黒竹
2022-05-30 21:09:37
18238文字
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七センチは高すぎる?

【ルカミク】
「ワンルームでも広すぎる」の続編。察するなんて難しすぎるよね、というお話。

 
 巡音ルカはこのところコーヒーに凝っている。去年のクリスマスプレゼントにコーヒーメーカーを贈ってもらってからだ。ずいぶん張ったなと思ったものだが、実はメイコとシャッポさんとの合同プレゼントだった。高校生ではそこまで値段のするものは用意できないだろうし、無理をさせても悪いので、そういうやり方はむしろありがたい。それに、ルカにとって一番価値があるのは一緒にもらったカードの方だ。
 高価なものではないがお気に入りの豆を見つけて、やや濃い目に入れるのが日課になっていた。
 ルカはブラック派だがミルクとスティックシュガーは常備してある。もちろん来客用。そしてこの部屋に遊びに来る客は一人しかいない。
 ミルクと砂糖を入れたコーヒーを口に運び、ミクがほうと息をつく。
「生き返るー」
「外、寒かったでしょ」
「すごい寒かった。雪降りそうだもん」
 分厚いタイツを履いた足をさすりさすり、ミクがうんざりした口調で答えた。降る前に帰らせないと、とルカが口の中でつぶやく。
 一月の末、夜の黒は深い。それほど遅くならないうちに帰らせるつもりではあるが、しばしば時間を忘れてしまうことがあったから気をつけないといけない。
 自分のコーヒーを手にミクの隣へ腰を下ろす。壁際にはミクのバッグと紙袋が置かれている。誕生日には数日早いが一番近い休日が今日だったのだ。平日はさすがに家でゆっくりとはできない。高校生なので。
 乾燥対策なのかおしゃれなのか、ミクは珍しく色つきリップを唇に塗っていて、それだけなのに少し色っぽい。
「雪降ると自転車使えないからやなんだよね。図書館行けなくなっちゃう」
「地下鉄で来れるじゃない」
「お小遣いじゃそんなに何度も行けないよ。本も買いたいし」
 ミクの通っている学校はアルバイト禁止なので、ミクは毎月のお小遣いを駆使してやりくりしている。このあたり、雪が振っても二、三日で融けるのでそこまで心配することもなさそうだけれど。
「中学の時、大雪で図書館から帰れなくなったことがあったんだよね。お父さんも会社から戻れないし、お母さんは車運転できないし、夜中まで帰れなくて大変だったんだよ」
「ああ、一昨年だっけ? そんなことあったわね。そっか、ミクちゃんも閉じ込められちゃった人たちの中にいたんだ」
 二年前といえばミクが図書館に通い始めた頃だ。まだルカともそれほど親しくなくて、常連との交流もなかった。それはさぞかし心細かっただろう。
 ミクがなぜかじっとりした目でルカを見てくる。「え、なに?」やや身を引きながら尋ねると、小さく唇を尖らせてきた。
「ルカさん、その時泣いてた女の子の隣でずっと慰めてあげてたの覚えてない?」
「え……あ、あー!」
 失礼ながら思わず指を指してしまう。うっすらとしか覚えていないが、そういえば碧髪の可愛らしい女の子だった気が……
「わたしはそれからずっとルカさんのこと好きだったんですぅー」
 拗ねた口調と表情。
「ご、ごめん」
「まあそりゃね、ルカさんとしてはただの利用者の一人だし。中学生だし。わたしもそんなに来てなかったから覚えてないのもしょうがないけど」
「拗ねないでよ」
「拗ねてないもん」
「拗ねてるじゃない」
「拗ねてませーん」
「もうっ」
 困りきって癇癪を起こしたふりをしたら、こらえきれずにミクが吹き出した。まあさっきから口元が微妙に震えていたので、ルカだって笑いをこらえていることくらい気づいていた。
 こんなふうにじゃれ合うのも新鮮だった。ミクがルカを困らせることなんてこれまでなかった。聞き分けの良い子どもと余裕のある大人だったから、対等のじゃれ合いなんてなかったのだ。
 ひとしきり笑った後でミクが抱きついてきた。艶のない直線的な身体を抱きとめて、いつものように頬を寄せる。
「ずっと好きだったの」
「そっか」
「知らなかったでしょ」
「うん」
 彼女がいつから恋をしていたかなんて、気にしたこともなかった。ルカにとって恋の始まりは重要ごとではなくなっていて、それが宝石箱のように煌めいている可能性に及ばなかった。これは実に失態である。
 失態だから、取り戻さないと。
「私はこれからずっと、ミクが好きよ」
 ミクの動きが止まった。耳が赤い。これは怒りによるものではない。
「きゅ、急にそういうこと言うの禁止……
「前から何度も言ってるじゃない」
「ずっととかついてなかったもん……
 それじゃまるでプロポーズじゃん。消え入りそうな声でミクが言う。言われてみればそうだ。じゃあプロポーズということにしておこう。なんの問題もない。
 ルカの肩に埋もれながら、ミクがふすんとため息をついた。
「早く大人になりたいな」
「大丈夫よ、ちゃんと成長してるから」
「そっかなあ。年はとっていくけど」
 「わたしが追いつくまでルカさんの誕生日が来ないといいのに」やけっぱちにつぶやいて、それからハッと顔を上げる。
 そうなのだ、それが今日のメインイベントなのだ。いちゃいちゃするのに忙しくて二人とも忘れていた。
 わたわたと紙袋を取り上げるミク。中からはきれいにラッピングされた箱が出てきた。
「お誕生日おめでとうございます」
 うやうやしく差し出されたプレゼントを受け取る。
「ありがとうございます」
 うやうやしく受け取ったそれの包装を丁寧に解いていく。シンプルな箱に外国のブランド名が控えめに印刷されていた。高級ブランドではないがそこそこ有名で評判の良い陶器ブランドだ。
 開けてみると、薄青と薄桃のマグカップが並んでいた。
「わ、ペアマグ? ありがとう!」
 色味は自分たちの髪色に合わせたのだろうか。
 ルカが薄青のカップを取り出して掲げてみせる。
「こっちが私のでいいの?」
「まっ、またそういう……
「だって、私の一番好きな色だもの」
 海のような森のような、神秘の色。見ているだけで落ち着くし、囚われるような胸苦しさも覚える。
 甘い呪縛のような色だ。
 ずっと眺めていたくなる誘惑をこらえ、「次からこれでコーヒー飲みましょうね」ゆったりと伝えてカップをしまう。
「ちょ、ちょっと図々しいかと思ったんだけど」
「どうして? なんだったら着替えとか歯ブラシとか持ってきてもいいよ」
「なっ」
 リア充発言にミクが爆発した。「ばか! なんで! むりむりむりむり!!」対等にはなったけれど、まだそこには大きな壁があった。
 とはいえ、これはルカの方も冗談。まさかミクがオーケーを出すとは思っていない。
 クスクス笑いながらプレゼントを脇に寄せたところで気づいた。
 大切なものをもらっていない。
「ミク、カードは? くれるって言ってたわよね?」
 実のところものすごく楽しみにしていたのだ。忘れたとか言われたらどうしよう。たとえそうなってもがっかりした顔をしないように注意しなければ。大丈夫、手紙なんていつでももらえる。たぶん。彼女の気が向けば。
 というところまで心構えをしたのだが、反してミクは「あるよ」とバッグから小さな封筒を取り出した。良かった。ちゃんと準備してくれていた。頬が緩みそうになるのを咳払いでごまかす。
 そのまま渡してくれるかと思いきや、なぜかミクが一度カードを封筒から取り出した。うん? とルカが首を傾げる。
 カードを持ったままミクはなんだかもじもじしている。どうしたんだろう、なにか書き忘れたんだろうか。ペンくらいいくらでも貸すけれど、ミクは何も言い出さない。
「ミク?」
「ちょっと待っててっ」
 何度か深呼吸して、それから意を決したようにカードをにらみつけるミク。ルカはあっけにとられている。
 カードが持ち上がり、ゆっくりと、ミクの唇が近づく。
 チュッ、と音を立てて、カードにキスマークがつけられた。
「──はいっ」
 あっけにとられているうちに、手の中にカードが押し込まれる。視線だけ移してちらっと覗いたら、「たん生日おめでとう」のメッセージと、かぶさるように淡いピンクのキスマークが見えた。
 首の後ろがものすごく熱い。
 わざわざ色つきリップを使っていたのはこのためか。
「こっ、これ、普通にキスされるより恥ずかしいんだけど……
「わたしだって恥ずかしいよ! でもメイコさんがこうするとルカさん喜ぶって!」
……そういうマニアックなアドバイスやめてくれないかしら……
 いたいけな少女に何を吹き込んでいるんだ。
 でもカードは大切にしまっておこう。今までもらった手紙もちゃんとしまってあるけど、これは、うん、特に。そしてたまに取り出して眺めよう。
 ミクは顔を真赤にしたままその場に正座した。
「で、ですね!」
「はいっ」
 勢いに押されてルカも居住まいを正す。
「さっきのは練習です」
「え?」
「だ、だから」
 もごもごと口の中でなにか言っているようだが全然聞き取れない。
 練習。練習の次に来るのはなんだろう。もちろん本番だ。本番ってなんの?
「え?」
 ぐい、と、七センチの距離までミクがにじり寄ってくる。
…………って」
「え?」
 もうそれしか言えない。
 ミクが喧嘩を売るような目で見つめてきている。
……目、つぶって!」
「はいっ」
 ほんの少し前のめりになれば届く距離。
 以前、ルカはそれを避けるために引いた。
 ミクは引かなかった。

 触れた、と思った瞬間、彼女の頭を抱え込んだのは半ば本能で、これは後で謝ろうと思う。

 柔らかい。リップのせいか少しぬめる。逃したくなくて抱きしめる。んん、と喉の奥が鳴るのを聞いて一瞬唇を離す。戸惑いと高揚が入り混じった瞳。今度はこちらから。たぶん、奪うように。それでも傷つけないように細心の注意を払って。角度を変えて、何度も。
 愛してるって。

 ミクがルカの胸元に顔をうずめて震えている。「むりむりむり顔見れない。どうしようむり」そんな様子すらいとしい。
 顔を見れないらしいので、足を崩して身体の内側にミクを閉じ込める。
「どうだった?」
「へ?」
「ファーストキスの感想」
……知らない」
 ここで聞く? 言外の抗議を受け取ったが却下する。
 だって聞きたい。知りたい。
 どうだった? 
 幸せだった?
 私はあなたを幸せにできた?
 甘えるように頬をこすりつけると、ミクの震えが治まった。
 真っ赤な耳を指先でつまんだところで小さな小さな声が届く。
…………
「め?」
「めちゃくちゃ気持ちよかった……
 うああぁぁぁ。慟哭とともにミクが崩れ落ちる。恥ずかしさのあまり身体中の骨が溶けてしまったらしかった。ルカの足元で亀のように丸まったミクの背中をポンポン叩いてやって、ルカは愁眉を開く。
「私も気持ちよかった」
「うるさい。ルカさんのばか。あんなにするなんて聞いてない」
 ばかって言われてこんなに嬉しくなるのは生まれて初めてだ。
「ごめんね。欲張りだから一回じゃ足りなかったの」
…………
 ちらっ。
 空気を読ませる力を持った視線がふんわり漂った。
 欲張りなのはルカだけではないようだ。
 だって好きな人とするキスは気持ちがいい。
 たぶん、純情な十六歳でも抗えないくらいに。
 引き起こそうとしたら弱々しい抵抗をされた。ふふりと笑ってミクの脇腹をくすぐる。「ひゃうっ」不意打ちに身を捩るスキを突いて無理やり抱き起こす。
「好きよ」
 熱に浮かされたような告白にミクの瞳が濡れる。七センチの障壁はとうに崩壊していた。
 柔らかくて熱い。少し唇をずらしてあげたから呼吸もしやすそうだった。先程より長い時間交わされたキスの一秒ごとに首筋がとろける。
 触れ合う二人の姿は幸福のかたちをしていた。