kaisou
2026-04-22 23:09:29
4618文字
Public 私の記憶を離れないものがある
 

Aliquid est quod memoria mea non relinquit.  最終章

Aliquid est quod memoria mea non relinquit. 私の記憶を離れないものがある
1740年コンクラーヴェ話。本篇その2
最終章
視点違いの2つの話のうちの1つ。長いので連載にします。

すべては、十分だった。

※歴史創作なので悪しからず



 その感触が蘇った瞬間、胸の奥底で何かが静かに震えた。 それは痛みではなかった。ただ、あまりに長く使われることのなかった、しかし彼の根底に据えられたままの『秤』が、再び静かに傾いた確かな手応えだった。
 彼は、長かったコンクラーヴェの日々を思い出す。 祈りの詠唱よりも長く続いた、窒息しそうな空間。 有力者たちの名が磨り減るように削り取られ、体裁の良い理由が整えられ、誰もが自らの手を汚さぬよう、無害な駒として差し出された、名ばかりの人間たち。その濁った渦の中で、ただ一人、『拾い上げる』という行為そのものに、世俗の使い道とは全く別の重さを置いていた人間の影があった。 役に立つかどうかではない。勝てるかどうかでもない。 ただ、壊れないかどうか――それだけを、何よりも先に量る静かな視線。その苛烈で孤独な基準によって拾い上げられた者が、かつて、この世に二人いた。 一人は、今の自分。 そして、もう一人が、コシアだった。
 ランベルティーニは、かつて自分が何を与えられ、何を返したのかを、今になってようやく測り直していた。 自分がコシアに突きつけたのは、慈悲深い赦免でも、名誉ある恩赦でも、ましてや冷酷な拒絶などでもなかった。ただ、これ以上、摩耗させない。 その一点にのみ向けられた、純粋な誠実さであった。拾い上げられた時と同じ『秤』が、数年の時を経て、今、手元に再び戻ってきた。 去り際にその意図を見抜いていたかどうかは、もはや重要ではない。ただ、少なくとも——

——忘れないことは、できました 》

 その言葉が、長い歳月を経て、今になって遅れて効いてくる。 それは熱を帯びた約束などではなく、移ろいやすい感情でもない。ただ、己の基準を最後まで手放さなかったという剥き出しの事実だけが、心臓の奥に、永遠に風化することのない化石のように残っている。
 ランベルティーニは、ようやく椅子に腰を下ろした。 深く凭れかかるためではない。現実から逃げるためでもない。 ただ、これ以上、全身を強張らせて何かに耐え続けている必要が、ようやくなくなったのだ。コシアは、役割を全うした。 そして自分も、あの人を、彼を、この秤に載せたままでここまで来られた。

——これは、悲しみではない。

 断言できた。 それは喪失でも、絶望でもない。ただ、今日まで、自分たちの間で絶えず更新され、深まり続けてきたはずの沈黙が、ここでついに一滴の揺らぎもない事実として、確定した。その理解だけは、どうしても否定できなかった。
 彼は、筆を置いた。 祈祷文を開くこともしなかった。代わりに、冷えた机の上に掌を置いたまま、微動だにせず座っていた。呼吸だけが、意識の深淵をなぞるように、深くなるこれは、祈りではない。 忘却などでは断じてない。 拾った者が去り、拾われた片割れが去り、それでもなお遺された基準だけが、今この瞬間も、剥き出しの自分の内側で脈打っている。
 彼は、ゆっくりと目を閉じた。 神に祈ろうとしたわけではない。相変わらず、この状況に相応しい祈祷文など、一つとして思い浮かびはしなかった。名も、称号も、教皇という重すぎる法衣さえもが剥がれ落ちたその果てに、一人の人間の姿だけが、あまりに鮮明に、あまりに純粋な形で残っていた。コシアは、もう、どこにもいない。 この地上のどこを探しても、二度と会うことは叶わない。

《 それでも——忘れなかった》

 それは、自分の言葉ではない。かつて、正面から受け取り、最深部に刻み込んだ誓文であった。 胸の奥で、長い間張り詰めていた何かが不意にほどけた拍子に、熱い塊がせり上がってくる。 それは、声を上げて堪えなければならないほどのものではなかった。それを抑え込む理由も、今の彼には、もうどこにも見当たらなかった。

一滴だけ、視界が滲んだ。

 彼はそれを、拭おうとはしなかった。 机の上に落とし、事実を消し去ることもなかった。 ただ、そこにあった。コシアが最期の瞬間まで手放さなかった、基準という名の重石が、今、自分自身の内側で、かつてない質量をもって脈打っている。これは嘆きではない。慈悲深い赦しでもない。 ただ、形式張った祈りが、言葉として形を成す前に、感情が剥き出しのまま、天へ、あるいはナポリの空へと先に届いてしまった——
それだけのことだった。

——安らかであれ。

 声にはならない。 その一文だけは、確かに胸の内で揺るぎない形を持っていた。 誰の耳にも届かず、いかなる教会の記録にも残ることはない。それでも、確かに——教皇としてではなく、一人の人間として、それは静かに捧げられた。

——重いな。

 それは誰に向けた言葉でもなかった。かつて、返さなくていいと託した餞が、返礼となって戻ってきたのだ。別れを惜しむ未練でもなく、過去を悔いる嘆きでもない。ただ、生涯をかけて自分を支え続け、最期まで返さずに済むものとして託された重さへの、率直な感嘆であった。彼は再び歩き出すだろう。かつての主と、かつての友が残した、この確かな『秤』と共に。

それで、十分だった。

end


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