荻谷
2025-09-17 04:13:02
21453文字
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薄暗い部屋から

モブ主人公がひょんなことから大吾さんと会うことになり、好きになっちゃうけど、峯と大吾さんの愛を見せつけられるNTRのお話です☝️峯はお笑いが好きそうという個人の偏見を練りこみまくっています。



♢

 汚れた全身鏡の中に、丈の合っていないズボンとシャツを纏った小汚い男の姿が写る。
 先ほどタグを切ったばかりの新品の服はマネキンが着ていたものをそのまま購入したのに、どこか浮いていた。鮮やかな色合いのシャツは薄暗い部屋には不釣り合いで、服に着られているという表現が正しい。伸びっぱなしの髪を気持ち程度に撫でつけ、メガネのレンズを服の裾で拭いてみる。鏡に写るヒョロ長い男の容姿が少しだけましになったように思えた。最後に部屋をぐるりと見渡す。一応部屋を片付けては見たものの、清潔感はない。気合いを入れるべく、頬を叩いた。
 「よし」
 小さく意気込み、リュックを背に家を出る。
 今日の俺は気合いが入っていた。理由は一つ。そう、今日は待ちに待った「きりん」さんと会う日。もとい、脱童貞の記念すべき一日であるからである。
 
 ♢
 
 あの日、俺の覚悟とは裏腹に物事はとんとん拍子に進んでいった。
「ありがとうございます。ぜひ」
 迷うことなく快諾され、体温が上がるのを感じた。即座に返信したい気持ちを抑え、わざと間を開けて返信する。
「いつ会えますか?僕は来週の月曜日以外なら」
 本当は、用事のある日なんてない。それを正直に言うのは、なんだか嫌だった。
「でしたら、再来週の火曜日の二一時からはどうでしょうか。その日以外ですと、まだ予定がわからず。不規則な仕事をしているもので、すみません。」
 スムーズに進むやりとりの中で、「きりん」さんの姿が明確になっていく。
 一般企業に勤める彼女は同期の中でも仕事ができる頼れる存在で、パンツスーツが良く似合う細身の高身長美人である。
 すらりと伸びた手足に、よく手入れのされた長い黒髪を靡かせ、都内のオフィス街を歩く姿は優雅で美しい。趣味のお笑いを見る時だけは、涼やかな瞳が弧を描き、慎ましやかに開いた口から漏れる笑い声はあどけない可愛さを残している。すんなりとした首筋からなだらかに盛り上がる胸は両手に収まらないほど大きい。肌の白さに合わせ、淡い色をした乳首がちんまりと収まっていた。恥じらう彼女を落ち着けるように、俺は優しく髪を撫で、その唇に口付ける。その柔らかな唇から漏れる熱い吐息に俺と彼女の境目は曖昧になっていく──
 悶々と膨らむ妄想とともに、俺の口角も歪んでいった。画面上でリズム良く続くやりとりすら愛おしく思えてくる。
「いいですよ!場所は、新橋とかどうですか。美味しい居酒屋知ってるんです」
「わかりました。楽しみにしてます。おやすみなさい」
 短い挨拶を最後に、メッセージが途切れる。
 あっさりと決まったオフ会の日取りに、俺はしばらく呆然と画面を見つめた。それから、少し遅れて喜びが一度に湧き上がる。
「よっしゃー!」
 胸の前で腕を引き、歓喜の声をあげる。間髪入れずに、ドン!と壁を叩かれ、慌てて口をつぐんだ。普段なら縮み上がる状況も全く気にならないほど、今の俺は浮かれている。
 都市伝説だと思っていたオフ会が──オフパコが!現実にあるなんて!
 突如動き始めた人生に、俺の心臓は高鳴っていた。
 
 ♢
 
 それから二週間後。
 あっという間にその日は訪れた。長くも短くも感じ、待ち遠しかったような来て欲しくなかったような気がする。
 足取りがいつになく軽くて、自然と鼻歌が漏れる。春の訪れを告げる桃色の花弁が、爽やかな風に吹かれ頭上で揺れる。雲一つない青空はまるで俺の心のようだ。
 普段ならば憂鬱で仕方ない満員電車も今日は不思議と苦ではない。それどころか、顔面を土色に染めた全員に労いの言葉すらかけてやりたくなった。上司の嫌味ったらしい小言も退屈な仕事も今の俺には全てが無に等しい。きらきらと眩しく色付く世界が愛おしくてたまらない。
 要は、俺は今、今世紀最大に浮かれている。
 普段は永遠にも感じられる仕事も、今の俺には瞬きも同然に過ぎゆく。
 下心に塗れた妄想が膨らんでは消え、形を変えてまた膨らんだ。代わり映えのない書類仕事をこなす最中、傍らで携帯が震える。通知を見ると、「きりん」さんからだった。
「今日の待ち合わせなんですけど、一時間早めてもらえませんか」
 彼女らしい丁寧な文章だが、いつもよりも簡潔に思えた。もちろん、と返事をしてから不安が過ぎる。
 もし、彼女がこのまま待ち合わせ場所に来なかったらどうしよう。美人局や、冷やかしの可能性だって無くはない。突然突き付けられた現実に心が沈む。
 途端色を失った世界は全てがスローモーションに見えた。
 
 時の止まった俺を置いて、変わらず世界は進む。いつも通りの時間に仕事を終え、俺はふらふらと待ち合わせ場所へと向かっていた。
 約束の二〇時までにはまだ一〇分以上ある。こんなに早く着いて、気味悪がられたりしないだろうか。
 そもそも、彼女は本当に今日この場に来るのだろうか。
 時間が近づくにつれ、不安が募る。胸中に渦巻く不安をかき消す様に、ネットの世界にのめり込んだ。
 初対面の女性との会話術について齧りつくように読み込む俺に、ふと誰かが近づいてきた。誰かを探しているであろう様子に心臓が痛いほどになり始める。
 やがて、誰かは俺の前で足を止めた。とん、と指先が肩に触れる。
「あんたが開幕二軍さん?」
 低く落ちついた声が、俺のハンドルネームを呼ぶ。その声に弾かれたように顔をあげた。
 長い前髪の奥から覗く垂れた目と視線が絡む。まぶたの奥では黒曜石のような瞳がきらきらと輝いていた。黒いシャツを纏った生白い肌は繁華街のネオンを反射し、輪郭を浮き立たせる。小さな顔にバランスよく収まったパーツはどれも品が良く整い、形のいい鼻の下で不機嫌そうに引き結ばれた口の周囲を綺麗に整えられた髭が囲っていた。袖から覗く二の腕は引き締まりつつも肉感的で、シャツの上からも形がわかるほど胸筋も鍛えられている。
 まじまじとその胸を見つめてから、もう一度目の前の人の顔を見た。
「お、男!?」
 思わず飛び出た声に、目の前の男は不思議そうに首を傾げた。
「そうだけど。女に見える?」
 ネット上での丁寧なやりとりとは真逆に、ぶっきらぼうな口調で彼は気だるげに答えた。
「い、いや、そんなことは……
 俺よりも少し背の低い彼はこちらを値踏みするように、じっと観察を始めた。下から上へゆっくりと視線を動かす。
 揺れる黒髪から漂ういい匂いの正体は、香水なのか、シャンプーなのか。分からないけれど、とにかく良い匂いがする。
 自分でも鼻が膨らむのが分かるほど必死に息を吸っていると、いつの間にか男の目が俺を捕らえていた。
 「あ、その、えっと……
 冷ややかな視線を前に意味のない母音を紡ぐ。そんな俺に、男は優しく微笑みかけた。
「早く行こうぜ、腹減った」
 踵を返し、歩き出した彼の隣に慌てて追いつく。
 疲れた顔をしたサラリーマンの合間を縫って歩く彼は、まっすぐ背筋を伸ばし、ポケットに手を入れ退屈そうに街並みを眺めていた。男らしく太いが、通った鼻筋の先にある鼻頭だけが見える。
 ネットではあんなに雄弁なのに、実際に会うと何を話すべきか分からない。無い頭を必死に働かせていると、男がおもむろに足を止めた。視線だけを俺に寄越し、低く平坦な声をかける。
「おすすめの店、あるんだろ?案内してくれ」
 無感情だが穏やかな声音に、やり取りを覚えているマメさ。想像とは違ったけれど、彼は本当に「きりん」さんだ。そう確信した途端、俺の緊張は瞬く間に解けていった。
「こっちです!ついてきてください!」
 さっきまでのぎこちなさが嘘のように、俺は口火を切る。黙って話を聞いてくれる彼の横顔は夜闇を照らす街の明かりよりも眩しく見えた。