ねぶくろ
2026-04-01 08:00:00
13884文字
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 もしも私が信じなければ、彼は今も生きていたのだろうか。

     *     *     *

 繋いでいた手がおもむろに離される。そのことを不思議に思い、藤袴ふじばかま清乃きよのは先を行くあざみいたりを窺った。どうしたんですか、という言葉が喉元までせり上がる。清乃が声をかけようと口を開くと同時、抗いがたいほどの力で小さな体を突き飛ばされた。──どん、と躊躇なく体幹を揺るがした腕力に、視界が揺れる。起こった事態が理解できず、清乃は呆然とした顔でそれをおこなった彼を見た。
 手を繋がなきゃ、と指先を彼へと伸ばす。一緒にこの街から出るんだから。
 思いとは裏腹に、後方へ沈んでいく体は容赦なく彼との距離をあけていく。泳いだ手はただ空を掻くばかりだ。なんで、と馬鹿みたいな疑問が口を衝く。あまりの驚きで、発したはずの声は自身の耳にさえ届かなかった。
 こちらを横目に、莇が目を逸らすように苦笑する。──ひどく悲しそうに、どこか寂しそうに、けれど揺るがぬ覚悟を決めたように。何かを諦め、何かを決意した横顔が、清乃へ向き直った。眩しいほどに真っすぐに、闇夜を照らす月明かりにも似た双眸がこちらを見つめた。
「シスター。……僕は、貴方のことを愛してなど、」
 いませんよ、と伝える声が自分の耳に届くより先に、その姿が掻き消えた。確かだと信じていた彼の肉体が、その存在が、やわく、脆く、壊される。ぐしゃり、と何かが潰される水っぽい音が耳朶じだを打ち、甲高い音がその場に響いた。──それが自分の悲鳴であると理解して、咄嗟に両の手で口元を覆う。
 急変した事態に、思考が追いつかない。ただ、その場を染める真っ赤な色と鉄錆びた匂いに、感情が状況を把握した。涙が溢れて、押さえ込んだ口から「莇さん、」と失われた存在への思慕が紡がれる。
 一緒に街の外にって、愛してるって、言ったのに。
 どうして。嘘つき。なんで。誰か。神様。
 崩れ落ちるようにしてその場に膝をつき、祈るような格好で指を組んだ。涙で曖昧になった世界の輪郭を拒むように目を瞑って、こうべを垂れる。固く閉ざした瞼の裏に、こちらを見つめた彼の眼差しが残っていた。
 莇至は、嘘つきだ。いくら騙されやすい清乃でも、その程度の事実は知っている。──ただ、彼の言葉のどれが嘘で、何が真実であるかを推し量ることができないだけで。
 私が信じなければ、彼は嘘を吐こうとは思わなかったのだろうか。私が騙されなければ、彼は死ななかったのだろうか。どこまでが嘘で、どこからが本当だったのだろう。何が虚偽で、何が真実だったのだろう。彼の言葉にはどんな偽りが含まれていて、どんな本音が隠されていたのだろう。
 この期に及んで、彼の嘘がわからない。その事実に思わず苦笑が零れた。瞼を持ち上げ、ほとんど血だまりと化した彼を見る。地面に膝をついたから、修道服の裾が濡れていた。もう、染み抜きは無理だろう。ならばなんだって同じだ。彼の存在した証に手を触れて、「莇さん、」と声をかける。
 二人で一緒に街の外に出ましょう。私も貴方を愛しています。──うわごとのように呟いて、現実から逃避するように笑みを浮かべる。

 藤袴清乃は宗教家だ。数えきれないほどの人間に空虚な救いを与えてきた。

 今更一人増えたって、二人増えたって、変わらない。いつもの布教と同じように微笑んで、真っすぐに、〝相手〟を見つめる。清乃は、そこに在ったはずの絶望や、迷いや、苦痛を思って、慈愛に満ちた声を発した。
「私、信じるのは得意なんです」
 ずっと、ずっと、信じています。貴方が私を愛したことも、貴方が私を救おうとしたことも。
 胸のうちで呟いて、立ち上がる。街の外へと向けて一歩を踏み出せば、血に濡れて重たくなったスカートが、少しの風になびいて揺れた。

     *     *     *

すく‐う【救う】〘五他〙あぶない状態、苦しい状態、悪い環境、貧しい境遇などにある者に力を貸し、そこからのがれさせる。助ける。
                                              (岩波国語辞典第八版より抜粋)



【あとがきのようなもの】
 春先から重たい話ですみません。
 「エイプリルフールの話」とのことだったのですが、「嘘」から連想した結果、『覆水』とついにする形になりました。
 個人的には、『「莇さんに騙されている」という”嘘”を吐き、彼我ひがに救いをもたらすシスターの話』のつもりです。それが空虚だとしても。
 せっかくなので構成も『覆水』に重ねてみました。莇さんの主観と清乃さんの主観で見え方が少しだけズレている、みたいなのを書くのが楽しかったです。
 最後になりましたが、この度は企画にご参加くださりありがとうございました。楽しんでいただければ幸いです。