黒竹
2022-05-30 21:09:37
18238文字
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七センチは高すぎる?

【ルカミク】
「ワンルームでも広すぎる」の続編。察するなんて難しすぎるよね、というお話。


 なんでこうなったんだろう、と初音ミクは自室のベッドで煩悶している。
 図書館に行ったら、最初は普通だったのに、なんだかルカの様子がおかしくなって、急に手を掴まれて、それから、それから。
 ぐわんと体温が上がる。目を固く閉じて耐える。
 変な意地を張らずにいたら良かったんだろうか。約束した日に唇を重ねていればこんなことにはならなかった。それができなかったのはミクの臆病とわずかばかりのプライドだ。
 あのとき拒んだのは怒りに似た羞恥心からだった。こちらが先延ばしにしていただけなのに、それを棚に上げて恥知らずとルカを罵った。
 なるほど、臆病な自尊心と尊大な羞恥心か。などと名作を引っ張ってくるのもはばかられる。これはただの痴話喧嘩だ。きっと。
 誰が悪いわけでもないし、誰もが少しずつ悪かった。
 そういうよくあるいざこざだ。
 ミクがそこまで考えたわけではないが、印象として遠くはなかった。大したことのない話だと、周囲に聞いたらみんな言うだろう。
 他愛もないことなのに、こんなに傷ついて馬鹿みたいだ。
 泣きそうになって唇を噛む。
……ルカさん」
 名前を口元に乗せるだけで胸が痛かった。
 こんな調子だけれどルカに会いたい。
 会わないほうがいいと言われて、なんとなく大人の言うことだから従っているが、よく考えてみれば別にルカと会うのを制限する権利なんて誰にもない。
 ルカは傷ついていた。どうしてあの時、手を差し伸べられなかったんだろう。遅きに失した感がなくもないが、それでも動かないよりマシだ。
 カレンダーを見やると、ちょうど例の朗読会の日だった。他の日では裏に回っていて会えないかもしれないが、ルカが朗読すると言っていたから今日は朗読会に参加すれば必ず顔を合わせることになる。
 よし行こう。決めるとミクは速い。着替えて、髪をまとめて、バッグを手にして自転車へ飛び乗る。
 ルカに会いたい。
 手をつなぎたいし抱きしめてほしいし好きだと言ってほしいしそばにいたい。
 ルカしかいない。


 ミクが図書館に到着した頃、朗読会はもう始まっていて、会場の多目的ルームは色とりどりの星やハートに飾られていた。
 邪魔をしないようそっとドアを開けたがあまり意味はなかった。未就学児と思われる子どもが気勢を上げて走り回っていたからだ。母親が捕まえようとするがすばしっこくてなかなか捕まらない。
 と、それをひょいと抱えあげる腕があった。ゆったりした一人がけソファに座って『セロ弾きのゴーシュ』を読んでいたルカだった。朗読を止めないまま、子どもを膝に乗せて揺らし始める。最初はぐずって暴れていた子どもも次第に落ち着きを取り戻し始めた。ルカの膝で腹ばいになり、ソファのほつれをじっと見ている。
 軽くムッとした。こっちは最近ぜんぜん抱っこしてもらってないのに。
──って、あんなちっちゃい子相手に嫉妬してどうするの。
 我ながら情けない。子どもを膝に乗せてあやすのと、ミクを抱き寄せるのではまったく意味が違う。ロックバンドのライブと将棋の対戦くらい違う。思わずパタパタと顔の前で手を振ったら、視界の端に入ったのかルカの視線がこちらに向いた。
 一瞬。ルカの声が止まる。
 それでもすぐにハッとした様子で朗読を再開したからか、他の誰も彼女の動揺に気づいてはいないようだ。ミクだけが小さな口元のこわばりに気づいている。ミクだけが、彼女の傷に気づいている。
 けれどそれは本当はなくてもいい傷だ。
 視線の先ではセロ弾きのゴーシュが楽長に褒められている。
 ミクは読書家なので、もちろん『セロ弾きのゴーシュ』は読んだことがあった。宮沢賢治の著作でも好きな作品だ。特にラストが良い。
 ルカの声とともにミクの唇が動く。

 『ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。』

 静かな眼差しだった。子どもが騒ぐ声すら聞こえないほど、静謐に二人は対峙していた。