ぎんちき
2023-12-21 18:35:37
44403文字
Public 再録
 

【R-18G】紺碧はやがて斜陽に染まる【再録】

当作品は以下の要素を含み、人を選ぶ内容となっておりますので閲覧にはご注意ください。
・人魚パロディ/童話「人魚姫」を基にした独自設定
・年齢操作
・登場人物の死
・グロテスクな表現(ファンタジー臓物)

2021年2月に本編をpixivにアップ(現在非公開)、同年7月に発行した同人誌の加筆修正ありWeb再録です。
遊び紙に入れていた文章や、ご購入いただいた方におまけでお渡しした短文も含まれます。

なお、作中で題にしている「月」「花」内の季節が一般的に表現される「雪月花」の季節感とズレているのは認識の上ですのでご了承ください。


泡沫の真

「人魚の肉を食うと不老不死になるんだってさ。お前、知ってた?」

 昼休みの教室で、誰かが不意にそう口にした。さしずめ昨晩のテレビ番組か何かで見かけたのであろう話題は、波のように教室内にいた者たちの間でひとり、またひとりと伝播していく。

 高校三年の晩秋。既に進路が確定している者、これから本格的に受験が始まる者、等々それぞれの事情が入りまじっている空間。誰が意図しているでもなく、鬱屈とした雰囲気が漂っていた。
 そこへ投ぜられた一石。そのあまりにも現実離れした題目こそ彼らを和ませるのにちょうどよいものだった。

「へー。人魚、だって。なぁ丸井は? 食べてみたい?」
 丸井、と呼ばれた赤髪の少年。彼はひとり虚ろに窓の外を見つめていたが、名を呼ばれ、瞬きをすれば紫水晶のようなその瞳へ、光が灯る。
「わり。何?」
 話題を提示したクラスメイトが改めて紡いだ単語。人魚、肉、不老不死──それらのキーワードを自分の中に巡らせ、解を導きだした。

「うーん。俺は不老不死、ってやつには興味ないけど……。単純にどういう味なのかは気になるから、食ってみたいかなぁ! んで、重要なのは食い方だろい? やっぱ新鮮なうちに刺し身、とか? あははっ」
「お前ならそう言うと思った!」

 単なる他愛もない話であるそれは、特に気に留める程のものではなかった。だから昼休みの終わりを告げるチャイムの音と共に、至って自然に彼らの頭からは消え去っていた。

 そんなことがあったことも忘れ、今日もいつも通りに放課後がやって来る。丸井は、ひとり家の近所にある海岸へと向かっていた。
 彼はもう進路が決まっており、特段することがないのでこうして散策をしていることが多かった。そこは夏であってもほぼ人の来ないような場所で、このシーズンは言うまでもなく静かなところである。だからこそ、頭を空にして歩くにはうってつけなのだ。

 誰に邪魔をされることもなく、ひとりきり砂を踏みしめていく。サクサクと靴底が砂を鳴らす。中学生の頃から続けていたテニス部の活動も先日引退式を終えたばかりで、ポッカリと穴が空いたような心中をどうすることもできず、ただ、歩いている。
 潮風と波音。ひと気のない浜辺には丸井──正確には丸井と彼の弟たち──が「海の家」と呼んでいるコンテナハウスが、取り壊されることもなくひっそりと静かに建っていた。

 水平線は、果たしてどこまで続くのだろう。沈み行く太陽の為に、空と海が赤く染まっている。目を細めながら、輝く海面をぼんやりと見つめたあと、正面を向き直した丸井の目に見慣れない何か ・・が、映った。
……──えっ。ひ、人!? あ、っと……大丈夫ですか!」

 波打ち際でうつ伏せに倒れている影。丸井はそちらに向かって駆け寄り、声をかけた。相手から反応が見られたのでホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。猛烈な違和感を覚える。

……魚?」
 その影の下半身にはあるべきはずの脚がなく、代わりに透けるような赤い鱗に包まれた、例えるのであれば円錐に近い形状のものが生えていた。その先には、尾鰭のようなものまである。総じて考察するに、話題に挙がっていた、人魚。まさしくそれと見受けられた。
「ん……
 意識を取り戻した「人魚」が腕の力で上半身を起こす。と、丸井と目が合った。

「うわ!」
 ほぼ同時にそう口にした。その際、丸井は後方に尻餅をつき、人魚は動きが静止していた。しばしの見つめ合いの果てに意を決した丸井が先に声を発する。
「っと、に……人魚……ですか?」
「え…………?」
 そうか、人魚、なんて人間の作った言葉か、それなら──と思考し、問い直す。
「おま──あなた、のなっ、名前は、何? あ、俺! 俺は、ブン太! 丸井、ブン太」
 そもそも日本語が通じるのかどうか、ということは気にせず身振りを交えて伝えた。
 そんな丸井の姿をじっと見ていた人魚は、彼には聞こえないくらいの小さなため息を漏らしてから律儀に応える。
…………木手。……木手永四郎」
 眉根には、深い皺を寄せて。

……エイシロウ? って、普通に日本っぽい感じ……っていうか人魚も眼鏡かけるんだ……髪型もなんか、すっげぇバッチリだし……。あ、待てよそもそもこれ。夢、じゃないよな……? そうそう、さっき尻餅ついたとき痛かった、から……
 問うておいて、自分の答えに対して丸井が黙ったきりであることが気に入らなかったのか、木手の目つきが一層鋭いものになった。が、それも僅かな時間に終わり、一転、慌てて丸井に質問をする。

「あの。ここ、どこですか」
「えっ、海、だけど。あっ違うか、土地ってこと? どの規模で言えばいいんだ? とりあえずは神奈川県、だけど」
 かながわ、と丸井の言葉を繰り返す木手の唇は震え、顔色はひどく青ざめていた。
「わかりました。では私は帰りますので、さようなら。二度とアナタに会うことはないでしょう──あがっ、」
 一気に言い放ち、這うようにしてくるりと後ろを向いた木手だったが、突然腕の力が抜けたと見え、バランスを崩し倒れ込んだ。
「あっ、おい無理すんなって……!」
 丸井は木手に近づき、その身体を抱きかかえた。制服が海水に濡れる。これで帰宅した後にはまるで小さな子どものように母から叱られるかもしれないし、肌だって冷えたが、それよりも目の前にいる木手のことが心配だった。

「お前、怪我してんじゃん」
 よく見れば木手の身体には無数の小さな傷があり、所々から血液が垂れている。そして腹部にある、少しばかり大きめの傷口が酷く痛むようだった。丸井はどうしたものかと考え、閃く。
「そこで待ってろよ!」
 そう声をかけ、駆け出す。向かうは自宅。息が弾む。
(何か俺、結構冷静だな。夢みたいなことが起きてるってのに……
 人ならざるものとの遭遇。通常であれば恐怖なりを抱くであろうシチュエーションである。しかし丸井は、純粋に木手の怪我を気にかけていた。

 自宅の玄関ドアを開き、履いていたローファーは適当に脱ぎ捨てる。しっかりと身についた習慣で、家族に対して帰宅を知らせる。が、顔を見せることはせず一目散に自室へと向かった。
 目的は引退式の後から一度も触れていなかったラケットバッグだ。それを背負い、玄関へ戻る。夢中のままに彼が履いたのは、先程まで履いていたものではなく、もっと履きなれたテニスシューズであった。そのまま外に飛び出して自転車に跨る。
 丸井は再び、海岸へと向かった。

「おーい! 木手ー!」
 丸井の言いつけ通り、木手が先ほどの場所を動いていないことを確認する。呼び声に振り向いた木手の表情は、相変わらず硬い。
……
「えっと、あんま確かめてこなかったんだけど、ここに包帯が入ってたはずだから……あ、あった!」
 眼鏡の奥から不審なものを見つめるような目線を向けられていることは痛いほどに自覚していた。だが、それを無視して丸井は木手の腹部へ包帯を巻きつけていく。

……こんなもの。海の中に入ってしまうのだから無意味ですよ」
「確かにそうかも。でもさぁ、黙って放っておくのは嫌なんだよ。悪いけど、俺の自己満に付き合ってくれって」
 なぜ初対面のアナタのエゴに付き合う必要があるんですか、私にはそんなもの不要です、等々の小言が降りかかるのを笑顔ではねのけた。言葉の割に、態度として明確な拒絶をされていないのだから、きっと構わないのだろう、と解釈して。

……よし。終わり!」
「一応、感謝の言葉を投げておくべきですかね? どうも」
「別に、そんなのいいよ……にしても人魚が何で打ち上げられてたんだ? 何かこう、さ。どっちかっつーと人が溺れてるのを助ける、ってイメージの方が強いんだけど」

 そう言った丸井の頭に浮かぶのは「人魚姫」の物語。海難事故に遭った人間の王子を人魚の娘が助け恋に落ちる話。最後は王子の幸せを願う人魚姫が泡となり、消えていく──そんな、悲劇。
「奇遇ですね、私もです」
 木手は「仏頂面」と表すにふさわしい表情を浮かべ続けている。どうしたものか、と頬を掻きつつ丸井が話題を転換した。
「あー。木手。木手、か……じゃあキテレツ、だな。俺のことはブン太って呼んでくれていいぜぃ!」
「はぁ。素敵な名前をありがとうございます。丸井くん ・・・・
 不服であることを微塵も隠そうとせずに、極めて平坦な声音で応えた。丸井は苦笑しつつも、癖でバッグのポケットを漁り始める。すると、馴染んだ感触が指に触れたので、それを取り出す。目に入ったのは未開封のガムである。封を切り、ひとつ口に放り込んだ。
 すっかりと馴染んだ、人工的なグリーンアップルの香り。それが広がっていくと共に、丸井の身体が高揚感に包まれていった。思い出すのは無論、部活のこと。信頼。裏切り。努力。才能。勝利。敗北。様々なことを教えてくれたテニスが、彼は好きだった。

 丸井が思いを馳せている間に隣から強い視線を向けられていたことに遅れて気づく。そちらを向けば、木手の顔には「興味」の二文字が浮かんでいるかのようだった。
……んーと。いる?」
「い! いりません」
 そうか、と言って丸井が口に含んだガムに呼気を入れ、そのまま大きく膨らませた。目の前の木手の表情がみるみるうちに輝きを増す。しかしそのことに自分自身恥ずかしさを覚えたのか、また仏頂面に戻り正面を向き直した。丸井は何も言わないまま何度もガムを膨らませ、音を立てながら割ってみせた。
 時折木手から送られる視線がこそばゆいと感じつつ、不思議な居心地の良さを覚える。太陽はすっかりと水平線の向こうに消え、既にふたりの頭上には星が瞬き始めていた。

「あー、と。そろそろ帰んないと……キテレツに、これ。やるよ! あ、でも海の中にゴミ捨てらんないもんな。うーん……そうだ。じゃあ! 明日。明日もまた放課後、ここに来るから。ガム、一緒に膨らませようぜ。じゃあな!」
「え、ちょっと丸井く──……何なんですか、強引な人ですね。全く……
 そうつぶやいた木手の顔が、少し綻んでいたのに本人さえ気づいていない。しかし、それはすぐに曇ってしまった。
「はぁ……一刻も早くうちなーへ帰りたいものです……

   *

 それからというもの、丸井は何か別の用でも無い限りは毎日のように木手の元へ通いつめた。砂浜で隣に座り少しずつお互いのことを話し、その生活や、常識の違いに驚き、感心しあった。
 木手は「今まで地上になんて憧れたことすらない」と主張しており、恐らくそれは本心であるのだが、それでも丸井の話す地上の生活には熱心に耳を傾けていた。特に、テニスについて興味を示した。……その理由のひとつに丸井が他の話よりも楽し気に話しているから、ということが含まれていることは決して口にせず。

「別に、テニスに限ったことではないのかもしれませんが。生命を賭さずとも、活躍さえできれば力を示すことができるのでしょう? いいじゃないですか。そういうの、嫌いではないです」

 海の中は基本的に食うか食われるかの世界ですしね、と言うものであるから、丸井が返答に困っていると、木手は付け足した。
「誤解しないでください。こちらの生活だって、地上に負けないくらい。いや、それ以上に楽しいですよ」
 そのことばに嘘はなかった。それを丸井も理解する。
「ただ、今の私にテニスはできそうにありませんね。だから……そう。脚があったら、一度挑戦してみたいものです。それを最大限活かすような方法を考えて……
「おっマジ? じゃあさ、そん時は俺が一から教えるよ。俺の天才的妙技をしっかり見とけよな。それと。その技も具体的に考えておいて!」
……はぁ。仕方ないですね。そうなった時は、ですから」
(『その時』なんて、来るはずがないのに。俺はここの海のことを知らない、から。人間になる方法があったとして、それを誰から聞けば良い? いや……そもそも、本気で人間になりたいのだろうか。海を捨ててでも……。そんなことは許されないのに。何の、為に)
「キテレツ?」
 木手の顔を覗き込むようにして、丸井が声をかける。眉は八の字になっていた。
「いえ……お気になさらず。それより、見てください」

 そう言った木手が口を動かし、ガムを膨らませた。丸井の膨らませるそれよりも遥かに小さかったが、数日前までガムのことすら全く知らなかった彼にとっては、大きな進歩である。そのことをわかっているからこそ、丸井は大いに彼のことを褒めた。
「すっげー! やるじゃんキテレツ!」
「当然でしょう」

 木手の得意げな表情に丸井も喜びを感じる。彼は日に日に木手へ、確かな友情を抱き始めていた。しかし木手の怪我は着実に治りつつある。だからこそ恐らく別れの時は近い。それまで、木手が少しでも寂しい思いをしないで済むようにする……それが自分の役目と思って。

「そういえばさ。キテレツって最初逢った時は赤い尻尾? だったと思うんだけど。今って青い、よな?」
 木手の目が冴えるような碧い尾。それは、丸井がいつか見た遠く離れた地の、海と空の色によく似ていた。

「ええ。基本はこうです。しかし、驚いたときなどには赤く……、ああ、それと。眠るときなんかも赤いらしいですよ。そちらは自分で確認のしようがありませんが」
「えっそうなの! すっげー」

 丸井が驚いたことに木手は「この男は何を言っているんだ」とでも言わんばかりの表情を浮かべる。生まれた時からそうで、自分と同じ種類の仲間もいたので何ら疑問でなかったのだ。木手からしてみれば、丸井のように『脚』が生えていて、表皮の色がそう大きくは変わらない存在である『人間』の方が珍しいと言える。

「キテレツの種類……っていうと何か変か。仲間のこう、大きい括り? での名前ってないの? ちょっと調べてみたい」
「そうですね……確か。人間からはグルクン、と呼ばれていると前に聞いたことがあります」
「グル……?」

 聞き覚えのない単語に丸井が首を傾げる。
「まさか、知らないんですか?」
「うーん……わりぃ、聞いたことない、かな。ますます気になるから、調べるわ」
 ポケットからスマートフォンを取り出し、検索をする。

「えっと……タカサゴの別名、で沖縄の県魚。ああ。キテレツ、沖縄の方から来たって言ってたもんな。確かに、色とかもそうだ」
……丸井くん。何ですか、それ」
「県魚? 沖縄県が指定している魚ってことだろ」
「違います。それです、それ」

 木手が指で示すのは、丸井の手にするスマートフォンであった。彼は何故板切れを見て瞬時に情報が得られたのか、と問うているのだ。
「何って、スマホ……ああ。触る? これだけで色々できんの。仕組みとかは俺も良くわかんないけどさ、世界中と繋がれるんだぜ」
……これ。私が触っても大丈夫なんですか?」
「あー海水か……あんま良くないらしいけど、別にキテレツの手はビチャビチャなわけじゃないし。平気じゃないかな。ほら」

 隣の丸井から差し向けられたスマートフォンの画面に、恐る恐るといった様子で触れる。適当にタップし、表示が切り替わっていくのを見て木手は目を丸くした。その様子を面白く思った丸井が、動画を流し始めれば、「え……!」と声を洩らした。思わず出てしまったそれを恥じ入るように、木手はプイと顔を逸らす。その様が、年の離れた弟たちの姿を丸井に想起させた。
「キテレツってさ、かなり大人っぽい見た目だけど中身は俺より年下っぽいよな。最低でも二つ……三つくらいは」
 その丸井の言葉を木手は鼻で笑う。

「何を言うんですか。私の方が上ですよ。正確な歳は覚えていませんが、丸井くんは精々二十年くらいしか生きていないでしょうけど、それより遥かに長く生きていますから」
「うっそー!」
「失敬な。我々と人間は生きる時間が違うんです。ですので、アナタ方の基準では若く見えるかもしれませんが、あまり甘く見ないことですね」

 今度は丸井が目を丸くする番である。目の前にいるこの男が、悠久の時を生ける存在であると、俄かには信じ難かったから。脚の有無こそあれ、言葉も、思考回路も人間と大きく変わらないのに、と。木手の瞳をジッと見つめる。
「なっ、何ですか……

 木手が右人差し指の関節で眼鏡のフレームを上げた。どうやらそれは彼の癖らしく、丸井は何度もそれを見た。今それをした理由は、顔を覗かれることへの羞恥を誤魔化す為のものだった。しかしそれでもなお耐えきれなかったようで、咳払いをしてから全く異なる話を切り出した。

「丸井くん。突然ですが、我々の姫の伝承はご存知ですか」
「? あー、もしかして人魚姫、のことか? もちろん。有名な童話だからな」
「それならば話が早い。……あのお話は、現実にあったことでしてね」
……マジで?」
「ええ。それで……姫の姉たちの〝祈り〟は人間の世界でも知られていますか?」
 丸井は大きく首を横に振り、それを見た木手が語り始める。妹を喪った彼女たちの〝祈り〟について。

 ……泡となって消えてゆく妹の姿をみて、姉たちは祈りました。『もう二度とこのような悲劇を繰り返してはならない。陸に憧れを抱く者を出さないで済むよう、かの地に恋い焦がれるような不届き者には、見せしめとして罰をお与えください』──

「と、まぁ。ただそれだけなのですが」
「えーっと。えっと。それって……さ。祈り、っつーか……呪い、じゃねぇの」
「呪い……そうですね。私もそう思っています。だからこそ、と言うべきなのか、効果は抜群ですよ。具体的にどんな罰が与えられるかは誰も知らずとも、それを恐れるあまり、余程の変わり者でもなければ陸に近寄ろうとしませんから。その部分が単なる脚色だと、頭では理解していようと、ね。もちろん、私だってご多分に漏れず」
 ひと呼吸あけ、木手は続けた。

「ねぇ、丸井くん。アナタは運命というものを信じますか」

 そのことばは、丸井にとって余りに突拍子もないものに感ぜられた。祈りの話から、何故運命云々になるのか、と。若干困惑している丸井を余所に、木手は更に続ける。
「姫と、人間の王子が出会ったのは避けがたい運命、であったのか、ということです。そして──」
「そして?」
「いえ。何でもありません」

 続きの気になる丸井であったが、追求したところで答えてもらえるようなものでない、と判断しまずは先ほど投げかけられた問いに、答えることにした。

「そうだなぁ。姫と、王子は……運命……だったんじゃないかな? ごめん。よく、わかんないんだけどさ。偶然、って単語で片付けるのもこう……違う、っての? なんかそれだと、寂しいじゃん。感覚の問題かもしんねぇけど」
「──ああ。そう、ですか。わかりました……さぁ、もう暗くなってきましたし、帰りなさいよ」
「お、おう……?」

 いまいち状況を飲み込めぬまま、木手に促された通り帰路につく丸井。その背中を見て、木手は思う。
(そして。そして──俺がここに漂着したのも。君に出逢ってしまったのも)
 運命、であったのだろうか。そのようにひとことで括れるものなのだろうか、と。
 そうこうする内に、ふたりの出逢いからひと月ほどして、木手の怪我が無事完治した。別れのときがくる。

「では。私は沖縄 うちなーへ帰ります」
「おう、気をつけて……。あの、さ……また。逢える、かな? 俺たち」
 丸井は自分自身、その発言に驚いた。思ってはいても、言うつもりは微塵もなかったはずなのに。

……わかりませんね。そんなの」
「そりゃそうだよな! 変なこと聞いて、わりぃ。じゃあ、な」
……またやーさい、丸井くん」
 そう言い残して去っていく木手の姿が陸からは見えなくなっても、丸井は水平線の彼方を見つめ続けた。太陽が沈み、月が昇っても、なお。

   *

 それから数カ月の時が流れる。丸井が大学生となって、既に半年が経とうとしていた。軽い足取りで向かっていくのは、いつもの海岸である。

「おーっす!」
 丸井が声をかけた先に『人』はいなかった。しかし間髪入れず海面より顔を覗かせた者がいる。その相手は──

……丸井くん。今日は早いじゃないですか」
「うん。何か二限の教授が私用で休みとかでさ。後はもう何も取ってないし、とっとと帰ってきた。で、キテレツは何してた?」
「俺はですね

 あの木手永四郎であった。一年前のあの日は互いに永遠の別れとなるものと思っていたが、そうはならなかった。数日後、木手が再び同じ砂浜に帰ってきた為である。
 丸井がどうしたのか、と問えば詳細は話さなかったが、どうやら沖縄に帰ってから戻ってきたということではないらしく。ただ、「帰れなかった」とだけ答えた。その際の木手の消沈ぶりといえば例えようがない程であった。それからも「沖縄の海こそ最も綺麗なものだ」などと頻繁に話すものの、木手が再度そちらへ向かおうとすることもなかった。

「あ! そうだ。ニュースで見たんだけどさ、近々でっかい台風が来るらしいから、気をつけろよな? また流されないように」
問題ない ノープロブレム。本土の台風でしょう? うちなーに比べればどうということもないと思いますけどね」
 でも用心しとけよ、そう言う丸井に、アナタの方こそ、と返す木手。そのようなやり取りをして、この日も別れの時間が来た。丸井は去り際にもう一度、気をつけろよ! と声をかける。彼には見えなかったが、木手は少しだけ微笑んでいた。

 丸井の話した大型の台風が関東へ上陸した日。再三木手へ注意喚起を行っていたはずの丸井は、無謀にも海岸に向かっていた。
 正確には、台風の本体は過ぎていったがまだ暴風雨が吹き荒れる中で、といった状況下である。「大丈夫」と言われたものの、つい、木手が心配で自身の危険も鑑みずここまで来てしまったのだ。考えるより早く身体が動いていたと言うべきか。
「キテレツー!」
 自分の声がかき消される程の、騒がしい波の音が丸井の耳に響く。普段は穏やかな海である。しかしこの日はまるで、別の生命体のように見えた。思わず身震いをするが、それはきっと寒さのせいだと思い込んで。
「木手! ──っあ。やべ」
 高波が、丸井を呑む。

 時は少し遡り、海中。海底の辺りで木手は身を潜めていた。
(やはり、うちなーに比べればそこまででもないですね)

 そんなことを思いながら、どこか物憂げな瞳で佇む。
(丸井くんに逢わないだけで、こうも静かなのか。……うちなーにいる時は基本的にはこう、であったはずだ。しかし……嗚呼──)
 沖縄から神奈川へ漂着して以降、彼が丸井の顔を見ない日は殆どなかったと言える。そんな中で訪れた静寂というものは、良くも悪くも思考を巡らせた。
(彼と出逢ってからというものの。俺はおかしくなってしまったのではないか。すっかり彼との会話を楽しんでなんかいて。うちなーに帰りたいというのは本心だ。でも……このままでも悪くないのではないか、なんて考え、て──そんなことは許されない。俺は、帰らなくてはならない。それなのに、まさかこんなことになるなんて。……ああなったのも元はといえば彼のせいじゃないか。全部彼の、せいだと思ってしまいたいのに、すっかりと絆されて。こんなの、俺じゃない。木手永四郎では、ない)

『キテレツ』
 木手の耳に聞き慣れた声が届く。まるで自分を探しているかのような呼び声。幻聴か、と自嘲した。
(駄目だ。彼のことをうっかり考えてしまったばかりに、こんな)

『木手』
 もう一度、声を耳にする。
……まさか。こちらに来ている……? そんな、馬鹿な。ありえない。だって、丸井くんの方が俺よりも台風を心配していたじゃないか

 だから、声が聞こえるはずがない。そう思おうとすれば思おうとするほど木手の中にじわり、と不安が広がっていった。呼び声はすぐに止んだが。否、止んでしまったからこその不安感である。鼓動が早まり、水中であるにも関わらず息苦しさを覚えた。

(幻聴だ。それにもし彼であったとしても、海を軽んじた者がどうなろうと俺の知ったことではない。そう、だろう)
 そう思考したのとは裏腹に、木手の身体は動き出していた。

「俺も、随分と焼きが回ったものですね」
 そうつぶやく。途中、何かが尾鰭を貫き、引き裂いたのを感じたが痛みを気にする間もなく、丸井を探した。もし見つからず、明日になって普段通りに砂浜へ丸井がやって来るのであれば、それはそれで構わない。余計な心配をして損した、なんて文句を言ってやろう、と。
 しかし。

……! あれは)
 木手の目に流されていく影が映る。波に揺らめく赤い髪は、見間違えるはずもなく、丸井であった。すぐさまそちらへ向かい、抱きかかえ海上に顔を出した。
「丸井くん!」
 返事はなく。木手は舌打ちをし、岸へと急いだ。

「丸井くん……?!」
 陸地に上がっても丸井は目を覚まさなかった。それだけでなく呼吸すらしていない様子である。木手には人間の蘇生法など、わからない。わからないが、短時間で思考を巡らせひとつの手段を思いつく。
 空気を吸い込み、自身を通して丸井の肺へ直接それを送り届ける。丸井の血色を失った唇は、冷え切っていた。
……っはぁ、丸井、くん……丸井ブン太!」
 何度か繰り返すうちに、丸井が咳き込み水を吐いた。すぐに目は覚まさなかったが息を吹き返したのだ。それを見た木手は脱力感に襲われ、丸井の隣に倒れ込む。
(良かった)
 素直にそう思い、安堵する。……荒れ狂っていた波はもうすっかりと表情を変え、穏やかなものとなっていた。気が緩み、木手はそのまま眠りにつく。

 しばらくして、ようやく丸井は目を覚ました。全身が水に濡れ、冷たい。身体もひどく重たくて、身を起こす気力すらない。
(俺、確か波に呑まれて……
 それ以上の記憶はなかった。ふと、自身の隣に気配を感じ身体を倒したまま、首を横に向ける。そこには安らかな寝息をたてる木手がいた。それだけで、総てを察するには十分だった。
……木手」

 丸井の胸に申し訳なさと感謝が混じった感情がこみ上げていく。眠る木手の頬に、そっと手のひらで触れる。丸井もまた、眠った。

   *

「キテレツ〜、怪我は治ったか?」
「丸井くん。そちらこそもう体調は大丈夫なんですか」
「おう! バッチリ!」
 あの後、丸井は風邪を引き酷く体調を崩した。回復までにそこまで時間はかからなかったものの、台風の日に出かけた挙句、しばらく連絡も取れないような状況に陥ったことを家族に心配されたことから、しばらくは寄り道せず家へまっすぐに帰ることに自ら決めたのだ。その為、ふたりが再会するのは一週間以上ぶりのこととなる。

「えっと……さ。一応の確認? なんだけど。あの時、って……お前が助けてくれたんだよ、な。サンキュ、……
……いえ」
 ふたりの間で、今までにないぎこちなさが流れる。
「あ……ごめん。あの、今日はもう帰んないと、だから。それだけ。明日からは元通りにするつもり! またな」
「ええ、わかりました。お気をつけて」

 こうしてふたりが日常を取り戻して、数日経過した後のこと。丸井はいつものように木手に逢うべく砂浜を歩いていた。「キテレツ」、とその名を呼ぼうとした瞬間。

「おーっす! 丸井じゃん!」
 その声に振り向けば、高校時代のクラスメイトが立っていた。チラ、と沖の方に目をやるが、木手の姿はなかったのでそのまま元・クラスメイトと話すことにした。
「久しぶりだな! どうした?」
「いや、たまたま地元 こっちに帰ってきてて。何となくこの辺散歩してたらさ、赤い髪が見えたから! 丸井かな〜って思ったら、当たり」
 そんなに目立つ見た目をしているのだろうか。いっそ変えてみようか、などと思い丸井は指先で自分の髪に触れる。
「で。丸井こそ何してんの? あ。あー待って、当てるから! そうだな……ひと気のない海岸だからナンパじゃない……わかった! 魚。いや『人魚』探しをしてるんだな!」

 ぎくりとする。が、表情を崩さずに答える。
「おい、何だよそれー!」
 丸井の言葉に笑みを浮かべ、男は続けた。
「いや、だってほら。去年、だっけ? 高校の時にお前言ってたじゃん。『人魚を食べてみたい』って! でも本当に探しちゃうなんて案外ロマンチストなんだな」
「だから違うって! それに別に今はそう思っちゃいねぇよ」
「そう? まあいいや。あ。俺用事あんだわ。そろそろ帰る。人魚、見つかるといいなー!」
「うるせー! 違うって言ってんだろ! アハハハ……ハハ……

 丸井から発せられたのは空虚な笑いだった。人魚を食べてみたい、確かにあの時は興味の為にそう考えていたが、今は違う。断じて、違う。

「丸井くん?」
 背後から声がかかる。見れば木手が、海面から顔を出していた。一瞬、先程の会話を聞かれたのではないかと焦ったが、あの距離からならまさか聞こえまい。それよりもできるだけ、いつも通りに接しなくては。余計な心配をかけてしまう。そう思い、ひとつ深呼吸をしてから木手に返答した。
「よ! キテレツ。今日はさ、俺の天才的妙技についての説明だったよな?」

 その翌日から今日に至るまでの数日間に、木手は丸井の前へ姿を現さなかった。あまりに突然だったので丸井も最初は何事かと思ったが、徐々に「沖縄へ帰ったのかもしれない」と前向きに考えられるようになった。
(今頃、仲間たちと再会できてるんだろうか。そうだよな、冬をこっちで耐えたとはいえ沖縄に比べたらこの海は、多分。アイツには寒すぎるはずだし……これで良かったんだ。でも挨拶くらいは欲しかったよなぁ。また逢えるかな……
 そう考えながらも自然と足が海岸へと向かっていった。今日も木手の姿はない、ということを確認する為に。

……は?」

 丸井の目に飛び込んできたもの。それは、一年前の、あの日と同じように砂浜でうつ伏せになった木手の姿であった。しかし大きく異なる点がある。倒れる影の下。砂地が、海水だけではなく、木手から滴る『液体』を吸い上げているのである。
「っ……えーっと。何かの、冗談、だよな。ふざけんなよ、キテレツ……? やっていいことと、悪いことがあるって。俺、そういうの、嫌いなんだけど……

 木手の傍らには割れた、厚みのあるガラスが落ちていた。瓶であろうか。それにも砂地と同じ色の液体が付着し、ぬらりと日光に照らされている。
「なぁ!」
 言葉とともに丸井が木手を抱き起こす。まだ息はあった。顔面に付いた砂を払ってやりながら、丸井は尋ねる。
「キテレツ……これ、誰かにやられたのか?」
 息はあるものの、このまま返答はないかと思われた。しかし
…………自分、で」

 丸井が思っていたよりもしっかりとした返答があった。その間も、腹部から溢れだす液体は止まらない。
「何で、そんなこと……?」
「帰れない、から……うちなーに、帰らなかった、のではなくて。帰れなかった。だから」

 ──……

 俺は、君に断っていない時も含め……何度もうちなーに帰ろうとしました。でも。海が、それを赦してくれない。……そう。拒まれている。海よりも、大切なものができてしまった、から。恐らくこれが、姉たちの祈り ・・なんです。

 丸井くんと出逢って、丸井くんと共に過ごして、丸井くんに…………惹かれて。その結果、うちなーの海を二度と拝めずに、きっと、緩やかに、穏やかに、死んでゆく。それが、総て。総てが、俺の運命だというのなら。甘んじて受け入れる、だなんて。そんなの、俺自身が、許せない。
 つまりですね。言うなればこれは、俺の。木手永四郎の、最後の反抗です。運命なんて、俺のあずかり知らないところで、決めつけて。そんなものの、好きにはさせない。抗ってみせる。
 だからそれに、アナタを利用させてもらいます。『人魚』を、食べてみたかったのでしょう? それならばちょうど良いじゃないですか。利害一致、というやつですよ。ふふ……最も、不老不死になれるかの保証までは、できませんけど。
 ああ。同情だとか、そういったものを向けられるのは、お断りです。だって。君の血肉となれるなら……俺は。

 ……でも。そうですね。もしも。もしも、許されるのであれば、君と……うちなーの海を、見たかった。君と、テニスを、してみたかった。そんなのは、全部。はじめから叶わぬ絵空事に過ぎませんが。

 ……──

 木手は息継ぎをしながら、ゆっくりと、語る。それをただ静かに黙って聞いていた丸井だったがここまで聞いたところで、首を大きく横に振った。

……俺だって。俺だって! お前と。お前の、故郷を見たいよ。見に行こうぜ……テニスだって、何かやり方を、考えて……すぐには、思いつかねぇかもしんない、けど……
 彼の瞳から溢れた大粒の雫が、木手の元に落ちる。更に頬を伝っていき、最後は砂に吸われた。

「第一、さ。俺が間に合わなかったら、どうするつもりだったんだよ……こんなとこ、で……ひとりで……し、……死んじゃったら」
……考えなしに、行動してしまったと……反省、していますよ……。でも、アナタの顔を見てしまったら、きっと。……だから。こうして、結果……的に。直接伝えられて、良かった」
「でも、こんな……別のやり方が……
……こうでも……しないと。直接同じことを頼んだところで、丸井くんは拒否、するでしょ……う」
…………でも、」
「丸井くん」
 凛とした木手の声に、丸井は思わず背筋を伸ばす。木手が目を細め、腕を伸ばし、丸井の頬に触れた。指先へ、熱が移る。しかし、それを「熱い」と感じ取るほどの力を、木手はもう持ち合わせていない。

「ねぇ……笑って、くださいよ」
「っ」
 自身に触れているその手を握る。丸井は、決心した。

……そう、だ。全部木手の、かわいいわがまま、だから。俺が、ちゃんと。聞いてやらないと)

 笑顔を作った上で木手に問う。
……それじゃあさ、キテレツ。俺に……どこを、食べてほしい?」
 木手の空いている腕がゆるやかに持ち上げられ、指先と口で、ある場所を示した。発せられたその音は丸井の知らないものであったが、恐らく間違いないであろうそれを、理解する。

……ああ。そうする。うん……じゃあ。後は全部俺に、任せろい」
 木手が満足気に頷き、瞼を閉じた。丸井は木手の腕を離した右手で、片端に落ちていたガラス片を拾った。強く握ろうとするが、手のひらが汗と木手の体液とで滑り、思うようにならなかったので自身の服で拭い取る。

(大丈夫)
そう思い込むようにした丸井の口許には、笑みが貼りついていた。しかしその後ろで食いしばられた歯の隙間からは微かなうめき声が漏れ出ている。
…………っ」
 と、丸井の腕の中の木手が、眉間の皺を深くした。口を開き、呼吸を繰り返す。
「キテ、レツ……苦しい、よな。そう、だよな」
(俺より、お前の方がずっと、ずっと)

 指先でその首筋に触れれば、弱弱しいが、懸命にテンポを刻んでいる。それを、この腕で止めなくてはならない。じわりとまた視界が歪んでいく。
(泣くな。泣くな、泣くな!)
 浅く上下する木手の腹部。そこ載せられた彼の手に、左手を重ねた。

(冷たい)

 いつかに触れたそれよりも、幾分か冷たく。一度目を強く瞑り、開いた。そしてやっとの思いで切っ先を木手の喉元へ向ける。呼吸は一向に整わない。手が、ひどく震えていた。
……、ぅ……はぁ、はぁ、はっ……ぁ」
……まる、いくん」
 にふぇーでーびる──微かにそう囁いた木手の声が丸井にまで届いたのかは定かでない。しかし、丸井は確かに頷き、「うん」と応えた。そして、振り上げた腕を勢いよく下ろす。深く、深く。躊躇いなど捨て去って。それが、少しでも早くお互いを苦しみから解放する唯一の道と、知っていたから。
 そこからの一連の流れは、丸井にとってコマ送りのように感じられた。木手の首筋に突き立てられた切っ先が繊維を断ち、その下の管をも貫いたことがガラスを通し、手のひらへ感触として伝わる。内から出た体液が呼吸器に溢れ出たことも、よくわかった。丸井の腕の中で、木手はしばし咳き込んでいたがついにはその動きが、止まる。
 丸井が目にしたのは、真紅に染め上げた口許に、うっすらと笑みをたたえた木手の姿。ガラス片を引き抜けば、『赤』が流れ出た。そんな凄惨な外見とは裏腹に、どこか穏やかな最期のようにも感じさせる光景である。

 しばらくの間、まるで静止画のように動かないふたりであったが、木手から流れる体液だけが、清水のように滾々ととめどなく零れ落ち、去っていく。砂が、丸井の着用している衣服が、ふたりに押し寄せる波が、『木手』からそれを奪っていく。丸井はしばしそれを見つめていたが、不意に強く、木手の身体を抱き締めた。しかし、すぐに力を抜いてやる。

……わり。あんまり、こんな風に、ぎゅってしたら。怒るよな、お前は。多分……ベタベタすんなって、キテレツなら、言うもんな……
 でも。これだけは、一度だけなら、許してくれないか心の中でつぶやき、唇を重ねた。鉄の香りが、口腔と鼻腔に広がる。
「ハハ……な。怒って、くれよ」
 黙して語らぬ、腕の中の肉塊へ請う。しかしその願いは叶うことはなく、閉ざされたままの瞼は、微動だにしない。
 潮風が木手の髪と睫毛だけを揺らして。丸井のことばを遠く遠くへと追いやった。ああ。これは決して夢や、おとぎ話ではないのだ、と丸井は思う。溜息をひとつ、吐いた。いつまでもこうしては、いられない。

「キテレツ……そこで、待ってて」
 そう声をかけ、歩み出す。向かうは自宅。息を整えて。
(こんな時でも案外、冷静なもんだな)
 自室で必要そうなものを揃えながら、どこか他人事のように思う。海外旅行へ行くときに使うような大きなスーツケースへそれらを雑に詰め込んで、木手の元へと急いだ。

 丸井が木手の遺言を実行する為に選んだのは、海岸に佇むあの『海の家』となった。木手の元へ戻る前に、スーツケースをそちらへ運んでおく。
 扉を開ければ、中には埃と黴の香りが充満していた。おまけに薄暗く、それらの要素ひとつひとつが不気味さを演出した。しかし丸井は臆することなく足を踏み入れる。そこには何年も前に弟たちと見た時のまま、簡素な長机とパイプ椅子だけが置かれていた。これなら何も問題はない。
 扉は開いたままにして、再び砂浜へと向かう。そして、横たわる木手を抱きかかえ、持ってきたタオルで血液を丁寧に拭ってやった。
「よし」

 それを終えた丸井は、遺体を背負い小屋へ向かう。ひとり、話した。
「キテレツ。力仕事って俺の役割じゃねぇんだけどさ、お前だからトクベツ。……にしても人魚って、脚がないからおぶりにくいわ。なぁ。だから今度は人間になって逢いに来てくれても良いんだぜ? もちろん俺は今のままのお前が……──あー……、好き。みたいなんだけどさ。べ、別に変な意味じゃねぇからな? で、もし脚があったら……一緒にテニス、できるし。何なら飛行機に乗って沖縄に行けるぜ。雲の上、なんて。見たことないだろ。地上じゃ曇ってても、雲の上は青空が広がって……綺麗なんだぜ。ううん。そもそも、沖縄だけじゃないよな。北海道とか、海外とか。どこにだって行ける。だから……

 小屋に入り、室内の机上へ木手を安置する。
……キテレツ、」
 眠っているかのような表情に、名を呼べば目を覚ますのではないか、という幻想を抱く。しかし、発したその音は、先刻と同様に虚しく空中で霧散するだけであった。
(木手はもう、いないんだ)
 彼の抜け殻を今一度見つめ直す。腹部には数カ所の傷口が開いていた。しかしそれらの内のいずれよりも、丸井がガラスを突き立てた首筋が深く、穿たれている。また、青く輝いていたはずの鱗はすっかりと色を変じていた。その色が何かに似ているな、と思いしばし眺める。しかし、すぐには思い出せそうになかったので一旦、止めにした。

……うん」
 深呼吸を何度か繰り返した後、丸井は持参した包丁を手に取る。そして、木手の胸の辺りを、数度に分け切り開いた。
「あ。……肋骨」
 落胆。木手から示された部位へ最短距離で辿り着くには骨を除去する必要があったが、生憎その用意を丸井はできていなかった。砕くわけにもいかず、どうしたものかと思案する。結局は腹部側の臓器を除きつつ、『そこ』を目指していくような方法を取ることに決めた。
 そうと決まればとばかりに、早速胸部から下腹部へと向けて刃を進める。

……ああ、そういえば。臍。ないんだよな。前にそんな話、したっけ。そんなのがあるわけない……って。確か、人魚は人魚から生まれるんじゃない。他の魚と一緒に生まれるんだけど、その中で突然変異した存在だから、だったかな? そんなに経ってないはずだけど、懐かしいな)
 過去のやり取りを思い返す丸井を包み込むように、潮の香りが広がった。丸井の慣れ親しんだものとは少し違う、それ。不快感は決してなかった。

 開いた腹部を左右にグイ、と開けば香りは一際強くなる。柔らかい。中に膜のようなものが見えた。そこには何ヶ所の裂くような傷ができている。
(もうちょっと、大きく……
 あまりにも思うとおりにいかないので下腹部側にもう少し刃を入れようとした。だが、刃先が既に付着した血液と脂肪で滑ってしまう。

 木手は、外から見れば十分引き締まった肉体をしていたが、徐々に冷え込む水温の為、内にはある程度の脂肪が蓄えられていたのだ。取り急ぎは逐次タオルで刃を拭き取ることにし、事なきを得る。
 できるだけ丁寧に、余計な傷をつけないで済むように。急く気持ちは抑えてゆっくり。そう心がけようとした。しかし「思っていたのと違った」、と。これが丸井の率直な感想である。
 彼にとって、人体の構成というものは弟たちと一緒に読んだ図鑑に載っているようなものだった。だから、腹部を開けば消化器官がすぐそこにあって、取り除けば簡単に完遂できるだろう、と考えていた。だが、実際のところそう単純に『そこ』へ至ることはできそうになかった。

(本当に俺なんかに、できんのかな。どうしよう、キテレツ……
 動揺がないわけではない。何せ丸井は「たまたまこうなった」「普通の学生」なのだから。血塗れた手を無気力に下ろしたまま、立ち尽くす。
 まるで何かに縋るように首を左方へ向け、この身体の持ち主だった者の顔を見た。もう今更後戻りはできない。そう、無言のまま語られたような、気がして。
(できるかできないかじゃない。やるしか、ねぇんだ……
 木手の内臓は人間のそれと形や位置感もほぼ相違なかった。意を決した丸井が先ほど確認した大網の端を持ち、めくりあげる。するとその下でまず見えたのは大腸と小腸であった。それは彼も知っている。
(これ、全部出さないと、か……。でも、取り出してから戻す訳にも、ってなると……

「ごめんな、キテレツ」

 顔を顰めながら表面側の小腸をある程度引きずり出し、露出した大腸を辿っていく。S状結腸のあたりを左手指で掴んで、その上を包丁と共に持参したキッチン鋏で切る。滑ってしまい一度ではできなかったが、二度目で無事完了した。
……あ、あれ」
 腸を両腕で掬い、まとめて出そうとするものの、後方で引っかかるようになっていて思うようにいかない。ひとまず出せる分だけを出し、よくよく観察してみれば後方へ繋がるような膜状のものが認められた。

「思ってた以上だな、こりゃ……
 そうは言うが、迷うことなく包丁と鋏を適宜使い分け、腸間膜を切り裂き、本体との繋がりを失った臓器を引き出す。それは、淡い桃色をしていた。取り除いていない臓器たちの隙間から顔を覗かす背面の肉が、ちらちらと照る。
 それらをじっくりと観察している間もなく、胃の番となる。手前にある肝臓を少しだけ押しのけながら、腸を除けた空洞の下方へ向けて引っ張った。大網はそのままにしてある。
 不用意に胃液や内容物が漏れないよう、噴門を左手で押さえながら食道を切断。これで胃から大腸までが摘出できる。上から順に取り出して机上の空きスペースへ置いておいた。

 残るは大きなところとしては、肝臓のみとなった。間を空けず取り掛かる。各消化器官に繋がる血管のいくつかと、前面の肝鎌状間膜を鋏で断つ。難なく切り離せたそれを、抱えるようにして先ほどの消化器官と共に机の上に載せた。
「ふぅ……
 一息をつく。丸井は集中していたので気が付けなかったが、思っていたよりも汗をかいていた。額から垂れるそれが、目に入りかけるほどであった為、慌ててシャツで拭う。ついでに腕にこびりついた血をタオルで拭いた。綺麗に洗われたタオルの純白が、すぐさま朱に染まっていく。
……? あれ。おっかしいな」
 身体に違和感を覚える。突然、手の震えが止まらなくなった。

……急に何なんだよ、これ。止まれ、止まれよ。畜生、俺は……
 自分が、あまりにも情けない存在に思えた。しかし、止まれと思うほどに身体はいうことを聞かず、震えは一層激しくなる。
 このままでは埒が明かないと、丸井は一度外の空気を吸うことにした。木手の頬に手を添えて、「もうちょっと、待っててくれよな」と声をかけてから外へと出た。彼の目に飛び込んできたのはゾッとするほどに美しい、夕焼け空。

「同じ色だ……
 そして、思い出す。先ほど引っかかったことについてを。現在の木手の、目を見張るような紅い尾。それは、ふたりが出逢ったあの日の、海と空の色によく似ていた、と。
「同じ……
 潮風が肌を冷やす。もうじき辺りが暗くなる。そうなれば電灯のない小屋の中は、真っ暗になってしまうから、急がねば。丸井の決意が再度、固まる。

 気がつけば手の震えはもう、止まっていた。

「さーて。待たせてわりぃな」
 今一度木手と対面した丸井は、それだけ言い、先ほどまで進めていた箇所に改めて腕を入れた。上方を探れば横隔膜に突き当たった。最も、丸井はそれを横隔膜と認識はしていないので、また障壁か、程度にしか考えていないのだが。それでも終わりが確実に近づいていることを、予期した。
 手元が見えない為、より慎重に。少しずつ刃で裂き、奥深くに腕を滑り込ませた。
……お?」
 すると、位置感からして求めているものであろう、弾力のある感触が手に触れた。左右を別の臓器に挟まれているそれを引っ張ろうとすれば、繋がっている太い血管が妨げる。では、と思い右手を抜き、一度タオルで拭った。包丁から鋏に持ち替えて、左手で臓器を支えた状態でそれらを丁寧に除去した。切断する際のプツ、プツとした感触が丸井の腕に伝わる。また、眉を顰めた。
 左手にずっしりとした重みがかかる。そのまま木手の身体から引き抜けば、ようやく待望のものが現れた。木手が生まれてから、死ぬまで。ひたむきに動き続けたもの。一種の高揚感、あるいは満足感のようなものに満たされ、丸井の中にもあるその臓器が、拍動を激しくした。
 ──『心臓 ふくまーみ』。あの時、丸井からの問いに木手はそう、答えていた。

「綺麗、だな」
 おおよそ握りこぶし大のそれを手に持ち、椅子に座って、しばし眺める。これを食べるのか、と。それが木手の望みだから。しかし。これでよかったのだろうか、という考えがどうしても湧き上がってきた。
(よかった……よかったんだよな。これで)
 自分が心の底からそう思わなければ木手が報われない。それだけは嫌だ。だから。
…………よし」
 「それ」は一旦机上に載せておき。さて、他の臓物はどうしたものか。そう丸井が思案し、辿りついた答えは埋めること、であった。取り出した総てをレジャーシートで包むようにし、再び小屋の扉を開いた。

(本当に。波の音は……これだけは、変わんねーの……
 ふとそう思ったのをきっかけとして、丸井の頭の中でこれまで約一年間の記憶が駆け巡った。嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、楽しかったこと──愛しくも再び訪れることのない瞬間の記憶を総て呼び覚まそうとしている自身を止めようと、わざとらしいくらいに頭を左右に振る。そうして思考を止めて、ようやく次の作業に移行した。

「でき、た」
 柔らかさの為に崩れてくる砂に悩まされつつ、ほぼ無心で穴を掘った。深く、深くに臓腑を埋め終えたが想定よりも遥かに時間がかかってしまったようで、もう日は沈み、辺りはすっかり闇に飲まれている。
 今頃は家族も寝静まっているだろうから、かえって都合がいい。丸井は先程まで臓腑を置いていたレジャーシートに付着した体液を拭った。そして、そこに今度は遺体を包むようにして、スーツケースへ格納する。ガラガラとキャスターの音を鳴り響かせるのも良くないと思い、両腕で持ち上げ家路についた。

 彼らの去った後。残された机には、木手の血液が染み込んでいた。

 帰宅し、すぐにスーツケースを自室に置いてから自身は浴室へと向かった。血にまみれた服は後日こっそりと捨てることにして、熱いシャワーを頭から浴びる。そうしたことで緊張の糸が切れたのか、丸井の瞳から涙がとめどなくあふれ出した。
 悲しい、だとか、辛い、だとか、涙の流れ落ちる理由を考える余裕もない。ただ、涙を零し、総て湯と一緒に流すように。声を押し殺して、泣いた。
 風呂からあがり、自室へ戻る。電気もつけず暗闇の中、ベッドの上で膝を抱え込みつつ、考える。木手の亡骸をどうすべきか。焼くには、場所や手段等、様々な問題がある。臓物同様浜辺へ埋めるべきか、しかしそれも何だか忍びない。そう思ったとき、ひとつのアイディアが浮かんだ。
(キテレツは、ずっと帰りたがっていたんだよな。そうだ! じゃあ沖縄の海に帰してやろう。……俺の、手で。きっとそれが、俺からキテレツにできる、最後の……
 丸井のやるべきことが決まった。飛行機では手荷物検査があり難しいので船旅にすることにし、直近のチケットを調べ即時に予約する。
 東京から沖縄まで、およそ二泊三日の船上生活。丸井と木手の、最初で最後の旅が始まった。

 とはいえ。時期的なものもあり、現代の船舶技術では危なげなく時が過ぎていった。オフシーズンの為に乗客も少なく、互いに何かを詮索し合うでもない。極めてのんびりとした時間が過ぎてゆき、もう間もなく港へ着くという頃。丸井はひとりデッキに立ち、木手の心臓を口に含むことにした。
 取り出したときのまま、瑞々しさを保ったその臓器に、恐る恐る歯を立てる。それは不思議な体験であった。肉質は柔らかく、舌の上で蕩けるようでありつつも程よい歯ごたえがある。風味としては甘味が主立っているがしつこくはなく、また、適度な塩気も効いている。そして、鼻腔を抜ける果実のような香り。
 「これ以外には何もいらない」。そう思わせるような魅力がそれにはあった。しかし丸井は、このまま皆喰らい尽くしてしまいたくなる衝動を抑えて、半分程度を残しておくにした。それは『木手』を手元から喪いたくないという、未練の為だったのかもしれない。

 港に着いた丸井はタクシーを呼び、「ひと気のない海岸」へと向かってもらった。運転手はしきりに丸井に話しかけ、彼もそれに応答し続けた。丸井は「この運転手は相当おしゃべり好きなのだろう」、と考えていた。しかし実際のところは、ひとりでそのようなところに向かおうとする男が何をするのかを不審に思い、自殺でも図ろうものなら考え直させようとおせっかいを焼いたのではないだろうか。
 最も、当の本人にそのつもりが少しもなかったので、運転手の取り越し苦労であった。そう時間もかからずに指定した場所へ到着する。

「ありがとうございました!」
 運転手にそう告げ、丸井はスーツケースを引いて白い砂浜を歩く。天気は生憎の曇り空であったが、それでも関東の海とは比較にならないほどの、澄んだ青い色が眼前に広がっている。
 波打ち際に立ち、ケースを開いた。シートから木手を出してやる。その表情は最期の時のままであった。穏やかで、悲痛なことなど何もない。そんな彼を抱きかかえるようにし、着の身着のままで入水する。水を吸った服が重たく思えた。

(そういえば)
 死後硬直や、肉の腐敗が進んでいないのは何故だろうか。不意に丸井の中で疑問が生じる。詳しいことは知らないが、生命が潰えた際には身体が硬直すると聞いたことがある。しかし木手の肉体は「その日」から何時間、何日と経過してもしなやかさと美しさを保っている。心臓だってそうだった。まるで時を感じさせない。
……これって、人魚のなせる技、ってやつなのかな)
 深く考えれば答えが出るようなものでもない。それ以上は思考することを止めて、一歩ずつ沖へと進んでいった。

……キテレツ。ほら、沖縄の海だぜ。やっと、お前と一緒に見られた……やっぱ綺麗だなぁ。お前が自慢し続けてたのもよーくわかるよ」
 当然返事などない。
「きっと、みんながお帰り、って迎えてくれるよ……

 ──なぁ、俺も、そっち。行っちゃ駄目、かな……

 空虚が故に、丸井の頭はあることで埋め尽くされてしまった。このまま、この海で。その生命を落とせば木手と同じ場所に行けるのではないだろうか、という考えに。彼がいつか語った、『その場所』へ。
 自分がそのような道を選ぶことを木手は許さないであろう、とは思った。だが、閃いてしまったからにはそれが名案としか感じられず、丸井は木手の遺体の腕を離さないように強く掴んで潜水した。
 海中に潜ってから、どれほどの時が経っただろうか。酸素が得られず、苦しい。苦しい──それにも関わらず、丸井はいつまで経っても死ぬことができなかった。

(人魚の肉に、不老不死にする力がある、って、本当だったのか……?)
 もがきながらも、どこか冷静に分析をした。その直後。海中がうねり、ふたりを襲った。丸井の腕から木手が離れてゆく。一瞬で姿を見失い。独りになった。絶望感に襲われた丸井は、気力も何もかもを失い、ただ、瞼を閉じた。

   *

 丸井が目を覚ました時、彼は砂の上で横たわっていた。辺りを見渡せば、そこはよく見慣れた海岸で、沖縄の白い砂浜ではないことがすぐに分かる。
「え……? あ……ああ。全部、夢?」
 きっとそうに違いない。身体中についた砂を雑に払い、丸井は一目散に駆け出した。

(まず、家に帰ろう。んで、スーツケースを出してなんかいないのを確認して。また ここに戻ってきて、キテレツに笑い話として全部聞いてもらわねぇと。「俺がそんなことするわけないじゃないですか!」って、怒られるかもな)
 とにかく夢中で走っていたので見知った道の風景が様変わりしていることに丸井は気が付かない。
 その果てに着いた場所には丸井の知らない住宅が鎮座していた。そこでようやく、驚愕する。

「え……?」
 困惑しながら頬をつねれば、痛みが走る。少なくとも今の状況は、夢でなさそうで。どうすることもできないまま呆然と立ち尽くしている丸井に声をかける者が現れた。

……すいません、家に何か用です……か」
「あ。い、いや何でも。ないです!」

 そう言って丸井は声の主の顔を確認する間もなく、逃げるように海岸へと戻っていった。頭が真っ白になる。自分の知っている街と同じなのに、決してそうではない。異世界に紛れ込んでしまったかのような気分。
 それでも砂浜と水平線だけは何も変わらない。だから、少しだけ落ち着くことができた。波打ち際に座り込み、しばし遠くを眺める。すると。
「大丈夫ですか」
 丸井の耳に飛び込んできた、聞き覚えはあるものの、決して再び聞こえるはずのない声音に、勢い良く振り向いた。そこにいたのは、中学時代に丸井が着ていたものと同じ制服を身につけ、背中には大きなバッグを背負った少年──丸井は気が付かなかったが先ほど、丸井へ声をかけたのも彼である。
 何よりも丸井を驚かせたのは少年のその顔貌である。髪型は異なっているが、眼鏡の下の切れ長の瞳。少し厚ぼったい唇。すっと通った鼻筋。そして、小麦色の肌。それら総てが、同じであった。二度と目を覚ますことがないはずの。沖縄の海で見失ったはずの。
「──キテレツ?」
……はい?」
「えっ、何で、お前、ここに?」
「何で、と言われましても……

 少年は、顎に手を当て考えた。丸井はその間も彼の顔をジッと見つめる。見れば見るほど、そっくりだった。
「強いて言えば……怪しかったから、ですかね」
 口調まで、「彼」と似ていた。生き写し、とでも言うべきか。
「と言うのは半分冗談でして。何故か……気になったんですよ。その……俺たち、どこかで会ったことありませんでしたっけ? ……あ。えぇと、すいません。変なことを言ってしまって。多分、勘違いでしかないと思うのですが」
…………お前、は。運命って、信じる?」
 偶然と呼ぶには些か出来すぎた状況に、丸井はそう尋ねることしかできなかった。

 その後ふたりは毎日のように海岸で会話を交わした。その中で「今」は、丸井の認識している時代から数十年ほども経過していることが判明した。
 少年の名前は木手とは異なっていたが、気を抜けば『キテレツ』と呼んでしまう。そんな丸井のことを半ば呆れながらもどこか放っておけないような気がした少年は、彼の話し相手になり続けた。
 そんなある日のこと。

「『キテレツ』ってまだ中二、だろ? 俺の時と同じだったら……修学旅行、ってそろそろ? もう行った?」
「丸井くん」
 少年が神妙な面持ちで丸井を見つめる。触れてはいけない内容だったのかと丸井は焦った。
「その、『キテレツ』って何なんですか」
「そっち!?」
「そっちもどっちもないです。ずっと気になっていたんですよ」
 至って真剣な眼差しに困ったように笑った。
「うん? あー……それはちょっとまだ、話せないかな……
 何となく。彼に木手のことを話すのは憚られた。そんな丸井の様子を汲み取ったのか、少年は諦めたような表情を浮かべた。
「まぁいいでしょう。素敵な名前を、どうもありがとうございます」

 その皮肉はいつか聞いたことがあるな、と丸井は寂寥感に駆られつつも、微笑みを浮かべて少年の頭を撫でてやった。少年の眉間に深い皺が刻まれる。
「や、止めなさいよ! っ、もう! で、何でしたっけ? 修学旅行? もうじき行きますよ!」

 彼の機嫌を損ねてしまったことに丸井は慌てないでもないが、この感覚がひどく懐かしく、また、愛おしかった。涙こそ出なかったが、胸の中がいっぱいになる。であるからか、「そっか」としか返答をすることができなかった。
 そんな丸井の様子を見て、今度は少年がいたたまれない気分になった。どうすれば丸井が明るく笑ってくれるのだろう、と考えて。確かテニスをやっていたと前に聞いたことがあるなと思い出す。

「ねぇ、丸井くん」
……ん? どした?」
 ラケットバッグを抱きかかえる。その中にあるものは、彼にとって教科書よりも遥かに大切なものだ。
「まだ、公式戦では見せていないんですけど。俺の考えた……というよりも、取り入れた技のこと、教えてあげますよ。アナタには、特別」
 彼は話した。武術の技法を、テニスに取り入れたのだと。また、そこで重要になってくるのはその『脚』であると。

「昔から、俺は誰よりもバランス感覚がよかったのですが……。それも活かせば、更にこの技を向上できるのはないかと、今は日々特訓をしています」
 それが完成した暁には必ず団体戦のレギュラーの座を掴んでやると言った。彼のその瞳には決心という炎が灯されている。夕陽が映り込み、尚のこと燃えているかのように見えた。

……お前なら、できるよ。絶対。そん時は俺と勝負しようぜ」
 丸井が右手の小指を差し出す。少年はどうするか悩んでみせた。丸井としては無理強いをするつもりもなかったので、手を下げようとした、ちょうどその時。少年が自身の小指を丸井の小指に絡めた。双方の温もりが、混じる。

 ここに漂着してから丸井は『海の家』に寝泊まりして過ごした。それだけで特に不便はない。
 今の、『不老不死』であろう身体となった状態であっても空腹感を感じない訳ではない。しかし、何かを食べずとも死にはしないので気にしないようにすることとしている。何よりも、最後に口にしたもの ・・より美味しいものなどないのではないか、と思っていたから。その味を上書きするようなことをしたくはなかった。
 丸井のズボンのポケットにはもう、ガムは入っていない。その代わりのようにあの時、食べかけのままにした心臓が今も腐らずに形を遺して、入っている。

「それにしたって。丸井くんが特殊な身体と言われても、俄かには信じがたいですね」
「まぁそうだよな。俺だって信じらんねーもん。でもさ、ずっと水の中に入ってても気すら失わないんだぜ」
 それは便利そうですね、と真顔で言ってくる彼に丸井の心は和んでいた。住んでいた家はなく、家族もいない。自分は、この身ひとつで何も持っていない。そんな状況で別人であったとしても、良く知った顔と話せることは精神を安定させた。増してや、一度は喪ったと思っていた、大きな存在に逢えたのだから。
……では、今日はそろそろ帰りますね」
「おう。気を付けてな」
 ひとりになって、瞬く星空を見上げる。これが自分の日常となっていくのだろうかなどと、ふと思う。それも、悪くはない。しかし。丸井の思考が翳りゆく。
(俺は、死ねない、っぽいけど。アイツは、普通の人間だからいつかまた ・・死ぬ……んだよな)
 もうこれ以上喪いたくない、と。ある意味純粋とも言えるその願いは、不可逆的に彼の中のひずみを広げていった。
(そんなの嫌だ。死んでほしくない。ずっと一緒にいられればいいじゃん。俺と、『キテレツ』で。その為にはどうすればいい? ああ。そうだ。簡単な方法があった。何で気が付かなかったんだろう。そうだよ。アレを、『キテレツ』に喰わせりゃいいんだ)

 それは、悪魔の囁きのようなものだった。脳天から雷にでも貫かれたかの如き衝撃が、丸井の身体を走り抜ける。突如浮かんだ『妙案』。

 結論から述べれば、それが実現することはなかった。
 翌日、丸井は『キテレツ』と話している最中にポケットの中身を取り出そうとまではした。だが、自分でも理由はわからないが、それ以上のことをすることができなかったのだ。
 そんな自分自身に対してひどく動揺してしまったことを隠しきれず、彼に心配までされたままその日はお開きとなった。別れ際に手を振りながら、少年の帰っていく姿を見送り終えた途端。丸井の脚の力は抜け、その場に座り込んだ。

「──あーあー。ったく、情けねぇし最悪だな……アイツは、アイツで。キテレツじゃないのに……代わりみたいにしようとして……。ふたりに悪いこと、した……
 嘆きつつ、丸井は砂を掘った。どうすることもできなかった木手の、心臓を埋める為に。

(もう、俺にはお前のことを食べる資格なんかない、よな……こんな。中途半端なままで、ごめん。キテレツ)
 そっと上から砂を被せ、丸井は小屋へと戻った。これでもう、彼にはその身を除き、何も残されていない。机へ突っ伏し、不貞寝した。
 その後、突如として手のひらに違和感を覚えたことで、丸井は瞼を開ける。強く握っていた右手を開くと、そこには見覚えのない、歪な形をした白い珠が載せられていた。

「何だコレ……?」
 首を傾げる。いつの間に握っていたのかもわからないが、なんとなく、放ってしまう気にはならなかった。少年との話の種にでもするつもりで、空っぽになったポケットへとそれを入れておいた。
 しかし、その日はいくら待っていても彼が現れることがなかった。
翌日も、丸井はひとりであった。彼の身に何かあったのではないか、嫌な想像が丸井の中を駆け抜けていく。何故か、鮮明に木手の最期の姿を思い出しながら。
 丸井の家があった場所が彼の家で間違いないということは以前に聞いていたので、夜、意を決してそちらへと向かうことにした。

……?」
 彼の家に何名かが出入りをしているのが見えた。皆一様に、黒い服を身に着けている。丸井は金縛りにあったかのように、それ以上そちらへ近づくことができなくなった。近所の住民の井戸端会議が耳に入る。
「──ねぇ……突然。お気の毒に」
「本当に……何でも海で溺れたとかでしょう

 後の言葉は丸井には届かない。彼は、気づけば海岸へ戻っていた。その間、歩いていたのか、走っていたのかも記憶にない。そして涙はでなかった。代わりにただ、ひたすら考えた。こうなった、理由を。思い出そうとした。かつて木手が話していたことを、一字一句漏らさずに。そうして、思い当たることばを見つけ出す。

『海が、それを赦してくれない』

 それならば、どうすれば木手は赦されるのか。更に考えた。考え、考え、考え続けたが一向に答えは出ない。気が付けば空が白み始めていた。気持ちははやるばかりだが、皮肉にも丸井には時間がたっぷりと用意されている。
「──っ! あーもう、わかんねぇよ!」
 苛立ちを隠さず頭を掻き、ポケットに手を入れる。指先に触れた滑らかな感触。瞬間。丸井は「これを返そう」と思い至った。

(どこに?)
 そう考えながらも、まるで何かに導かれるように。フラフラとした足取りで、砂上を行き沖へ向かう。徐々に昇り始めた朝日が眩しかったが、丸井は気にせずに進んでいく。底に足が届かなくなりそうになった時点で海中へと潜り込んだ。海底に向かって、柔らかな光が射し込んでいる。

(なぁ。きっと、俺がお前のことを食べたから。そのせいでまだ、沖縄に帰れないんだろう?)
 手のひらから。珠を離せば、それは丸井の元から離れた。

……俺の考えが合っていて、木手がまだ許されていないのなら。どうか、赦してあげてください。悪いのは「人魚」を食べた、俺だけなんだから。この身がどうなったって構わない)

 できるだけの祈りを、込める。
(全部、返す……返します。だから、どうか)

 漂うように流れ、流れていく珠はすぐに丸井の視界から消える。すると、それと入れ替わるように向こうから黒い影が近づいてきた。丸井の瞳もその影を認識する。揺らめくそれはどこか恐ろしげであったが、丸井は逃げも隠れようともせず、流れに身を委ねた。

……キテレツ?)

 丸井と、影。ふたつが重なってひとつになり、その後には水沫のみが残された。