丹羽燐
2025-07-02 23:53:05
13874文字
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赤い糸が切れないように

2025-06-15発行の「別れ支度をあなたの隣で」の続きのような短編
━━もし,ふるあずの二人がハッピーエンドになったら?

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 午後から休みのせいか、昼下がりにもかかわらず、珍しくポアロには人気が無い。ホールの片付けも終わり、残すはレジ締めとキッチンだけ。さして残っていない洗い物に、一息ついてから取り掛かることにした。
 持て余している証拠をどうするのか、どうしたいのか。コーヒーを片手に考えることにした。悩むときは美味しいものを片手に。
 ケトルを火にかけ、コトコトと揺らす。それから一杯分をドリッパーにセット。梓は少し悩んでから、安室のマグを借りることにした。持ち主のいないマグは変わらずコーヒーの跡が染みついている。
 最後の一つになった新一くんの助言が脳内をぐるぐると回る。
『一番確かな証拠は、結局、梓さんの覚悟かもしれません』
 目の前の人を信じるかどうか。こと恋愛において真実を明かすのは、案外小難しい理屈じゃなくて、人の感情ですから。そう得意げに言っていた。もし降谷さんが本当に安室さんだった時に、私はどうしたらいいのだろう。
 そういえば昨日コーヒーに付けたクッキーが余っていたはず。タッパーの中にはちょうど二枚、クッキーが残っていた。コーヒーを淹れる前に一枚食べるか悩むさ中、ドアベルが鳴った。冷蔵庫を開けたまま振り返る。
 暖かな陽気と共に現れた人に、背筋が凍りつく。
「い、いらっしゃいませ……降谷さん」
「こんにちは、榎本さん」
 梓は慌てて冷蔵庫のドアを閉めた。早仕舞いとはいえ、閉店時間前に閉め作業をしているところだとは言いだせなかった。
 ただ、ちょうどいいタイミングだと思った。
「もしかして、閉店するところだった?」
「え……ええと」
「前回といい、タイミングが悪いな……
「いえ、まだなので大丈夫ですよ。といっても、コーヒーぐらいしか出せませんが」
 後ろ手にドアを開けようとする人を、カウンターから身を乗り出すようにして引き止める。
「十分だよ」
「じゃあお好きな席へどうぞ」
 降谷が楽し気に、普段通りの席に着く。カウンター席の中央、ちょうど作業スペースの正面が定位置だった。
「降谷さんその席お気に入りですよね」
「ああ。ポアロの中心……いろんな音が耳に入る」
「いいですよねえ、その席」
 随分と前に沸騰していたケトルを火から下ろす。ドリッパーに一杯分のコーヒー豆を追加して、ポアロのカップを取り出す。
「今日は早いんですね」
「丁度仕事が一区切りついたんだ」
「今日もお疲れ様です」
 穏やかな声が響くポアロは、梓の感情を包み隠す。感取られたくないのに、言い出しにくい。駄々をこねる子どもみたいだった。
 手に触れる湯気が心地よい。少し湿らせてから、ゆっくりとお湯を注ぐ。二杯分がぽたぽたと抽出されるのを確認してから、ドリッパーを外した。
 降谷さんのカップ横にクッキーを一枚置いて、トレイにのせる。
「お待たせしました」
「ありがとう。やっぱり、いい香りだ」
「マスター直々に選んでますからね」
 ポアロの中心なだけあって、降谷の席を中心にコーヒーの香りがゆっくりと周囲に広がる。漂う香りに、梓は自分のことでもないのについ得意げになった。
 軽くなった足取りで、空っぽのトレイを片手にドアの看板を裏返す。まだまだ明るい平日の昼下がり。だけど今日の営業はおしまい。
 ここからは、答え合わせの時間だ。
「そうだ、榎本さんもコーヒーを飲むところだったんだろ。隣はどうかな」
「いいんですか?」
「もちろん」
「今日はもう閉店なので、お言葉に甘えて」
 マグとトレイを交換してから隣の椅子を引く。肺一杯に湯気を吸って。ゆっくりと吐く。覚悟はできた、たぶん。まだ全てを受け入れる自信はないけど。
「降谷さん」
 クッキーを片手に持ったままの降谷が梓を見つめる。逃げ出したくなるような緊張感を飲み込んで、梓は口を開いた。
「一つ、教えてください」
……なんだ」
 刺すような降谷の視線が梓に向けられる。もし、もしも本当に安室さんが降谷さんのふりをしているなら。きっと安室さんのままでは都合が悪い何かがある。それを知らないまま暴こうとしているのだから、嫌がられて当然。
 それでも、確かめたかった。
「安室さんを探すのを手伝ってもらった時……降谷さんは、安室さんと知り合いだって言いましたよね」
「ああ」
「あれは、本当ですか?」
 降谷は目を伏せ、黙り込む。さっきとは逆に、梓が正面から見つめる番だった。知り合いなら他人、知り合いじゃないなら……本人の可能性がある。だって、自分とは知り合いになれない。
「よく似ているんです。降谷さんが」
 温かなコーヒーを一口飲みこむ。独特の苦さが、こうやって並んで飲んだあの味が背中を押す。
「名前も姿も違う。でも、私の知ってる安室さんなんです。見慣れた癖も、私を呼ぶ時の声も、全部。違うのは咄嗟に変えられるところだけ」
 降谷が一瞬、苦虫を嚙み潰したような表情をしたのを梓は見逃さなかった。詰めが甘かった、そう言っているように見えた。
「教えてください。頷いてください。あなたは」
 カップとソーサーの音がポアロに響いた。春の日差しの下で外を歩く人々の声も、上の階で何やら慌てる足音も。人がいない店内は、わずかな音すら耳に伝わる。段々と小さくなる声は、それらに負けてしまいそうだった。
「降谷さんは……安室さんなんですよね」
 言い切った時には、マグを握りしめる両手が震えていた。冷たい冬は過ぎ去って、こんなにも暖かいのに寒気がする。
 答えを知るのが怖かった。出した結論を信じられなかった。間違っていたらどうしようだとか嫌なことばかりが頭を支配する。
 今縋れるのは、安室さんが好きだという気持ちだけ。それだけにしがみついて、新一くんのヒントを頼りにここまできた。
「だから約束も、思い出作りもしたくなかったんだ。約束は執念に、思い出は証拠になる。特に、こういう人探しの時には」
 地を這う様な声に肩がすくむ。降谷さんからも、安室さんからも聞いたことがないほど低く、後悔しているような声だった。
「でも、僕は。せざるをえなかった。……ああ、梓さんの推理は半分正解で半分不正解だよ。僕は安室透だけど、それ以前に降谷零だ」
 梓が口を挟む隙もなく、降谷の独白が続く。
「こうやって明かすつもりはなかった。安室として伝えたし、梓さんの中ではあくまでも別人だから」
 困ったように眉を下げながら、降谷は笑う。
「僕の負けだ。認めるよ。演じていた安室以前に僕自身が、君を好きなんだ」

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