kaisou
2026-04-14 22:48:45
10713文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

ローマは人を引き留める Roma homines retinet.

1740年コンクラーヴェ話・別視点8

帰らなかった人と引き留めた人。新たな関係の始まり

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 翌朝、コシアの荷物は廊下に出ていた。従者が馬の用意ができたと告げる。天気はよく、道も悪くないだろうという報告だった。コシアは「そうか」とだけ答えた。
 荷物はそのまま廊下に置かれた。馬は厩へ戻された。従者は何も言わない。言葉にした瞬間に別の何かになる。そういう沈黙だった。。

 ローマの朝はいつものように始まっていた。回廊では書記たちが書類を運び、侍従が静かに行き来する。どこかの部屋では議論が始まり、別の場所では噂が生まれる。特に最近は、声を潜めて言う者が多い。

「コシア枢機卿は、ナポリへ帰ったはずだ」
「なのに、なぜかローマの事情にやけに詳しい」

 それは、ローマの人はよく喋るからだ。小さな笑いが起きる。やがて、誰かが静かに言った。

 ただ――妙な話だ。
 
 誰かが聞いている時だけ、よく喋る。その誰かは、今もローマにいるのか。誰も答えなかった。答えを知っている者は、たいてい黙っている。答えを知らない者は、聞く相手を間違えている。ローマとは、そういう街だった。人を立ち去らせることも、引き留めることも、同じくらい自然な顔でやってのける。どちらの責任も最後までは引き受けない。石の街に似合わぬ、ぬめりのある手つきで。触れたあとに残る指の跡だけは、いつまでも乾かない。
 その頃、教皇の書斎には一枚の書面が置かれていた。差出人の名はない。筆跡は見慣れているものだった。整いすぎてはいない。崩れてもいない。急いで書いたはずの行にも、妙に落ち着きが残っている。。

 コシアらしい。

 口元に小さな笑いがうかんだ。書類を閉じる。机の端へ戻しかけて、指先が止まった。末尾に、一行だけ余計な文がある。用件とは無関係の一文だった。

《 今日のローマの夕焼けは、ひどく赤かった 》

 書かなくてもいいことだった。その一行を、もう一度だけ見る。書類全体よりも余計な一文だけがなぜか心に残る。やがてそのまま机上に置き、指先で軽く叩く。
……そうか」
 その書類は、片づけられなかった。理由は考えなかった。そういう種類の先送りは、たいてい考えた時点で形を持ちすぎる。形を持ちすぎれば、扱いづらくなる。理由を与えるのは、しまう準備ではなく、たいていは失う準備だからだ。