Romom🍙
2026-04-23 03:25:51
37646文字
Public 🌕
 

深追いは時に傷を生むものの……

か、閑話休題⁉️

大学生プロファイラーのジョシュアと、オリフレム大学で非常勤講師をするクライヴが、兄弟パワーを駆使して事件を解決する話です📕 基本はジョシュア目線になります🐦‍🔥

ほんのちょっぴり光の民の二人が出ます🐉左右とかは決めていません❗️✌️
(文中に出てくる効果名とか内容は聞き齧りなので、変すぎると思いますが、堪忍くださると嬉しいです)
※カプのつもりはないですが、案の定弟兄観が濃ゆいと思われます🐦‍🔥🔥

↓本筋文
「深追いは時に傷を生む」(弟視点)
「執行者について」(兄単体)

 己の内臓と格闘する。久しいこの感覚は、十歳の頃以来だ。
 当時のあれは、正に肉体的な不調が由来であった。生まれつき、心臓に孔があり、軽い運動をするだけで喘息に似た発作に見舞われる。それのお陰で舐めた辛酸は数知れず。鳥籠に似た邸宅の窓から、野を駆ける野兎と仔狼を見つめた日々は、忘れたくとも忘れられない羨望を植え付けたものだ。
 しかし、忌々しい孔も、成長につれ塞がってゆき、今では優良児と言っても差し支えない程健康体になった。どれほど無茶をしても平気な肉体とは、かくも素晴らしい。そうして手元に残ったのは、自由な運動の喜びと、部屋に籠る気質は生来であったという事実。
 なら、今の己の内側に犇く不調は何なのか。
 ジョシュアは、大きく深呼吸をした。肺から蛇を追い出して、新鮮な酸素を取り込むべく、肩を上下させて呼吸を深める。扉に当たった呼気が跳ね返る。目の前の、ダークウッドの木目だけが、染まった頬の血色を知っていた。


 思い立ったが吉日とはよく言ったもので、ジョシュアは、午後の講義を休むことにした。
 警察と協力関係にある彼の欠席は、大体がやむを得ないと認められているが、今回のように突発かつ曖昧で、自分本位な理由で休むことは極めて稀だった。懇切丁寧に書き連ねたメールを読みながら、今頃、教授は首を傾けているだろう──心配をかけてはいないだろうか。唯一沸いた気掛かりも、汽車の入構を知らせる鐘の音に吹かれて消えた。
 そうして乗り継いだ車体を降りて、スクールバスの運転手に礼を言い、今はオリフレム大学の廊下を早足で貫いている。
 首から下げたゲスト用の札が、動くたびにぺちぺちと体を叩く。札を渡した事務員は、ジョシュアの姓に興味がないのか、以前に訪問した時のような厚遇──少なくとも、不死鳥と面罵されることはなかった。
 ズボンの衣嚢に隠した携帯電話を取り出す。幾許かのやり取りを残すメッセージ画面を見遣り、また胸が高鳴った。我ながら分かりやすいものだ。三十分前、汽車に揺られながら送った電子のお手紙。兄から、折り返しの文字列が書き連ねられている。
『今からか?』
『そうか、構わない。今日はもう予定もない』
『俺も嬉しい。待ってるよ、ジョシュア』
 画像など添付されていないし、超技術を駆使して、彼の携帯のカメラを乗っ取った訳でもない。だが、返信を認めている際の兄の表情が、今のジョシュアと同じ色を伴っていることが、全ての語彙から透けて見えた。
 なお、後から付いてきた『急ぎすぎるなよ、お前はたまに抜けてるところがあるんだからな』からは、目を逸らしている。流石に、もう子供じゃあるまいし。
 事実として齢二十三は子供ではない。大人であるかは人によるとして、ジョシュアは、転んでも泣かなくなったのだから。比喩でも、冗談を抜きにしても、清濁の不味さを知った時点で、足の指先くらいは大人の仲間入りをしたつもりでいる。だとしても、五歳も上の兄君の慧眼には、未だよちよち歩きの雛鳥が見えているらしい。
 彼は心配性なのだ。川辺で燥いですっ転び、びしょ濡れになって泣き喚きながら兄の腕に縋りついた夏の日は、彼方だというのに。
 回想に浸るのもここまでにしよう。液晶画面と交わしていた視線を離し、顎を引く。歩みはとうに止まっていて、メッセージを読み返していたのもその為だった。
 眼前に聳え立つ、木製の扉。以前は、ガブとシド、二人の頼れる仲間と共に見た光景。今はジョシュア一人だけ。
 滑らかだが、少し薄ぼけた木の質感。モザイク柄の硝子が嵌め込まれ、その上に真鍮のプレートが飾られている。刻まれた文字列を改めて追う。『C・アンダーヒル』──この部屋の主人。そして、ジョシュアの実兄。彼の正しい命の名は、クライヴ・ロズフィールド。
 ジョシュアは辺りを見回した。人気がなく、閑散としている。確かに、ここは長い廊下の先端に位置しているから、用のない学生は散策がてらであっても滅多に立ち入らないという。だが、この静けさには意味があった。それもあまり良い意味ではない。
 約一ヶ月前に発生した『執行者による、オリフレム大学教授殺害事件』をきっかけにした噂は数知れず。中でも、煩わしい七十五日間の標的にされているのが、クライヴだった。
「重鎮が死んだお陰で、彼の研究は、より陽の目を浴びた」と誹る者。悪意を隠しもしない有象無象は「哀れっぽい顔をして、裏ではいい気になっているに違いない」と嘯く始末。「大陸神話学者の冠を、アンダーヒルは思いの儘にしている」などと、流言飛語も良いところだ。
 クライヴは名声を求めない、歴史の真実と神話の意味するところだけを追いかける、純然たる学者だ。兄は善良で、血縁の色眼鏡を外しても、誠実な男だ。人を手に掛ける訳がないし、もし、何某かの利益を得ていても、きっとそれは意図に反している。それどころか、彼は罪悪を覚えていることだろう。
 そんなことを考えながら、ぶら下げた左右の腕に力を巡らせた。右側を持ち上げて、また降ろした。今度は逆で試すが、同じに終わった。
「う……」喉から間の抜けた奇妙な音が漏れる。
 どうした。扉を叩けよ、ジョシュア・ロズフィールド。彼は実兄だぞ、緊張することはないだろう。
 それでも、心音が逸っている。
 憧れの存在との謁見。多くの人は、自分がどこか不躾ではないか、身の程を失念してはいないかと気になって堪らなくなるだろう。ジョシュアだって、その大人数の中の一人なのだ。幾ら正体が実兄だったからとはいえど、C・アンダーヒルは、己の学生人生を変えてしまった、大いなる存在だった。彼を知り、正体を知るまでの間に築かれた畏敬の念は強大で、なかなか覆るものではない。単に、彼の弟として、喫茶店や道すがらで落ち合うのとは訳が違う。C・アンダーヒルの研究室での逢瀬とは、彼が実効支配する箱庭での対面。緊張だけが拍車をかける。
 でも、駄目だ。ここまで来たのだ。いつもなら誰よりも先に席に着き、誰よりも後に出ていく講義を欠席して、決して安くない運賃を惜しみなく注ぎ込んでまで会いに来た。それに、兄は、ジョシュアから言い出さない限り、兄弟として会うことを望んでいる──つまり、扉越しのクライヴは、大好きな兄さんその人。弟の訪問を今か今かと待ち侘びているはず。待たせるのはいけないことだ。
 人という生き物の真価は、思い込みにある。心理学の講義で学んだではないか、自己暗示は時に素晴らしい偽薬となって物事を良く運ぶ。ジョシュアは、自分に何度も言い聞かせた。深呼吸を繰り返して、自分は、親しい兄に会いに来たのだと宥める。蛇よ出ていけ、心臓よ落ち着いてくれ。
 肺がぺしゃんこになるくらい吐き出して、ドアノブに手をかける──しまった、ノックを忘れていた。しかも恐ろしいことに、扉が一人でに開いていくではないか。自動扉なのか? そんなハイテクノロジーには見えなかったが。
……何してるんだ、ジョシュア」
「あ、に、兄さん」
 現実なので当然だが、扉は勝手に開いたのではない。心霊現象は空想の産物のままで、つまりは、部屋の外の気配を訝しんだクライヴが、取っ手を引いたからだった。少しだけ低い位置──彼は頑なに認めないが──から、濃い碧眼が薄い胡乱を纏いながら見上げている。
「ほら、突っ立ってないで入ってこい」
 またこれだ。ジョシュアが入り口のもだつきを演じて、不思議に思ったクライヴが言及する。そんなパターンが、先に進むための定石となりつつあるようだ。全くもって恥ずかしい。平均時より三度は上がっただろう熱を、片手で冷ましながら立ち入った兄の研究室は、そこそこ整頓されていた。


 
 昼間の緩慢な黄色い陽。薄手のカーテンに、主張の過ぎる西陽は荷が重いようで、室内灯は切られていた。それでも、本棚に仕舞われた背表紙が、ヴァリスゼア公用語に限らないことが分かるし、積まれた本の輪郭が思いの外ばらけているのも見える。
 クライヴは、先程まで、奥側の壁にかけてある大陸地図を見つめていたようだ。古めかしいセピアに染まったヴァリスゼアの大地には、紐を巻いたピンと、付箋と諸々を印刷したコピー用紙が、至る所に貼られている。地図からして左手側、テーブルのきわに、彼のマグカップが置かれていた。利き手に持った茶を啜りながら、遠い時代の世に思いを馳せていたのだろう。席に通されながら、その姿を思い浮かべる。密かに口角を緩ませた。まるで、世界征服を企む邪悪な魔道士みたいだ。
「しかし、あんなに小さかったお前が、今ではロザリス大の最優秀学生か……
「またその話かい? 前も言ってたね」
「当然だ。俺だって、兄として誇らしい」
 兄と歓談に興じた回数は、両の手が幾つあっても足らない程。恒常のイベントになりつつあっても、特別感は変わらない。
 数えようがなかった。何せ、予定が合えば落ち合って、別れの挨拶も程々にテキストメッセージ上でもやり取りを繰り返していた。積もる話は消化されることはなく、更なる興味関心の芽生えを促す肥やしになる。結局、クライヴの住まいに転がり込んで、短い夜を兄弟の密談で終わらせる日々。満たされている。幼い頃に戻ったようだ。それはクライヴも同様で、光量を絞った居間で見せる笑顔には、十五以前の面影が色濃く滲んでいた。
 今日のように、彼の研究室に真昼から赴くことは初だ。ジョシュアの心中が浮き足立つ、今日も兄と夜更かしが出来るだろうか。常に品行方正を求められるロズフィールド兄弟にとって、夜更かしは人生を豊かにする悪いことで、兄弟揃って共犯者になる。非常に貴重な瞬間だ。
「僕が一番を目指した理由はね、あなたの為だよ、兄さん」
「俺の?」
「スクール随一の優等生、クライヴ・ロズフィールドの弟として、いつか肩を並べられるように」
 片目を閉じた拍子に飛んだ星が、クライヴの額にぶつかって床に転がった。
「何を言うのかと思えば、お前は、負けず嫌いなだけだろ」
 傲慢も、欺瞞も、ジョシュアには無関係の文句だと誰もが宣う。
 そんなもの、壁を隔てた向こう側の虚像だ。隣の芝生を羨む隣人の仕草だ。実際のところ、ジョシュアは単に負けたくなかったのだ。肩を並べたかったのは本心の一つ、兄の残した名声に劣らぬ姿でありたいと、幼少の時期からずっと思い描いていた。でも、綺麗な感情の奥に詰まった羨望は押し殺せない。他でもない、クライヴに認められたくて、クライヴを驚かせたくて積み上げてきたのだ。
 実際、数値で測れば──たった二、三日のテストでは──所謂、上位に入る頭脳だと医者は言う。だから何だ。頭蓋に詰め込まれた臓物がどれほど希少であろうが、この執念には関係無い。勤勉という言葉がジョシュアを知る前から、ジョシュアは勤勉であった。
「おかしいな。皆は僕のこと、自惚れ知らずの努力家だって言うんだけど」
「ああ、全くだ。きっと建国者も驚いてる」
 二人で肩を揺らして笑う。兄弟が顔を合わせて交わす話は、結局いつも、身の上の話になっていく。こうして冗談を言い合える相手は、シドたちを除けば、ジョシュアにはあまりいない。再会した兄が、存外にも軽口の応酬を嫌わなかったことに、初めこそ驚いた。クライヴにも、そうした友人がいるのだろうか。兄弟が分たれて十三年間、思えば、彼の境遇はあまり知らない。
 側から見れば、積もる話を聞いてほしいジョシュアが、次から次へと矢継ぎ早に話題を提供するからだと思うだろう。だが、言い訳をすれば、何も一方的というわけではないのだ。溢れて止まぬ弟の話に、クライヴは一喜一憂を共有しながら、ちらほらと大学でのことを教えてくれる。兄気質を隈なく発揮したクライヴは、あの手この手でジョシュアから話を引き出そうとするのだから、おあいこだ。
 いや、何がどう引き分けなのかは、定かではないが……
「その上で、同じ領域に足を突っ込んでいるなんてな」マグカップを揺らすのは、頭の中で、内容を整理している時の癖なのかもしれない。「知らなかったな……
「意外だった?」
「まあ、ああ……知らなかった」
 知らなかった、はこれで二度目だ。口振りを見るに、強調したい部分なのは明らかだが、同時に触れられたくないような、微妙な反応。続く言葉を待ったが、そうしている間に、クライヴの表情が萎びていく。凛々しい眉を八の字に垂らしていくのを見て、ジョシュアは察した。これは彼の癖だ。良くない時の。勘違いが、頭の中で悪い方向に突っ走っている時に、クライヴはこうして悲しげな顔をするのだ。向けられた側も切なくなるような表情だが、一体どこで学んだのか。
 愛犬のトルガルが鼻を鳴らす際、そっくりな眼差しを向けてくるが、まさか、そこからラーニングしたのか。その場合、どちらが先なのだろう。トルガルが先か、それとも。
「あの……いいや、俺が単に……でも……
 頬の肉を少し噛んでいるのが、への字の弧から見て取れる。口元を覆う掌が、薄らと頬を揉んでいる。傷跡の薄皮に亀裂が入るのではないかと気が逸れた。そういえば、その頬の傷は、一体いつ刻まれたものなのだろう?
 収拾のつかない思考で稼いだ時間でも、堅牢なクライヴの口は割れない。良い加減焦れてきたので、ジョシュアの方から切り込むことにした。
「さっきからどうしたんだい、兄さん。僕の何を知らなかったって?」
 どうせ、クライヴの考えは大きく道を外れている。心配性を拗らせて、要らない配慮に足首を掴まれているだけに違いない。挙動不審な兄の態度が面白くて、先を言わせてみたい意地の悪さから、逸らされた青い目を覗き込む。
「お前は……ロザリス大の最優秀学生なんだろう」
 気恥ずかしいが、事実だ。頷いたのと同時に、クライヴが大袈裟な程の溜息を吐く。両手を上げて項垂れる犯人でもあるまいに。視線を逸らす程度の稚拙な抵抗を諦めて、彼は喋り始めた。
「なのに、俺は知らなかった──もしかして、筆名でもあるのか? お前のことだから、その、レポートとか、論文とか……
「ああ」
 漸く合点がいった。ジョシュアは思わず、「ああ」と間延びした相槌を二度も打っていた。
 研究論文というものは、得てして、苦痛と二人三脚だ。幾ら、参考資料を掻き集め、調査を重ね、推敲に推敲を繰り返したとて、突かれる虚は必ず存在する。昨日まで一定だった数値が、今日になっていきなり外れ値を、連続で叩き出してしまう。よくよく調べると、先行研究の背に在り付く。既に先駆者が練り歩いた砂漠の上にいたのだと気がつく──もし、相手が絶賛苦痛の最中にいるとしたら、『あなたの書いた論文を読んだことがありません』など言ってはならない。クライヴは、その可能性を危惧していたのだ。
 やっぱり、ジョシュアの勘は正しかった。彼は、思い遣りの沼で迷子になっていただけだ。ジョシュアは、まだ、大陸神話と歴史に関する論文を書いていない。つまり、兄君の献身的な気遣いもあぶくで終わり。筆名の可能性まで考慮するところが、クライヴらしい。
「レポートは幾つか纏めているけど……課題もあるからね。論文は、もう少し。ゆくゆくは、今は調べたいことが多くって」
 兄の顔色が目に見えて良くなっていく。十五歳とそれ以前の彼は、ここまで分かりやすい人だっただろうか。ひょっとすると、クライヴ本人も気がついておらず、未だに自分は十三年前の肖像画だと思っているかもしれない。
 知らないでいてほしい。万が一、彼の機微を揶揄うつもりで鏡なんて見せる不敬な輩がいたら、その場でそいつをぶん殴るだろう。油絵具で構成され、豪華絢爛な額縁内で瞬き一つなく佇む次期大公クライヴよりも、本に囲まれて楽しそうにしている、薄い髭を生やした無造作な髪型の、今のクライヴの方が、ジョシュアは好きだった。
「そうだったのか。俺はてっきり……
「元々は違う領域を修めていたんだ、そっちでは論文も出したよ」
「そうなのか?」手袋越しに隠れていた口元が晒される。「知らなかった」
「そういや、話していなかったね。あれだけ会っているのにな」ジョシュアは笑った。
「なにを学んでいたんだ?」
「心理学全般。特に、認知心理学を筆頭として、人の意識が、記憶の顕在にどう関与するのかを調べてた」
 クライヴが身を乗り出す。卓上に肘を突き、前のめりになった体を支えている。弟の知らない一面にか、専門外の新たな知識の気配に引き寄せられたのか。貪欲な向学心が、眼前の餌に喰いつきたがっているようだ。
「興味あるの? 僕としては、もちろん嬉しいけど」
「ああ、お前のことなら何でも」
 自然と縮まった距離の間で、彼の香水が香った。微かに周囲を漂う薔薇の花弁は、再会を記念して、ジョシュアが贈り付けたものだった。これでは、何でも知りたい発言の信憑性も、段飛ばしに跳ね上がるというものだ。この兄は、本気で、弟が見せびらかすものや与えたがるもの全てを受け止める気でいる。
 有り余る好奇心で知識の海を渡り続ける冒険家の手に捕まれば、金銀財宝全て差し出すまで逃れられないだけの話。ふと、近くに寄った壁の地図と目があった。こうなれば、観念せざるを得ないだろう。
 今でこそ大陸神話学を専攻としているものの、去年までは、心理学全般を学んでいた。薬学絡む精神病理から、言葉を尽くして認知を変える心理カウンセラーの手法まで。専攻を変えた今でも、講義には参加させてもらっているし、実践形式の講習会には毎回呼ばれている。多くの恩師らにも歓迎されている──寧ろ、後ろ髪を引っ張りあげる勢いで、帰ってこないかと勧誘を受けている始末だ。
 今日、土壇場で欠席を伝えた講義も、心理学の実習であった。認知療法に関する講習で、あれはかなり学びがある。何せ、他人のみならず、自分自身にも応用が効く。
 入学以前から、人の心理と精神構造に惹かれていた。記憶と認知の結び付きには、かなりの興味がある。認知した世界は、実は人によって変わっているものだ。
 言葉──例えば、「ありがとう」の捉え方さえ、厚意から慰め、場合によっては嫌味として受け取り方が違っていく。所作も、苛立ちが滲んで見えるのか、頭が痒かっただけなのか。青い空を祝福と感じる日もあれば、恨めしく思う日もあるが、誰かにとってはどうでもいいことだろう。我が家を、帰巣本能擽る温かな巣だと認知している住人と、冷たく厳しいだけの鳥籠だと感じている隣人。
 そうした認知は、記憶の溝に書き込まれても、『正しい形』には成り得ない。『正しい形』とは、ありのままの現実の姿を指す。
 火を一度でも怖いと思った子供は、成長しても、火を嫌う。可燃物が過剰に熱され、酸素と反応して起こる原始的な反応だと学習しても、恐怖として認知した記憶は変わらず脳内に蔓延り続ける。克服する者もいるが、皆が皆、一度歪んだ認知の世界を、『正しい形』に直せるわけではない。くしゃくしゃに丸めた紙は、綺麗に戻せても、皺が刻まれた事実は消えない。皺を何とか伸ばした者がいる、しわくちゃにした張本人がいる、それらを見ていた者がいる。
「自他の心、或いは認知が、記憶に及ぼす影響に興味があってね。事後情報効果と呼ばれる現象を応用して、記憶を捉え直すんだ。他者に向けた思い込みが、向けられた側にも影響を及ぼすことは往々にしてあるけれど、記憶っていう、より深い自我にまで干渉しうる時、何が起きているのか──要約すると、人の記憶は個人のみによって成り立つのではなく、他者の感情や欲求にも依存しているんじゃないかって話」
 流石に、一度で詰め込む情報量にしては過度だったかもしれない。好きなものを語ると、止まらなくなってしまう。
……興味があったら調べてみてよ」
「ふむ……
 会話の最中、クライヴはしきりに思案を巡らせており、たまに咀嚼のための短な肯首を繰り返していた。学者然とした態度に、学生の癖として身構えてしまっていたのだが、優しき兄君は可愛い弟の様子に気がついているのだろうか。染み込んだ反射は、意図せずとも食み出るものだ、きっと知らないだろう。彼は公明正大であるから、わざとジョシュアを試す真似はしないはず──これも、ジョシュアによるクライヴへの記憶と認知だ。
 腹の底から痺れていく沈黙に耐えかね、話題のハンドルを切ろうとして、ジョシュアは聞き覚えのない異音に気がついた。一瞬、楽器の類かと思ったが、そうではないらしい。
「今の、何の音だろう」
 どこかから、硬質な金属同士を打ち合わせるような音がする。重たく、研ぎ澄まされた、甲高い響き。もしかしたら、何かの合図やもしれない。誰かが、身内に発した信号であって、さしたる意味など無いのかも。しかし、こうも休みなく、一定の間隔で鳴り続けるものだろうか。訝しさが募るのも致し方ない、それくらい、音は激化を極めるばかりだった。
「これか?」
 胡乱そうに身を捩らせたジョシュアとは裏腹に、クライヴは暢気に茶を啜った。
「聖竜騎士団の殺陣だ。ここじゃ、良く聞こえるからな」指された先の窓を見遣る。「もうそろそろ、大会がある。毎日遅くまで体育館で練習しているし、頃合いを見計らえば、中庭での実践練習も見学できるんだ」
 暗に、杞憂だと教えられ、強張っていた眉間が解れていくのが分かった。
「へえ、じゃあ竜騎士の聖槍が検分し放題ってことだ」
 胸を撫で下ろすつもりで冗談を投げるが、クライヴは芳しくない唸りを上げた。この冗談は不発らしい。大方、近付きすぎると危険だとでもいう気だろう。
「あんまり近くにはいくなよ、聖槍は本物の槍なんだ、もしお前に何かあったら」ほら、言った。
「わかってるよ」期待通りのお小言は手を振って遮断する。言いたりなさそうに、口先で空気を摘んでいるが、茶で濁す。
 冗談には転用したものの、生身の聖槍に触れるなど、愚かな真似はしない。当然だ。
 長い歴史の中でも、聖竜騎士団はザンブレクの大事な文化として尊重されている。毎年、幾人もの蒼天求むる学生が、竜騎士の狭き門を叩く。白と銀で統一された鎧。ヴァリスゼア大陸先住民族の一つである、光の民を名乗る姿。大地を駆け、聖槍の重量など感じさせない殺陣捌きは大迫力だし、投槍の軌道は、神話のバハムートによる流星群を想起させる。他所の人間からしても、彼らの立ち振る舞いは美しいと感じるものだ。
 そして、積み重なる栄光には、危険も必ず張り付いている。竜騎士たちが演じる武闘は、事故も重傷も絶えない競技なのだから。
「聖槍を持つことは、己を律し続けられる、我欲に振り回されない者にのみ許される。ディオン騎士長本人がそう言ってた」
「ルサージュ卿のご子息か、そういえば、交流があってもおかしくはないな」
「うん、式典以来の──」そこまで言って、少し閉口する。
 式典。ロザリアの大公家とザンブレクの神皇家が、永年の関係を祝う華々しい場。ジョシュアは、八つの時に初めて参加した。そこに、クライヴの姿は無かった。後日、彼から教えられた理由に、怒りが込み上げて泣いてしまったのを覚えている──クライヴが騒がしい場所を好まないことを、母が配慮してくれたのだと言ったのだ。
 そんなもの大嘘だ。そんなはずがない。兄弟間に不平等を敷く母の魔の手が、クライヴの座席を拒んだ事実を、当時のジョシュアは既に察していた。結局、兄弟が分たれるまで、母の支配を退けられなかったことが、今でも蟠っている。
 なのに、今のクライヴは平然としたままだ。大公家と皇家の子息らによる、十五年の付き合いに、感動すらしている。弟に、友人がいることが嬉しいらしい。
……ディオンの右腕の彼、テランスとも仲が良くって」追加で、友人の情報を渡してみることにした。
「ジョシュア……そうか、友人は大切にしろよ」
「大丈夫だよ、そのつもり」
 巨大な屋敷の内側だけで過ごした幼少期を根に持っているのは、何もジョシュアだけではなかったらしい。思えば、クライヴは、己の時間があるたびに、ジョシュアの部屋を訪れていた。学友のことを気にしても、学校で会えるからの一点張りだった。外を羨む心を知ってか知らずか、いつも、新しい本を片手に提げて、読み聞かせてくれる兄の優しさ。重々身に染みていたつもりでいたが、十数年経った今、顧みるとより沁みる。
 同時に、彼の自由はどこにあったのかと疑問が浮かぶ。弟を構う時間こそ、彼にとっての安らぎであった、などと言われたら、甘えていた側からはもう踏み込めないが。
 ロザリス大学での、学友らしい学友は、利き手の指で足りる程度しかいない──それは、金輪際、言わないほうが良さそうだ。
「そうだ、兄さんに聞きたい……相談したいことがあるんだ」
「何でも聞こう」
「僕の話ってわけじゃないよ」構わない、とクライヴは先を急かした。「ちょっとした、友人からの相談というか。僕一人では良い解決案が浮かばなくて」
 友人とは、当たり前だが、ロザリス大学のあるかも分からない砂金を指すのではない。先日、久方ぶりに会った際、ディオン本人から打ち明けられた悩みを、ジョシュアは煩悶と抱え込んでいた。
 ここ最近、何者かに見られている気がする──言葉数少なに打ち明けたディオンの横顔は昏かった。普段の彼は、歌にうたわれる勇敢な竜騎士の生写しのように、光を湛えた表情だというのに。二人用の家具や小物が趣味良く配置された、ワンルームにしては広い部屋で、彼は「恋人には話せない」と吐き出した。
 初めこそ、いつもより厄介な追っかけでも現れたのだと、ジョシュアは思った。ディオンの魅力は、美しい見目に留まらない。寧ろ、彼の秀でた魅力は、内面にこそ宿っている。温厚篤実な性格が、男女を問わず様々な人を集めるのだ。
 しかし、比類無き長所も、逆位置を示すことがある。潔白な人柄であるからこそ、ディオンは考えすぎる。結果、あまり慮る必要のない相手にすら向き合おうとして、無二の光が曇る。ジョシュアとディオンは境遇や立場が似ていた。だからこそ強く思う、自分は彼のように優しくあり続けることは無理だ。拗らせた人見知りの探照灯に、爪の先でも触れたら、一発でジョシュアはその相手に壁を作る。体よく振る舞って、耳障りの良い応酬を二、三行ったら去る。ディオンはそれが出来ないのだという。
 今回も、そうした長所が彼の手綱を離れたが故のことかと踏んでいた。だが、事情を掘り下げるうちに、ジョシュアの表情も変わった──見られているどころか、歴としたストーカー行為だ。人伝に手紙を渡されるだけならまだしも、開けた封筒に己の写真が添付されているなど、典型的な妄想の暴走。早いこと対処をするべきだ、犯人は、ディオンの所在と対人の繋がりを知っているに違いないのだから。
 少しでも味方がいた方が良い。父親が頼れないなら、恋仲たるテランスに伝えるべきだと訴えたが、果たして背負い込みがちな皇子様は渋りを振り払えたのだろうか。
「ジョシュア?」
 開いたままの顎を硬く閉じ直す。ディオンの身の上が心配なのは事実だし、クライヴは、絶対に味方になってくれる。親身になって、弟の友人に差し出す助言を構成してくれるだろう。だが、完璧な情報を渡すには、少々込み入った事情の注釈も必要になる。それに、深く考えるまでもない。あの二人は、周囲の限られた存在にのみ、関係性を打ち明けている状況だ。当事者が秘密にしていることなら、無闇に言い触らさない方がいいだろう。
「ごめん、やっぱり忘れて。もう少し自分で考える」
 嫌な返し方だ。散々、焦らしておいて、やっぱり話しませんなど虫が良すぎると自分でも思う。クライヴに、気持ちの悪い思いをさせたくなくて、努めて穏やかに肩を竦めた。当然だが、眉が躙り寄り、微妙な皺を刻んでいる。気になるが、ジョシュアの判断を尊重したい、それはそれとして気になってしまう野次馬根性を、必死に宥めている顔だ。彼の脳内で、先のやり取りの断片が変な方向に舵を切らないことを願う。
 自身で作り出した沈黙が奇妙で、手元のカップを爪でなぞった。当たり前に硬い感触に気がつく、茶がすっかり冷めていた。漸く、知りたがりの性を戒めることに成功したクライヴが、もう一杯と両者に茶を注ぐ。これも、なんとも言えない量を兄のカップに注ぎ込んで沈黙してしまった。「ほら、いつも一人で飲むからな」と、意味の無い言い訳をしている。
 へどもどとし始めたクライヴを見ながら、ジョシュアは少し口角を上げた。どこに出しても仲が良い兄弟でも、ここまで会話が下手になることがあるのか。思えば、普通の家族とは、こういうものなのかもしれない。応酬はピンポンじゃないし、ラリーを続けられる方が絶対に偉いわけではない。食い合わせの悪い話題と内容もあって、それが落ち着かない沈黙を生んで、どちらともなく僅かな焦燥に駆られる。そして、別の話題を探して、なんとか会話が繋がる。つまり、これは、全く奇怪な沈黙ではあれど、おかしくはない。
……電話、鳴ってない? 兄さん」
「え?」お茶を組み直すために点けた電気ケトルが、甲高い汽笛を鳴らしている。そのせいで、クライヴは、部屋の端の固定電話が一生懸命に泣き喚いている声に気がついていなかった。「本当だ、すまない、気が付かなかった」謝るべき相手は、受話器越しにいるのではないか。クライヴも理解しているようで、慌てた様子で通話を受けた。ジョシュアは、こっそり背後に回ると、カナリアのケトルを黙らせた。
 その際に、若干ではあるものの、相手の声が耳に入る。怒ってはいないようだが、どこか事務的に思える。まず、彼個人の携帯に発信していない時点で、友人だとか、親しい間柄ではない──電話口の男性が、C・アンダーヒルの名を出した。クライヴが、澱むことなくそれに応えているのを間近で見ると、胸の奥が犇くような、抓られるような心地になる。アンダーヒルに用件があるのであれば、研究関連だ。
「本当ですか? ……ええ、ありがとうございます……はい、では」
 上擦った調子から、内容が、クライヴにとって待ち望んだものであることが分かった。意気揚々と相手に別れを告げ、その割に受話器は優しく扱う差が面白かった。振り返った表情は、本職の活力に漲っている。
「懺悔の門の調査許可が降りた」
 懺悔の門といえば、オリフレムと外界を繋ぐ架け橋に設けられた、巨大な建造物だ。この街に訪れるには、四分の一の確率で、必ず潜り抜ける必要がある。とはいえ、荘厳な名と年季漂う見目に反して、監視は殆どない。大昔に交わされた三国同盟のおかげで、ロザリアの民に限らず、風の大陸に住まう者は、基本誰でも通行が可能だ。唯一、先の同盟に加担していない灰の大陸のウォールードも、それは、調印当時に責任を背負う王族がいなかったから。有効な関係にある現在では、多くのウォールードの民も、旅行に訪れている。
 あれやこれやと荷物を纏めていく兄に、使っているだろうノートを探して渡す。「ありがとう」誤った記録帳ではないかと気にしない辺りが彼らしい。
 かつて、ロザリス城やフェニックスゲート付近で興じた、宝探しに出発する前準備みたいだ。兄のお気に入りだった小ぶりのシャベルは、今も城にあるはずだ。今度、賑やかしに持ってきてみようか。クライヴはどういう反応を示すだろう、喜んでくれるだろうか。瞬く間に完了していく準備に、ジョシュアは少し居心地が悪い気持ちになった。今日は、もう、お開きかもしれない。
「そうだ、ジョシュア」徐に兄が口を開いた。
「ん、なんだい」
 ここで、少しでも寂しがりの顔を覗かれたら、兄は絶対に硬直してしまう。弟と己の生業を天秤にかけた時、皿をひっくり返してしまうのが目に見えているから。ジョシュアは極力、平静に振る舞った。二の句は、きっと、「次はいつ会えるか」だろう。
「今日の午後──夜とか、予定はあるか」
「え? 別に、ないよ」
 予想が外れたことで、頭上にクエスチョンマークと、僅かながらの期待が芽吹く。夜にまた会いに行けるかもしれない。直接は無理でも、電話とか、やり取りができるかもしれない。
「お前さえ良ければ、これから一緒に行くか?」
 頭上の疑問符が、一斉に感嘆符に置き換わった。先程までの、謙遜に満ちた可愛らしい妄想を超えて、兄が提供した現実は垂涎ものだった。
 なんて素晴らしい兄なのだろう、願ってもない申出とはこのことだ。ジョシュアは、思い切り縦に首を振った。