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2026-04-15 23:59:52
26414文字
Public 轟飯
 

1.輪郭にのこる熱

こちらのシリーズ、やっとお話が始まりました。
https://privatter.me/page/66e865074286c

豪奢で歴史を刻んだ石造りの建築と、ガラス張りのビルが並ぶ街並み。歴史と最新の建物の隙間から、冬の日差しがちらちらと冷たい空気を照らす。
年が明けてからしばらく経つが、街には未だ、どこか落ち着かない気配が残ってる。
そんな中、誰かを待つというこの心許なさは、いつ振りだろうか。ただ街角に立っているだけだというのに、胸の奥が騒がしい。
遠い日の記憶──遊園地のゲートへと続く道すがら、高鳴る鼓動を必死に抑えて歩いた、あの日の純粋な高揚が、今になって蘇っている。

​(……いかん、少々浮かれすぎているな)

​ふうと吐き出した吐息が薄らと白く、重く、冬空に広がった。寒波の余波を受け、大気は薄氷のように鋭く冷え切っている。
それでも身体は、冷気を感じてはいない。新調したばかりの厚手のコートは、この厳しい風を易々と遮断してくれた。その重みと上質な手触りに、飯田は自らの選択が正解であったと、静かに胸を撫で下ろす。

待ち人は、まだ来ない。
手首を返し、文字盤へと視線を落とす。約束の時間にはまだ間があるというのに、刻一刻と刻まれる秒針の進みすら、今の飯田には心地良い。

ふと辺りを見回せば、犇めく雑踏の向こうにベストジーニストの不敵な微笑みを湛えたエレガントな看板が、この気品ある街並みに誂えたかのように、泰然と掲げられている。
ここへ至るまでの道程でも、かつての同胞──クラスメイトたちの姿が、意匠を凝らしたいくつもの広告として、視界を掠めていった。街並みに溶け込む彼らの躍進は、元級友としては誇らしく、元委員長として鼻が高い。

飯田自身も、これまでに幾つかの依頼に応えてきた。
その中でも、兄と共に受けた子供向けのスニーカーの広告は、自分らしくて良い、と殊の外気に入っている。

《君たちの全力が加速する──》

その言葉の通り、走りやすさは勿論、急停止の衝撃を吸収し、泥汚れにも強く白さを保つ設計だ。
兄のクリエイティブチームも製作に参加し、実直な機能性を追求した仕上がりは、飯田自身も心から薦められる逸品だった。
テレビCMは目にする機会も多く、子供達にも人気だと聞いている。

「あっ、ショートだ!」

ふいに静謐な空気を破るような、若い女性たちの弾んだ声が上がった。

反射的に声の方へと視線を巡らせれば、その騒ぎの中心に、見覚えのある姿が見えた。
周囲の熱を孕んだ視線に、戸惑いを隠しきれずぎこちなく手を振る。ファンサービスがまだ不慣れな点すら、彼には美点となる。
様子を見守っていると、向こうもこちらに気が付き、雑踏の隙間を縫うようにして、こちらへ向かってくるのが映る。​
その直向きな瞳と視線が合った瞬間、飯田の目元は、自然と緩やかに細められた。

​「悪い、待たせた」
​「まだ時間前だよ。お疲れ様」

年末年始は慌ただしく過ぎ去り、こうして正対するのは年が明けてから初めてのことだった。
今日はいつもよりフォーマルな出で立ちで、ゆったりとした革張りのジャケットにタートルネックのセーターがよく似合う。
間近で見る彼の姿には、特に生活の乱れが感じられず、飯田は安堵した。

「すっげー、インゲニウムだ!」
「ショートもいるじゃん!!」

​向かいの歩道を歩いていた少年たちが、弾かれたような声を上げ、こちらへ腕を振る。
飯田が規律正しく、それでいて親愛を込めた敬礼を返すと、隣に立つ轟もつられるように同じ所作をなぞった。
二人のささやかなファンサービスに、少年たちは歓声を上げ、テレビCMのポーズを真似て見せた。
飯田と轟は顔を合わせると、少年たちの挙動に笑みを浮かべる。

​再び二人で歩みを進めると、周囲の視線がちりちりと肌に刺さり始めた。
デビュー以来、常にランキングの上位に名を連ね、世間の羨望を一身に集める轟と肩を並べていれば、この静かな街並みにあっても、目立たない方が難しい。

​「……変装をするべきだったろうか……
​「どうだろうな。ここは神野みたいな騒がしい街でもないし、コソコソすると余計に目立つ気もするけどな」

​かつて、救出作戦の折に行った変装を施したあの日を思い出したのだろう。轟は無意識に、自らの髪を摘みながら言葉を返した。

​「君は今、ランキングの上位にいる身だろう」
​「お前だってそうだろ。ターボヒーロー」

​事も無げに、薄く唇を綻ばせて微笑む。
その姿は、格式高い街の風景に、恐ろしいほどに溶け込んでいた。まるで雑誌の一頁を、そのまま切り取ったかのような完成度だ。
​轟焦凍という男は、昔からそうだった。
ただそこにいるだけで、周囲の視線を釘付けにしてしまう。

​(……今から向かう店は、二人で入るには余りに無防備すぎたかも知れない……

​飯田は、自分たちの置かれた立場と、周囲への影響を軽視していた事実に、わずかに唇を噛んだ。

​「八百万くんが広告を務めた宝石店は、個室が用意できるとあった。時間差で入った方がいいだろう」

たまたま雑誌で見掛けた級友の広告。高貴な彼女に良く似合う装飾品は、そのどれもが彼女の気品をより純粋に引き立てていた──知り合いで無くとも目に留まったであろうその広告を、今回指輪を探す際に真っ先に思い出し、飯田は事前にリサーチしていた。

​「そこまでする必要あるか?」
​「まだ俺たちのことは、家族にも報告していない。下手に注目を集めて、事務所や周囲に余計な波風を立てる訳にはいかないんだ。慎重に動こう」
​「……わかった」

最初は楽観していた轟も、​飯田の声音に宿る隙もない真剣さを読み取り、静かに頷いた。

​「では君は、そこの店で何か温かいものでも飲んでから来てくれるかい?俺がお店の人と話をつけたら、すぐに連絡を入れるよ」

​状況を瞬時に整理した飯田は、目に入ったコーヒーショップを指差し、的確な指示を飛ばすと、自身は迷いのない足取りで雑踏へと向かう。
​伝統に裏打ちされた老舗が軒を連ねるこの街並みにおいて、飯田の規律正しく、それでいて揺るぎない足取りは、驚くほど馴染む。
上等なコートに包まれたその身体は、長年の鍛錬によって培われた筋肉の隆起すら、
知性の一部のように洗練されて見えた。

​(飯田、格好良いな……

恋人の姿が誇らしく、けれど手の届かない場所へ行ってしまいそうな感覚に、轟は無意識に指先を丸めた。雑踏に溶けていく背中を、網膜に焼き付けるように見つめる。
一人残された街角。冬の冷気が、隣にいた体温を急速に奪っていく。その喪失感に急かされるように、言葉にならない焦燥を感じた。

あいつは、オレのものだ──叫び出したくなる衝動が、喉元まで迫り上がる。ひりつくような渇きだけが、喉に残った。
あいつが交わした約束を違える人間ではないことは、誰よりも理解している。
それなのに、誓いが重いほど、不意に胸を掻きむしりたくなる瞬間がある。胸の奥に居座る、得体の知れない重み。
それが安寧への怯えなのか、あるいは飢えなのか──まだ判別がつかない。

「オリジナルコーヒーのホットが1点。以上でよろしいでしょうか?」
​「……ああ、それで」

反射的にカウンターへ頷く。
騒めく店内に、コーヒーを抽出する機械音が低く響くのを耳にしながら、受け取り口でぼんやりしていると、不意に老夫婦から柔らかな声音で握手を求められた。

​「ご家族と大変なことがあったけれど……私たち、いつも貴方のことを応援しているのよ」

​人の良さそうな婦人の瞳には、純粋な、だが逃れようのない〝同情〟が滲んでいた。
轟を慮って差し伸べられたその温かな言葉に触れた瞬間、心臓の奥に、鉛を沈められたような重さが落ちた。
喉が詰まり、言葉は返せなかった。

かつて世界を震撼させた、あの告発動画。
平穏な家庭に育った人間にとって、轟家の凄惨な内実は、到底飲み込みきれる物語ではなかったはずだ。当事者である自分ですら、突きつけられた事実に感情が決壊したのだから。

『どうしたらお前が苦しむか人生を踏み躙れるか、あの日以来ずぅぅぅぅぅぅぅっと考えた!』
『お前を幸せにしてやりたくなった』
​『可哀想になァ……お前はこんなに辛いのに』

──あの時の、荼毘の声が蘇る。
もう存在しないことは理解しているのに、その声だけはやけに鮮明で、胸を騒つかせる。
あの時、あの目には、自分は映ってやしなかったのに。

『過去は消えない』

一度ばら撒かれた言葉は、消えない。
消えないものを抱えたまま、あいつの隣に立っていいのか。
そんな考えが、ふと過ぎる。

​「……アチッ」

​席に腰を下ろした刹那、無意識に口を付けたコーヒーが舌を鋭く焼いた。
驚きに口元へやった手は、そのまま導かれるようにして、自らの顔に刻まれた火傷痕へと滑り落ちる。
指先が、無意識にその痕をなぞる。
ガラス張りの窓に反射する自分の姿が、冬の淡い陽光に透けて見えた。
母への贖罪として、これまで疎ましく思ったことなどなかったはずの痕。
だが、芋蔓式に蘇る親父との記憶は、暴力的なまでの訓練と、凍りついたような沈黙に塗り潰されている。あの広大な屋敷で感じた孤独は、逃げ場のない檻のように狭く、重い。
けれど、その歪な歳月こそが、今の自分を形作っていることもまた、否定できない事実だった。

​(結局、オレは、燈矢が行方を晦ました七年を知らないままだ……

​兄との惨烈な戦いも、飯田や家族、そして仲間の助けがなければ、自分一人ではどうにもならなかった。
緑谷たちと過ごした光に満ちた時間を思い返すと、自分の存在が燈矢に恨まれるのも仕方のないと、どこかで冷めた諦念が残る。

……​親父が渇望し続けたNo.1という称号。
それは、かつての〝あの人〟が体現していたような、万人に安心をもたらす光ではなかったのかも知れない。
けれど、いつしか自分の中の飯田という存在が、それと同等、あるいはそれ以上に自分を照らしてくれる唯一の灯火なのだと、確信に似た自覚が芽生えていた。

​ふいにポケットの中で、控えめな振動が腹を擽る。

​『下記のアドレスの店に来てほしい。
俺の名前を伝えたら、通してもらえるようにしてある』

飯田からのメールに目を通すと、立ち上がり、すっかり冷めたコーヒーを一息に飲み干す。
雑踏へ混じると、轟は先程の恋人を真似るように背筋をぴんと伸ばして歩いてみた。すると自然と足元は早まり、焦燥に急かされるように早足となっていく。
​一刻も早く、飯田に会いたかった。

不意に、老夫婦の表情が頭を掠める。
自分と一緒になることで、あいつにまでこの業を背負わせてしまうのではないか──そんな考えが、また首を擡げた。

あいつの歩む道の邪魔にはなりたくない。
あいつには、いつでも陽の光を浴びていて欲しい。
それでも。
その手を離すことだけは、死んでも選べなかった。​



​「いらっしゃいませ」

​歴史の重みを感じさせる豪華な扉を押し開くと、間を置かずに店員が深く、恭しく頭を下げた。
扉を通っただけで、すでに特別な存在として迎え入れられている空気に、臆してしまう。

​「こちらで、お連れ様がお待ちです」

名乗る間もなく、流れるような所作で奥へと案内された。
客同士の会話を遠ざける厳かなクラシック。絢爛な内装、そして一歩ごとに足先が沈み込む、贅沢な絨毯の感触。外界の喧騒を遮断するこの静謐な隔たりに、思わず身体がぎゅっと締め付けられた。
上品な店員たちが、目が合う度に音もなく、流れるように会釈を送る。
流石、八百万を起用しているだけのことはある。

​「轟くん!待っていたよ」

​奥の個室へ足を踏み入れると、店内より薄暗く、内装の豪奢さが伺える部屋だった。ゆとりあるソファに腰掛けた飯田がこちらを向いて、手を上げる。

​「いらっしゃいませ。ただいま、飯田様のご希望をお伺いし、いくつかご用意をしておりました。轟様もご希望はございますか?」
​「……いや。特にないので、オレも一緒に見ます」

​ローテーブルの上には、整然と並べられたジュエリーケースが、鈍い光を放っている。
上着を脱ぐと同時に、控えていた店員が自然と受け取り、ポールハンガーへと掛けた。
轟は促されるまま、飯田の隣に深く腰を下ろすと、用意された無数の輝きへと視線を落とした。

「宝石は熱に弱いが、この素材は高熱への耐性も極めて高いそうだ。……俺たちの『個性』を考えても、これなら安心だろう?」

​用意されたそれらを、店員の代わりに、誇らしげに紹介する飯田の表情は、頭上のシャンデリアを反射して、眩く輝いていた。
薄暗い室内で、光の当たる場所だけが際立って見える。だが、光が強いほど、足元の影は濃くなる。
足元に潜む暗がりに、轟は足を取られそうな感覚を覚えた。

​「……うん、お前が気に入るのはあったか?」
​「そうだな、やはり悩むが……ほら、こうやって実際に指へ通してみると、随分と雰囲気が変わる。君も、試してみてはどうだい」

​そう言って、飯田は自分の指に嵌めたばかりのリングを、そっと轟の方へと向けた。
指先を飾るその銀色の輝きが、飯田の大きくて清潔な手に馴染んでいる。この光景を目にした瞬間、喉の奥が熱くなる。
迫り上がる愛おしさに、視界が弾け飛びそうだった。

​「轟様、指のサイズはお分かりでしょうか」

​店員の落ち着いた声掛けに、轟は現実に引き戻されるようにして小さく首を振った。

​「では、少しお手をお借りして宜しいでしょうか」

​店員は轟の横に膝をつくと、手慣れた手つきでリングゲージを使い、そのサイズを測り始める。

「こちらサイズがわずかに異なりますが、ご参考までにご覧ください。その他、在庫の確認をして参りますので、少々席を外させていただきます」

​一礼して店員が去ると、個室には、贅沢なほどに重厚な沈黙が流れた。
轟は隣の様子を伺うと、飯田は依然としてジュエリーケースとカタログのページを、忙しなく、それでいて慈しむように往復させている。

その横顔を見つめながら、轟は自らの内側に澱む暗闇の正体を問う。
目紛しく変貌し、時に壊れていった家族たちの姿。自分にも等しく流れるその血が、いつかこの穏やかな時間を焼き尽くし、形を変えてしまうのではないか。
薄暗いこの部屋で、自分にだけ光が当たっていないような気がする。
この清廉な男の隣に、居続けていいのか。

​「これは、君に似合いそうじゃないかい」

​飯田は自分の指にリングを嵌めたまま、轟の手の甲に、自分の手をそっと並べて見せた。
ふたつの手が、寄り添う。

​「天哉」

​轟は手を重ね、小さく名を呼ぶと、飯田は反射的に顔を上げた。
はしゃぐ子供の瞳が、轟の射抜くような視線とぶつかり、一瞬、呼吸を忘れて固まる。驚きに揺れる瞳に、拒絶はない。
吸い寄せられるように、ゆっくりと瞼が閉じる。

​わずかな間の後、分厚いソファの奥でスプリングが、溜息をつくようにゆっくりと軋んだ。
その微かな振動が、重なり合った二人の境界をなぞるように伝わっていく。​その気配を合図に、飯田が瞼を押し上げる。

​「……急に、どうしたんだい」

はにかみながら、それでいてどこか困惑の混ざった声音。
離れた唇の感触をなぞり、彼はリングを嵌めた指を口元に寄せた。

​「幸せだなって、思ったんだ」

そう言って微笑む轟の目元は、その言葉の明るさとは裏腹に、どこか翳って見えた。
飯田はわずかに眉を顰めると、硝子細工に触れるような手つきで、轟の頬に掌を当てた。​じんわりと、確かな体温が轟へと伝わっていく。
その熱に怯え、轟はその手を自分の頬から外し、両手で包み込むと、塞ぎ込むように額を押し当てた。

​(……クソっ、情けねェ……!)

この、掌から伝わる静かな幸せを守り抜きたい。飯田のその曇りのない笑顔を、自分なんかで枯らしたくはない。
守りたいと願うほど、自らの血に刻まれた業が、足を泥濘へと引きずり込む。
真っ直ぐに飯田を見据えることすら、阻まれる。

​「……君の家族に、してくれるんだろ?」

​自らの鼓膜に届いたのは、氷を溶かすような、慈愛に満ちた声だった。
目紛しく形を変えていった自らの血筋。その濁った流れの先に、この男は『家族』という名の、あまりに純朴で平穏な居場所を置こうとしている。
かつての暗闇を照らした母と同じように、飯田の放つ言葉が、一筋の光芒となって轟の胸の最奥を貫く。

​「君が、そう言ってくれたんじゃないか」

​顔を上げた飯田の瞳は、一点の曇りもなく、悔しいほどに男前だった。
轟は言葉を失い、ただ黙って、その真っ直ぐな意志を見つめ返した。

飯田の手を掴んでいた両手の力を緩めると、代わりに指の隙間を埋めるように、優しく、それでいて力強く握り返される。

​────迷子の手を引く、ヒーローの手だ。

​あの時、黒に染まった緑谷へ伸ばしていた手が、今は自分の手の中にある。
指の隙間を埋める、逃げ場のない熱。
掌から伝わる一定の脈動が、嵐のように暴れる自分の心音を、強引に引き戻していく。
たとえ自分が真っ白でなくなっても、この手だけは、決して泥濘に置き去りにはしない。

「指輪、いいのを選ぼうな」

その確信に触れた轟は、掠れた声で応えた。
喉の奥に閊えていた重みが、わずかに緩み、瞳から零れ落ちそうになる。

​外から個室の扉を叩く、控えめな音が響いた。
慌てて手を離すと、お互い少しだけ距離をとった。