lolo
2025-11-28 10:06:52
28335文字
Public お話
 

呱泣

死出

「やっとみつけた」
その子どものすがたを目にしたとき、おもわずそう口にしていた。
破れた窓から月の光がわずかに射しこむ無人の家。
かくれんぼで最後のひとりを見つけたときのように顔をほころばせ、緑谷出久は子どものまえにしゃがみこむ。
「泣いてたのは君だったんだね」
涙でぬれた目がひたりとこちらを射る。
警戒するような、拒むような、それでもなお救いをもとめるような切実さで。
「僕は緑谷出久。……君の名前は?」
子どもは乾いた声で、てんこ、とこたえた。



緑谷がその泣き声をはじめて聞いたのは、大学生活にすこしずつ慣れはじめた初夏のころだった。
いつものようにバイトを終え帰宅した緑谷は、風呂あがりに電話をしていた。
電話の相手は高校の同級生である麗日お茶子。
おなじ大学に通う彼女とはときどきこうして通話し、学内での話や高校時代の話などをしていた。
通話の最中だった。緑谷の耳がふっと、麗日のものではない声をとらえたのは。
声は膜を張った向こうからひびいてくるようにくぐもって、奇妙にとらえどころがなかった。
しかし意識を集中させてみると、それは泣き声、しかも子どものものであるように思われる。
声がどこから聞こえてくるのか探ろうと、緑谷は室内をうろついたり窓を開け耳をすましてみたりした。
しかし、声の方向すらまったく見当がつかない。 そうこうするうち泣き声は止んでしまった。

それ以降、何度もおなじことが起きた。
部屋にいるときも麗日と電話しているときも、はては買い物やバイトをしているときにまでかすかな泣き声を聞くことがある。
幻聴とは思われない。けれど近所を歩きまわって探しても、泣き声の主はなかなか見つからない。
ひとり思い悩んでいたとき、バイト先の喫茶店で常連客に声をかけられた。
「浮かない顔だが、なにかあったのかい」
その年配男性――迫と、好きな作家の話題を通じて親しく話すようになっていた緑谷は、思いきって彼に目下の悩みを打ち明けてみた。
「子どもの泣き声ねぇ」と首をひねっていた迫は、しばらくの間のあとやや低めた声で言う。
「緑谷くんは春に越してきたばかりだから知らないだろうが、このあたりにはちと有名な家があるんだ。いまは空き家になっちまってるが……だれが名づけたんだか“呪われた家”なんて呼ばれててな」
陳腐な呼び名だろ、と迫は苦笑する。
「噂じゃあ、その空き家からときどき子どもの泣き声がするらしい」
……その家の場所、教えてもらえますか?」
「構わないが、興味本位で行くのはお勧めしないね。あんまり気持ちの良い場所でもないからよ」
迫はやんわりと忠告したが、どうしても泣き声の主を見つけたいのだと緑谷が熱をこめて頼むと、空き家の場所を示す地図を書いてくれた。
空き家はどうやら、緑谷の住むアパートがあるのとおなじ町内に建っているようだ。
緑谷は地図の書かれたメモを握りしめ、バイトを終えるとまっすぐそこへ向かった。
店を出るすこしまえから意識の底へ這いよっていた泣き声は、歩をすすめるごとに大きくなる。
そうしてついに緑谷は、声の主がいる場所へとたどりついたのだった。



泣いていた転弧を見つけた夜、緑谷は転弧のかたわらに座り、ゆっくりと時間をかけて言葉を交わした。
夜が明けたころ、緑谷が帰ろうとするそぶりを見せたとたん転弧の顔色が変わった。
「いずく、帰るの?ここにいてくれないの?」
蒼白な顔に紅い双眸だけがぎらぎらと、いまにも噴出しそうな怒りと悲しみをたたえて燃えていた。
緑谷の胸に鋭い痛みが走る。
きっとこうして何度も彼は望んで、そしてその望みはことごとく叶わなかったのだとわかった。
転弧と向かいあい、緑谷はていねいに言葉を紡いだ。
「ごめんね。僕にもおうちがあって、僕はそこへ帰らなきゃいけないんだ。学校に通ってるし、アルバイトもしてるから、ここにずっといることはできない」
学校、と転弧はつぶやいた。
惑うような表情がかすかにその顔をよぎる。
「でも、またかならず会いに来る。転弧くんがここにいるってもう知ってるから」
一日のはじまりを告げる光が夜を掃いていく。
「約束するよ、転弧くん。――またね」
転弧は息を詰め、穴が空くほど緑谷を見つめる。
愚かしいまでに澄んだ緑の目に見つめかえされ、転弧はひどく狼狽した。
緑谷が微笑んで片手をふる。扉をあけ、朝のひかりのなかへ出ていく。
転弧はそれを引き留めなかった。

約束どおり、数日後の夜緑谷はふたたび空き家を訪ねた。
転弧は緑谷の顔を見て、おどろいたように目を見ひらいた。
前回とおなじように緑谷は転弧のとなりに座る。
「おそくなってごめんね。でも今日は転弧くんが泣いてなくて、ちょっと安心したよ」
……ほんとに来ると思わなかった」
ぽつりとこぼす転弧に、約束したからねと緑谷は笑う。
転弧はひざをかかえ、じっと緑谷を見あげた。
「いずくも変なものがみえる。それ、ちいさいときから?」
そう問いかけられ緑谷はあいまいに頷く。
「変な、っていうんじゃないけど……ほかのひとよりすこし、いろんなものが視えてたかな。昔から」
それは視えない立場の人々からすると「おばけ」「幽霊」などと呼ぶべき存在だったのだろう。
しかし「彼ら」のすべてがわかりやすく血まみれであったり、半透明に体が透けているわけではない。
なかには生きている人間と変わらない見た目のものも多く、幼い緑谷には「あちら」と「こちら」の世界の線引きがひどく困難だった。
それは成長してからもあいかわらずで、たとえば今年の春に出会った分倍河原という男がおそらく「あちら」の人間だったのであろうことを、緑谷はずいぶん経ってから気づいた。
「みえるの、いやだった?」
転弧は重ねてたずねる。
「うーん、こわい思いをしたこともあったけど……でも嫌だとは思わなかったな、不思議と」
ほかのひとには視えず触れられないけれど、たしかにそこにいる。生きている人間とおなじく言葉を発したり、歩いたり座ったり、感情をゆらし涙を流しもする。
いつしか彼らに抱く恐怖心は薄れていった。
緑谷にとっては生者も死者も等しく「ひと」だ。
ただ在り方がちがうだけなのだと理解したから。
少数派であるがゆえの苦労もしてきたが、それでも緑谷は持って生まれた力を疎んではいない。
「この力のおかげで転弧くんとも出会えたし」
緑谷がそう言うと、転弧のまなざしがほんのすこしやわらかくなる。
「へんなの」
転弧はそれから、この家に住んでいた家族のことをぽつぽつと話しはじめた。
父と母と姉との四人暮らしだったこと。
飼っていた犬の名が「モンちゃん」だということ。
モンちゃんとはよくいっしょに散歩をしていたといい、愛着がありそうだった。
挙げられた特徴をもとに緑谷が想像でモンちゃんの絵を描いてみると、転弧は「へたくそ」とはじめて笑顔を見せた。

「転弧くん、来たよ」
いつものように玄関からはいって奥へ声をかけると、緑谷の持つあかりにぼんやりと子どものすがたが浮かびあがる。
ぱっとふりむいた転弧はすぐに駆けよってきた。
「いずく」
「今日もおりがみ持ってきたんだ。動画見て練習してきたから、今日はモンちゃんもつくれるよ!」
緑谷が自信たっぷりにこぶしを握ってみせると、転弧は目をかがやかせた。
あかりをそばに置き、緑谷は持ってきた色とりどりのおりがみを床にひろげてみせる。
「転弧くんは何色が好き?」
……わからない。でも、これがいちばんモンちゃんの色に似てる」
細い指先が茶色のおりがみを指さす。
「わかった。じゃあこれで折ってみるね」
緑谷が折りはじめると、転弧は身を乗りだして手元をながめている。
家をおとずれるたび転弧が徐々に打ちとけてきてくれているようなのが、緑谷にはたまらなくうれしい。
けれど転弧の笑顔を見ると、言い知れぬ悲しみが胸にひろがる。
彼が独りでこの家に留まりつづけ泣いていた理由を、いまだ緑谷は知らない。
それでも彼が泣かないですむのなら、いくらでもそばにいてあげたいと思った。

季節はめぐり、冬になった。
緑谷はその夜も転弧に会いに行った。
クリスマスが近かったので卓上に置けるサイズのツリーを買い、持っていって色とりどりに光らせてみせると転弧はそれに魅入っていた。
ほほえましく思いながらその横顔を見ていた緑谷は、とつぜん激しい悪寒におそわれた。
このところあまり体調がよくなかったのだが、転弧と約束したからと無理を押してしまったのがいけなかった。
めまいがしたので目を閉じると体に力が入らなくなり、緑谷は冷えた床に横たわる。
そのまますうっと意識が遠のき、だれかの声がして目をさますと見知らぬ若い男が自分をのぞきこんでいた。
新聞配達員のその男は緑谷を心配し家まで送ると申し出てくれたため、転弧のことを気がかりには思いつつ、緑谷はいったん自宅で休むことにした。



一週間後、すっかり熱も下がり無事回復した緑谷は、転弧のもとへと向かった。
「転弧くん」
声をかけながら室内に入るが、転弧のすがたが見あたらない。
それに空気があきらかにいつもとちがっていた。
不穏なほどに重たく濁り、息苦しささえかんじる。
緑谷は名前を呼びながら各部屋を見てまわった。
転弧はどこにもおらず、焦燥がつのる。
「転弧くん、どこ?」
もう一度呼んだとき、リビングのほうで大きな物音がした。急いでそちらへ向かうとソファがひっくり返っており、その脇に転弧が立っていた。
「転弧くん」
「来るな」
ほっとして歩みよろうとすると転弧が撥ねつけるように言う。
緑谷は足を止めた。
細く射しこむ月明かりが、転弧の体からゆらゆらと立ち上る黒い靄を映しだす。
「しばらく会いにこられなくてごめん。こないだはあんなふうに急に帰っちゃって、びっくりさせたよね」
鋭利な拒絶をまとう転弧に緑谷はそっと話しかけた。しかし緑谷との対話を拒むように、転弧は背を向けてしまう。
「もうここに来なくていい。会いにこなくたっていい」
……そんな、どうして――
動揺し一歩踏みだした緑谷の眼前で、小爆発が起きたような炸裂音がひびいた。
なにかが粉々に砕け散り、破片が足下に飛んでくる。それはこのあいだ緑谷が持ってきた、ちいさなクリスマスツリーの一部だった。
「いままでの奴らも俺がみんな壊した」
緑谷は顔をあげた。
転弧がふりかえる。ツリーの残骸を無表情でながめ、それから緑谷に視線を注ぐ。
「出久、このあいだ倒れただろ」
……ただの風邪だよ」
「ちがう。この家にいるからだ。俺といっしょにいるからだ」
転弧の体を取りまく靄が濃くなっていく。
足下から悪寒が這いのぼる。息苦しさが増し、岩でも乗せられているように肩が重い。
「壊したかったんじゃない。でもみんな、出久みたいに約束してくれなかった。だから壊して、ずっと痛くて、だけどおまえは」
緑谷の脳裏に、金木犀が匂うころこの家のまえで出会った蒼い目の少年の言葉がよみがえる。
――空き家になったあと、ここでは何人もの遺体が発見されてる。
――このままここへ通いつづけたら、次に死体として見つかるのはアンタだろうな。
「おまえが壊れるのは」
転弧の声がかすれ、途切れた。
かりそめの体がどろりと溶け、その全身を靄が覆いつくす。
緑谷はとっさに駆けだした。
靄のなかに飛びこむと、身を切るほどの冷たさと泥濘に似た重い抵抗をかんじた。
なにも見えない。沼底めいた追いつめられるような闇のなかで、すぐ目のまえにいるはずなのに視ることがかなわない。
緑谷は口をあけた。
瞬間、闇が意思を持ったいきもののように体内に流れこんでくる。
氷柱を呑んだように痛烈な冷たさが胸や腹中を貫いたが、すんでのところで悲鳴をこらえ宙に声を投げかける。
「まだ話の、途中だよ……!」
周囲の暗闇がさざ波のようにゆらいだ。
応えたのは、緑谷がはじめて聞く声。
――話しただろ、もう充分。
「ううん、まだだ。まだ君の……君自身の話を聞いてない」
ゆらぎが徐々にちいさくなり、やがて止まる。
完全な闇と静寂のなかに緑谷はひとり立っていた。
おもわず身ぶるいする。頭の芯がしびれるほど寒い。
……君の名前は、とむらくん?」
すがたの見えない相手に語りかける。
――ああ。
ややあって短い答えが返った。
もの問いたげなひびきに緑谷は応じる。
「この家には転弧くんもふくめて、四人で暮らしてたっていったよね。そして、転弧くんの小学校での出来事をきっかけに一家は引っ越していった」
緑谷は当初、転弧のことを「あちら」の人間だと思っていた。命を落としたあともなんらかの理由があり、この家に留まっている魂なのだと。
しかし家に住んでいた家族のことが知りたくて調べているうち、自身の認識が誤っていたことを知る。
転弧は命を落としてなどいない。
一家はみな、そろって家を出たのだ。
そこでひとつの疑問が生まれた。
「それじゃいま、この家にいる“転弧くん”は、本当はだれなんだろうって」
“転弧”が自身の内面をほとんど口にしないのも気にかかっていた。
自分の感情や好きなもの、それらに対する転弧の態度は一貫して無頓着で、まるで他人事だったのだ。
緑谷の疑問に対する答えは、存外近くで見つかった。
「何度目かにここへ来たとき、リビングで手紙を見つけたんだ」
緑谷が空き家に通いはじめた当初、室内は荒れゴミも散乱していた。さまざまな目的で空き家に侵入した人間たちが捨てていったものだろう。
それらを来るたびすこしずつ片づけていた緑谷は、ある日部屋の隅に落ちていた古い手紙を発見した。
「転弧くんが書いたものだった。そこに“とむらへ”って書かれてて。それで、確証なんてなにもなかったけど、なんとなく君の名前かもしれないと思った」
――知らない。
「え?」
――知らない、俺は、そんな手紙。
声にはかすかな戸惑いのひびきがあった。
あて名が書かれていた以上、転弧が彼にそれを読んでほしかったのは疑いようがない。
手紙の内容からして、直接に言えなかった思いを文字に託したのはあきらかだった。
しかし彼がその存在に気づくまえに、室内は荒らされ手紙は目につかないところへ追いやられてしまったのだ。
「君あての手紙だったけど、ごめん。紙をひらいたときに内容を見ちゃったんだ」
――教えろ。
声が強く催促する。緑谷はそっと息を吸った。
子どもらしい筆跡で真摯につづられた言葉。
『ともだちじゃないなんていって、ごめんね』。
闇が蠢動する。
緑谷は冷えてこわばる唇をゆっくりと動かした。
「君は転弧くんの、ともだちだったんだね」
すぐそばで、あるいははるか遠くでくぐもった声が低く吐きだす。
――転弧は、俺を置いていった。
「君と……転弧くんになにがあったのか、本当のところを僕は知らない。僕が知ってるのはまだ、出来事のほんの外側だけだ。だけど転弧くんには、君の声が聞こえた。君たちはおたがいを大事に思ってた。それはたしかなことでしょう?」
彼がこの家に留まる理由。
はじめてここをおとずれた緑谷に、「転弧」と名乗ったその理由。
失いたくなかったのではないかと緑谷は思う。
かつてとなりにあった温もりを、つながりを、思い出を。
「転弧くんはもうここにいない。でも君とこころが通じあった瞬間のこと、転弧くんもきっと忘れないと思う」
緑谷は凍える息を吐いた。
肚に落ちた闇が内側から凍てつかせようとするかのように、冷えて各部の感覚がにぶっていく。
幾重にもなった闇の向こうから、残照の色をした眼がのぞいた。いくつもの感情がその眼に露われ、またたく間に削げていく。
――わかってるんだ、転弧を本当に独りにしたのは俺だ。だからずっと痛いんだろ。罰だから、からっぽなのにこんなに痛むんだろう。
緑谷は力をふりしぼり、かじかむ右手を持ちあげる。
透明な雫を落とすその眼に必死で手をのばした。
「罰なんかじゃない。きっととても大事だったから、……さびしいから、痛いんだよ」
落ちる雫に指先が触れる。
その温かさに胸がふるえた。
緑谷の目からもおなじだけ温かな、雫がぽたりと滴り落ちる。
「僕は転弧くんの代わりにはなれない。でも君のためになりたいって思うんだ」
白日より淡く、ささやかな光が足下に灯る。それはすこしずつ、だが確実に闇を払いひろがってゆく。
はらはらと千切れて落ちる靄の隙から、無数の巨大な手が見えた。
真白な長い蓬髪に紅い眼。
まとわりつく手に全身、口元までを覆いかくされた彼のすがた。
――なんで。
声をあげることをゆるされなかった彼が、緑谷の意識にぽつりと投げかける。
緑谷はぬれた瞳で微笑んだ。
「だって君はここにいて、僕には君の声が聞こえるんだから」
夢の終わりのようにふっと景色が失せる。
そして静寂がおとずれた。
空き家のほこりっぽい匂いが鼻をつく。
床に転がっていた緑谷は、清々しい朝の光に包まれゆるゆると身を起こした。
「出久」
声に引かれてふりかえる。
そこに裸足の先をわずかばかり陽光にさらした、白髪の若い男が立っていた。
荒れた唇の端がすこしだけ持ちあがり、笑みのかたちをつくる。
……とむらくん?」
「うん」
心臓がとくとくと鳴っている。
指の先がかすかにふるえた。
彼が笑っているのを見てじわりと視界がにじむ。
「また泣くのかよ、泣き虫」
揶揄されたってかまわない。
うれしいときの涙はこらえなくてもいいんだと、緑谷は母からそう教わっている。
だから涙は止めずに伝えた。
「いっぱい聞かせて、とむらくん。僕、君の声がとっても好きだ」



その日、緑谷は弔とひとつ約束をした。
春になって桜が咲いたら、この家を出て花見をしようと。
空気まで華やかな色に染める満開の桜の木の下、弔と二人で歩く光景を夢に見ながら緑谷は布団にもぐる。

以来、空き家となったその場所から泣き声がひびくことはなくなった。