井見
2025-11-11 18:22:47
43941文字
Public 真Ⅴ・真ⅤⅤ二次
 

【再録】わが身もともに

真V主人公の一番条件があるルートへの道中掌編5本詰め(既出2本改稿、新規3本)、約四万字の再録です。いきなり厩橋から行きます。八雲と物理喧嘩したり口喧嘩したり、アオガミとしんみりしたりします。お手にとっていただきありがとうございました。無印四周年おめでと〜🎉
*無印発売後、VV発表前発行のものです。
あとがき https://privatter.me/page/66dc6af209395


わが身もともに

 麗らかな昼下がりがあった。
 華美な詰襟の制服に身を包んだ少年が、駅のベンチで本を開いている。彼の側を通りかかる誰もが、きっと誰かを待っているのだろう、と思う。それ以上の感情はなく、また抱くことを許されなかった。
 少年は文字通り空気だ。そこに在っても、気づかない。ほんの少し聡い者は、おや、と思うかもしれない。だが、不思議な雰囲気の子だ、そう認識するだけで、数秒後には少年のことなどすっかり忘れてしまう。だから少年は、忙しなく行き交う人々を遠慮なく見つめることができる。
 朝の通勤時間帯、人々が行進曲のように淀みなく進んでいく様も、少年は見ていた。時間が経つにつれ、だんだんと人の波は乱れ、雨の日の水面のように不規則に、人が行き交う。ある者は誰かを待ち、ある者は行くべき場所を探している。そんな様子を眺めながら、少年はまだベンチに腰掛けている。もう数時間にもなるというのに、少年にはまるで苦ではなかった。彼からは時間という感覚が薄れていた。彼はたった一つの、ある時刻を待っているのだった。それまでの時間など、少年には微睡みを重ねるようなものにすぎなかった。
 少年は思い出したように、手元にあった本の頁をめくった。その本の最初の数十頁には、文字がひっきりなしに並んでいるが、ある頁を境に真っ白になる。その文字の無い頁を開いて、少年はゆっくりと撫でる。
 そしてその時になった。
 きゃあ、と叫び声が響いた。
 少年は本から顔を上げる。来たか、と思う。
 俄かにどよめき、人の流れが遮られる。流れを堰き止める中心に向かって、無慈悲な人間たちはスマートフォンを掲げる。一方で勇敢で慈悲深い人間は迷いなく駆け寄り、次第に救急車を、と指示が始まる。
 人が倒れたのだ。少年はその場を見ずとも知っていた。そうなることになっているのだ。これは絶対の事実だった。駅を行くある男性に訪れる、急病というありふれた不幸。だが、倒れたものが死ぬか生きるかは決めていなかったし、そもそも知らなかった。なるようになるだろう、と決めていた。だから頁の続きは白紙だった。
 少年は本を閉じて立ち上がった。
 駅は通行止めにはならない。何の事件も起きない。
 あの場所では誰も殺されないし、誰も死体を見ない。
 事件がないから集団下校も起きない。
 だから〝僕〟はいつも通り一人で寮に帰って、呑気に過ごすだろう。
 変わらぬ明日が続くだろう。

 少年は人混みに紛れていく。

 少年の為すべきことは、常に為されている。少年は常にこの世を見る。
 少年は悪魔の果実を食べた。あるべき円環を拒んだ。ならば、長い繰り返しから解き放たれたはずのこの世界がどこまで行き、どこで終わるのか。それを少年は見届けなければならない。もし終わりがないのであれば、終わりなき世を、見つめ続けなければならない。
 それが少年のせめてもの責任であった。そう選んだのだから、そうしようと決めた。
 もし少年が望むなら、数百年ほどうたた寝でもして、面白いことが起きるまで待つこともできるだろう。千年経った後、さっぱり変わった現世に目を見開いて、あーあ、と溜息をこぼすこともできる。少年は、それも悪くはない提案だ、と思いながら、でもまだだ、と呟く。この世界を、この世界の中から見なくては。それが少年の、自分との約束だった。自分が選んだ結果から、その先から、目を逸らさないということが。
 人には耐えられぬことだろうか。否、少年は、上等だ、と思っている。例え今までの誰かが挫折していても、自分にできぬ理由にはならない。遠い空の上から踏ん反り返って眺めてやってもいいが、対岸の火事ほどつまらないものはない。そう気丈に振る舞って、少年は現世に留まり続ける。
 
   *

 駅を後にした少年は、いつかの通学路をなぞるように歩き出した。登校の時間にはずいぶん遅いため、同じ方向に歩く学生はいない。少年は学生鞄すら持っていないため、遅刻している学生とも思えない。しかし通行人から奇異の目を向けられることはなかった。先程よりもずっと気づかれないようにしていた。
 人の世に混ざるのであれば、完全に気配も意識も消してしまえばよいのに、少年はそうしなかった。この世界にいる感覚が薄れるから、と少年は思う。日差しに暖められた温い風が髪を撫でるのを、少年は歓迎していた。そんな自分に、少年は驚いた。
 春が終わり夏へと向かう暑いくらいの空気が、少年は苦手だった。じんわりと汗ばんで、手が本の頁に張り付くようになる。過ごしやすい気候が終わって、むせ返るような熱がすぐ側まで迫っている。あらゆる植物が蠢き始める。その予感が眠っていて嫌だった。何も変わらないままでいたい自分が詳らかにされるようだった。
 だがどうだろう、少年は、ほとんど花びらが散った桜の木をしみじみと眺めた。花びらはすっかり散り、そこにまだ小さな葉が瑞々しく色づき、夏を迎える支度をしている。木々は少し傾き始めた日の光を覆い、少年に優しい木陰を作る。
 少年は息を吸った。
 季節は進む。足元の幾重にも踏まれ茶色く濁る花びらや葉も、やがては流され視界から消えていくだろう。時は過ぎていく。この街のまま。
 これが望みか、と少年は思った。自分勝手な望みだ。全部無かったことにしたいし、これからも無いようにしたい。そんなありふれた、子どもじみた望み。
 学校が近づいてくると、少年は踵を返した。今頃〝僕〟は校庭でも眺めているだろうな、と思った。やがて退屈なチャイムが校外まで響いてくる。それはもう自分のためのものではなかった。
 少年はふらふらと進んだ。どこへ行くわけでもなかった。なんとなく歩いて、なんとなく眺めた。樹上は緑に染まりつつある一方で、道沿いの生垣にはちらほらと桃色の花が咲いている。柔らかな風に花びらが揺れる。散る花もあれば咲く花もある。当然のことだ
 甘い花の香りに、少年の意識はふわりと揺らめく。夢の中のように心地よく、不安定で、いつ目覚めるかもわからない。いやむしろ、目覚めてはならない夢だ。新たな世界を夢見ている。文字通りに。
 少年はいつしか立ち止まっていた。足元の朽ちた花びらを見つめた。だが何も考えないようにした。だからこそ、少年は気づかなかった。
「何か落としものを?」
 男の声に、ゆっくりと振り返った。少年は目を見開く。
 男は誰かに話しかけているようだが、この場には少年のほか誰もいない。少年は困惑した。
「ずいぶん小さなもののようだが」
 男は続ける。彼は話しかけている。少年に。間違いない。男は真っ直ぐ少年を見ながら、迷わず少年に近づいてくる。
 少年は再び困惑……いや、混乱した。男は穏やかな日暮れに不似合いな喪服に身を包んでいた。皺一つない几帳面な姿が、似ているのに、似ていない。ここにあるとは思えない。今までこんな路上では見たことがないのだから仕方がない。終の道連れは失われ、帽子もなければ武器もない、違和感しかない。だが少年は、目の前の男が何者なのか、間違いなくわかった。壮年の疲れを帯びつつも、冷淡な鋭さを保った目つき──忘れようもない。しかしそれは、少し違った色を帯びている。自分へ投げかけられた親切の言葉が、その由来だとわかる。‬‬‬‬‬‬‬‬
……落としものではなくて」
 少年は咄嗟に答えた。
「探しものを……
「それはどんな?」
 会話が成り立っている。やはり男は少年を知覚している。少年は観念した。原理はわからないが、そうなってしまっていた。
 少年は返答に悩んだ。覚えているか、なんて聞いてみようか。ぜんぶ台無しにしてみようか。覚えていてほしいと望めば、本当にそうなってしまうだろう。再びを願ってしまえば、きっとこの世界は容易に崩れる。
……進路とか?」
 少年の選んだものに、男はくすりと笑った。
「なかなか難しい探しものだ。私の出る幕はないか」
 少年はわからなかった。ここを今すぐ去るべきだと思った。もう少し、とも思った。男は少年の懊悩など露とも知らず、「いつか答えは出るだろうよ」などと言い、少年の側を通り過ぎようとする。少年は焦った。いけないことだと思っていても、少年はどうしても一つだけ、誰かと話したいことがあった。願うならこの男に。男の願いを継がなかった、この世界で。
 少年は男を引き留めた。「あなたは、選んで、後悔しませんか」と、思いついたままに言葉を繋げた。男は振り返ると、少年の言葉を待った。
「僕は、後悔しそうなんだ。
 悔いのないようにって、僕の……恩人は願ってくれた。そして僕は選んだ。
 でも……わからない。自信がないんじゃない。嫌気が差したわけでもない。でもいつか、思ってしまう気がする。やっぱりやめておけばよかったんじゃないかって」
 少年の張り詰めた表情は痛ましかった。誰にも見せるはずのないものだった。
 男は戻って、少年の前に立った。
 男には少年の気持ちが不思議とよくわかった。少年の言葉が、かつての男自身の言葉に似ていたからだった。男は、少年に答えてやらねばならないと強く思った。
 男はゆっくりと言った。
「悔いのない選択などないだろう。むしろそれは常に付きまとう。あの日、あのとき、もし私が……と、後悔は日毎に私を責め立てる」
 男の悲しみを滲ませた曖昧な表現は、却って具体的だった。男の纏う喪服に少年は答えを得た。少年の願った世界は、悲しみ一つない世界だなんて生ぬるいものではなかった。人間さえいれば悲劇は起きる。男にも、やはりかつてと同じ何かが起きたに違いなかった。
 男はそんな少年の様子を見て、少し慌てて、
「今日は毎年の墓参りの帰りでね。着る必要はないが、つい着てしまう」
 と、自身の服装の説明をした。葬式の帰りか何かと誤解しては気の毒だ。聞いた少年は少しほっとしたような顔をしてから、それでも目を伏せた。
「大事な人たちなんですね」
 と少年は言った。男は驚いた。誰の、なんて説明はしていないのに。少年は明確に答えを知っているようだった。
 だから男は、話してしまおうか、と思った。話すべきだろうと直感した。
「両親は、人を助けるのが好きだった。
 人に手を差し伸べ、人を助けて、そして最後は、人によって死んだ。惨めな最期だった。
 ……だが父とは話せる時間が少しだけあった。
 父は、お前を一人にすることだけが心残りだ、と言った。私たちに、それ以外はない、と言ってしまった。
 そこで私は思った。
 後悔すべきか否かは、畢竟自分自身が決めること。
 側から見ればどれだけ哀れな末路でも、悔いはないと言われてしまえば、俺たちに言えることはない」
 男は懐かしい気持ちになった。墓前よりも明らかに、この場に再び聞こえてくるように思えた。もはや声すら忘れてしまった父の言葉を、脳が作り出したまやかしの声が囁いていた。その声には自信があった。己を信じていた。
……だから、胸を張ればいい。何がどうなっても、己の生き様に悔いはない、と言ってしまえ。
 そして、もし何か一つでも、今までの人生にそう言える確信があるのならば……その人生は、よほど幸福だろうな」
 少年は男を見上げた。男の目を見た。それは知らない色をしていて、男の最後の姿に重なりそうで重ならなかった。目の前の男は限りなく似ている別人だ。それでも、少年は男を見つめた。彼は自身の選択の結果だ。少年はそれを受け止めた。
「あなたの言うとおりにしようかな」
 少年は答えると、自分の顔が綻ぶのがわかった。男は「そうしてくれ」と言うと、少年に別れを告げた。少年は男に礼を言った。初めてのことだ。少し不思議な気持ちになった。
 少年は男とは反対方向に歩き出した。行く場所はなかった。この世界の全てだった。
 後ろを振り返った。まだ男の背が見えた。
 少年は前に向き直ってから、右手を強く握った。そして、またなと言った。ようやく言えた言葉だった。それから少年に気づく者はいなかった。



コメントなど👏:Wavebox