雨宮水月
2025-08-03 09:15:55
11523文字
Public 企画
 

第3回 誰の文章だゲーム 三題噺編

参加者7名の中で、どの作品を誰が書いたのか当ててみよう!



【作品E】

 私の一日は、儀式を見守ることから始まる。
 無機質な蛍光灯の白光の下、アルコールの染み込んだ布でもって、白い手袋が机の上の全てを清めていく。まずパソコンのディスプレイ、次に天板の全面、それからキーボード、マウス、ペン立てと文具、ガムの容器、書類を挟んだファイルを、表も裏も隙間の隅々までも徹底的に拭きあげる。もちろん椅子の背と座面と肘置きもだ。この順序も作法も決まって変わることはない。物を所定の位置に戻し、最後に自分の手袋を丁寧に清める。それから座ってほうと息をつき、私の方を見て目を細め、柔らかく微笑むのだ。
「おはようございます」
 このひと言と私の返事をもって、朝の儀式は締めくくられる。始業十分前に自席につく私は、毎朝、隣の席で行われるこの奇妙でどこか神聖な消毒作業を息を飲んで見届けている。
 先輩は自他共に認める潔癖症である。常に白い手袋を身につけて、除菌グッズを持ち歩き、仕事も消毒に始まり消毒に終わる。その作業にかける時間の長さに最初はぎょっとした。お手洗いに行ったらなかなか戻ってこないこともあり、その時間で仕事を進めればいいのに、給料泥棒め、と新人特有の刺々した反感を抱いたこともあった。
 しかし、その感情は二ヶ月もすればすっかりたち消えていた。というのも、とかく仕事の手が早く細やかなのだ。手袋越しに器用に打ち込まれた書類は不備を指摘されたところを見たことがない。チームメイトの相談には自分の手を止めてでも乗り、部署全体の歯車の回りを滑らかにする。挙句の果てには、新入りで何かとがさつな私の仕事の面倒まで見てくれる。お陰で私の反感の席には今や憧れがどっかりと腰を据えていた。この人の隣にいられるのが心地よかった。手袋の下の素手は見たことがなかった。
 ある日、先輩が私に飴をくださった。昔ながらの棒付きの薄い楕円形の飴である。曰く、開けるのが苦手だから貰ってくれないか、ということだ。なるほど確かに、この飴は覆っている袋を手を汚さず破るのにコツがいる。この人もいただき物を横流しにすることがあるのか、とぼんやり思いながら、私はありがたく頂戴した。案の定ビニールが変に貼り付いて、剥がすのにひと苦労した。先輩の代わりに私の指先はベタベタになったが、お構い無しに私は薄紅色のそれを咥えた。人工的な苺の味がした。
 思えば学生の頃は、終わりかけの飴を割らずに舐め切るゲームを心の中で課して集中を維持していた。別に割ったところで何というわけではないのだが、割ると破片の先が口の中でちくちくするし、他にも何となく悪いことが起こるような予感をさせていた。自分が始めて自分に返ってくるだけの根拠のない呪(まじな)いである。折角だからと青春の日々に立ち返り、久方振りにゲームに興じることにしたのだった。 ゲームのお陰もあってか、その日の仕事はいつもより集中できた。先輩ほどではないのだろうが、素早く、質の良いものが出来上がったのではなかろうか。早速チェックしていただこうとふと隣を見ると、そこに先輩はいなかった。室内をぐるりと見渡しても姿が見えない。
 何だか拍子抜けしてしまって、そこで自分の気持ちが逸っていたことに気が付いた。仕方がない、と私はひとつ伸びをして、時間潰しがてらお手洗いに向かった。
 扉の前まで来て、私は口の中の違和感に気付いた。まだゲームの途中であったことを忘れていた。もう無くなりかけの飴のために今更デスクに戻るのも気が引ける。かと言って負けるのも嫌だし、何より私自身食べ物を口に入れながらでも気にしない質であったため、白い棒を咥えたまま突入した。
「あ」
 先に声を上げたのはどちらだったろうか。果たしてそこにいたのは先輩その人であった。潔癖症らしく時間をかけて手を洗っていたのだろう、素肌が流水に打たれていた。
 白く、薄い、陶器のような美しい手だった。そして細長い指のひとつには、銀の輪が収まっていた。
 紅色の薄氷が、音を立てて割れた。