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2023-05-07 23:37:10
12109文字
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轟飯
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KISS ME, MY WEDDING VEIL
6月発行予定の本の冒頭部分です。冒頭からクライマックスですが、これが始まりです。
※こちら連載終了後に、また追記と修正しました。
新幹線の窓から覗いた空は青灰色の雲に朱が差していたが、降りる頃には、あっという間に真っ暗に染め上げられていた。
日が暮れるのが早くなり、否応なく季節の移ろいを意識させられる。
乗り換えた電車を降りると、まだ駅前の人通りは疎らだった。
街灯の光の中でコツコツと鳴る足音が、乾燥した空気に響く。
冷えた風が通り抜け、鼻先を冷やすのでマフラーを顎の下から頬まで引き上げると、自分の吐息で眼鏡が曇り、一人苦笑する。
「
……
今夜は鍋にしよう」
そう独り言を呟きながら彼は、足を早めた。
「ただいま」
スーパーの食材を手に、暗い部屋に電気を点ける。
気密性の高いマンションの空気には、昼間の温もりが僅かに残っていた。
だが、そこに部屋の主の気配はない。
靴を綺麗に脱ぎ揃え、勝手知ったる足取りで洗面所へ向かい、手洗いなどを済ませた。
すると視界の端に、洗面所の横に置かれた洗濯物の山が目に入る。
いつもの場所に上着を掛け、廊下に置いた食材から傷みやすい物だけを冷蔵庫へ入れると、部屋の暖房を点ける。
それからテキパキと家の中を軽く整えていくと、部屋自体は然程荒れてはいないものの、無意識に脱ぎ捨てられた靴下が家主の生活を静かに物語っていた。
(ちゃんと食事は摂れているだろうか
……
)
今夜は色んな食材を口にできる鍋で、正解だったかも知れない。
そう考えながらまとめた洗濯物を洗おうとして、時計の時刻を確認した。
聞いていた帰宅時間に合わせると、夕飯を作るには少し早い。
自分の着ていた服も洗濯物に混ぜて、風呂の準備をしながら、自分もシャワーを浴びる事にした。
風呂場に入ると、湯船もあまり使用された形跡がなく、掃除はすぐに終わってしまう。
(明日は休みだと聞いていたから、今夜はゆっくりできればいいのだが
……
)
有事には駆け付けねばならぬ職業だと、頭では理解している。それでも、無理だけはして欲しくなかった。
濡れた身体と髪を拭きながら、携帯電話の通知を確認すると、もうすぐ帰宅ができるとの報告があった。
「よし、急いで準備をしよう!」
返信をすると、逸る気持ちを抑えて髪を手早く乾かす。
そして、自分の置いていた着替えに袖を通すと、その上にエプロンを装着する。
リビングのテレビをニュースに合わせ、ここからまた急な事件が起こらないように祈った。
───ガチャッ
少し息を上げて、この部屋の家主である轟焦凍が自宅の鍵を開けた。
「おかえり!」
玄関から続く廊下の向こうから、張りのある声が聞こえる。
「
……
ただいま」
その声を聞くだけで部屋の暖かさとは別に、身体がじんと高揚する。
轟は家の鍵を締めると、普段はしないが既にある靴の隣に自分の靴を綺麗に並べた。
「もうすぐ食事ができるから、手を洗って着替えておいで。うがいもしっかりするんだよ!」
「わかった」
相変わらず世話焼きな委員長らしい言葉に導かれ、轟はそれらを行うと、キッチンに顔を出す。
「何か手伝う事あるか?」
「大丈夫さ。後はお米が炊ければいいだけだから、休んでおいで」
この家の主よりも、その場所が似合う飯田天哉は、轟が帰宅してすぐに用意していたほうじ茶を差し出す。
「まだ熱いぞ」
轟は猫舌なので、飯田は渡す際にそう付け加えた。
「ありがとな」
左手で湯呑みを受け取ると、リビングのソファーに腰を下ろす。
部屋もお茶も温かく、自分の身体が存外冷えていた事に気付かされる。いつもの誰もいない静かな部屋では、気が付けなかった。
湯呑みから両手へ、じわじわと熱が伝わってくる。
口を付けようとするが、まだ熱そうな湯気が顔に当たり、我慢をした。
既に流れていたテレビ番組に目を向けると、Mt.レディが新人のニューフェイスと会話している。
何か議論を交わしていた二人は徐々に近付いていき、掴み掛るような動作が見えると、唐突に画面はルミリオンの桃狩りの映像に切り替わった。
特に事件無しと判断し、轟はキッチンで動く飯田の姿へと視線を移した。
オープンキッチンと言うほどの仰々しいスペースではないが、キッチンのある壁は流しの部分だけ小窓のように開かれていて、こちらから様子を覗き見る事ができた。
現在では轟もある程度の料理はできるが、自発的にキッチンに立つことは少なく、基本的には飯田が料理を担当してくれていた。
しっかり教本通りに料理をする飯田の食事は美味しい。様々な教本からコツを得た料理は、今や店で食べる物よりも轟に馴染む味となっていた。
部屋に漂う匂いに集中しようと、リモコンでテレビを消すと、キッチンの音と重なって洗濯機の回る規則の正しい音がよく聞こえる。
そこでやっと轟は湯呑みに口を付けた。熱と優しい味と香りが、全身を包み込む。
部屋の温度や、お茶の温かさから、実家の記憶が浮かぶ───轟は雄英高校を卒業してから短期間だけ、姉と両親と暮らしている時期があった。
下積みを行うに当たり、東京で過ごす際に実家での生活をホークスより提案された。
その間、タルタロスにて収監されていた燈矢の葬儀が行われた。
実家に前々から在った仏壇は、ようやく本来の意味を成し得たが、既に家を出ていた夏雄と燈矢と特に共に過ごしていた冬美の心の落ち込みに対して、自分の存在が鎹となっていたと思う。
かつて畏怖の対象だった父は弱さを隠さなくなり、長く隔離されていた母は、今では支える側に立っていた。
互いの存在で助け合える実感ができて、轟はやっと普通の〝家族〟を知る事ができたように思える。
プロデビューする際には独り立ちをすると最初から決めていた轟は、今こうやって雄英からほど近いマンションで一人暮らしをしていた。
一方飯田は、下積みを保須市で行い、天晴の復帰に合わせて早々にプロヒーロー活動を始めていた。
現在は天晴の事務所で、Wインゲニウムとして活躍している。
また最近では、ウラビティから提案された子供たちの『個性カウンセリング』によるチームアップが考案され、こうやって垢離里へ来る機会が増えていた。
プロデビュー後、多忙な彼らは互いの家の合鍵を持ち、こうやって隙を見てはどちらかの家で時間を過ごしていた。
あの決戦以降、二人にとって心から落ち着ける場所は少ない。
いつの間にか互いの家は、物の置き場所を説明する必要もない程、居場所として馴染んでいた。
轟は再度お茶に口を付け、湯呑みをテーブルへと置くと、ふと違和感を覚える。
いつも一人で使っていた湯呑みは、飯田とペアになるように轟が趣味で作った物だった。
あまり自分は器用ではないと思っていたが、仕事の一環で経験した陶芸は存外に楽しく、飯田にも褒められた。
色違いの湯呑みは、飯田がこの家に来る度に一緒に使用してくれていた。
(──あぁ、そういうことか
……
)
違和感の原因を思い立った轟は、自分の中にある最適な言葉を探した。
そして、見付けた言葉を拾い上げるとキッチンにいる飯田に声を掛ける。
「ん、今なんと言ったんだい?」
飯田はそう言って、カチリと鍋の火を止める。
鍋の煮立つ音が、リビングにいた轟の声を掻き消してしまっていた。火を止めると、ぐつぐつと騒がしかった鍋は一気に静まる。
濡らした布巾を被せて蓋を取ると、湯気と食欲をそそる香りが立ち上り、そこに煮えやすい春菊をのせると、ふんわりとした空気が僅かに変化した。
背後から歌い出すような機械音が流れ、炊飯器も自分の仕事を終えたことを知らせる。
「よしっ!」
飯田は鍋の湯気で眼鏡を曇らせつつ、料理の完成のタイミングの良さに満足した。
「飯田」
先程までリビングのソファーで寛いでいた轟が、いつの間にやらキッチンの入口に佇む。
「どうしたんだい?さては、腹ぺこさんだな。今できた所だよ」
キッチンまで来た轟の微妙な表情を見て、飯田は小さく笑みを零す。
今日の食事は寄せ鍋で、寒さを感じる時期になると食べたくなる物だった。
轟が実家を出る時に渡されたという質の良い土鍋は、すっかり飯田の手によって使い込まれ、飯田にも馴染みのある調理器具となっている。
特にこだわりのない轟に代わり、飯田が使い易い配置で食器は収まっていた。その為、考える間もなく、無駄のない動作で食器はお盆の上に整然と並べられていく。
「さぁ、食器を運んでくれるかな!」
大きく腕を振り被り、轟に手伝いの声掛けをするが、キッチンの入口で硬直したまま轟は動かない。
飯田はここでようやく違和感を覚えた。
「どうしたんだい?轟くん
……
」
様子の異なる轟へ近付くと、飯田は心配そうに顔を覗き込んだ。
学生時代の飯田と轟の身長差は、成人を越えてから逆転している。
轟は卒業してからも身長が伸び続け、エンデヴァーの血筋を感じる体躯へと成長を遂げていたのだった。
轟は覗き込んで来た飯田と目が合うと、先程掻き消されてしまった言葉を、改めて伝えた。
「飯田、結婚しよう」
髪を短く刈ったことで、大きく表情が見えるようになった轟の目は真剣そのものであり、あまりにも彼の目が真っ直ぐなので飯田は声を失う。
「こうやって飯田と過ごすのがオレにとっては、もう当たり前なんだって思った」
轟は、先程自分の考えていたことを言葉にする。
「この先、お前と居ない未来は俺には見えない
……
だから、もう一緒になりたい」
大きく見開かれた轟の瞳は、左右共に透明度の高い色をしていて、どうしようもなく綺麗で見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
「
…………
飯田は、違ったか?」
無言のままでいる飯田に対して、不安そうに確認する轟の瞳が翳る。
今しがた自分がプロポーズをされたと、飯田が気が付くのには大分時間が掛かった。
────まさに、青天の霹靂とも言える突然の告白。
表情を曇らせた轟に内心慌てた飯田は、今伝えられた事をゆっくり頭の中で反芻していた。
(轟くんにとって俺と過ごす時間を当たり前
……
だと、思っていてくれていた。そして、これからも
……
)
彼の言葉には理由があり、それは自分も同意すべき内容である。言葉を何度なぞっても、その言葉は揺るがなかった。
(これから先もずっと、轟くんと
……
)
未来の自分たちの姿を想像する。
その予想図で、自分の心の中に波紋が静かに響き渡る。
途端、目の奥でギューンと音が鳴り、次の瞬間には視界が滲んでいた。
飯田は眼鏡が曇ったのかと思い、咄嗟に眼鏡を外す。
「飯田
……
?」
眼鏡とともに顔から離れた雫を追って、目線を下げると、後を追うようにポロポロと涙が飯田の顔から流れ落ちる。
「あれっどうして、こんなッ
……
?!」
驚いて出た言葉の最後が震えてしまい、もう駄目だった。
手にした眼鏡を握り締めたまま顔を伏せた飯田を、轟はすぐに抱き寄せた。逞しく成長した背中に腕を回した瞬間、飯田の胸の奥が耐えきれず軋んだ。
ずっと憧れていた兄の背中に今やっと肩を並べられたが、もう大人になった自分をこんな風に抱き締めてくれるのは、轟しかいない。
(こんな時に、こんな風に抱き締めるのはずるい
……
)
触れ合った優しい温度に堪らなくなって、余計に泣きじゃくってしまうではないか───飯田は幼い頃の記憶に思いを馳せ、腕の中に存在する轟と兄を重ねた。
「
………
オレは自惚れるぞ」
轟は、自分の肩に顔を埋めている飯田の頭越しに、そう声を響かせる。
普段オールバックにしている飯田だったが、先程シャワーを浴びて髪を下ろしていた。
長くなった前髪がサラリと轟の頬を撫ぜ、心地良さを感じる。そしてキッチンに漂う香りとは別に、飯田の匂いを深く堪能した。
「お前も、同じ気持ちってことなんだろ?」
呼吸と共に言葉を吐き出すと、自分で言いながら思わず含羞む。
普段口煩いぐらいに雄弁な飯田は、こんな時は言葉数が減る分、態度に気持ちが丸出しになる。
抱き締めた身体から伝わる熱だけで、もう十分だった。
「うん、そう
……
その通りだ
……
!」
轟の言葉にはっとして顔を上げた飯田の瞳には轟が映り込み、飯田はその轟の慈愛の表情に、完全に心臓を掴まれてしまう。
気持ちが昂ると、つんと鼻の奥が痺れてくる。
飯田は、先程から自分がとんでもなく間抜けな顔をしているだろうと恥じる。
鼻を啜りながら下げた頭を、轟に支えられるように掴まれてキスをされた。
びしゃびしゃな顔が、轟の頬に拭き取られ、唇と唇をただ深く重ね合う。顔の方向を変えては何度も唇を重ね合い、そして、最後は長い時間呼吸を止めた。
「
…………
涙、止まったな」
飯田の頬に残る水滴を、轟は指でぐいっと拭き取るとそう言った。
「君は、そんなに王子様みたいなのに、本当に
…
俺で
…
いいのかい
……
?」
本人が無意識であるのはわかっているだけに、こんなスマートな対応をされると飯田はたまに取り残された気持ちにされる。
「他の誰が、オレと釣り合うんだ?」
不安がる飯田を余所に、あまりに堂々とした台詞を轟が真顔で言うので面食らってしまう。
「ん?」と端麗な造りの顔に追い討ちを掛けられて、飯田は堪らず噴き出した。
「確かに、君と並ぶなら僕ぐらいじゃないとな」
嘘や冗談が苦手な飯田は、ふざけようとすると言葉が幼くなってしまう癖が出る。いつの間にか二人はちゃんと冗談を言えるまでに成長していたのだ。
二人は学生の頃より、無邪気に笑い合った。
「轟くん、」
「ん?」
呼吸を落ち着けて発した飯田の声掛けに、まるで呼ばれるのがわかっていたかのような轟の素早い返事に飯田はまた笑みを溢した。
そして、気持ちを整える為に、もう一度大きく深呼吸をして続ける。
「俺は、絶対君の傍にいるよ。どんなに離れていたって、俺ならすぐに君の元へ駆け付けられる」
「
……
うん」
幼い頃の轟を知らないのに、小さな子供を彷彿させるような表情と声色。
こんな姿を見られるのは、世界中で自分だけなんだと思うと飯田は誇らしさがあった。
「俺も、自惚れてしまうな」
「自惚れじゃないだろ、同じ気持ちなんだから」
轟は堪らず、また触れるだけのキスをした。
吸い付くような口付けから、ゆっくりと名残惜しげに互いの唇が離れるのと同じタイミングで瞬いた目が合う。思わず、鼻の先がこそばゆくなる。
飯田はこの瞬間が、何よりも愛しく尊いものだと実感する。
「
……
飯田。オレと、家族になってくれるか?」
「あぁ、勿論さ」
轟がキスをした時に抱き寄せた腕をそのままにしていたので、二人の目には互いしか映らない距離のまま、囁き合う。
轟にとっての家族がどれだけ重要な役割を持っているのか、飯田はよく知っていた───彼からの最大限の愛情を感じ、飯田は受け入れた。
「オレな、飯田と皺くちゃの爺さんになっても今と変わらない時間過ごせると思ってんだ
……
」
「良いね、それを目標にしようか」
「
……
おう」
常に行動目標を定めたがる飯田の委員長らしい性質は変わらずだったが、そんな真面目な所を轟は好んでいた。
内心は決死の覚悟の告白ではあったが、飯田が──最愛の人が、同じ方向を向いてくれると知るだけで、こんなにも心強い。轟は、改めて苦しくなる程に幸せを噛み締め、飯田を強く抱き締めた。
「
……
悪ぃ、鍋が冷めちまったな
……
」
鍋の湯気が力を弱めて、空気がヒンヤリとしているのに気が付き、轟は謝罪をする。
せっかく用意してくれたのに、と昂っていた気持ちを止められなかった自分を反省した。
「すぐに温め直せるよ」
飯田はまた鍋に火をかけると、隅に置いてあったティッシュで、ぐすぐすとした鼻をかむ。
「まさかこんな所で、求婚を受けるとは思わなかった
……
君には、いつも驚かされるな」
ふぅーと大きく溜息を吐くと飯田は涙の水分を補給する為、水道からコップに注いだ水をぐいと飲み干した。
「
……
プロポーズって、やっぱり夜景が見える場所とか、遊園地とかじゃないとダメ、だよな
……
」
轟にしては、重大なことを計画性なく伝えてしまったと、今さら動揺しているようだ。
「君がしてくれるのなら、どこでだって構わないさ」
飯田は、眼鏡を掛け直しながら苦笑する。彼のこういった急に間が抜ける部分には、肩の力が抜ける。
いつだって真剣なその姿はギャップがあり、彼の面白い所だ。
「最高のプロポーズだったよ」
心からの言葉である。
飯田は、轟の前ではいつも自分が柔らかくなれるのを知っていた。
雄英に入ったばかりの頃は、規律を重んじていたが故に、人を威圧するような態度をとってしまっていたが、その角が少しずつ削れたのは、いつも先に動く轟を見ていたからだと思う。
意外に激情型である轟は、いつも人の為にその気持ちをストレートに見せてくれる。自分は自分の気持ちに走りがちだが、彼の行動を見ていると自分の行うべき事がよく理解できる。
今回もまた彼に、自分達の未来へ手を引かれてしまった。
彼の存在には、いつも感謝が尽きない。
「俺だってこの先、君以外考えられない
……
」
飯田はそう告げた口で、轟の鼻にキスをする。そのぎこちがないキスが、轟にとって、その全てが愛おしかった。
「俺は、絶対これからも君の傍にいるよ」
何よりも嬉しい言葉を返されて、轟は自分も泣き出しそうになる。
と同時に、今この気持ちを決心した時のことを思い出した。
「
……
実はこの前、実家へ行って来たんだ」
突然の告白をした経緯を飯田へ伝えるべく、轟は話し出す。
傍ではカタカタとまた沸騰した鍋の蓋が鳴り始めていた───
……
。
*
*
「おかえりなさい、焦凍」
庭の植木の世話をする冷が、息子の姿を見て声を掛ける。
家を別にした今も、時間に余裕があると焦凍は実家へ顔を出していた。母が入院していた頃と同じく、彼のその献身さは変わらない。
「ただいま」
どれだけ疲れていても、焦凍は母の顔を見ると不思議と元気が出た。
「今日冬美は、お仕事なのよ。お父さんも、朝から出掛けちゃった」
「あぁ、オレも夕方には出るよ」
玄関には、室内用の車椅子があった。
元々段差の少ない和式の家だったが、炎司の為にバリアフリー化されていた。
一緒に暮らした期間を思い返しても、プロヒーローとしてのエンデヴァーは尊敬できるが、家族としては噛み合わない。
同じく父に反感を持つ夏雄は、大学時代から付き合っていた彼女と籍を入れ、すでに家を出ていた。父には知らされていないが、夏雄もまた市街の病院で忙しくしていると聞いている。
「
……
お仕事は、どう?」
居間へと移動すると、冷は息子へお茶を差し出す。
「無理はしていない?」
冷は、母親として焦凍を心配そうに見つめる。
世間の“エンデヴァーの息子”としての揶揄は未だに一部続いているが、それはプロヒーローを目指した時からあるものとして覚悟はしていた。
「うん、問題ないよ」
自分を自分として見てもらえるよう、行動で示す事は、エンデヴァー自身もやってきた事だ。
ただ、実際プロヒーローとなると、人助けだけではない仕事も多い。メディアへ向けた方は、まだ不慣れだと実感している。
「そう
……
何かあるならいつでも言ってね。何もできないかも知れないけれど、話はなんでも聞かせて欲しいの」
冷自身も、幼い焦凍を突き放してしまった事に、今も負い目があった。
一般的な家族としては不完全でも、そこで育った轟にとっては、それが特別な事ではなかった。
それでも、共に過ごせなかった時間を冷が取り戻そうとしてくれている。それだけで、焦凍は嬉しかった。
母に安心して欲しくて、焦凍は近況について報告をする。
「
……
それで今日は、母さんにちゃんと話したいことがあって来たんだ」
会話が落ち着き、微温くなった茶を一気に飲み込み、焦凍は切り出す。
「何かしら?」
冷は、真剣な面持ちの息子の空気を感じ取り、姿勢を正す。
しばしの無言が続き、焦凍は伝えるべく用意した言葉を口に出すのを恐れていた。
冷の前では、焦凍は自分が自分らしからぬ姿になる事が多い───彼の唯一の弱点は、母だった。
どこからどう伝えるべきか、焦凍は逡巡する。
「焦凍
……
あなたはもう、あなたの好きなように生きていいのよ」
焦凍を包み込むような、優しい声。
幼い頃、オールマイトに憧れていた時にも似たような事を言われた。
母はいつも父のように焦凍の進む道を決めたりはせず、ただ進みたい場所へ向かわせようとしてくれた。それが、今の焦凍をどれだけ支えてくれていただろうか。
「母さん、オレずっと付き合ってる奴がいる。インゲニウム
……
飯田天哉って言うんだ」
焦凍は、覚悟を決めて用意していた言葉を紡いだ。
母に拒絶される事が何よりも怖かったが、誰よりも祝福をして欲しい相手でもあった。
「
……
確か、クラスメイトの子だったわよね。あなたの手紙で、よく名前を見た子だわ」
母は、ふと視線を上に上げて焦凍からの手紙を思い出していた。
いつもと何も変わらない口調で、相手が男かどうかを気にした様子はなかった。
「保須市の、ステインの事件から、よく話すようになったんだ。あの時のあいつは、親父に反発してる時のオレと同じだったから
……
」
そこから、ゆっくりと思い出を話し始めた。話しながらも、自身も忘れかけていた過去を伝えながら、焦凍は思い出と一緒にあの頃の気持ちを反芻していた。
冷は、すべて聞いてくれた。
「
……
学生時代から、付き合ってたんだ」
自分ではもう当然のことではあったが、母の前では、どうしても言葉が重くなる。焦凍の口の中に苦味が満たした。
ずっと視界は机の上を彷徨い、母の方へ向けられなかった。
「私たちは親として、あなたに胸を張るような存在ではなかったけれど
……
親だから、ずっと子供の幸せを祈っているわ」
冷は、焦凍の手に手を重ねる。
年齢を重ねた肌になったが、ずっと柔らかな優しい手をしていた。
「あなたが選ぶことが、あなたにとって必要なことなのよ」
幼い時と変わらないと思っていた母の手は、今ではこんなに小さいのだと、今まで自分を包み込んでくれていた存在が、本当はこんなに儚い存在なのだと思い知る。
「母さん、オレ、飯田が好きだ
……
」
顳かみに力が入ると、視界の端に涙が滲み、轟は思わず零さないように瞬きを抑える。
母から醜いと言われていた左目を隠していた前髪も、今はもうない。
雄英に入学したての頃の自分の指針は、母を中心としていた。
飯田を含め、クラスメイトからこの火傷を揶揄されたことは、一度もなかった。
また一度でも母から否定をされていたら、立ち直れなかっただろう。
「焦凍、愛する人に出逢えるのはとても素敵なことよ」
母の言葉に、顔を上げる。
まるで天からの言葉のように、冷は焦凍を照らす────それは、先の戦いで、燈矢の炎で火傷を負った母が、火傷の痕を『お揃いになった』と呪縛から解き放ってくれた時と同じように。
「
……
お母さんは、あんまり恋愛が得意じゃなかったの。お父さんと結婚したのはお見合いだったのは知ってるわね?」
焦凍が頷くと、冷の表情は申し訳無さげに翳る。
「お父さんを愛せるかどうかもわからないまま結婚をした。私の家は厳しくて、昔から将来や結婚に夢を持ってはいなかったの。実家のプライドの為に差し出されたようなものだったけれど、私はあの家を出られるのなら何処でも良かった
……
」
母から初めて聞かされる話を、焦凍は何一つ漏らさないように必死に聞き入る。
炎司の父親は早くに亡くなっていた事は聞いていたが、焦凍は今まで母の家族の話を聞いた事はなかった。
「周りからはお父さんに利用されたように思われているかも知れないけれど、それは私も同じ
……
ただ自分の家を出たくて、私はお父さんを利用していた」
今度は冷が懺悔をするように、顔を伏せて、ポツリポツリと言葉を漏らす。
「あなた達を育てていた時、私も未熟だった
……
駄目な親だったことはわかっているわ。でもね、あの人と結婚をしたこと、あなた達を産んだことを後悔はしていない
……
本当よ」
やっと顔を上げて、冷は焦凍に顔を向けた。顔の大半を火傷の痕が覆っていようとも、母は今も儚くとも強い美しさを保っていた。
普段伏せがちのその瞳はよく見ると、曹灰長石のように虹色の輝きを秘めていた。彼女の美貌を支える、強い人の目だった。
「あなたのような素敵な子供たちがいてくれるから、私に生まれた意味をくれているのよ」
「母さん
……
」
焦凍の目から、堪えきれなかった涙が一雫、真っ直ぐに落ちる。
幼い頃、隔離をされて育った自分の唯一の味方であった母の愛を、何よりも守りたかった────自暴自棄となった父の暴力から守れなかった事を今でも悔しく、轟の中の痼として残っている。
燈矢との事を知らなかった自分にとって、父親と同じ瞳をしているに怯えた母は、自分も恐れられたと思っていた。彼女の瞳に自分を映すのすら、エゴだと思っていた。
しかし、その気持ちは一方的なものではなかったと、今また母に救われてしまった。
焦凍は、この母には一生頭が上がらないだろう。
隠せる事ができなくなった涙を、もう止められなかった。
「
……
今度、その子に会わせてね。あなたの大切な人と、お母さんもちゃんとお話してみたいわ」
「うん、オレも会って欲しい
……
二人ともオレの、大事な人だから
……
」
強く母の手を握り返すと、冷は、焦凍の背中に手をやる。焦凍は子供の時のように、ゆっくりと母の方へ身を寄せた。
これで自分の全てを、母に吐露して赦されたのだ。
いつも弱い自分が悔しくて、泣くことが弱い事だと思っていたのが、今やっと昇華されたように感じられた。
(もっと強くなろう。自分を誇れる、オールマイトみたいなヒーローに
……
)
と、再び夢を湧き上がらせる事ができた。
「帰っているのか、焦凍ォ!!」
あたたかな空間を切り裂く爆音のような声が、障子を真横にバタンと叩き付けられる音と響き渡る。
思わず、焦凍の身体がビクリと反応した。
車椅子の炎司が、いつの間にか帰宅をしていたようだ。
「ム、泣いているのか
……
何があった。仕事で辛いことがあったのか?仕事のことなら父さんが力になるぞ」
焦凍を見るなり、矢継ぎ早に話しながら炎司が室内用の車輪を回しながら近付いて来た。
全盛期を知っている分、炎司の身体は、ひどく縮んで見えた。だが今は炎を纏わずとも、その威圧感だけは残っており、焦凍の涙はアッサリ引っ込んだ。
「
……
母さん、今日はもう帰る。また冬美姉さんがいる時に、話に来る」
「そうね、今度はゆっくりしていってね」
手早く顔を拭うと、焦凍はすっと立ち上がった。
車椅子の父との目線は、学生時代よりずっと離れて見下ろすようになった。
だが、雄英入学時と同じように焦凍は炎司をグッと睨み付けると、玄関へ足を向けた。
「焦凍、美味しい葛餅があるぞ。お父さんともお茶をするぐらいいいだろう!」
「うるせえぞ、クソ親父」
あんなに満たされた気持ちも、父親が帰宅したことですっかり気が削げてしまった。
やはり父親に心許し合うことは、今生ないのかも知れない。
そう思って、焦凍は炎司のがなる声を聞き流して実家から離れたのだった───
……
。
「そうか、お母さんに伝えてくれたのだな
……
それで、」
と、飯田は納得をして、言葉の最後を食後のお茶と共に飲み込んだ。
そして、自然に手に馴染む湯呑みをなぞる。轟の作ってくれた湯呑みは、一見無骨な形にも見えるが、使う度にその良さを感じる。
「君のお父さんは、相変わらずみたいだね」
話の様子を想像するだけで、眉が下がり、笑っていいものか微妙な表情になってしまう。
「あいつを“お父さん”なんて言うな!」
対炎司に対しての轟は、途端に幼くなる。学生時代と変わらない反応だ。
「じゃあ
……
炎司さん、か」
轟と家族になるのであれば、将来的には“お義父さん”と呼ぶようになるだろうに
……
と飯田は心の中で思いつつ、代替え案を出す。
「そんなの、もっと駄目だ!!あんな奴、クソ野郎でいい」
「そんな爆豪くんじゃあるまいし
……
」
家族に反抗した記憶のない飯田は、言葉を探すのを止め、ソファーの上にいる轟の隣へと座り直した。
自分の上半身を傾け、轟に身を預ける。ズッシリとした身持ちである事は自覚していたが、今の轟はビクともせずに飯田を受け止めてくれていた。
「
……
年が明けたら、君の誕生日に指輪を買いに行こう」
話を変えようと、轟の左手に自分の手を伸ばし、指を絡めた。
「婚約指輪ってやつか?」
パッと表情を輝かす轟を見て、機嫌を直す事ができたと飯田は安堵する。
「婚約兼結婚指輪って所かな。どんな物がいいだろうね?」
時計以外の装飾品を使用した事がないが、意味深い指輪に飯田も胸が高鳴る。
「
……
飯田は、何か希望はあるか」
「そうだな
……
やはり、普段生活に響かない細身の物が良いかな」
そう言いつつ、轟の能力として熱の耐性があるものがいいだろうが、彼の熱に耐えるものはあるのだろうか
……
と頭の中で思考をして、飯田は調べるチェックリストを脳内に浮かべていた。
「うん、そうだな
……
」
轟はうっとりと目を細め、絡められた飯田の指先にキスを落とす。飯田の左の薬指を食み、これから付ける指輪に夢を馳せる。
「
…………
寝室へ行こうか?」
「ん
…
」
轟の唇が指の間を蠢くと、飯田はぞくぞくと背筋が痺れて、身を震わせてしまう。飯田から思わず誘いの言葉が出た。
轟は指から唇を離すと、飯田と視線を交わし、先程の触れるだけのキスではない、ゆっくり舌を絡める口付けをした。
「
……
天哉」
唇が離れた瞬間、思わずそう呟いた。
一瞬だけ息を止めた飯田は目を見開き、それから、ほんの少しだけ笑って答えた。
「愛しているよ、焦凍くん
……
」
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