lolo
2025-11-28 10:06:52
28335文字
Public お話
 

呱泣

死出

陽春の風に花びらがおどる。
行き交う人々の気配をただ音として聞き流しながら、分倍河原仁は先刻から独りベンチでじっとうつむいていた。
おだやかな風にあおられ、足下に白い花が吹きよせられる。
空はどこまでも澄みきって青く、一点の曇りもないほどに平和な春の日だった。
並木道の先に見えるのは大学の校舎。
白い外壁に整然と窓がならび、日光を反射してかがやいている。
今日はその大学の入学式だ。二部制で行われるため、午後になっても歩道には学生たちのにぎやかな声があふれていた。
春の華やいだ空気になじめない分倍河原はどこかいたたまれない気持ちになる。しかし自身が向かうべき場所すら判然としない彼は、途方にくれて座りこむしかない。
「ああ、あのとき……なんて言やよかったんだ。俺は――またくりかえしちまった。また……
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、思考はどんどん深みにはまる。
分倍河原はついに頭をかかえてしまった。
「おれは………俺は」
弱々しく肩をふるわせる彼のまえに、だれかがふと足を止めた。
「あの」
頭上から遠慮がちな声が降ってくる。
分倍河原はそれが自身に向けられたものと気づかない。
「あの、大丈夫ですか?」
声はもう一度、今度はよりはっきりとした輪郭をもって発せられた。
だれかが目のまえにしゃがみこむ気配。
分倍河原は息をのむ。
信じられない思いでそろそろと顔をあげれば、緑の双眸が心配そうにこちらを見ていた。
「え……?」
「どこか痛みますか?気分が悪いとか」
「いや、そ、そんなんじゃねぇ……だけど、なんで」
分倍河原は混乱し、おちつきなく視線をさまよわせた。
ベンチのまえにしゃがんだ青年は、なおもまっすぐに分倍河原を見つめている。
かけらの害意も宿していない、ただひたすらに自分を気づかう緑の瞳。
声をかけてきた青年を呆然と見かえしていた分倍河原の目に、じわりと涙がういた。
「おれの」
ふるえる唇が言葉を紡ぎだす。
迷子とおなじに頼りないこころを、分倍河原は見知らぬ青年へ降伏するように明けわたした。
「俺の話を、聞いてくれるのか」
青年はためらいなく頷き、励ますように微笑んだ。
「はい。よかったら聞かせてください」
青年はそう言うと分倍河原のとなりに腰かけた。
これはもしかして都合のいい幻なんじゃないかとぼんやり思いながら、分倍河原は口をひらく。

身の上話をはじめたら、堰を切ったように止まらなくなった。
両親をはやくに亡くし、中学卒業と同時に働きはじめたこと。
しかしどこの職場も長くつづかず、職を転々とする日々だったこと。
当然金も貯まらず、それどころか家賃が払えなくなり住んでいた部屋を追い出されたこと。
そんなとき拾ってくれたのが、ひと月前まで働いていた会社の社長だった。
会社には寮があったのでひとまずの家も確保することができ、分倍河原はこれでようやくふつうの生活ができるかもしれないと希望を抱いた。
生まれつきの目つきの悪さのせいで先輩社員や上司にはしょっちゅう殴られたが、社長はよく働くヤツだと分倍河原をほめてくれた。そのかわり時間外でもかまわず分倍河原を呼びつけ、仕事をさせていた。
金はあいかわらず貯まらなかった。
給料の遅延や未払いが日常茶飯事だったからだ。
世間一般的にはろくでもない会社の部類だろうが、それでも分倍河原にとっては唯一の居場所だった。
気づけば勤めつづけて七年が経っていた。

「だけど、そこもクビになっちまった」
分倍河原は肩を落とす。
ひと月前、分倍河原の住む寮で騒ぎが起きた。
寮にいた何人かが財布が無くなったと言いだしたのだ。
分倍河原にはまったく心当たりがなかったが、その後無くなった財布すべてが、なぜか分倍河原の荷物のなかから見つかった。中身はきれいに抜きとられた状態で。
「泥棒ってみんなに責められた。ちがう、俺はなにも盗んでないって何度も言ったよ。でもだれも、俺の話を聞いちゃくれなかった。信じてくれなかったんだ」
息苦しさにあえぎながら分倍河原はうったえる。
警察沙汰にはされなかったもののその日のうちに解雇され、寮からも叩きだされた。
ふたたび路頭に迷う日々に逆もどりした分倍河原には、もはや生活を立てなおす気力もなかった。
「結局いつもこうなるんだ」
疲れはてた目で分倍河原は言った。
「俺がちゃんとした人間じゃねぇから、信用してもらえない。あぶれた人間は、どこまでいっても独りだ」
こけた頬を伝う涙が足下にしみをつくる。
切々と内心を吐露する分倍河原のかたわらで、青年はその失意と痛みによりそった。
「わかってるんだ。なにもかも俺が……俺が悪いんだ」
「そんなことない。あなたはなにも悪くありません」
嗚咽する分倍河原に青年は、やわらかくも確固とした声で応える。
独りきりで越えたいくつもの夜が、飲みこむしかなかったたくさんの悲しみが、だれにも届かないまま消えた数々の言葉が涙にとけてこぼれ落ちる。
分倍河原は身をよじって泣いた。
泣いて泣いて、いつしか涙も果てからっぽになった胸のうちに、ひかる糸のようなつながりだけが残った。



――ありがとうな。もう大丈夫だ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で分倍河原は笑ってみせたが、青年は立ち去りがたそうにしている。
ずいぶんと長いあいだ引きとめてしまった。
けれど彼が声をかけてくれたから、分倍河原は自身の本当の望みを知ることができた。
ようやくここをはなれることができそうだ。
「俺はこうやって、ただだれかに話を聞いてほしかった。すこしだけとなりにいてほしかったんだ」
だからもう大丈夫だと重ねて言うと、青年はやっと頷いた。
「僕、緑谷出久といいます」
「ああ……俺は、分倍河原。分倍河原仁だ」
緑谷という名の彼は並木道の先、西日に照らされた校舎を指した。
「今日からあの大学の学生になったんです、僕。明日からもここを通ります。だから、また」
――話をしましょう。
緑谷は屈託なく笑う。
分倍河原も笑顔で彼の背中を見送った。
ベンチから立ちあがり、並木道を歩きだす。
そして分倍河原はある場所で足を止めた。
その足下にはペットボトルのお茶とちいさな花束が置かれている。
ひと月前、ここで起きた交通事故の犠牲者となった分倍河原には、目立たない場所に置かれたそれらが自分への供え物であるとわかった。
……あいつにタバコ供えてくれって言ったら、ほんとに置いてくれたかもなあ」
分倍河原はどこか愉快な心もちで目を細めた。
会社をクビになった日、住む場所もなくし思考停止の状態で街をふらふらとさまよい歩いていた。
そしてこの場所で危険運転の車にはねられ、分倍河原はあっけなく命を落としたのだ。
ひとの目には不幸な生涯と映るかもしれない。
けれど分倍河原は満たされていた。今日緑谷と出会えたことは、まちがいなく僥倖だった。
人生の清算をすませたように爽快な気分で分倍河原は空を仰ぐ。
「ああ、でも」
忠告してやったらよかったとふと思う。
本人に自覚があるかどうかわからないが、緑谷は「視える」人間だ。
そのうえ見ず知らずの相手に対してもよりそおうとする、優しい心根を持っている。
「あいつはいいやつだから、タチの悪いのに呼ばれないといいんだが」
すこし気がかりではあるが、あいにくと分倍河原にはもう時間がない。
押しせまる夕闇に呼応するように、周囲の景色がだんだんとにじんでいく。
分倍河原はまぶたを閉じ、もう二度と会うことのない彼の幸福を願った。