すなつき
2025-05-29 12:37:56
39960文字
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犬面術師と三尾の狐 犬神編

分からセッ後の続編です。
狐との関係に悩むライカンの元に舞い込む新たな依頼により、
無理やり眷属にされてしまった狐がツンケンしたり、ライカンが得体の知れないモノに襲われたり、狐に助けられたりしながら解決を目指すお話。
※狐は色々あってテツと名乗っています


2

「四分街、またもトラブルで工事が延期か。迷い犬、探しています……六分街の魅力に迫る……呪われた絵画のウワサ……

 インターネットが普及した昨今、人々の口にのぼるウワサ話とやらの流布はもっぱら口頭ではなく、電子の海つまりネットによって拡散される。
 レビュー数を稼ぎたいだけのタイトル詐欺のようなネット記事から、スレッドが乱立する闇鍋のようなインターノットまで。声を潜めて交わされる内緒の話はここでは容易く数多の目に晒される。故に、ウワサ話の拡がるスピードは口頭の比ではない。

「あら? 最近、五分街の辺りで野犬の被害が相次いでいるそうですわ」
「野犬、ですか……?」

 ええ、野犬。と、リナはほっそりした指を頬に当ててさも困ったわと言わんばかりに眉尻を垂らしてスマホの画面をついとなぞった。
 隠蔽の術を施された扉の向こう、静かな空気が漂うとある事務所の中には二人のみ。大きな窓から差し込む光が帯のように部屋の中へと差し込み、リナの頬を明るく染めていた。
 彼女が座る白色の丸テーブルの上には小さなカップケーキや様々な形のクッキーが品良く並べられ、湯気立つティーカップの中には琥珀色の液体が芳醇な香りを放ちながら揺れている。
 リナはティーカップに口をつけ小さくこくりと喉を鳴らしてから対面の席に座る犬面の男、ライカンに向けてスマホを振って見せた。

「ライカンさん、お仕事ですわよ」
「まさか私に野犬の調査をしろ、と?」
「ふふ、そのまさかね。でもただの野犬ではないようよ」

 静かなティータイムの話題にはそぐわない会話の内容にテーブルを爪の先でこつりと叩いたライカンの前にリナは一枚の紙を差し出した。余白がたっぷりとしたクリームのようにおおよそを占めるその紙の上半分にはライカンを指名した一連の野犬被害に対する調査依頼に関する文章が十に満たない行数で印字されている。
 あまりの情報の少なさにライカンは精巧な作りの犬面の下でひっそりと眉を顰めた。

「ただの野犬ではない、とは?」
「被害者の話では……なかったのですって」

 言葉を途切れさせたリナが、人差し指をすうっと自らの首の上を真一文字に横切らせる。

「首、が」

 まるで怪談話だ。ライカンは、ハ、と短く呼気を吐き出した。
 普通の犬であれぱ首がない状態で歩き回ることなどできやしない。被害者の証言が恐怖により錯乱したものでなければ、それは普通の犬ではないということだ。
 リナはまたティーカップに口をつけて喉を潤した。つられるようにライカンも己の前にあったティーカップへと口をつける。潤したばかりの口内はすぐに乾いて喉の奥が少しだけひりついた。

 野犬による被害者は体のどこかに咬み痕をつけられたらしい。深夜黒い何かに出会って、咬みつかれた。それを野犬だと判断した決め手は何であろうか。
 ……そもそも頭がないのにどうやって咬みつくことが出来ると言うのか。リナの言う通りやはりただの野犬の可能性は限りなく低いと思われる。
 ライカンは眉間に皺を刻みながらため息をひとつ零した。

「動物もしくはその意思が残っているのであればオオカミのあなたの前では大人しくなるかもしれませんわね」
……リナの電気でビリッとやってしまっても良いのでは?」
「私がビリッとさせるのは悪い子だけですのよ」

 人を襲う正体不明の野犬は悪い子には該当しないのであろうか。
 リナはたおやかな笑みを浮かべたままライカンの諾の返事を待っている。否、待っていると言うよりも断る選択肢を端から用意していないのだ。
 ライカンはひとつ目を閉じてゆるりと呼気を吐き出した。確かに人を襲うモノ全てが悪いわけではない。そこに何かしらの理由があって、襲うに至る見えない原因が存在するのだ。元を辿れば諸悪の根源は人であった、などたいして珍しくもない。
 祠を壊しただとか、墓を荒らしただとか、見てはいけないものを見ただとか。往々にしてタブーを破るのは人である。
 中にはちょっとした悪戯心で人を惑わすモノもいるが、それはまあ置いておくとして。

「あなたの大事な眷属の、テツ様にご協力をお願いしてみては? あれから少しは打ち解けることができたのではないですか?」
…………そう、ですね」

 ちょうど脳裏を過った存在の名前を口にされ苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。面の下はリナには見えないはずなのに、彼女はあら、ライカンさんあなた……嘘ですわよね?と今度はしっかりと困惑を表に出した。

 テツと名乗った三尾の狐を事務所に案内したあの日より、ライカンはひと月の間、一度たりとも彼の名を呼ぶことはなかった。
 今迄だって一人で仕事を熟してきたのだ。力のある眷属を勘違いの末の事故で手に入れた手前、狐の力をあてにしようなどとは思えなかったのだ。
 己の足らない部分をあの狐であれば充分なほどに補ってくれるであろうことは分かっている。しかしそれは従属の契約ゆえの、抗えない命令の元で行使される力だ。
 縛りを解き、解放してやることのできないライカンはせめて最大限狐を自由でいさせてやりたかった。

「あなたたちに大事なのはお話する時間だと思いますわ」

 まあこれはお節介ですわね、とリナは目を細めてまるで姉のような優しい顔で笑ってみせた。
 ライカンとて、できるのならば狐と会話を重ねて友好的な立場を築きたいものだが、如何せんライカンは恐らく嫌われている。
 狐からしてみれば無理やり眷属にされたのだから、ライカンのことを嫌悪していたとしても何ら不思議はない。現にリナとライカンでは対応に大きな差が見られた。差別というよりは明確な区別がそこにあった。

 二度目のため息を漏らしたライカンは、依頼書を丁寧に摘みあげながら善処しますと言いおいて椅子から立ち上がる。
 ライカンがその名を呼んでも良いものか。眉尻を垂らしやや耳を寝かせながら犬面の男は事務所の扉をくぐり抜けた。



 社用車を転がしたどり着いた五分街は、真っ昼間だと言うのに人気が少なく、不気味なほどにシンと静まり返っていた。
 よく街中を徘徊している野良猫の姿さえ見受けられない。いつもならば賑やかなボンプが三体並んで客引きをしている雑貨屋さえ静かで、その他の開店しているのか定かではないいくつかの店舗を横目にライカンは歩みを進めた。

 被害があったのは住宅街のある裏通りの路地だ。規制テープこそないものの、げっそりした顔の治安官と動き回る治安ボンプのおかげで該当の場所はすぐに見つかった。
 昼間だと言うのに薄暗いその通りではむき出しのアスファルトの上に真新しい黒い染みのようなものが落ちている。被害者の血痕だろうか。ひくりと鼻を動かしてみても鉄錆よりもすえた生ごみのような不快な臭いがはっきりと漂ってきて思わず眉を顰めた。
 ふむ、とライカンは顎に指先を当ててひとつ頷く。ここからは生きているモノ特有の匂いがしない。であればリナの読みは正しいのかもしれない。 
 ひとまずライカンが現場を見て得られる情報に関してはこの辺りが限界だ。
 面の下の更に革製のベルトで覆われた右目を指先でなぞりながらライカンは自嘲に似た笑みを漏らした。その真意を測れるものは本人のみだが彼がそれを口に出すことは現状ない。
 諦念に似たため息を吐き出してライカンは未だ悲壮な表情を浮かべる治安官へと歩み寄った。

 治安官は声をかけたライカンを見て軽く目を瞠った後、無理やり口角を引き上げた笑みを浮かべた。
 そこに精巧な犬の顔を模した面をつけた大柄な男に対する警戒はほとんど見られない。善良で極"普通の"一市民のように彼の目には見えているのだろう。
 今度こちらに越してくる予定だとライカンが伝えれば治安官の男は心底同情仕切った目を向けてきた。

「もう金を払っているなら仕方ないが、そうでないなら当面の間ここはやめておいた方がいいと思うぞ」
……と、いうと?」
「ネットニュースはもう見たか? 野犬の被害がどうのこうのってやつだ。あれは、三日前の事件なんだよ」
「三日前? しかしここは、」
「ああ、今朝起きたばかりの野犬被害現場だ」

 治安官は疲れ切っていた。直近の被害は今朝方。その前がネットニュースに取り上げられた三日前。その間にも一件被害があってほぼ連日野犬は出没しているらしい。
 始めこそ犬のようなものを見ただとか、路地を彷徨いているとかそんなレベルのものだった。人懐っこい野良犬に慣れていた住民たちは特にその野犬を警戒することもなかったらしい。
 時折こちらを見定めるような野犬の気配を感じてはいたものの、人に慣れないゆえのものだろうと特別気にすることもなく。そうして野犬は油断した人々に狙いを定めた。
 背後から近づかれて襲われそうになった所を間一髪逃げ切れた始めの被害者は運動神経の良いシリオンだった。次は人間の女性でこちらは足首に咬みつかれている。その後も野犬は人間もシリオンも、子どもも老人も等しく狙った。
 夜間だけであった出没もとうとう昼夜を問わなくなり、今朝方の被害者はパトロールにあたっていた治安官の同僚だと言う。

「あれは、普通の犬なんかじゃない」

 治安官は肩を落として路地の黒い染みを見ながら呟いた。

「あれを目撃した人の中に、首がないとか言っているやつがいたが……ハハ、本当だった。気が狂ってると思うか? でも俺は見たんだよ。この目で、見たんだ。今朝、見たあれには首がなかったんだ。首がないのに、あいつに咬みついたんだ……

 じっとりした眼差しがライカンを見あげた。希望を打ちのめされたような光のない目だった。日夜パトロールを続けて市民の安全の為に走り回りながらも野犬を捕らえることができず、自分の目の前で同僚が得体の知れないモノに襲われた。治安官は酷く疲れていた。

「あれは、ただの犬じゃない……そうだろう?」

 化物でもなければ納得がいかない。治安官は頭を抱えるように両手で顔を覆った。
 ライカンには日当たりの悪い暗い路地裏でしかないがこの男にはどのように見えているのだろうか。ぽっかりと口を開けた深淵かそれとも終わりの見えないトンネルの入口か。

「ああ、すまない、変なことを言ったな。忘れてくれ……ただ、本当に今の五分街に住むつもりなら充分注意してくれ」

 注意したところで目の前に現れたらどうにもならないがな、と治安官は乾いた笑いを零してまた路地へと目を向けた。
 人気のない街はまるでゴーストタウンのようで、そこに佇む男は何を思っているのだろうか。
 ライカンは治安官に礼を述べると足早にその場を離れた。すえた臭いは路地を中心に漂っていてある程度距離を取るとそれも薄まったが、重苦しいような空気がそこかしこにこびりついているようだった。
 ライカンはため息を零して、目についた小さなコーヒーショップへと向かった。かろうじてオープンの札がかかっている店内は閑散としており、マスターらしい年配の男はライカンを見て目をまん丸にしていた。
 久々の客に驚いているのかそれとも、面が見えたのか。視線に気が付かぬ振りをしてライカンは路地の辺りが見える窓際へと腰を下ろした。
 野犬の姿を一度でも見なければこの調査は進まない。加えて人に危害を与えている以上、放置することも叶わない。
 ひとまずあの路地裏をもっと良く確認してみないことにはどうにもならないだろう。運ばれてきたコーヒーの薫りで鼻の奥に残る腐敗の臭いをかき消しながらライカンは未だボンプがちょこまかと動き回る路地裏を眺めた。

 結局治安官とボンプが路地裏から立ち去ったのは日が落ち始めた夕方になってからだった。夜間のパトロールにはまた別の治安官がやってくるのだろうか。ライカンはコーヒーショップの建物の影からまっすぐに路地を目指した。
 チカチカと点滅を繰り返す切れかけの街灯が照らす路地は得体の知れない気味の悪さを醸し出している。周辺の建物からは明かりは漏れているものの、路地には幕が張られたようにその光は届かない。
 ごつり、と重い足音を響かせながらライカンは路地へと一步踏み込んだ。朝も夜もなく現れる野犬も黄昏時に引かれるものだろうか。暗がりに溶け込むような街の一部を眺めながら更に一步、二歩と路地を進む。
 途端に腐敗の臭いが強烈にライカンの鼻腔を貫いた。思わず面越しに鼻を覆ってライカンは四方へ視線を巡らせた。
 ――それは淀んだ空気をかき回すように路地の奥から這い出てくる。伸びた爪がカチャカチャとアスファルトを叩く軽い音がゆっくりと響いて少しずつ近づいてくるのに、ライカンの目には黒いモヤのようにしか見えなかった。
 舌打ちを零してライカンはじりじりと後退を始める。
 恐らくこれが、噂となっている野犬だ。
 実体のないモヤにしか見えないがそれが時折、グルルと低い唸り声をあげている。先入観に邪魔をされている可能性もあるが、目の前のそれは確かに犬を模したモノであった。
 モヤの下側には突き出した椅子の脚のようなものが四本。爪を鳴らすのに合わせてカチャと音を立てている。まごうことなき犬の足なのだろう。まるで風船に紙の足をつけただけのようなオモチャのような見目をしているが、項の毛が総毛立つような雰囲気は偽物ではない。
 ライカンは鼻にシワを寄せながら対するように自身の喉を低く鳴らした。ライカンに従うようであればそれは一般的な意思のある普通の動物だ。で、ないならば。それは、理の中に生きるものではない。

 果たして野犬はピタと足を止めた。モヤが揺らぎ何かを見定めるようにライカンを見ている。目も顔もないモヤに見られていると言うのはおかしな話かもしれないが、確かに視線を感じたのだ。
 動きを止めた野犬はしかし、ヒャヒャと笑うような声を出してアスファルトを蹴り上げた。

「チッ!!」

 弾丸のような勢いで野犬はライカン目掛けて飛び込む。思わず舌打ちを零したライカンはポケットに押し込んでいた捕縛の札を引きずり出した。モヤに札が効果を持つのかは定かではないが、しかし対抗の術はこれしか持ち合わせていない。
 フッと短く呼気を吐き出してライカンは札を飛ばした。指先から放たれたそれは見えない糸で引かれるように真っすぐに野犬目掛けて飛んだが、足元を掠めてその速度をやや落としただけだった。
 ライカンの武器が己に大した効果を持ち得ないことを理解したのか野犬はまたヒャヒャと笑って仕留めるように飛び上がった。

 首がないはずの野犬の、大きく開かれた赤い口が見えて咄嗟に庇うように腕を上げた刹那。

 ライカンの視界は眩い光を放ち波打つ銀紗に覆われた。
 それは上等な織物のような滑らかな銀色の毛並みに覆われた太い尾であった。揺らぎ、たゆたい、庇護するように三本の尾が目前に広がる。その向こうで野犬の悲鳴と鋭い威嚇の声が重なった。
 尾の隙間からライカンは青く輝く目を見た。それがゆっくりと細められて耳通りの良い少し冷えた声が響くのに、ライカンはゆるゆると目を見開いた。

『無事かい、ぬしさま』

 美しい三尾の狐が、ゆらりと尾を震わせた。




「テツ…………?」

 大柄なライカンの視線とそう変わらない位置にある狐の目が、きょとりと瞬いた。かと思えばすぐに瞼が半分ほど落ちてきてじとりとしたものに変わる。

『やあ、ぬしさま、久しぶりだね。ひと月ぶりかな? 息災だったかい? 僕のことはすっかり忘れてさぞ元気にやっていたんだろうね。なんせ、このひと月の間、一度たりとも僕の名前を呼ばないんだからね! いやあ、まさか釣った魚にエサをやらないタイプだとはねぇ。まあ、ぬしさまは優秀な術師であられるみたいだからね? 僕のことは下級の使い魔程度にしか思っていないようだし、そもそもアテにされていないのだろうけどね? あはは、まさか尻尾が三本どころじゃあ、足りないってことかい?』
「あ! いえ、そのようなことは、決して!」

 行儀よくお座りをして三本の尾をくゆらせながら狐は捲し立てる勢いでライカンを責め立てた。
 巨大な獣の姿は恐らく彼の本性なのだろう。眉はないものの、ぎゅうと眉間の間に寄った皺が不機嫌をあらわにしており、べしんと美しい尾が地面に叩きつけられた。かと思えば最終的に細められた目からひんやりと冷気のようなものを感じて、ライカンはぐうと喉を鳴らした。
 慌てて弁明しようとしたが、ひと月もの間コンタクトを取らなかったことは事実なので結局口を噤むことしかできない。だがライカンは狐のことを忘れていた訳でも、使い魔だとも思っていない。いろいろと誤解が生じていることに気がついてライカンは情けなく眉尻を垂らした。リナの言っていた会話のための時間が確かに二人の間には必要なようだ。

「その件に関しては、後ほどお時間をいただければと……
『ふうん、ま、いいよ。ぬしさまのお話とやらを聞かせてもらおうかな。さぞ楽しいお話なんだろうね』

 一旦矛を収めることにしたらしい狐はおもむろに路地の奥へ向かって細い前肢を伸ばした。狐の体の向こうで威嚇の声を上げ続けていた黒いモヤは今や青白い膜のようなものに包まれてその中で酷く暴れまわっている。

「ひとまずアレをどうにかしようか。ぬしさまにはアレが何か見えるかい?」

 モヤに意識を注いだ一瞬で巨大な狐は、耳と一本の尾を残した人型に戻っていた。それは路地裏でライカンが無体を働いたときの男の姿で、すっかり元の色に戻った緑の目を眇めるている。

……いえ、黒い……モヤのようにしか」
……なるほど。しゃがんでくれぬしさま」

 狐が何を考えているのか定かではないため、ライカンは大人しく膝をつき体勢を低くした。モヤはどうやらあの場所から動けないらしい。
 蠢くそれを目を凝らして眺めるライカンの背後に狐が回る。太い尾が沿うようにライカンの腰あたりにくっついているのにぴくりと小さく肩を揺らして息を詰めた。

「本質が見えなければ、この手の類は祓えない。さて、化生か、魔性か。視てみようか」

 覆いかぶさるように手を回した狐は、ライカンの目前で人差し指と小指をまっすぐに立てると残った三本をひとつにくっつけて、左右でそれぞれ『狐』の形を模した手を作った。
 左手の甲と、右の掌がこちらに向けられて、耳にあたる人差し指と小指が重なる。そのままゆっくりと指が伸ばされてすき間が埋められると、やがて中指と薬指の間にひし形の小さな窓が完成する。

「さあ、視て、ぬしさま」
「こ、れは……

 窓越しにモヤを見たライカンは、目を瞠った。
 あの日以降、見えなくなった世界が窓越しに広がっている。はくり、と口を戦慄かせて懐かしささえ覚える風景にライカンは瞬きも忘れて見入った。
 狐の張った結界の中で暴れまわっていたモヤは、悲痛な顔をした一匹の大きな黒い犬だった。首から上だけが透けたようになっていたが、顔を歪めた犬の表情が見て取れる。痛みか、苦しみか、それとも悲しみか。感情の色までは読み取れなかったがそこに狂気は微塵も感じられない。

「視えたかい、ぬしさま。あれは、何だった? 何に視える?」
「犬、でしょうか……黒い、犬」
「そうだね。じゃあなぜ、人を襲うのか分かるかい?」
「それは、」

 妖の全てが、人に害をなすものではない。善き隣人たるものもいれば、手を出さなければ安全なものもいて、人に仕えるものもいれば、些細な悪戯で人を驚かすものもいる。
 ライカンが今まで相手にしたきたものは、いつだって人に害をなし、人の世に不利益を被るものたちだった。
 それは見るからに悪の様相をして牙を剥いている。ゆえに退治することに何の躊躇いもなかった。

 あの黒いモヤであった犬も、上辺だけを見れば人に害をなすもので、討伐の対象である。なぜ、人を襲うに至ったのか。その理由など考えることもその必要もなかった。

……申し訳ありません、分かりません……
……そう」

 いくら思考を重ねたとして黒い犬にはなり得ないライカンにはその意思を測ることなどできない。主観に則った個人の意見など、正当性を押しつけるだけで、結局は自己満足のためだ。
 狐は抑揚のない声でひとつ頷くと、組んでいた指を解いた。あ、と小さく声が漏れたライカンの目の前で、窓の形が大きくなって崩れていくのと同時に世界は見慣れた元通りの景色を取り戻していた。

「人が視るのは本質の外側だ。魂を包む、器を視る。僕たちが視るのは、内側。魂そのものを視るんだ」

 ライカンには犬に見えたそれが、狐には別のものに見えるのだろうか。いつの間にか大人しくなって、小さく縮こまるモヤは先ほどの影響か、ぼんやりと犬らしきものの形を保っているように見えた。
 狐が指を鳴らして結界の膜を解くと、モヤはうろうろとその場を歩き回ってそれから悲しげな声を上げた。鼻を鳴らして子犬のように何かを探していたが、やがて路地の奥へと溶けるようにして消えてしまった。
 ふう、とため息を零した狐の体がそっとライカンの背から離れて、寄り添っていた尻尾も遠ざかる。じんわりと滲むようだった狐の熱はしかし外気に晒されて急速に冷えていく。

「僕はあれを追ってみるけど、ぬしさまはひとりで帰れるかい?」
「ええ、大丈夫です。しかし後ほどお話する時間を頂きたいので、ご都合のよろしい時に私どもの事務所へ寄っていただくことは、可能でしょうか……?」
……二日後なら、構わないよ」

 腕を組み、顎に指先を当てて何かを考えるような仕草を見せた狐は、僅かな間を開けてこくりと頷いた。
 そのままライカンに背を向けるとモヤの消えた路地の奥へと向かって歩き出したが、二、三歩進んだところでぴたりと足を止めた。

…………気をつけてね」
「! テツ、様!」

 肩越しに僅かに振り返ってじわ、と目尻を染めた狐の労るような言葉にライカンは思わず尾を立てていた。呼び止めるために名前を呼んだのか、それとも思わず漏れたものか。ライカンにも定かではなかったが、テツと呼ばれた狐は瞬きの合間に灰色の毛並みの猫に変化してあっという間に走り去ってしまった。

 狐が消え、ライカンのみが残された路地には、一拍遅れて周囲の環境音が流れ込み溢れる。
 しばしぼうとその場に立ちつくしていたライカンは、見回りに来たらしい治安官に肩を叩かれてはたと我に返った。野犬に襲われたのかと、心配をする治安官をどうにかやり過ごしてようよう五分街の路地から脱出することに成功した。

 小さな子どものように帰路を案じられた記憶などないライカンは、静かな社用車の中で低い天井を見あげてゆるゆると呼気を吐き出した。
 目を閉じれば先ほど狐の力で視た景色がまだ鮮やかに蘇る。以前は鬱陶しいと思っていたが、無くなって初めてその重要さを実感した。後悔したところで戻りはしないが、あれには随分と助けられていたのだろう。
 名残惜しさを感じながらもライカンは、垂らした左腕にじくじくと走るような痛みを感じて目を開いた。
 先ほどモヤと対峙した時に、爪か牙が掠めてしまったのだろうか。袖を捲りあげていたために露出していた二の腕には小さな傷がついている。

 これくらいの怪我ならば大したことはない。袖口を下ろして腕を隠しながらライカンは車のエンジンをかけた。