丹羽燐
2025-07-02 23:53:05
13874文字
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赤い糸が切れないように

2025-06-15発行の「別れ支度をあなたの隣で」の続きのような短編
━━もし,ふるあずの二人がハッピーエンドになったら?

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 すっかり日も暮れたポアロで、梓はのんびり洗い物をしていた。誰かさんがいなくなった冬と比べて、随分と日が長くなった。あの冷たい寂しさを消し去るように、日に日に暖かくなる。
 確かめたいと思う前に忘れてしまえば良かった。あの日の涙と一緒に零してしまえばよかった。そう思ったところで、今更遅い。
 新一くんから教えられたポイント三つを思い出す。
『問い詰めるより、覚えているかを試すのがコツです』
 例えば二人だけの思い出を話してみて、話している以上のことが返ってきたら、それは自白と同義だ。そう新一くんは得意げに言っていた。
 安室さんとの思い出と言われてもピンとこない。過ごしていたのはポアロの日常で、同僚以上でも以下でもなかった。きっと未だに覚えているのは私だけで、安室さんは覚えてない。咄嗟に思い出せるところにない、のが正解かもしれない。知識量の多い人だったから。
 かぼちゃの誤発注は当時来ていたお客さんから聞けばわかってしまう。怪盗キッドに変装されたときも、博物館に一緒に行ったときのことも、刑事さんたちから。ちょっとした事件を思い出したところで、誰かが知っている。誰かに尋ねることが出来る。
 氷の在庫を確認しようと冷凍室を梓は開けた。冷たい空気に思わず身震いをした。冷凍庫、氷、冷たい。三つの単語がぐるぐると梓の脳内で回る。
 バニラアイス。
 安室さんを探すときに、コンビニに寄った。あの時私はどのフレーバーが美味しくて好きかなんて一言も言わなかったのに、降谷さんはぴったりそれを持ってきた。あの時なんでわかったって言ったんだっけ。思い出せない。たぶん、それどころじゃなかった。
 手を拭き、箒で床を掃く。
『歩き方って、なかなか嘘つけないんですよ』
 新一くんというよりは、新一くんのお母さんの発言らしい。服装や髪型は変えられても、骨格は変えられない。隣を歩いたことのある私なら、きっとわかる……ということらしい。
 エプロンを外し、荷物を持つ。一人しかいないバッグヤードでは、ソファーに沈もうと誰にも何も言われない。
 どこか掛け違えてしまったロッカーはそのままで、開けられないでいる。空っぽでは虚しいし、忘れ物があっても届けられない。もういないんだって突きつけられたのに、私はまだ影に縋っている。
 外の看板を片付けた安室さんがドアを開けて、帰りますよ、と声をかけてくれるんじゃないかって待ってしまう。途中まで一緒に帰って、おやすみなさいと別れるところまで想像してしまう。
 そんなことはないのに。
 脳内で手を振る安室さんの前を新一くんの言葉が横切った。
『正体がバレるのは、去り際が一番多いんですよ』
 手の振り方、背中の緊張、言葉の選び方……別れって、一番素が出やすい瞬間なんです。梓さんは安室さんの癖をよく知っているから、きっと気がつける。
 新一くんの言う通り、今でも鮮明に思い描ける。少し寂しげに目を伏せてから、カラッと晴れた笑顔で小さく手を振る。安室さんはいつもそうだった。
 あの一瞬を、聞けないままここまで来てしまった。
 一人きりのポアロで窓の戸締りを確認し、ドアを開ける。夜になった外は随分と冷え込んでいた。
「こんばんは」
「あれ、降谷さん」
 グレーのジャケットを着た人、降谷がいろは寿司の方から歩いてきた。ゆるゆると振られる手につられて梓も返す。
……もしかして、今日はもう閉店?」
「そうなんです。最近は早めに閉めることが多くて。すみません」
「いや、間に合わなかった僕が悪い。榎本さんはこのまま帰宅?」
「はい! 帰ったらのんびり大尉くんと遊ぼうかなって」
 言いながら手元からカチャンと鍵の閉まる音がした。これで一日はおしまい、帰ってのんびりするだけ。思いっきり背を伸ばそうとして、後ろに人がることを思い出した。振り返った先の降谷は変わらずにこにこと笑っていて、どこか嬉しそうだ。せっかく来たポアロはもう閉店しているのに、変な人。
「そりゃいい」
「降谷さんも帰宅ですか?」
「あー、僕はまだ仕事」
 気まずそうに左上……右上へ視線を逸らされる。右か左が嘘をつくときだと安室さんの雑学にあったけど、どっちだったか忘れてしまった。忙しい降谷さんのことだから、多分嘘じゃない。
「えっ……お疲れ様です。無理しないでくださいね」
「ありがとう。榎本さんもお疲れ様」
 ポアロの前で立ち止まったまま、会話まで途切れてしまう。降谷さんの背中越しに帰宅途中の会社員や楽し気な女子高生が通り過ぎていく。時折不思議そうな顔をしてこちらを見るけど、それだけで、誰も何も言わずにいなくなっていく。
 時の流れに置いて行かれているような感覚がした。
「じゃ、じゃあ私こっちなので」
「送るよ。……って、ダメなんだった」
「ふふ、一人で帰ります」
 三人で会ったことはないのに、安室さんの発言が共有されていてなんだかおかしい。もういないのに、まるで近くにいるみたいだ。
「気をつけて」
「またのご来店をお待ちしてます」
「ああ、また来るよ。……おやすみ、榎本さん」
 小さく手を振ると、降谷さんは一瞬恥ずかしそうに顔を逸らしてから同じ動きが返ってきた。照れているらしい。口元を手で隠しているのが安室さんと同じだ。
 背を向けて少しだけ歩く。足音が遠ざかっていくのを聞いてから、振り返って数歩近づく。どこか柔らかい革靴の音が聞こえた。
 足音も別れの挨拶も安室さんとよく似ている。スーツなら革靴。夜の別れの挨拶なんて、似るのは当然。そのくらいわかっている。……それでも、似すぎていた。
 遠ざかる降谷の背を見つめる。少しでも足を踏み出せたら声が届く距離だったのに、梓は動けなかった。

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