雨野縁
2026-01-08 20:04:23
14963文字
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なんでもない日

2026年1月出版の書籍『もしも明日で世界が終わるとしたら』の再録。頃合いを見て更新したいと思います。

書籍版のみに掲載の話にちなんだタイトルだったので、web版ではタイトルを変更させていただいております。


如月 寒さに弱い人


 日本では一月下旬から二月頭がもっとも寒い時期らしい。バレンタインが目前に迫り来る二月、立春が過ぎて暦の上では春とされるにも関わらず大寒波によって冷え込んだ朝。ゾラはベッドの上で天井を眺めていた。
「アダシノってみためのわりにちからがつよいんだよな……
 途方に暮れた末、ポツリと独り言がゾラの口から溢れる。現在、ゾラは環にがっちりと抱きつかれて身動きが取れないのだ。環はとにかく寒さに弱く、こんな朝には決まって体温が高いゾラに抱きついて離れないのだ。寝巻きをふわふわもこもこのボア素材にしていたのもあり、触り心地もよかったのだろう。なにしろ身長の差が三十センチほどある、抱え込まれてしまってはゾラが抜け出すのは困難だった。無理矢理抜け出すこともできなくはないが、うっかり力を入れすぎて怪我をさせてしまうかもと思うとそうはできなかった。ゾラは人間ではない、かつては硝煙と血の匂いで充満した戦場に君臨していた兵器である。加減を間違えれば環の体などすぐにへし折ってしまうだろうし、人間の頭蓋骨を割るのだって容易い。そんな兵器が穏やかな日常を享受するにあたって、もっとも気をつけるべきことは力加減である。極限まで力を弱め、力加減を覚え、今の穏やかな日常がある。相手に怪我をさせたくないのならば、大人しくする以外の選択肢がない。
「アダシノ〜……そろそろおきるぞ〜……
「ん……やだ、寒い……
 ゾラはため息をついた。今日はあいにくと平日で、寿々華が大学に行くのだ。本来であればそろそろ朝食を作り始めたいところである。どうにもならないまま時間だけが過ぎ、カーテンの向こう側がぼんやり明るくなるのを眺め、ダイニングのほうから聞こえる機械音を聞き、とうとう寿々華を起こす時間になった。当然朝食は作れていない……が、正直こうなることはゾラは予想済みである。
「すず〜、おきるじかんだぞ。」
「んぅ……
 一番壁側にいる寿々華がのそりと起き上がり、未だ起き上がる気配のない環と環の腕から抜け出せないゾラを跨いだ。起きた寿々華がまず向かうのは洗面所、顔を洗って意識を覚醒させる。気がつけばダイニングのほうからいい匂いがしてきていた。その匂いの元はダイニングテーブルに置かれたポットからで、ミネストローネの香りがしている。まずは電気ケトルでお湯を沸かして白湯を飲んだ。ゾラが起きて来られないため朝食ができていない……ということはなかった。寿々華はスープ用の食器を出してポットを手に取る。蓋を開ければミネストローネが入っており、それを食器に注いだ。
「わあ……おいしそう……
 置かれていたポットはオートクッカーと呼ばれるもので、特にスープなどの自動調理に特化した調理器具である。寒がりな環に抱き込まれることが多いゾラが導入した最終兵器だ。タイマー機能もついているので夜に仕込んでおけば朝には暖かい具沢山のスープが自動調理でできあがっている。おおよそは販売元の公式で紹介されているレシピを元にしつつ、具沢山にゾラがアレンジしている。本日の朝食は押し麦が入ったミネストローネだ。二人分で作っていて半分は寿々華の朝食に、残り半分は環の昼食になる。
「アダシノ〜まだねてていいからはなしてくれ。」
……ん。」
 ゾラはようやく環の腕から抜け出すことができた。抜け出したゾラがまずやったことは蓄熱式湯たんぽの充電、これは充電が完了するまで十五分ほど掛かる。部屋にエアコンはなく、ダイニングのエアコンはタイマーで寿々華が起きる前から動かして部屋を暖めていた。
「すず、おはよう。
「おはよぉ、ゾラちゃん。今日のミネストローネも美味しいで。」
 寿々華の笑顔にオートクッカーを導入してよかった、とゾラは満足げに頷いた。いちから作るのも好きだが、こうした調理家電にもゾラは肯定的だ。便利なものは使っていくべきであるし、アレンジを探る過程も楽しいものである。
「きょうはともだちとランチであってる?」
「おん、明日から春休みやから。」
 ゾラは寿々華に軽くスケジュールを確認しながらホットカフェオレを用意する。本当は淹れたてを味わってほしいところだが、時間がなさそうだ。持ち運びができるタンブラーに注いで、力加減に気をつけながら蓋を閉める。
「これ、だいがくでのんで。」
「ありがとう、ゾラちゃん。」
 寿々華はミネストローネを食べ終えたところで、これから歯磨きするために洗面所に向かうようだ。ゾラは一仕事終えたので一度環が眠る部屋に戻った。蓄熱式湯たんぽの充電が終わっており、それをカバーに入れて環に持たせる。安売りされていた猫型のそれを抱きしめさせると少しばかり起きてくる時間が早くなるらしい。
「環はん、ゾラちゃん。行ってきます!」
「いってらっしゃい、すず。」
 いつのまにか支度を終えていた寿々華が部屋を覗き込んだ。その声に反応したのか布団がもぞもぞと動く。
「ん……いってらっしゃい。気をつけてね。」
 環が少しだけ体を起こして寿々華を見送った。寿々華が外に出て行ったのを見送るとまた布団の中へと戻っていく。
「いや、おきろよ。」
「だってまだ寒いし……人間ってなんで冬眠しないんだろう……
 そんなことを言いながら環は猫モドキを抱いたまま布団の海へと潜り込んでしまった。まだまだ時間がかかるらしい。ここ最近は少し寒くてもすんなり起きられるようになってきていたのに、急激に冷え込んだのがよくなかったようだ。ゾラは仕方ないと言わんばかりに部屋を後にする。窓の外はどんよりと曇っていて、かろうじて夜よりは明るい程度の空だった。午後には雨も降るらしい、そんな日にはスパイスたっぷりのチャイが飲みたくなるだろう。そう思ったゾラはミルクチャイ用の茶葉とスパイスの在庫を確認するためキッチンへと向かう。ダイニングにはミネストローネの香りが漂っていた。