雨野縁
2026-01-08 20:04:23
14963文字
Public
 

なんでもない日

2026年1月出版の書籍『もしも明日で世界が終わるとしたら』の再録。頃合いを見て更新したいと思います。

書籍版のみに掲載の話にちなんだタイトルだったので、web版ではタイトルを変更させていただいております。


水無月 梅雨の影


 六月になって、梅雨入りが発表された。じめっとした空気に続く長雨、湿気で髪が上手く纏まらなくなる季節だ。雨で外出も億劫になるし嫌なことだらけである。寿々華が特に嫌なのは、この季節は他の季節に比べて嫌な感じのモノが増えることだ。
「うーん……明日も雨やなぁ……
 昨夜から雨が続いており、夕方になっても雨が止む様子はない。大学から帰ってきてリビングでくつろいでいた寿々華は携帯端末の画面の天気予報を見てそう呟く。携帯端末の画面から目を離すと部屋の隅に黒色のモヤが視えた。部屋の隅だけではない、ところどころに黒色のモヤやヘドロ、揺らめく人影のようなものが視える。寿々華にとってはある意味日常茶飯事で、見慣れた光景だった。反応はしない、反応した瞬間にターゲットにされることはわかっているからだ。寿々華にはどうすることもできないため無視をするしかない。寿々華は影に怯えながら暮らすしかなかった……でも今は違う。
「すず、おやつできたぞ。」
 ゾラがキッチンから持ってきたのはコーヒーゼリーだ。少し硬めでシロップとコーヒーフレッシュをかけて食べるそれは暑くなり始めた季節の定番おやつである。もう少し暑くなるとコーヒーゼリーに添えられるのはシロップとコーヒーフレッシュではなく、バニラアイスになるだろう。コーヒーの苦味が少し大人の味で、寿々華もお気に入りのおやつだった。ゾラはコーヒーゼリーが盛られた器をテーブルに置き、ふと部屋の隅に目を向けた。黒色のモヤがいる場所だが、ゾラはそこに黒色のモヤなど視えているわけではない。しかしゾラはしっかりと黒色のモヤがある方向へと視線を向けていた。黒色のモヤがある方向からヘドロや揺らめく人影がある方向にも目を向け、首をこてんと傾げる。寿々華はゾラの緑色の瞳がわずかに煌めいたように見えた。
「せいっ、やーっ!」
 ゾラが何もない空間に向かってパンチをする。障害物を綺麗に避けながらパンチとキックを繰り返すこと五分ほど、ようやく止まったゾラは満足そうに頷いた。黒色のモヤやヘドロ、揺らめく人影などはすっかり消えていた。これは寿々華がここに来てからの日常である。ゾラには何も視えてはいないがそこにいることだけはわかるのか、あるいは無意識なのか……悪きモノを正確に攻撃して跡形もなく祓ってしまう。
「ゾラちゃんは今日も元気やなぁ。」
 最後にゾラの足元に小さな影が転がってきたが、ゾラはそちらを見ることなく思い切り踏んだ。小さな影はじゅっと音を立てて消える。寿々華はゾラの動きに魅入っていたため、おやつのコーヒーゼリーにはまだ手をつけていなかった。ようやくコーヒーゼリーを口に運ぶと、心地よい苦味が口の中に広がる。そうして苦味を堪能しながらコーヒーゼリーを半分ほど食べ終えたところで玄関から物音がした。一瞬だけ雨の音が強くなる。
「ただいま〜、すずはおかえり。」
 どこかにでかけていたらしい環が帰ってきたようだった。両手にはスーパーで購入したものと思われるものが入ったエコバッグを持っており、すぐにキッチンへと向かった。環の後ろには黒色のモヤがたくさんひっついている。環はそういった悪きモノに好かれやすく、こうして連れてきてしまうことも多々あった。今日は用事があったついでに買い出しをしてきたらしい。環が冷蔵庫に買ってきた食材を入れる後ろ姿をゾラが凝視している。そして環へと近づき、環の背中を強く叩いた。ぐちゃっ、じゅわっ……明らかな異音がしたにも関わらず、環とゾラには聞こえていないようだ。
「えっ、ちょ、何? ゾラ?」
「あ、わるい。まちがえた。」
 ゾラは悪びれることなく、環の背後にある何かを振り払うように手を動かしている。その行動は環が野菜室に野菜を入れ終わるまで続いた。その様子はまるで飼い主にじゃれつく猫のようである。
「ちょっと、危ないって!」
「ん、もうおわったからだいじょうぶ。」
 ゾラが一仕事を終えて満足したと言いたげな顔でキッチンから戻ってくる。後を追うようにキッチンから戻ってきた環の背後はすっかり綺麗になっていた。いつ見ても見事だなと寿々華は思う。環がいつもの定位置である、キッチンに一番近い寿々華の斜向かいの席に座った。
……俺のことを見てどうしたの? 何かあった?」
……ううん、なんでもあらへんで。」
 寿々華は誤魔化すようにコーヒーゼリーを頬張る。環が不思議そうに首を傾げる。雨に当たって少し冷えたのか、少し寒そうにしている。
「そういえばアダシノ、このじきにぐあいわるくならなくなったな。」
「あーたしかにそうかも。ご飯ちゃんと食べてるからかな? あ、お茶淹れてくれたの。ありがとう。」
 寒そうにしている環にすでに気がついていたゾラが環に紅茶を淹れていたらしい。フレーバーがついていない春摘みダージリン、紅茶にしては淡い水色はゾラの髪色にも似ている。たしかにここ最近の環はゾラによって食事管理をされており、それによって体調を崩しにくくなったのかもしれない。寿々華もここに来て大分体調が安定するようになったようにも思える。しかしやはり環の体調不良は……この時期に多く沸く悪きモノが憑いていたのも一因だろうと寿々華は思ったが、口にすることはなかった。環は幽霊や怪談などが苦手なのだ、わざわざ言って怖がらせる趣味もない。何も知らない環は何もない空間をまた見つめているゾラを見て笑った。
「ゾラ、また何もないところ見てる……猫みたいだなぁ。」
「そうやねぇ。」
 たしかに猫もそういうときがある。ゾラの視線の先、何もないはずのベランダの外に揺らぐ人影があるのを知っているのは寿々華だけだった。