kaisou
2026-04-14 22:48:45
10713文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

ローマは人を引き留める Roma homines retinet.

1740年コンクラーヴェ話・別視点8

帰らなかった人と引き留めた人。新たな関係の始まり

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。

 夕方の書斎は静かだった。
 書記たちはすでに退き、机の上には署名を終えた文書が、乱れなく積まれている。窓の外では、ローマの光がゆっくりと傾き、細長い影を室内へ引き込んでいた。部屋の静けさは均一ではない。人が去ったあとに残る静けさと、まだ何かが起こる前の静けさが、薄く重なっている。どちらも音を持たないのに、重さだけが違っていた。

 扉が叩かれる。
「入れ」
 入ってきたのはニコロ・コシア枢機卿だった。ただし枢機卿の装いではない。黒い司祭服だった。ごくありふれた聖職者の格好で、それがかえってこの男の正体を知っている者にだけ奇妙に見える。いまさら赤の威光は要らないとでも言うかのようでもあった。
 いつものように過不足のない礼をする。礼の角度も、歩幅も、止まる位置も、すでに身体に染みついたものだった。意識しているのではない。整えていなければ、別の意味を与えられる場所に長くいた人間の、ほとんど反射に近い正確さだった。
「聖下」
 ランベルティーニ――教皇ベネディクトゥス十四世は顔を上げた。
「ナポリへ戻るそうだな」
 再審ののち赦免され、ようやくローマを離れることが許された。そう言ってしまえば簡単だが、その「ようやく」の中には、十年では足りない時間が沈んでいる。
「はい。準備は整いました」
 机を挟んで、二人は立ったままだった。座るほどの話ではない、と互いに思っている時ほど、妙に話は長くなる。どちらもそのことをよく知っていた。
「思ったより、ローマは長かった」
 コシアは、わずかに肩をすくめた。
「未練はないのか」
 問われて、少しだけ間があく。考えた、というほどの長さではない。考えずに返したとも言い切れない、短くて薄い沈黙だった。水面に落ちきる前の埃のように、わずかに宙へ残る。
「あります」
 ランベルティーニの眉が上がる。
「ほう」
「ローマは、人が面白い」
 少し間があった。人、という言葉の置き方が、わずかに軽すぎた。
「人?」
「親切な方々が多い」
 コシアは視線を机の端へ落とした。こちらを見ない時ほど、何かを隠している。
「複数形だな」
「ローマは大きな街です」
 ランベルティーニは、小さく息を吐いた。その吐き方に、呆れと、それだけではない何かが混じっていた。
「君は変わらない」
「努力していませんから」

 軽く返しただけのはずなのに、その身軽さが妙に残る。本人もその残り方を知らぬわけではないだろうと、ランベルティーニは思った。言葉そのものが人を苛立たせるのではない。ああいう調子で言われると、こちらが受け取った感情だけが、ひどく重く見えてしまうのだ。相手は薄く置いたつもりのものが、こちらの側でだけ沈んでいく。
 しかも厄介なのは、その身軽さが場所を選ばないことだった。回廊でも、食卓でも、誰かの私室でも、おそらく同じ調子で入り込み場を自分の体温に変えてしまう。悪意が先に立つやり方ではないぶん、余計に始末が悪い。
 ローマでさえこうなのだ。ナポリへ戻れば、今度は誰の気力を試すつもりなのか。
「ナポリでも同じことをするつもりか」
 コシアがわずかに首を傾ける。
「同じこと、とは」
「人を面倒な気分にさせることだ」
「それは先方の繊細さに依存します」
「便利な言い逃れだな」
「便利に使えるものは、使うべきでしょう」
 まるで反省のない口ぶりだった。ランベルティーニはそれを一瞥してから、あえて言葉を継いだ。
「ナポリの女性は、気性が強いそうだ」
「聞いたのか」
「経験があります――個人的に」
 あまりにもあっさりとした返答だったので、ランベルティーニは机を指先で軽く叩いた。ごく小さな音だったが、静かな部屋ではそれで十分だった。木の乾いた応答が、言葉より先に不快を引き受ける。叩いたのは机の端だけなのに音は部屋の中央まで来て止まった。不快が何に向いているのか、自分でも少し測りかねた。女性への話ではない。経験があると言い切るその軽さでもない。なぜ自分がここで聞かされているのかという、答えの出ない問いの方だった。
 しかも厄介なのは、その問いに、もっともらしい名を与えられてしまいそうなことだった。不快。呆れ。あるいは節度への違和感。どれも嘘ではないが、足りないまま口にすれば、かえって自分の側の揺れだけが露わになる気がした。
 だからランベルティーニは、いちばん正当で、いちばん安全な言葉を選んだ。
「君は、聖職者だ」
 コシアはすぐには返さなかった。その一言の置き方を、少し測っているような間だった。咎めとして受け取ることはできる。それだけでは済まない温度が、言葉の底にわずかに残っていた。
「はい」
 従順とも反抗ともつかない、静かな返事だった。
「ですが、人間でもあります」
 そこで一度だけ呼吸を置いてから、コシアは続けた。視線は机の端へ落としたまま、声だけが軽い。
「聖職に就いたからといって、過去まで消えるわけではありません」
「都合のいい言い方だな」
「便利でしょう」
「便利であれば、何でも赦されると思うのか」
 言葉に棘が入る
「赦しの話にしておられるのは、あなたの方です」
 その返しに、ランベルティーニの指先がわずかに止まった。痛いところを突かれた、というほど露骨ではない。しかし、胸の内で曖昧に絡まっていたものを、先に言葉にされてしまった。自分は何を咎めているのか。行いそのものか、口ぶりか、それとも軽さの向こうに自分の知らない時間が存在していることか。
 倫理を持ち出せば、話は整う。整うがそれで片づくほど単純でもなかった。
「それに、聖職者というものは、往々にして人に好かれやすい」
 ランベルティーニは目を細めた。指先が、また机の縁へ触れる。
「自慢か」
「観察です」
 短いやりとりのあと、わずかな沈黙が落ちた。ランベルティーニはコシアの顔を見る。長く知っている顔だったが、知っているからといって慣れる顔ではない。
 聖職者が人に好かれやすい理由など、いくらでも並べられる。徳の高さ。聞き方。信仰の深さ。あるいは、もっと別のものも。そこまでは口にしなかった。口にした瞬間、別の意味で整ってしまう気がしたからだ。本人がそれを「観察」と言い切る時の顔が、また少し気に入らなかった。その顔でそう言うから、人が話すのだろうという、ごく単純な事実を、こちらだけが飲み込んでいる気がした。
「人はよく話してくれる」
 コシアが言う。目は相変わらず机の端へ落としたままだ。
「何を」
「たいていは、私が聞かなくてもよいことを」
 ランベルティーニは、ごくわずかに笑った。その笑い方に、呆れと認めたくない納得が混じっていた。
「それは神学ではない」
「経験です」
 その声には、得意とも卑下ともつかない乾いた響きがあった。乾いているのに、平板ではない。水気のない布のように見えて、触れれば熱だけを奪っていく種類の声音だった。
 コシアは、自分が人目を引くことを知っている。一度も好いたことがない。顔が先に相手の気を緩め、そのあとで言葉が入る。男女を問わず、驚くほど同じ手順で来る。本人にしてみれば恩寵でも何でもない。ただ厄介で、放っておけばまとわりつく性質のものだった。
 煩わしいのは、見られることより、見た者が勝手に意味を作り始める速さの方だ。まだ何もしていないうちから、期待と油断と誤解だけが先に差し出される。浅いものほど後に残る泥は濃い。だから最初から信じない。信じないまま、使う。疎んじているからこそ、そこに情を混ぜないでいられる。その冷たさだけが、唯一の清潔さだった。
 相手が何を見て気を許したのか、確かめる趣味はない。顔なのか、声音なのか、夜のせいなのか。どれでもよかった。話すつもりのなかったことまで、人は勝手に差し出してくる。その構造を、嫌というほど知っている。
 ランベルティーニはそれ以上を拾わず、一枚の書類を取り上げた。
「この件だ」
 コシアは受け取り、表紙に目を落とす。司教任命に関する調査書だった。
「人柄を知る者が少ない」
「それで、私ですか」
「ローマの事情には詳しいだろう」
「そういう意味では」
 コシアは書類を閉じる。
「何日ほど」
 ランベルティーニは少し考える顔をした。急ぐ案件ではない、と判断している時の間だった。
「急がない。帰る前でいい」
 コシアは礼をした。
「では、出発は少し遅れます」
 そのまま扉へ向かいかけた。その背中が、少しだけ遅い。気づいていないふりをしているのか、気づいていないのか、ランベルティーニには判断がつかなかった。
「ナポリが退屈なら」
 コシアが振り返る。
「はい」
「ローマに残ればいい」
 ほんの短い沈黙。言ったあとで、ランベルティーニ自身がその言葉の置き方を測りかねたように、小さく首を振る。今の一言は冗談として扱うには少し重く、なかったことにするには少し軽すぎた。
「冗談だ」
 コシアは扉の前で止まったまま、振り返った顔を戻さなかった。その止まり方が、少しだけ長かった。
「聖下」
「何だ」
「冗談は――時々、危険です」
 ランベルティーニは答えなかった。指先が書類の端へ触れ、触れただけで動かない。
「なぜ」
「本気にする人間がいるからです」
 扉に手をかけたまま、コシアは少しだけ振り返った。視線は軽いが、そのままで済ませてはいない。軽く見せることと、軽いこととは違うと、知っている目だった。
――聖下は、ご存じないかもしれませんが」
 そこで扉が閉じる。言葉は最後まで出なかった。出なかったからこそ、書斎の中には、かえって明確な形で残った。未完の一文というより、最後の一語だけが抜かれた重い器のように。

 書斎はふたたび静かになった。ランベルティーニは机上の書類を見た。指先でその端を軽く叩く。少ししてから、もう一度だけ手に取る。内容を読み返したかったわけではない。ただ、まだ片づける気になれなかっただけだ。手元に置いておく理由を、いまは与えずに済ませたかった。
……数日か」
 そう呟いてから、書類を机の中央へ戻す。
「まあいい」
 声は平らだった。その平坦さの内側で、片づかなかったものが一つだけ残っていた。紙の上ではなく、もっと曖昧で、手のつけようのない位置に。机の木目の下へ沈んだわけでもないのに、そこから動かない重さとして。