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井見
2025-11-11 18:22:47
43941文字
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真Ⅴ・真ⅤⅤ二次
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【再録】わが身もともに
真V主人公の一番条件があるルートへの道中掌編5本詰め(既出2本改稿、新規3本)、約四万字の再録です。いきなり厩橋から行きます。八雲と物理喧嘩したり口喧嘩したり、アオガミとしんみりしたりします。お手にとっていただきありがとうございました。無印四周年おめでと〜🎉
*無印発売後、VV発表前発行のものです。
あとがき
https://privatter.me/page/66dc6af209395
1
2
3
4
5
6
影に見えつつ
どこまでも歪な青空があった。
東京がどんな時間にあっても、ダアトには同じ空が張られていた。視界の奥に立ちこめる霧のような白みは、東京ではあまり見られないものだ。空に浮かぶ謎の立方体たちは、もっと有り得ないものだ。だがもう、いい加減驚くのにも飽きた。そういう新しい異世界に来たんだ。そんな風に思えた。
至高天へ続くカギを集めるため、そのカギを持つ神々の領地を探った。好きなエリアを自分たちの好みに改造しているのが神らしくて笑えた。ここが上野なんだと言われても、へえそうなんだ、くらいにしか思わない。拠点となる龍穴を開放しつつ、邪魔なマガツカを破壊して、攻め込むための準備を整えた。途中でユヅルやイチロウ、ジョカなんかにも会ったが、すぐにいなくなってしまった。カギ集めには参加しないのだろう。自分のペースで進められるなら簡単でいい。
そしてカギを集めた後の最後の目的地は、遠くからでもよく見える、輝く螺旋の発生地点だという。確かあそこにはとても高い電波塔があった気がするのに、すでに僕の記憶からも薄れている。名前すら思い出すことができない。街の人も似たようなことを言っていた。あまりにも目立つ高塔すらこうして違和感なく消えてしまうのだから、きっと知らないうちにたくさんのことが〝存在しなかった〟ことになっているのだろう。東京はぼろぼろの雑巾みたいに、穴を無理やり繕いながら、どうにか繋がっている。
ともかくアオガミがイメージしてくれる地図をみると、あの螺旋まで行くには大橋を渡るしかないらしい。他にもやるべきことはたくさんあるが、地理の把握と道の確保のために、カギを集める前に近づいてみることにした。
まずは適当なビルなんかに登って、目的地の方を注意する。件の大橋はこのダアトにあっても珍しく形を残しているようで、ゆるやかなアーチが三つ続いているのが見えた。だが十八年間野晒しであるため、表面にはところどころ変色し、痛々しい錆跡がついている。まあここでは珍しいことではない。橋として渡れるだけ僥倖と言えるだろう。
ビルを飛び降りて走る。悪魔を避けながら移動すれば、この身体はかなりの速度を出す。自転車を本気で漕いでいるときくらいには速いだろうか。しかし自転車と違ってナホビノの──ある意味では、アオガミの──身体は軽く、疲れることはない。
その橋を目指していると、見覚えのある何かが突っ立っているのが見えてきた。
あの制帽、出立ち、そして龍穴付近
……
人間。八雲だ。少し離れたところにはジョカもいる。一体何をしているんだ?
すでに僕は奴の視界にすっかり入っているはずなのに、姿勢を崩すことなく、近づいてくる僕に反応もしない。気づいていないなんてことはないだろう。
「ね、ねえ、あれってやっぱりさっきのヤツらだよね? ね?
またちょっかいかけるの? 本当に大丈夫? さっきは何にもなかったけどさ
……
」
隣を飛んでいたアマノザコが、僕の正面に突っ込んだ。進路を妨害されて、僕は渋々急停止する。
「怖いか。少し離れていろ」
議事堂で会って以来、アマノザコはすっかり二人を怖れている。
「こ、怖くなんてない、けど?
で、でも
……
一応、離れておいてあげる! 巻き添えになりたくないし、ね?」
やはり怖いのだろう。アマノザコはみるみる距離を開けるが、途中で振り返り、「ちゃんと戻ってきてよね、ね!」と念押ししてきた。軽く頷いて答えると、もう姿は見えなくなった。
『だが少年、準備をしておかなくていいのか?』
「アオガミも心配か?」
旅の連れ合いは多い。アオガミの声が頭の中に響いた。
『いや。同じく王座を目指すだろう彼らが、カギの一つも持たぬ我々に戦闘を仕掛けるメリットは無い。出る杭は
……
というならば、先程の遭遇や魔王城で既に戦闘が発生しているはずだ』
「同じ考えだ。
……
だから、問題無い」
『そうか。ならば静かにしていよう。
必要があれば呼んでくれ』
アオガミの声は途絶えた。承諾と捉えて、再び身体の速度を上げた。
風を切りながら、男の目の前で急停止する。青い長髪が遅れて体を覆う。少し行き過ぎたので数歩戻りながら、僕は奴を見上げる。
悪魔嫌いの人間は、相変わらず武器を構える様子はなく、代わりに話を始めた。
*
男は「そうだろう」と問う。悪魔は人の弱さにつけ込み、そして感情を唆す。でも、そもそもそうなってしまったのは、人間たちのせいなんじゃないか。だからこそ人間はより強くならなければならない
……
男の語る理想は、わかるようで、わからない話だった。男は人間を信じているのに、同じだけ人間に絶望しているようにも見えた。
切り捨てなければならないとする、人を不幸にする人間たち、八雲が嫌う唾棄すべき人間たちは、確かにこの世にたくさんいるだろう。画面越しの悲惨なニュースや、歴史上の犯罪、そして数日前の学校。どこにも心当たりがあった。
「なら俺も、唾棄すべき人間だろうな」
僕は呟いていた。
マガツヒの真っ赤な光が瞼裏に見えた。悪魔のせいだ、という話と、人間のせいだ、という話はきっとどちらも正解だった。悪魔が全てを血の色で塗り潰さなくても、元から人を妬み嘲笑う悪行があり、目を逸らし続ける悪徳があった。そして僕も、その一人だった。信じたいものだけを信じて、全てを他人事のように暮らしてきた。
「むしろ、唾棄すべきでない人間なんているのか?」
真に高潔な人間は、この世にどれだけいるのだろう。僕には不思議に思えた。善い人だって悪い人だって、時に悪い人に、善い人になりうる。
男は答える代わりに、じっと僕を睨み返した。この世に美しい人間がいることを男は間違いなく信じている。それは、きっと具体的な誰かを知っているからだ。
ジョカや警官に教えてもらった話を思い出して、僕は納得した。
どこかで見たような話だった。悪魔に唆された人間に殺される善い人。誰かのために命を捨ててしまう人。確かに、今や女神と化したあの子は、どこまでも善い人だったのかもしれなかった。
……
あまり彼女のことを知らないけれど。
僕はその場に座り込んだ。立っているのが急に億劫になった。砂まみれの地面はざりざりとしていて、座ると少し痛かった。立っているときは何も感じないのに。普段はこの身体の不思議な靴底が守ってくれていることがわかった。
体が重くて、僕は膝に腕を置いて、はあと息を漏らした。蹴られるかと思ったが、特に何も起きず、僕は小休止した。
僕を創世へ導く女神は、学校の屋上で僕に微笑んだ。
見たことのある笑顔で、僕に手を伸ばしていた。
ナホビノの僕に似た格好の、それでも根本的に違う、すっかりそのまま神様になった存在が、あの子の声で喋っていた。
今も、喚べばすぐに僕の隣に現れる。
聖なる力を振り絞り、僕を癒そうとするだろう。あのときみたいに。
「
……
同級生の友達が、悪魔に侵されていたんだ」
僕は呟いていた。
「彼女は、悪魔に操られていた。でもたまに自分を取り戻して、自分の身体がやったことを、見てしまうんだ」
青い髪がうねうねと滑って、地面から離れようと苦心する。その一束を掬って指に巻きつけ、手を離す。髪はすぐに元の流れに戻っていく。
「同級生は、その友達に、一緒に帰ろうって言ったんだ。
それで、同級生は死んだ」
僕はいまだに思う。
「僕はあの子を、真っ先に殺すべきだったか?」
あのときラフムに近寄らずに、問答無用でサホリごと首を落としていれば、きっとタオは僕たちのために命を使わなかった。女神にはならなかった。
ラフムを倒したと誤解して、タオを近寄らせたりしなければ、サホリにあの光景を見せることもなかった。ラフムに取り込まれるより先にサホリを殺していれば、サホリの最後の記憶は僕に理不尽に殺されたということだけで済んで、悪魔のせいで人を手にかけてしまったことに苦しませることもなかった。
結果だけ考えてみれば、学校で救出を夢見ずに、殺すのが最善だったのかもしれない。例えば天使たちは、きっとそう断言するだろう。
八雲は、ぽつりと答えた。
「その者は、嗤っていたか?」
無言。
「であれば、殺してやるのが慈悲だ」
真っ先に? と聞き返そうとして、やめた。
代わりに思わず、お前も、と口をついていた。
「悪魔のせいで、亡くしたと思うか?
人間のせいで、亡くしたと思うか?」
言葉が流れた。
なんでもないという言葉は間に合わなかったから、男の反応を待った。
八雲はしばらく沈黙してから、「誰から聞いた」と不機嫌そうな低い声で言った。己の身の上を指摘されたのだと推測したのだろう。個人的な内容を指摘したら激昂するだろうかとも思っていたが、案外すぐには殺し合いにはならなそうだったので、僕はちょっと驚く。
「
……
八雲巡査部長の後輩だったっていう人が、三田あたりにいたんだよ。優しい人だったって
……
いろいろ教えてくれた」
何の話だとシラを切ることもできただろうが、僕は半分だけ誤魔化す。東京で八雲という警官を探してわかったのは、おそらく隣の男の父についてだ。ジョカの話が無くても、少しは知っていたことだった。
「そもそもお前が先に言ったんだろ。貴様も亡くしたかって
……
」
なあ、と座ったまま隣に立つ男を見上げる。八雲は姿勢を崩さず、しかし珍しく視線をこちらに向けていた。帽子の庇の影から、自分と同じ金色の瞳がきらめいた。ばちりと目が合い、すぐに逸らされてしまった。ジョカ以外の漏洩者に少し驚いているのかもしれない。父の関係者の登場に、怒る気も無くしたのか、目を伏せ、深く溜息を吐いた。やれやれみたいな感じだ。
しかし再び目を開くと、八雲はいつもの仏頂面に戻っていた。彼はまるで宣言するように、
「愚かな父と、浅はかな母だった」
とばかり言った。
断言は力強かった。俺ならばそうはしなかったのに、と言っているようにも聞こえた。過去形が素直だった。
僕が「でも」と言う前に、彼は先に「だが」と言った。
「悪魔は人の弱さにつけ込む。人に囁き、人に取り入り、人を操る。しかし悪魔よりも悪魔のような人間が、今も同じことをしている。同じ人を人と思わず、嗤いながら喰らうのだ。
そして己の現実を信じられず、根拠のない妄想に縋る者たちが、今も気づかぬままに餌食となっている」
一度言葉を切った。頷きは要らなかった。僕は、言葉の続きを待った。
「例え悪魔がこの世にいなくとも、遅かれ早かれ似たような結果が残っただろう。
……
この世に弱き人間が
……
人の弱さが、ある限りは」
八雲はずっと前を見据えている。どこか遠くを見ている。すでに元の色を失った目が、時折瞬きながら、何かを探していた。
僕は黙っていた。彼の感情に反論はなかった。
悪魔さえいなければ、起きなかった悲劇はたくさんある。学園が滅茶苦茶になったのも悪魔や天使のせいだし、ダアトに飛ばされた後、アオガミが来てくれていなければ僕は悪魔に襲われて死んでいた。駅を通行止めにしたブルーシートの向こう側だって、きっと悪魔がいなければ、何も起きなかったはずだ。
でも悪魔がいなくたって、きっと今日もどこかで誰かの命は奪われていて、言葉に表せない残虐があり、直視できない非情がある。ニュースが悲惨な情報を映さない日はないし、新聞が広告だけで埋め尽くされることもない。人間の敵は今日も人間だ。
仮に悪魔が解き放たれたら、人間の敵が人間と悪魔になるだけだ。
「たとえ戦わなければ生きられない世界になったとしても、きっと人間の多くは惰弱で、傲慢で、怠惰だ。人が悪魔と違うのは、数がいっぱいあって、命が儚いことくらいだ。
世界の形がどれだけ急に変わっても、人間はきっと全然変わらない
……
歴史だって、そう教えてくれる」
投げ出した膝の上で手を組みながら、光る水の指を見る。その気になれば一瞬で刃を形づくる指。すぐに形を失う刀。
人ではない身体で選べるのは、人では選べない道だ。
「本当に理想の世界を思うなら、創世という手段がある。
お前は、新しい世界を創るのか?」
八雲は僕を再び一瞥すると、フン、と鼻を鳴らした。
「〝神〟がもたらす新たな世界なぞの、何処に生きる意味がある」
金色の眼がぎらぎらと輝き、僕を射抜いた。人に無いはずの、魔に魅入られた瞳。
「どんな世界とぬかしたところで、結局は同じこと。新たな世界が創られ、そして滅ぶ。神魔共の移り気に、人間たちはただ巻き込まれ続ける。無限に続く繰り返しだ。
この〝東京〟も同じ末路だ。都市が、千万の人間が瞬く間に死んだ。そして仮初の復活を為されたと思えば、知らぬ間に再び消え失せていく。
……
貴様もその目で見ただろう、消えゆく街の姿を」
寮の屋上から見た景色を僕は思い出した。壊れたゲームみたいに、外の世界が揺らめいていた。当たり前だと思っていた全ては、今もあっけなく消えていく。
八雲はこくりと頷いた。
「東京を生きる貴様ならわかるだろう、この暴虐が。
貴様はいつまでこれを甘受し続ける?」
僕たちは暫しの間見つめ合った。
八雲は怒っている。自身に起きた理不尽に。大切な人を襲った理不尽に。この世界を蝕む理不尽に。だからこそ、全てを変えようとしている
……
創世を待ち望むこのシステムから、全てを。
僕は重い腰を上げた。僕の動きを八雲の視線が追った。流れる髪を払ってから、八雲の正面に立った。
「そこまでやりたいことがはっきりしていて、お前たちはどうしてこんなところにいる?
ここでどれだけ突っ立っていても至高天には辿り着けない」
僕と違って、行くべき道がわかっているなら、あとは走り切るだけだ。それなのにここに立ちつくしていることに、どうやら僕は苛ついている。
「寧ろ貴様を待っているのだ。ここで油を売らず早く行け、そして俺の仕事を減らせ。貴様はカギとやらを揃えて至高天への道を開けばよい」
「その先で俺が待っているかもしれないのに?」
王座のある至高天へ進むには神々が守る三つのカギが必要だ。それなのに誰も動かない。一人で好きにやれるのは楽でいい。しかし王座を目指すはずの全員が、放っておけば僕がいずれカギを集めるだろうと踏んでいるのは、面白くなかった。
「俺がカギを集めるだけ集めて、ここからいなくなったっていいんだ」
「戯れ事を。その時は貴様の首ごと貰い受けよう」
「
……
できるのか?」
戦えば勝てると思われるのは、さらに面白くなかった。
「前に戦ったときよりも俺は数段強くなった。お前も見ただろう、今の俺は魔王も殺せる。
だが今のお前に、俺が斬れるか?」
気づけば煽っていた。八つ当たりだ。まずいのは、目の前の男は煽りに乗る性分だろうということだ。
「
……
なら、試してやろう。今ここで」
やはりか。八雲は休めの姿勢を解いた。そのまま迷わず右手が柄に伸びる。
煽った手前、僕も右手に意識を向けて、長いブレードを作り出す。血の一滴も付くはずのない水の刀を一振りすると、八雲が引き抜いた刀もぎらぎらと輝いた。
そしてその場の一切が止まった。
次の一挙が合図になる。僕は男を真正面から見つめた。
八雲は、人間だ。どれだけ魔力を帯びていても、どれだけ剣筋が乱れなくても、こいつは悪魔ではない。一度戦ってよくわかった。右手の流れが掠めた白手袋の破れた隙間から、赤い血が垂れるのが見えた。学校に落ちていた色だ。見ないようにしていた色だ。
あんな煽りをした自分こそ、八雲を斬れるか?
戦えば、確かに間違いなく勝てる。そう感じる。だが今、呪いの力を覚えてはいなかった。あの時は手のひらから滴る呪いの泥が八雲の弱点だったから、それで済んだ。直接触れる必要はなかった。
今は違う。今の僕は、斬ることしかできない。
人間の生温かい感触に、僕は再び触れるのか。
僕の逡巡に、八雲は先手を取った。
男は一歩踏み出し刀を振るう。僕は右手の刀身で受け止める。衝撃に震えて腕が痺れた。人間どころか、近辺の悪魔よりも強い力で振り下ろされた刃先が、今にも僕の肩口に迫っている。悪魔を語る時と同じ、憎々しげな視線が真っ先に僕に刺さる。
だが八雲は押し切れないと判断したのか、一つ舌打ちをすると、素早く下がりマントで全身を隠した。僕はどうしても高揚する気持ちを抑えながら、次の手を探った。
刀の先がマントの端から見え隠れする。刀に魔力を帯びさせる技が来るか。奴が使う魔法は恐らく雷撃だ。
しかしこの身体には雷は効かない、そういう神の仕組みだ。
ならこのままわざと喰らって、隙を作るか──
……
いや。
僕は後ろに飛び退いていた。本能的な判断だ。
振り抜かれた刀は避ける。しかし刀の軌跡から鋭い稲妻がこちらめがけて駆け抜けた。咄嗟に左手で身体を庇うが、幾らかは僕の頬を焼く。一文字に爛れた皮膚は少し突っ張る感じがした。
勘は当たった。
電撃の効かないはずの僕の身体に、稲妻が傷をつけた。
悪魔たちの得意不得意、神々の伝承すら無視し、相手の肉体に直接届く不合理な技。
「避けるか。
少しは面白くなりそうだな」
八雲は平然を装うが、恐らく大技、連発はできないはずだ。
以前戦った時は、こんな技を見せなかった。手の内を隠していたのか、それとも俺と同様に、お前も強くなっているということか。
「もっと面白くしてやるよ」
思わず頭に血が上る。
頬の傷口からマガツヒがぱらぱらと漏れる。大した損傷ではないが、雷特有の痺れと焼きつく感覚は久しぶりだ。親指で擦り、水を軽く染み込ませる。
右腕に意識を集中させ、最近覚えた力を纏わせる。嵐のような魔力が右手の先に渦巻く。
──その瞬間だった。
「
……
ふふ、八雲よ。何をしておる? 妾も混ぜい」
うっとりとした甘い声が、僕の耳元に囁いた。
白く細い指が僕の肩を掴む。
赤く長い爪は僕の胸を這う。
甘い花の匂いが辺りに漂う。
音も無く隣に現れたのは、蛇の目の女、悪魔嫌いの八雲と行動を共にする悪魔。
「
……
ジョカ。何をしにきた」
八雲は苦々しく名を呟くと、いつもの仏頂面に戻った。大袈裟にため息をつくと、一歩下がって、脱力したように刀を下ろした。
「おヌシらの邪魔をするつもりはなかったのじゃが、あまりに楽しそうなのでな。
つい口を挟んでしまった」
許せよ、少年。
そう言いながら、ジョカは僕の頬を撫でる。強い牽制だ。何も僕だってここで消耗したいわけではないので、大人しく右手をただの手に戻した。八雲も、刀を鞘に納めた。
するとジョカはゆるりと空で足を組み、僕を艶やかに見つめた。
「おヌシは八雲に何を見ている?」
ジョカは妖しく微笑む。
「おヌシは先に言ったな。八雲に賛同はできぬと。
……
構わぬことよ。嘆かわしいことでもあるがな。相容れぬとあらば致し方ない。
だがな、少年よ。
おヌシはこうも言ったな。理解できると。
理解しながらも、賛同はしない。闇雲な拒絶よりもずっと健気よの。そしてそこまで答えを得ておるのなら、最早我らに言葉は無いはず」
ジョカはずいと身体をこちらに傾ける。
「しかしおヌシは八雲と語らう。何故じゃ、少年?
繰り返そう。おヌシは八雲に何を見ている。己の選ばぬ道の先か?」
ジョカは僕を眺めていた。うっすらと浮かべた笑みが無為に不気味だ。返答を間違えれば噛み付いてきそうに思えた。
「
……
わからない」
僕は嘘をつかなかった。つけなかった。
「わからないからだ」
わからないから話しているんだ。既に心に決まったものがあるなら、こんなことせずにさっさとカギ集めに走っている。
でも八雲だってそうじゃないのか、と思った。わかっているならうだうだ話す必要は無いのに、わざわざ語りかけてくるのは八雲だって同じだ。すでに自分で、こうあるべき、と思っているのにどうして問いかけてくるのか。きっと協力を望んでいるわけでもないくせに。
「新しい世界なんて言われてもわからない。わからないから考えている。
……
お前たちだって同じじゃないのか。本当にそれでいいのかって迷うから、僕に問いかけてくるんじゃないのか」
「
……
迷いなど、とうの昔に捨て去った。
俺は俺の理想を求める。そのために神も悪魔も斬り捨てるのみ。
故に、俺は此処にいる」
ジョカの後ろから八雲が答えた。ジョカは微笑んだまま八雲の隣にひらりと並ぶ。一方で八雲は、さらに言葉を重ねた。
「先の質問を返そう。
貴様こそ、何故此処にいる?
創世の女神が貴様に寄り添ったとて、貴様が為さねばならぬことなど一つもない。目指すべきものがわからぬのなら、今すぐ東京を離れ、何処ぞなりとも行けばいい。王座を巡る戦いが終わるのを、遠く離れた地で待てばよい」
「大人しくそうしてくれるのならば、妾たちも楽ではあるがのう。おヌシの目には、否と書かれておるわ」
東京を去る
……
考えたこともなかった。確かにそれもできるはずだった。電車だって車だって飛行機だって動いている。行こうと思えば、僕は地球のどこへでも行ける。
でもそれって逃げるってことだろう、と僕が僕に言う。
「
……
それが答えだ」
そう言い切って。八雲はマントを翻す。立ち去る最中、振り返り様に、もう一つ付け加えた。
「貴様は何を望む。この世界に。新たな世界に」
「考えよ、少年。おヌシなら、答えを見出せるであろう」
*
「あ〜おっかなかったね! ね!」
辛うじて残る街並みに戻ると、どこかに隠れていたアマノザコが飛び出てきた。彼女は大袈裟に息を吐きながら、僕の周りをくるくると飛んだ。
「あの人間、やっぱり何〜? 本当に人間?
あんなヤツと何話してたの?」
「内緒」
「え〜ずるいずるい! 教えてよ〜」
アマノザコはぐいぐいと僕の肩を引っ張る。仕方ないなと呟きながら、僕は答えてやった。
「
……
世界を好きに変えられるなら、どんな世界がいいか」
「セカイ? セカイなんて変えてどうするの?」
どうするの、と聞かれると、改めて困った。ひとまず王座に辿り着くことがみんなの目的だ。その席から世界を望みどおり変えた後、残った王は何をするんだろう。ふんぞり返って下界でも眺め続けるのだろうか。
「
……
さあ。変えたい人もいるんだよ」僕は誤魔化した。
「ふ〜ん。変なの。よっぽど欲張りなんだね」
アマノザコはすぐにどうでもよくなったようで、不満げな顔を突然明るく輝かせた。弾むように僕の肩に手を掛けて、彼女は顔を寄せた。
「アンタは? 考えてるんじゃないの? アンタも欲張りだもんね、ね!
アンタだったらどんなセカイにする? ちゃんとナイショにするから教えて、ね?」
僕は目を伏せた。
「
……
考えていない」
「なんにも?」
「なんにも。さっぱり」
「え〜、つまんない、ない!」
つまんなくてもこれが答えだ。じゃあアマノザコはどんな世界にする、と聞くと、彼女は小さな羽根を震わせて、僕の目の前に高さを合わせた。
「アタシだったらねー、んー
……
あれ?」
うーんうーんとしかめ面で唸っていたかと思えば、はたと表情を変えた。
「セカイが変わっちゃったら、このセカイってどうなっちゃうの? 無くなっちゃうの?」
この世界、このダアトは、滅んだ本来の東京だ。創世によって新しい東京が編み直されても、ダアトこそが東京として現実世界を侵食しても、この隔絶された魔界という環境は無くなるだろうか。
実際のところはそうなってみないとわからないが、僕はとりあえず頷いておいた。少なくとも、今の状況は確実に終わる。
「じゃあ、やだ。セカイなんていらない。
だって、こうしてアンタと一緒にいるのが
……
今までで一番楽しいもんね? ね!」
……
自分で言っておいて恥ずかしくなったのか、アマノザコは周囲を目まぐるしく回った。
アマノザコは何故か僕をかなり気に入っている。最初に会った頃からの縁というものだろうか。彼女にも何かの事情があるようだが、僕も積極的に尋ねたりはしない。お互いに旅を楽しむためだけの連れ合い、不思議と悪い気はしなかった。
「
……
アンタも、そう思ってる?」
アマノザコは僕の鼻を思い切りつねる。
「どうかな」
「
……
つまんない!」
悪魔は人を不幸にする。しかし時には、人を幸せにする。どちらも正しいと思う。悪魔が本当の優しさで手を差し伸べることもある。
でも人は弱いから、悪魔の気紛れを突っぱねることができない。強者の機嫌を損ねたらきっとまずいことになる。悪魔と人は対等じゃない、そこが一番の問題だと思った。
もしトンネルの崩落の後、アオガミより先にアマノザコに出会っていたら、彼女はただの人間の僕を襲っていただろうか。彼女は僕の強さを好んでいる。合一を解いた無力な人間には、彼女の態度は豹変するだろうか
……
わからない。相手を試すつもりもない。
遠くまで飛んで行ったアマノザコが、僕を大声で呼んだ。
「ねー、ここになんかあるよ、よ!」
アマノザコの指差す先には、不自然な砂山があった。ちょうど悪魔が一体、体を丸めて入るくらいの大きさの山だ。確かにどう見ても何かがある。
『少年
……
私は、勧めない』
黙って話を聞いてくれていたアオガミも、思わず口を出した。顔が見えたらさぞしかめっ面をしていることだろう。だが、アマノザコは口で言っても満足しない。
仕方がないから駆け寄って、砂山の中を手の刃先で突いた。
……
砂山は、やはり大きく動き出した。悪魔が叫び声を上げながら姿を現す。それだけならいいのだが、叫び声はみるみる増援を呼ぶ。
アマノザコは、ひきつった笑みを浮かべた。
「あ
……
あはは。こういうことも、あるよね? ね?」
こうなると思った。
ため息をつきながら、僕はアマノザコを背に、水の刀を構える。
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