡単に想像がついた。が、だからといって、あの時の私に何が言えただろう? 空白の彼女の存在を咄嗟に肯定するなんてことは到底できなかった。
◇◇◇
沈黙が続く中、私は懸命に思考を巡らせていた。
私の知らない間に、誰にも見えないところで、エルは何かしらにじわじわと精神を苛まれていたのだろうか。エルと交流を断っていた数ヶ月が悔やまれてならず、親しむべき場所がまるで凍土のように感じられた。
「エル!」
私は思わず立ち上がった。
勢い余ってか机に足がぶつかり、マグカップに溜まった飴色の液体が跳ねたが、構う余裕はなかった。
私は再びエルの名を強く呼び、その身体を揺さぶった。悪い冗談だと笑って欲しかったし、辛い出来事があったのだと泣いて欲しかった。何か、私の知りうる反応が欲しかった。
「っ、」
エルの両肩を掴んでいた腕が、ぐい、と押しのけられた。さほど強い力でもなかったのに私は大げさなほど身を引いてしまい、背面の椅子にぶつかった。日常的なはずのその音が、ひどく不快に響いた。
「
…………エ、ル」
沈黙に耐えかねて、私はまた名前を呼んだ。返事はないだろうと思っていた、が、瞬時に声が返ってきた。
「おう」
たった一声だというのに、鉄錆のようなぎこちなさがあった。自分で呼んでおいて私は身をすくませた。次に何が起こるのか、目前の相手は本当にエルなのかと、そんな不安が胸中で渦巻いていた。
エルは、一度俯いた。
また、一拍空いた。
ここまでくれば私にもうすうす想像がついた。あの一拍は、不穏と不和のための一拍だ。エルにとって何かどうしようもない不都合を、自分の及ぶ範囲に処理して、世界を書き変えるための一拍だ。
だから、顔をあげたエルは、笑っていた。その声は、朗らかないつものそれに戻っていた。
「そんなわけだから。カーネル、ピア、二人とも仲良くやってくれよな!」
………………ああ。
私の疑問と不信はエルの中から綺麗に消し去られてしまったのだ、と、理屈抜きで私は確認してしまった。
あの時ほど、その場を逃げ出したかったことはない。
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