花筵シヂマ
2026-06-06 23:20:01
27374文字
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玲瓏の花籠(3から4話まで)

後転男体化なので前は女の子のミズキが出てきますが、転生しておとこになり、例の村で父と再会します






 昼間だというのに薄暗い廊下を、ミズキはひたと走っていた。
 息切れしているのに、不思議と疲れを感じない。ただ全身を抑えきれない震えが襲い、一刻も早くここから逃げなくてはということだけ脳を支配していた。
 自室にたどり着くなり風呂敷きを引きずり出し、手当たり次第荷物を詰めた。押し入れをひっくり返す音に呼ばれたようにネコ姉さんとその娘が顔を出してきた。
「どうしたんだい!」
 ミズキからただならぬ気配を感じたのか、ネコ姉さんは青い顔をしている。いつもなら心配をかけたくなくて誤魔化すのに、今はそんなこともできない。
 ネコ姉さんも、知っていたのだろうか。
 ーーゲゲ郎がミズキの知らない間に体を蹂躙していたことを。
 ネコ姉さんの心配そうな様子が演技だとは思えない。だが、今は誰も信じられない。
…………この屋敷を出るんです」
「出るったって、ここから山を降りることはできないよ。旦那様や坊ちゃんが許さないと……
 坊ちゃん、と言われて先程廊下で見たゲゲ郎が過ぎる。血の気の失せた表情で、怯えた子供みたいにミズキを見ていた。
 そんな顔をするなら、なぜこんな酷い真似をしたのだ。
 ミズキが男女の営みを嫌悪していることを知っているくせに。
……許しなどいらない……!」
 風呂敷包みを鷲掴み、ネコ姉さんの横をすり抜けた。ネコ姉さんが何か叫んでいるのが聞こえたが無視してしまった。
 どうやって山を降りれば良いかは知らない。
 しかし足は迷いなく屋敷を飛び出していた。
 草履を履くのも忘れ、来た時と同じように素足で草むらを走る。足が傷つくのも忘れ、とにかくどこかへ逃げてしまいたかった。汗をかいたせいで伸びた髪が頸に張り付く。髪の毛を肩に流そうとしているうちに、枝を踏んでしまった。足裏に激痛が走って膝をついてしまった。
「っ、痛……
 見れば足裏に斜めに傷が走っている。
 手拭いで傷口を縛れば歩けるかもしれない。
 風呂敷包みを探ろうと草むらに荷を置いた。森の木々をぬって雨粒が頬を打つ。朝から降り続いている雨は肌にまとわりつくようだ。
 どこか雨風を凌げる場所を探さねばならないだろう。
 しかしどこにそんな場所があるというのか。
 ミズキが項垂れると、急に何かの声が聞こえた。
 ーーーーこちらへおいで
 低く唸るような声だった。
 弾かれたように周囲を見たが誰の姿もない。
 ゲゲ郎のものでも旦那様のものでもない、見知らぬおとこの声だった。
「誰だ」
 全身に力を入れて神経を尖らせた。再び声の主はミズキに語りかけてきた。
 ーーーー我なら君を守ってやれる。こちらに来ておくれ。湖の近くへ…………
「湖?……
 湖の場所なら覚えている。何度もゲゲ郎と通ったからだ。今は思い出したくない影を押し込めて森のなかを進んだ。さほど距離はなく、数分もすれば見慣れた赤い鳥居の浮かぶ湖が目の前に広がっていた。
 いつもと違うのは湖の上に龍が顔を浮かべていることだ。黒い肌をした龍の双眸はゲゲ郎と同じ赤い色をしていた。しかしその頭部には角がない。眸にも生命力はなく、ひどく疲れているように見えた。
 恐る恐る近づくが、龍は彫刻のように動かない。黒い肌は水の中から出てきたわりには乾燥し、鱗が剥がれている部分もあった。龍はミズキを見るなり赤い瞳で観察するように見つめてきた。
……俺を呼んだのはお前か?」
 龍は一度大きく瞼を閉じた。
「どこでも良いから逃げたいんだ。今はもう、誰の顔を見たくないんだ……
 龍は大きく鼻を膨らませたかと思うと、大きなため息をついた。その鼻からもれた息が強風になりミズキのからだを叩きつけてきた。立っていられないほど煽られ、両手で顔を庇うように踏ん張る。
 やがて目も開けていられなくなり、ミズキは強く瞼を閉じた。


 やがて肌を叩く風が止み、ミズキは腕を外した。龍の姿も例の湖畔もなく、果てのない草原が視界いっぱいに広がっていた。見上げれば雲一つない晴天を一匹の龍が心地良さそうに泳いでいる。
……ここは……?」
 ーーーーここは私の寝床。湖の底
 ミズキめがけて空から真っ直ぐに龍が降りてきた。ミズキの頭上で漂いながら、龍は悲しそうに鳴いた。その声を聞くとなぜか涙が溢れそうになる。
「なぜ俺をここに……?」
 ーーーーあのままでいればお前は湖に身投げをしていただろう。時に冷静さは必要だ。特に男女の諍いは。
 まるで間近で見てきたように言うではないか。
 ミズキはその場に腰を下ろし、龍をひたと見据えた。隙を見せない方が良いと思ったからだ。
 ーーーー勘違いしないでくれ。私はただの年老いた龍。君を貶めるつもりはない。
「その年老いた龍が、人間の女になぜ手を貸す?」
 龍は目を伏せ、まるで慈しむように優しい眼差しをミズキに向けた。
 ーーーー貴女たちが思いを重ね合わせ、この世に種族を超えた結びつきが生まれる瞬間を見てみたかった。あの醜悪な化け物に壊されるのはあまりに酷だからな。
……醜悪な化け物とは、あの屋敷の旦那様か?」
 龍はそのからだをゆっくりと青々とした草むらに横たえた。
 もしこの龍が口を開ければ、ぱくりと丸呑みされるほど巨大な顔が目の前にある。しかし少しも怖くはなかった。
龍はミズキに触れて欲しそうに身を寄せてきた。
 導かれるように龍の鱗に触れると鉄を撫でるようにひやりとした感触が手のひらに伝わる。
 ーーーーあの幽霊族の皇帝が童のころから知っておるが、……あれはもう以前とは違う。
「どう、違うんだ?」
 龍の口から鋭い牙が覗いていた。
ーーーーアレは自らの愛する存在を失い、歪んでしもうた。他のものが幸福になることを決して許せない。
「それは、実の息子でも……?」
 龍は鼻を鳴らした。
ーーーー無論。大方、此度のこともお前と幽霊族の倅との仲を壊すために奴が何かしたのだろう。あの倅ばかり責めてやるでない、不憫な子なのだ。
 ミズキの胸がずきりと痛んだ。縋る親の姿を見失った迷子のようなゲゲ郎の顔が過ぎる。
 ゲゲ郎に悪意がないことなど知っている。
 だが、だがミズキは彼を愛してなどいないのだ。それなのにゲゲ郎はなぜか自信を持っている。だからこそ旦那様に掴み掛かり、口角を吊り上げて赤い片目を爛々と輝かせていた。
 まるでいつものゲゲ郎ではない、得体の知れない何かを見ているようだった。
 ーーーーあの倅はこのままではあの化け物と同じになってしまう。お前だけがあの子を救えるのだ。どうか、もう一度あの子のそばにいてくれないだろうか。
 龍が喉を鳴らしてミズキに身を寄せてきた。その冷たい鱗を撫でながら、ミズキもまた返事を迷っていた。
……俺がいなくなると、ゲゲ郎はおかしくなるのか」
 ーーーーすでに、そうなり始めている。子を成すことだけに救いを見出しておるのだ。
「そう、か」
 旦那様からゲゲ郎への呪いのようだ。
 子孫を残すただそれだけに囚われている。旦那様のように数多のおんなと繋がり、意味もなく重なり、そして空虚な存在になってあの屋敷から出られなくなるーー。
 それだけは避けなければならない。
「ならば俺が、何とかしないとな……
 ミズキは龍の顔を抱きしめるようにしがみついた。足元が浮き、ミズキのからだが鞠のように跳ね上がった。そしてそのまま、龍の背に乗せられた。
 やがて龍は高く高く舞い上がり、空を抜けて勢いをつけて飛び上がっていった。
 肺の中に水が入らないように、ミズキは口を引き結び強く目を閉じた。


 気づけばミズキの肉体は湖畔のほとりに寝かされていた。足の傷も癒えており、傍らには風呂敷が落ちていた。
 あれほどまでに燃えていた怒りの炎が、驚くほどに鎮火している。
 ゲゲ郎と話し合おう。
 それだけがふと脳に浮かんだ。
 よろめきながら立ち上がり、風呂敷包みを掴んだ。
 屋敷の方向を探しているうち、人影がこちらに走ってくるのが見えた。縹色の着流しを纏った白く長い髪のおとこの姿に、ミズキは心の底から安堵していた。
「ミズキ!」
 ゲゲ郎は駆け寄るなり、ミズキに抱きついてきた。よほど急いできたのかからだは汗ばみ、しかし、何だか甘い匂いがした。
「よかった……もう山をおりたのかと……
「そうするところだったが、龍が……
 ミズキは続きを紡ぐことができなかった。
 ミズキを抱くゲゲ郎の背後に、同じように長髪に縹色の着流しを纏うゲゲ郎がいたのだ。
 まるで鏡のように同じおとこが。
「え、……なん、で?」
 離れた場所にいたゲゲ郎はこちらを見て顔色を変えた。赤い片目は次第に怒りに燃える。
……ふふ、……見目も声も似せてやればこうも簡単に間違える。随分と軽い愛だな」
 ミズキを抱きしめる“ゲゲ郎”に化けたおとこは徐々に腕の力をこめていく。まるで長い蛇にからだを絞められているようだ。
「違う、俺は……!」
 本物のゲゲ郎に手を伸ばせば、ゲゲ郎は無表情でこちらに歩み寄ってきた。そしてゲゲ郎に化けたおとこを乱暴に引き剥がした。おとこは高笑いしながら自らの髪を撫でたかと思うと、長かった髪は顎まで短くなり、着流しは暗闇に染まる。
 旦那様がそこに立っていた。
 ゲゲ郎に化けていたのだ。
「倅よ、可哀想になあ……子を宿してもらえず、挙句間違えられるとは……
 旦那様は慈しむように言いながら、ゲゲ郎の肩を乱暴に抱く。しかしゲゲ郎は能面のような顔で旦那様を突き飛ばしていた。
 そのまま真っ直ぐにミズキの腕を掴んだ。
「違うんだ、ゲゲ郎、おれ……
 顔を覗き込もうとして息を呑む。
 まるであの予知人形と同じように感情のない片目がじとりとミズキを見下ろしている。そして、唇が左右に裂けるように広がった。
 こんな残虐な笑みが、この世にあるだろうか。
「帰ろう、ミズキ」
 逃げなくては。
 そう思うのに指ひとつ動かせない。息さえできない。そうこうしてる間にゲゲ郎に軽々と抱え上げられてしまった。
 倒れ込んだ旦那様が湖畔を背に恨めしそうに睨んでいたが、それすらも目で追えないほどに早くゲゲ郎は走り出していた。
 もうこの湖に戻って来られない。
 なぜだかそうはっきりと理解してしまっていた。




続ーーー