kaisou
2026-04-14 22:48:45
10713文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

ローマは人を引き留める Roma homines retinet.

1740年コンクラーヴェ話・別視点8

帰らなかった人と引き留めた人。新たな関係の始まり

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 数日後。

 昼の仕事が終わる頃には、書記たちはすでに退いていた。人の気配が遠のいた頃合いを見計らったように、扉が叩かれる。
「入れ」
 コシアが入ってきて、礼をする。
「聖下」
「報告か」
「一応は」
 机の前まで進むと、すぐに書類を差し出した。
「候補の司教ですが。評判は悪くない。だが」
「だが?」
 コシアは少し考えるように、顎へ指を添えた。
「で、具体的には」
 その言い方に、ランベルティーニは無言で先を促す。
「夕食の席で一人。それから」
 指を折る。
「寝室の噂で二人」
 ランベルティーニは眉を上げた。一瞬だけ、何か言いかけて止まる。
「寝室?」
「ローマの情報は、だいたいそこから出てきます」
 コシアは軽く肩をすくめる。その顔に、弁解も自慢もない。
「しかも驚くほど、正確に」
 その言い方には自負がなかった。むしろ、何度も同じ役割を押しつけられてきた者の、わずかな倦みだけが残っていた。
 顔を見られ、声を聞かれ、気を緩められ、その先に置かれる言葉を受け取る。自分から欲した役目ではない。ただ、人が勝手に差し出してくる手段がある以上、使わぬ方が怠慢になる場面もある。それだけのことだった。役に立つから使う。役に立ったあとで何かが残ることは、最初から数に入れない。そうしなければ、後ろに沈むものが多すぎる。
 ランベルティーニは書類に目を落としたまま言う。
「その信頼は、どうやって得た」
「さあ」
「さあ、とは何だ」
「気づいたら、話してくれていました」
 それだけだった。それで十分だった。説明が不足しているのではない。説明の余地そのものがない類いの話だった。ランベルティーニはゆっくり顔を上げる。
……なるほど」
 口元が、かすかに歪む。
「君は、実にローマ向きの男だ」
 呆れでもあり、感心でもあった。それだけではない。名前も顔も知らない誰かの隣で、この男が夜を過ごしている。その事実が理由のない形でどこかに引っかかった。顔がいい、というだけで済ませられる単純な話ではない。それが入口になっていることも、否定しようがなかった。本人はそれを嫌っているのだろうと思う。その嫌い方まで含めて、どこか厄介だった。疎ましく思っているものを、平然と道具として使う。その冷たさが信頼に見える相手もいるのだろう。しかし、信頼と呼ぶにはどこか乾きすぎていた。
「君は仕事をしているのか」
「しています」
 コシアは即答した。その顔に、悪びれた様子は一切ない。
「人は、夜こそ正直になります。特に信心深い方ほど――日を跨ぐと」
 ランベルティーニは静かに笑う。
「それで。この司教はどうだ」
「説教は上手い。ただ、告解室を社交場にしています」
「向かないな」
「こちらは、若い未亡人への霊的配慮が少し熱心すぎる」
 ランベルティーニは書類へ目を落とした。目は紙の上にあるが、指先は動かない。
「だめだな」
「信仰は熱心です。ただ、便宜の図り方が露骨で――裏で大金が動いているかと」
「罷免対象だろう」
 言葉の応酬は滑らかだった。滑らかであることが、かえって書類の中身とは別のところへ意識を引いていく。紙の上には候補者たちの瑕疵が並んでいるのに、耳に残るのは別の夜の気配ばかりだった。ランベルティーニはそれを表に出さず、ふと別のことを口にした。
「ナポリには、いつ出発を?」
「数日後です。この件が終われば」
「終わるのか」
短い間が置かれる。
「ナポリの女性が待っているのか」
 コシアは肩をすくめた。
「さあ」
 少し笑う。
「待っているかどうかは、聞いてみないとわかりません」
 ランベルティーニは何も言わない。視線は書類に落ちているが、もう読んではいなかった。どこを見ているのか、自分でも定まっていない感覚だけが残る。
  紙の上の文字が、意味を持つ手前で止まっている。頁をめくる前の指先だけが動いて、肝心の思考はそこへ追いついていない。やがてコシアが言う。
「ローマの人は、よく喋る」
……前にも聞いたな」
「それは、私がここにいる時だけです」
 ランベルティーニは視線を上げた。
「つまり?」
「もう少し調べます。――ナポリは、少し待たせましょう」
 書類が閉じられる。
「ローマは、人を引き留める街らしいな」
 コシアは軽やかに笑った。
「ええ。よくご存じで」
 そのまま沈黙が続く。ランベルティーニは紙束を指先で整えた。必要のない動きだった。だからこそ、手がそれを選んだ。手が先に整えようとし、整わないものだけが、なお内側へ残る。紙は揃う。角も揃う。しかし言葉の置き場だけが、どこにも揃わない。
「君は」
 コシアが顔を上げる。
「はい」
「よく、喋らせるらしいな」
 少し黙る。その沈黙は、もう気まずさではなかった。どちらも次の言葉を選んでいるのではなく、選ばずに済むならそうしたいことだけが、静かに部屋の中へ降り積もっていく。沈黙そのものが、机の上の紙束のように、崩れずそこへ置かれていた。
 触れないことで、保たれる均衡がある。そして触れないまま、重くなるものもある。
「この件」
「はい」
「君がいなくなったらどうなる」
 コシアは少し考えた。
「沈黙します」
 ランベルティーニは視線を止める。
「そうか」
 小さく頷いてから、ごく低く言った。
「それは……困る、な」
 言ってから、ランベルティーニは指先を止めた。
 困る――その言葉は、口から出たあとでようやく重さを持った。軽い音で出たくせに、机の上には置かれず、もっと奥へ沈んでいく。自分の中のどこから出たのかを、考えないではいられない。
 必要としていない。ここには置かない。かつてそう言った。偽りではなかったし、今も間違いだとは思っていない。あの時与えたかったのは役目ではなく、役目から外れた位置だった。これ以上摩耗する場所に置かないこと。それが唯一の筋だったはずだ。
 それなのに、口をついて出たのは引き留める側の言葉だった。理屈に直せば、たちまち痩せてしまう種類の真実がある。置かないと決めた時の誠実さと、いなくなられることを厭う今の感覚は、互いを打ち消さないまま同じところへ沈んでいる。二つとも本当であることが、いちばん始末が悪かった。コシアの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。困る。そう言いながら、なお手放すつもりでいる声だった。
「聖下」
「何だ」
「ナポリは」
 一拍置いて、
「ずいぶん遠くなりました」
 ランベルティーニはまっすぐにコシアを見る。
「まだ数日だろう」
「ええ」
「では、ナポリへ帰ればいい」
 コシアは一瞬だけ黙った。視線がわずかに上がる。帰ればいい、という声の置き方を、まだ測っているような間だった。
……どうした」
「いえ。ただ、帰ると」
 コシアは机上の書類を軽く叩く。
「誰も喋らなくなります」
 ランベルティーニは眉を上げ、静かに言った。
「それはローマの問題ではない。君の問題だ」
 コシアは薄く笑う。
「どうやら、そのようですね」
 沈黙が落ちる。ランベルティーニは書類を指先で押さえた。その手つきが、なぜか少し遅い。遅れたことに、自分だけが気づいている。気づいているのに、直さない。その遅れこそが、いまの自分の本体であるように思えた。すぐに整えられるものは、もう本質ではないのだと、手の方が先に知っていた。
「では」
「はい」
「君が解決しろ」
 コシアは窓の方を見た。夕方のローマだった。空が赤く燃えている。ナポリの港を思う。あちらの光はもう少し薄い。空気も違う。波の音がある。知っている顔があり、声がある。帰る場所とは、そういうものだ。

 だが。

 視線を戻す。書斎はいつもどおりだった。書類があり、灯りがあり、机の向こうにランベルティーニがいる。むしろ静かな部屋のはずだった。それなのに。なぜか静かではなかった。沈黙の密度が部屋の隅々で均等ではなかった。言葉にならないものほどこういう時にいちばん場所を取る。
……困りましたね」
 口に出してから、その言葉が少し本気だと気づく。ランベルティーニは眉を上げたまま、コシアを見る。
「ローマは、帰りにくい街です」
 窓の外を背に立つコシアの横顔を、ほんの短く見ていた。赤い光の中に置かれた輪郭だけが、妙に鮮明だった。人を引き留めるのは貌そのものではない。貌の向こうで相手が最後まで言わずに残していくものの方だ。顔は入口でしかない。
 引き留める権利が自分にあるのかを、一瞬だけ測った。置かないことと、失いたいことは、同じではなかった。
 書類を机の端へ押しやる。中央から端へ移された紙束は、まるで席を一つ空けるようだった。その空いた場所へ何を置くつもりなのか、自分でも分からないままだった。
「好きにしろ」
 コシアは礼をした。
「ありがとうございます」
 その声は、さっきより少しだけ軽い。扉へ向かい、手をかけてから振り返る。
「聖下」
「何だ」
「ローマの人は」
 コシアは言った。
「本当によく喋ります」
 扉が閉じかけた、その時だった。
「コシア」
 思わず名を呼んでいた。声に出してから、ランベルティーニは自分で気づく。コシアが足を止め、振り返る。
「はい」
 何を言うつもりだったのか、自分でもわからなかった。灯りだけが静かに揺れている。言葉を置けば、今よりはっきりする何かがある気もしたが、曖昧とする感覚の方が、なお強かった。名づけた瞬間に痩せるものがある。理屈に載せた瞬間に、正しさだけが残って、本体がこぼれ落ちるものがある。いまのこの部屋には、それが多すぎた。
 だから、別の言葉を選んだ。選んだというより、咄嗟に手前のものを掴んだ。
――ナポリの女性に」
 ごく短い間。
「よろしく伝えろ」
 コシアは一瞬だけ黙った。やがて、静かに笑う。笑いの小ささのぶんだけ、相手の躊躇ごと受け取っているように見えた。嘘だと知っていて、なおその嘘の置き場を壊さないこともまた、一つの受け取り方だった。
「聖下」
 うっすらと微笑を浮かべ、少し首を傾ける。
「嘘が上手くなりましたね」

 扉が閉じる。書斎はまた静かになった。ランベルティーニは机上の書類を見つめ、その端を軽く叩く。
……困るな」
 必要だから置くのではない。置かないと決めたまま、それでも視界から完全に消えることだけは受け入れがたい。その不格好な矛盾を、名づける気にはなれない。
 灯りの火が揺れていた。そのままにした。消せば片づく種類の夜ではなかった。火を落として暗くすれば済むのは、形のある仕事だけだ。こういうものは、暗くしたぶんだけ輪郭を失って、かえって奥へ残る。