riririnf
2025-03-15 10:03:45
40169文字
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ラスト・ワルツ

ヌヴィフリ逃亡書いてみた⑥
この話で璃月プレイアブルキャラは全員出した筈
(名前のみ、台詞のみ、匂わせのみ含む)
あと一話で完結予定。



「──まずはお茶を淹れよう。折角用意してくれたのだから、堪能しなければ失礼だろう?」
 せっかちに口を開きかけたヌヴィレットを制し、フリーナは立ち上がって茶器を取る。
 湯が入った瓶を傾け、茶壺と茶飲みに入れ、温める。それから茶壺の湯を捨て、花の実のようにころんとした茶葉に手を伸ばす。岩上茶室で味わったものと同じ、花茶──厳密には工芸茶というらしい──のようだ。
 もう一度茶壺に湯を注ぐと、漂うは琉璃百合の香り。こんなところまで同じだなんて、ほんの少し可笑しくなった。
……このまま待ってて」
 フリーナはヌヴィレットのそばまで近寄ると、茶壺の蓋を開け、中が見えるように傾ける。彼は僅かに目を細めたが、フリーナを急かすことも、意図を問うてくることもなく、ただ静かに茶壺を見つめた。
 薄い紫色の瞳に見守られながら、茶葉がゆっくりと開いていく。そしてついに、白と青の花弁がふわりと広がった。
「素敵だろう?」
……ああ」
 茶壺の中に咲く花をもう少し見せてあげたいが、あまり時間をかけると味が渋くなってしまう。だからフリーナは蓋を閉めると手早く茶飲みの湯を捨て、花茶を注ぐ。
 同時に彼の視線が花からフリーナに移ったのが分かったが、それには気付かない振りをする。
「はい、どうぞ」
 ヌヴィレットの前に茶を差し出し、ゆったりと席に戻る間も、視線がべったり張り付いている。
 無駄なやり取りを厭う彼は、このやり取りに苛立ちを感じているのだろう。フリーナだって、そんなことは分かっている。
 だから二日前に彼に街案内をした時は、こんなことはしなかった。花茶は抽出に時間がかかるから。あの時は、彼が好みそうな話題や店を中心にコースを組んだ。
 けれど今は、そんな気遣いはいらない。如何に彼のペースを乱し、主導権を握るか。それこそが重要だった。
 フリーナが席に着くのを待ってから、ヌヴィレットは茶飲みに手を伸ばす。ゆっくりと顔に近づけ、立ちのぼる湯気と共に香りを味わい、口に含む。
 かつてフリーナがフォンテーヌで紅茶の嗜み方を教えた時と同じ手順。同じ手つき。
 数百年に渡り何度も見てきた姿を、こうして眺めるのは三年振りだった。
 ……綺麗だなあ……
 洗練された流麗な所作に、フリーナは目を細める。フォンテーヌ廷に来たその当時、水以外の飲み物など認めない、と頑固に主張していた彼だったが、少しずつ人間社会に馴染み、次第に紅茶やコーヒーなども嗜むようになっていった。
 そして今、こうして異国の茶までを味わっている。それはなんとも不思議な光景だった。
……美味だ」
 告げられた感想には、予想していた不穏な気配はなく、ただ感嘆の色だけが乗っていた。
「それはよかった」
 それに思う以上の安堵を得て、フリーナは僅かに唇を綻ばせる。呼応するように、縦長の瞳孔が、きゅう、と細まるのが見えた。
「随分と手馴れている」
「そりゃあ、三年もいればね」
 ふ、と吐息を零す。
……そうか」
 ヌヴィレットは一度目を伏せ、茶飲みを静かに置いた。そして再び顔を上げた彼の表情に、──来る、とフリーナは悟る。
「フリーナ殿。フォンテーヌに帰ってくる気はないか」
 最短最速を好む、彼らしい率直さ。
……お茶会においては会話を急ぐべきではないと、何度も教えたと思うんだけど」
「私がそれを実践出来た試しなどないことを、君はよく知っている筈だ」
 悪びれもせずに、彼は言う。
……そうだったね」
 そんな傲岸不遜な様子が少し懐かしくて、フリーナは苦笑した。
「ある者は輝かしい舞台を望み、ある者は華やかな笑顔を望む。君が去って三年が経ってなお、フォンテーヌで君の名前を聞かない日などない。皆が君の帰還を待ち望んでいる」
……これはまた、随分と熱烈だね」
 温度のこもったヌヴィレットの弁舌に、フリーナは瞬いた。演技ではなく、本心から。
「キミから、そんな愛の台詞を聞けるとは思わなかったよ」
 唇に笑みを形づくれば、反対にヌヴィレットは不愉快そうに眉根を寄せた。
「私は冗談を口にしているのではない」
「ははっ、そうかい。なら僕も、冗談抜きで回答させてもらおう」
 そうして笑みを消し、今度はフリーナが真っ直ぐにヌヴィレットを見る。
「──お断りするよ。気持ちは嬉しいけれど、僕にはもう璃月での生活があり、縁がある。今の僕の居場所は、ここだ」
 虚栄もなくはないけれど、これも殆ど本心だ。異国の地で過ごした三年間は、静かにフリーナの存在を認め、柔らかな陽だまりの元にいることを許してくれている。
「ただ……、そうまで言ってくれるなら、たまには里帰りも考えてみよう。璃月の一座に混じって、舞台に上がるのもいいかもしれない」
 反論の暇を与えずに、折衷案を口にする。
 フリーナとて伊達に五百年間、神を演じてはいない。いくら政の殆どに関わらないようにしていても、誰かと折衝しなければならない場面など、いくらでもある。
 ヌヴィレットはある意味捨て身とも言える策を取り、この対談の席を作り上げた。そこまでしておいて、なんの土産もなしに帰れはしないだろう。
 だからこうして、ほんの少しの譲歩を見せる。この「拒否権なき対話」の場に引き摺り出されてしまった以上、無傷で帰ることが出来ないことくらいは、覚悟している。
……それでは足りない」
 しかしヌヴィレットは首を縦には振らなかった。
「足りないって……、」
 そんな子どもが駄々をこねるみたいな言い方を。
「たまの帰還などで、満足できる筈もない。かつて君の舞台に夢中になったものは数知れない。フォンテーヌの民は、今も変わらず君を愛している」
 ……また愛の台詞、だなんて茶化したら、流石に怒るだろうな。
 らしくもなく熱烈に口説いてくるヌヴィレットに、妙に頭が冷えていく。なにをそんなに必死になっているのか。
「あのね、ヌヴィレット。流石にそれは過大評価というものだ。僕はもう神の座を降りている。まだもう暫くはかかるかもしれないが、それでも人の記憶なんて儚いものだ。直に皆、忘れていくさ」
 どうも彼は、フリーナの五百年の歌劇を高く見積もりすぎている。実際のところ「水神」は全てを救えはしなかった。民の期待を裏切り、犠牲者まで出してしまった紛い物だ。
 最終的に、なんとかなりはしたけれど、それはヌヴィレットや旅人、ナヴィア、その他多くの人々の尽力があってこそ。フリーナは何もしていない。ただ神座で泣き崩れ、無気力に街の再興を眺めていただけ。
 挙句の果て、全てを捨てて出奔した。そんな身勝手な神を、一体誰が待ち望むというのだろう。
「もし民が「神」を求めているように見えるのならば、それは止まずの雨で、皆の心に雲がかかっていることが原因ではないかな?」
 ヌヴィレットの肩がぴくりと揺れた。触れてほしくないことだったのだろう。フリーナとしても、そっとしておいてあげたかったが、この段になっては仕方がない。
「大丈夫。雨がやめば、人々の心も晴れ渡るさ。……キミなら出来るよ」
 安心させるように、意識して穏やかに微笑みかける。
「とはいえ僕も反省してるんだ。キミに全ての責任を押し付けてしまったことはね」
 ヌヴィレットにだって心があって、龍とはいえ肉体がある以上、疲弊もするのに。そんな当たり前のことから目を背け、自分可愛さに逃げ出してしまった。
 だから今、彼はこんなに苦しんでいる。こんな滅茶苦茶をしてまで、フリーナという「神」に救いを求めてしまっている。……きっと、そういうことだろう。
「フォンテーヌに帰ることは出来ないけれど、それ以外のことなら協力しよう。僕にもかつて船頭を務めた責任があるからね」
 今度はフリーナが掌を胸にあて、己を示す。とはいえ、流石にこれで彼が納得すると、そんな楽観的な思考にはなれなかった。案の定ヌヴィレットは視線を落とし、端正な顔立ちに影がさす。
……そういうことではない」
 深く、長い息を吐く。
……そうだな。この期に及んで、迂遠な言い方をするべきではないのだろう。皆、などと汎用な視点を借りたのも、失策だった」
 刹那、薄い紫色の瞳が隠れ、そして再び現れる。
「フリーナ殿」
 この場において彼が宿す光は、ずっと変わらず真剣だった。けれど今、それは一際強くフリーナの胸に焼きついた。

「私は、君を愛している。君の歌劇に魅せられたものとして。……そして、一人の女性として」

 ──息が、止まった。
 今この瞬間、胸に湧き上がるこの感情を、どう形容すればいいだろう。
 嵐?大波?ハリケーン?
 どれも違う。どれこれも、しっくりこない。ただただ思う。
 
 それを三年前に聞きたかった、と。

 もし、あの日の浜辺で聞けたなら。素直にすんなりと、とまではいかずとも、それでも最後はきっと頷けた。
 失いかけて、初めて気づく。ありがちだけれどロマンティックで、ドラマティックな終幕になっただろう。
 けれど今はもう、あの頃とはなにもかもが変わってしまった。
 フリーナにはもう、恋に恋して夢を見る、能天気な心はない。
 酸いも甘いも醜いも、あらゆる全てを呑み込んで、すっかり歪んだ女になった。
………………
 フリーナは静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出した。鼓動は煩く、呼吸は荒く。この七日間で何度も味わった嵐の予兆。もういい加減、宥める術を覚え始めている。
 沈黙するフリーナを急かすこともなく、まっすぐな視線のみが注がれる。瞼で遮ろうともしたけれど、それでも逃げきることは出来なくて、暗闇のなか、焼きつく光が瞬いた。
 ……これでは逆効果だね。
 自嘲と共に瞼を上げると、数瞬前と変わることない光がフリーナを捉えている。
 二人の間に長机という隔たりがあって、本当によかった。この距離ならば、見たくないものは目に入らない。彼の瞳に映る己の姿なんて、知りたくもない。
……聞いてもいいかな」
「いくらでも」
 ヌヴィレットは鷹揚に頷く。
「いつから、そんなことを考えていたのかな」
……三年前、君がフォンテーヌを出たと知った後のことだ。君が去り、初めて己の感情の名を自覚した」
 端麗な顔に悔恨が滲んでいく。
「本当は、すぐにでも君を追いかけるべきだった。君を深く傷つけたことを謝罪し、同時にこの想いを伝えるべきだった。それが出来なかったのは、ひとえに私の弱さゆえだ。あの頃の私は……いや、つい先日に至るまで、私は君を傷つけることも、己が傷つくことも厭い、君と向き合うことを恐れていた」
 それは四年前から続く過ち。彼は優しさゆえに、フリーナの想いを拒むことも、けれども受けとめることも出来なかった。ただ、流された。流され続けた。
「それこそが、私の罪だ。……本当に、すまなかった」
 ヌヴィレットは丁寧に頭を垂れた。彼自身の言葉で告げられた、真摯な謝罪。……そんなもの、いらないのに。
……顔をあげてくれ、ヌヴィレット」
 銀の長髪が僅かに揺れ、ゆっくりと頭が持ち上がる。再び薄い紫色の瞳がこちらを向くのを待ってから、言葉を紡ぐ。
「キミはもう何を気に病むこともないと、きちんと伝えた筈だけど」
「それは一方的に赦されただけであり、私自身はあの場に及んでもなお、己の罪を理解しきれていなかった。ゆえに、けじめはつけなければならない」
「はあ……、相変わらずキミは変なところで頑固だね」
 指先で軽くこめかみを押さえ、やれやれ、と首を振る。
 分かっている。彼はそういうひとだ。眩しいくらいの純粋さと、罪から逃げない強い信念。それこそが、彼が最高審判官たる所以。
……だから、間違えてしまうんだよ」
「間違い?」
 ヌヴィレットの眉が、微かに動く。対してフリーナは「そうだよ」と微笑みを返す。
「キミのそれはね、勘違いさ。罪悪感という傷から生まれた……ね」
 あの運命の審判を越えてから、彼はフリーナに対して、いくつもの罪悪感を抱えるようになった。
 水神を演じていた頃の無遠慮な言動の数々。ポワソン町の被害に対する責任追及。仕掛けられた罠。『四百年余を共にしていながら、君の苦しみに気付けなかった』と、謝罪を受けたこともある。
 そうやって、天秤の片側に余計な罪を積み上げ続けた。だからこそ市井に降りたフリーナを何かと気にかけて、恋人となることを了承した。そうやってバランスを取っていた。
 そんな不安定な均衡が、フリーナが国を出たことが呼び水となって、ついに崩れてしまったのだろう。
 傾き溢れた濁り渦巻く感情の名を、彼は勘違いした。「愛」という誤った名前をつけてしまった。
 責める気はない。彼の気質を痛いほどに分かっていて、意図して傷を刻み込んだのはフリーナだ。
 だから今、その間違いを是正する。それこそがフリーナの贖罪。
「二日前にも言っただろう?安心しなよ。僕は今、とっても幸せなんだから」
 フリーナはにっこりと、舞台映えする笑顔を向けた。距離があってもはっきりと分かる満面の笑み。彼の龍の視力を思えば、無駄な気遣いかもしれないけれど。
………………
 ヌヴィレットは僅かに目を伏せ、黙り込む。その表情は水面のように揺らぎなく、感情が読み取れない。
 大方、反論の言葉でも考えているのだろう。この程度で引き下がるなら苦労はしない。
 やり取りはまだまだ続く。ここからはディベートだ。議題は彼の「恋心」。負ける気はしない。彼は感情というものへの理解が浅いから。
 薄い唇が開く。──さあ、なんと言う。

「──私は君と、フォンテーヌの街を歩きたい」

……え?」
 てっきり違う、とか、何故そう思う、とか、そういう切り口で来ると思っていたものだから、すぐには言葉が呑み込めなかった。
「どのようにまわるのか、計画を練りたい。君の好きなものを考え、何処にそれらがあるのかを下調べし、君が喜んでくれるよう悩みたい」
 息が詰まる。心臓が鷲掴みにされたかのように苦しい。どうしていま、そんなことを。
「日取りにも気を配らなければならないだろう。その日が素晴らしいものになるように」
 会う日にちも行先も、全てフリーナが決めていた。ヌヴィレットに飽きられないようにと必死だった。お情けで相手をしてもらっている身分だったから、そうすることが当たり前だと思っていた。
「私は君の、心からの笑顔が見たい」
 語る唇が、まるでその光景を思い浮かべたかのように、ほんの少しだけ綻んだ。
 いつも無理やりに笑っていた。彼の顔色ばかりを見ていた。彼の口から終わりを告げる言葉が出てこないよう、細心の注意を払っていた。
「そうした願いを促す感情に、私は「愛」と名前をつける」
 彼の掌が己を──否、心を示す。
……君は、どう思う?」
 彼の瞳に揺らぎはない。それが「愛」だと、揺らがぬ自信を持っている。
 気付けば机の下、ぎゅっと拳を握りしめていた。息を吐き、悟られぬよう慎重に、それを解く。
……なかなか興味深い意見だけれど」
 その定義には、穴がある。
「「愛」には色々な種類があるんだ。親愛や友愛、博愛とかね。キミのそれは、恋愛でなくとも成立する。例えば友人や家族に対してだって、同じことを思うんじゃないかな」
 ヌヴィレットの願いは、恋人に対してでなくとも成立する。
「しかし私は君以外に、そのような願いは抱いたことがない」
「おや、僕が特別だって言いたいの?それは光栄だな」
 間髪入れずに反論してくるヌヴィレットに、肩をすくめて、おどけてみせる。決して心に届かせぬように。
「長く一緒にいたからね。それにキミは最高審判官として、他人との接触を避けていたから。そういう意味では、確かにキミにとって僕は『特別』と言えるのかも」
 あくまで友人愛、あるいは家族愛。そう主張する。
「その特別な情に、罪悪感が絡まり合って、訳が分からなくなってしまっているだけさ。僕らの関係に、最初に間違った名前をつけてしまったのは僕だ。その点については、本当に申し訳なかったと思うよ」
 後先考えずに告白し、恋人なんて見合わぬ名前をつけてしまったことを、心の底から悔いている。
「僕ら、文通でも始めてみるかい?そしてたまに会った時には、お茶会でも開こうか。茶飲み友達ってやつだよ」
 最初から、その距離感でいればよかったのだ。今からでも過去の過ちを正せるのなら、そういうのも悪くない。
……成程」
 ヌヴィレットは静かに息をつく。そのまま僅かに背もたれに身体を預ける。キシ、と木材の微かな軋みが耳に届いた。
 目の前に机がなければ、長い脚を組んでもいたのだろう。それは審判の場で被告の話を傾聴し、吟味する際に見せる姿勢に似ている。
 ならばそのまま判決に移って欲しい。けれどもそんな切望は、続く言葉に打ち砕かれる。
……私は、君に髪飾りを贈りたい」
 ヌヴィレットの視線はフリーナを──フリーナを飾る琥珀珠を見ていた。その視線は鋭くて、こめられた熱に気付かない方が難しい。
「目障りな琥珀が収まる位置を、私の色に変えてしまいたい」
……っ」
 形に残る贈り物など、一つも貰わない関係だった。二人の関係は秘すべきものだと主張されたから、欲しいもあげたいも禁句になった。
「これには、どういう名前の「愛」をつける?教えてくれ、フリーナ殿」
 じわり、と瞳の奥が熱くなる。答えなんて、一つしかない。それ以外見つけられない。
 知らず身体が僅かに揺れて、しゃら、とさげ飾りが音を奏でる。
 フリーナを守り支える「契約」の証。しっかりしろと促す、鎖の音色。
 またひとつ、息を吐く。
…………髪飾りは貰えない。ここは恋人の位置なんだ」
 結局フリーナは問いには答えずに、結論のみを口にした。それは逃げだとも分かってはいたけれど、他に道も選べなかった。
「その位置に、私はいたい。私はこの「愛」を、恋愛と定義する」
 そんな逃げ腰は隙となり、攻めの一手を与えてしまう。熱のこもった証明に、反証の余地は見当たらない。
 二の句を求めて視線を漂わせ、ふと琉璃百合の香りに気がついた。それは茶壺の中に咲いた花。
 そういえば、自分の分のお茶を用意していなかったと、今更ながらに気が付いた。
 まるで導かれるかのように、そっと茶壺に手を伸ばす。茶飲みに注いで、口に運んだ。
 ……不味い。
 思わず眉が寄る。すっかり渋みが出てきてしまい、とても飲めたものじゃない。
 でもそのおかげで、胸の澱みは流れていったし、目尻の熱は去っていた。
 改めて前を見据えると、ヌヴィレットが先と変わらず待っていた。返事も寄越さず呑気に茶を飲む無礼者を、よくも怒らず待てるものである。──こんなにも熱い視線を寄越しておいて、よくもまあ。
 これはもう、認めなければならないのだろう。注がれる熱は、「恋愛」であると。
 そして、認めた上で、答えよう。
「──ならキミは、今日失恋を経験する訳だ」
 いつかに演じた毒を孕んだ悪女のように、酷薄な笑みを浮かべてみせる。
 ……そういう傷で、僕はいられる。
 同じ傷を背負って生きる。なんて素敵なことだろう。どこまでも歪で醜い己が囁く。
 そうして願えば願うほど、棘が研がれて毒は滲んで、彼の夢見る可憐な花とはかけ離れていく。
 摘んだ野薔薇が棘を隠した毒花ならば、誰もが驚き、手を離すだろう。望んだ花はこれではないと、その場に置いていくだろう。
 けれど、それでいい。そんな仄暗さを、先程花茶と共に呑み込んだ。
……何故?」
「何故、って……
 対するヌヴィレットは、しかしどこまでも冷静だった。静かに、ただ根拠を問うてくる。
 棘も毒も何もかも、まるで存在しないかのような態度が恐ろしくなる。
……言っただろう。今の僕には素敵な恋人がいるんだ。だからキミの気持ちは受け取れないんだよ」
 それでも、演じ続ける。もう賽は投げられた。決して立ち止まる訳にはいかない。
「失恋とは、恋を失うことだろう。ならば君への想いを持ち続ける限り、私がその経験をすることは有り得ない」
……は、」
 堂々と、はっきりと、淀みなく。それが正しい論理だと信じて疑わない。そんな強さで放たれた暴論に、フリーナはしばし絶句する。
……それは流石に詭弁じゃないかい……?」
 無理やりに口を動かす。黙るな。決して思考を止めてはならない。
「みっともないよ、ヌヴィレット。しつこい男は嫌われるんだ」
 机の下、強く拳を握りしめる。もう解くようなゆとりはない。そうしてどこかに力をこめないと、纏う仮面が剥がれてしまいそうだった。
「だが追い縋らねば、何も得られない。ならば見目の至らなさなど、気にしていられない」
 威厳の為にと重厚で不便な衣装に身を包み、常に『正しい人』たらんとしている最高審判官の言葉とは思えない。
……迷惑だ」
 絞り出す。止まれば、負ける。
「承知している。不要ならば、捨てるなり売るなりすればいい。それでも私は贈り続ける。君に、髪飾りを」
 強い視線。熱い眼差し。逸らせない。逃げることを、許してくれない。
 分かってしまう。淀みない語り口の裏側で、どれほどの苦悩を経て、どれほどの覚悟を固めたか。
 酷い、酷すぎる。こちらの気持ちは、ちっとも分かってくれないくせに。
 ……逃げ切らせてくれ、頼むから。
……っ、言っただろう!僕はもう、キミのものじゃない!」
 がたん、と椅子を鳴らし、フリーナは立ち上がった。全ての流れを振り切るように、放つ声音に力を込める。
「僕は……っ!」
 恋人がいるんだ、僕は彼のものなんだ。そう言いかけて、気付く。そんな偽りで、ヌヴィレットの真心を覆せはしないと。
……っ、」
 彼はなりふり構わず、全てをぶつけてきている。ならば────真心には、真心を。
 ……僕は、誰のもの?
 考えるまでもない。
 ──そう、僕は。

「──僕は、僕のものだ!僕はもう、誰にも僕を渡さない!」

 胸を服越しに強く握りしめ、フリーナは声を張り上げた。
 もう振り回されるのは嫌だ。誰かの心の在り処に依存して、自分を見失うのは嫌だ。
 元カレに復縁を迫られて、そんな強引さにときめいて流される。そんな都合のいい存在じゃない。そんな女に、なりたくない。
「僕はそんな安い女じゃない。……舐めるなよ、ヌヴィレット」
 勢いのまま、瞳に力を込める。これは決意であり、意地だ。
 視線の先、腰掛けたままの彼がいる。縦長の瞳孔がゆっくりと眇められる。
 ──憧憬。そんな表現が、ぴったりの。

「──ならば、私が君のものになりたい」

……は?」
 一瞬、理解が追いつかなかった。
……龍が、人のものに……?キミ、プライドってものはないのかい……?」
 いったい何を言っているのか。
「必死なんだ。プライドなど、邪魔なほどに」
 そんな浮かれた思考回路の男ではなかった筈だ。
 龍は、自分自身を切り売りするような生き物ではなかった筈だ。
 ヌヴィレットの視線はどこまでも真っ直ぐで、絡まる熱に、ぐらりと視界が揺らぐ。
 止まる訳にはいかないのに、掴むべき言葉が、まるで霧のように指の隙間からすり抜けていく。
 視界の端で、ヌヴィレットが音もなく立ち上がる。
 長机を隔てた距離が、たった数歩で埋まってしまう。
……返答は?」
 存外に静かな声が落とされる。見上げれば、薄い紫色の瞳の中、逃れようのない激情が、焔の如くに揺らめいている。
 鼓動が、いけない高鳴り方をした。
……なにがしたいんだ、キミは……っ!」
 もう理屈も何もない。ただ、逃げたい。気づけば、そんな気持ちのままに叫んでいた。
 分かっている。ヌヴィレットは本気だ。本気で恋心を向けてくれている。
 ──でも、その気持ちは一体いつまで続いてくれるのだろう?
 どんなに熱く激しく燃え盛ろうとも、焔は水を浴びれば鎮火する。
 すっかり変わってしまったフリーナは、火を消す冷や水になり得てしまう。……それが、怖い。
 一度手にしたと思った幸せが、泡へと変わって儚く消えていく。その絶望を、フリーナはよく知っている。
 ヌヴィレットと恋人となって二ヶ月目、これは恋愛ごっこに過ぎないのだと、彼の瞳に見つけたあの瞬間を、フリーナは忘れないだろう。
 もう失うのは嫌だ。苦しむのは嫌だ。二度目は、きっと耐えられない。……ああ、もう本当に、この期に及んで自分のことばっかりだ。
……君を、幸せにしたい」
 だというのに、ヌヴィレットはこんな女を幸せにしたいだなんて、鉄板の口説き文句をくれる。それがどれほど、この胸を引き裂くか、思い至りもしないのだろう。
「言っただろう!僕はもう、充分すぎるほどに幸せだ!」
 視界が滲みだす。ヌヴィレットの瞳の中に、仮面が剥がれた、素のままの自分が映っている。こんな姿、見たくもないし、見られたくもなかった。
「だからもう、放っておいてくれ……っ」
 彼の視界を覗き見るのが耐えられなくて、視線を落とす。こんな惨めな姿で『幸せだ』なんて、どれほどの効果があるのだろう。
 分かっていても、後戻りなんて出来ない。したくない。ひたすらに拒絶し続けることしか出来ない。
 いっそ、みっともなく喚く姿に幻滅してしまえばいい。……今ならまだ、溢れ出しそうな雫を抑えられるから。
「残念ながら、それは出来ない。私自身も幸せになりたい」
「え?」
 ヌヴィレットの、幸せ?
「非常に情けないことなのだが、君が幸せなだけでは、私は満たされないらしい。……君が、いてくれなくては」
 思わず顔を上げると、滲む視界のなか、不器用に、申し訳なさそうに、それでも微笑む姿が見えた。
 ……ヌヴィレットの幸せに、僕が必要……
 しかもフリーナが幸せであるだけでは、それが叶えられないのだと言う。
……キミがそんなひどい奴だとは、知らなかった」
「そうだな。私自身、知らなかったことだ」
 ぽかん、と呟くフリーナに、ヌヴィレットは神妙に頷いた。
「どうだろう。このような至らぬ私ではあるが、君のものにしてくれるだろうか」
……普通は、そういう不利な部分は伏せておくものだ」
 正直過ぎる告白に呆れてしまう。
「それでは君に対して誠実ではない」
 大真面目に彼は言う。なんと不器用な男だろうか。
「キミは僕を美化しすぎているよ……。僕はキミに望まれるような、そんな綺麗な女じゃない。キミを幸せにするなんて、荷が重すぎる」
 フリーナはそっと目を伏せた。ヌヴィレットが幸せを望むなら、尚更自分は相応しくない。澄んだ水を体現するかのように綺麗な男に、こんな毒花なんて。
「君の自己評価の低さは筋金入りなので、その言は信ずるに値しない」
「な……っ!」
 なんという言い草なのだろうか。それ相応の覚悟と誠意をもって白状したというのに。
「それに君を美化した覚えもない。君が大変に手のかかる女性であることなど、とうに理解している」
「え……
 ヌヴィレットは、これ見よがしに溜息をつく。
「君は昔から……、水神を演じていた頃から、都合が悪くなると、すぐ逃げる。そして、その場にいる者──主に私に面倒なことを押し付ける。そのたびに随分と手を焼かされたものだった」
「そ、それは……
 じとりとした視線を浴びて、身が縮こまる。
 事実だ。今も昔も、自分は逃げ続け、ヌヴィレットに全てを背負わせてしまっている。
「些細なことで騒ぎ立て、くだらないことで泣き笑い、私とはまるで相容れない。視力にこそ差はあれど、同じ視覚を持っている筈なのに、まるで私とは世界の見え方が異なっているかのようだ」
「う……
 そこまで言わなくても。けれどそれも紛うことなき事実であるため、何も言えない。
 居心地の悪さに口篭るフリーナに、ヌヴィレットはふと頬を緩めた。
「だが、そんな姿こそ生き生きとして美しく、燦然と輝くのだから、たちが悪い」
 向けられる眼差しがあまりに優しくて、フリーナは息を呑んだ。そんな顔は、知らない。
「それに君は、本当に大切なことからは決して逃げ出さない」
 そんなこと、と口を挟む間もなく、ヌヴィレットは話し続ける。
「五百年に渡る人の身には余る苦痛からも、騙され引き摺り出された審判からも。あまつさえ、原始胎海の水に手を入れさえした」
 ヌヴィレットの手が、フリーナの手に──あの時、原始胎海の水に浸けた右手に伸びた。
……っ」
 不意の温もりに、びくん、と肩が跳ねた。その温度はここに来る前、胡桃に握られた時と同じでもあり、違ってもいる。
 黒い手袋を嵌めた大きな掌は、フリーナの手をすっぽりと包んでしまう。
……このように小さな手で、フォンテーヌを守り抜いた」
 握られた手に、僅かに力がこめられる。
「君の歌劇を誰より近くで見届けた者として、私は君を心から称賛し、尊敬している」
 やはり言葉は出てこなかった。
 代わりに、ぽろ、と頬を温かな雫が伝っていく。
 不完全で不格好だった五百年の歌劇。見返りなんて求めていなかった。褒められたいなんて、考えたこともなかった。
 けれど思う以上にヌヴィレットの手が温かくて、心地よいから。
 ほんの少しだけ、溢れてしまった。
「君のパフォーマンスはいつも、私を惹き付けてやまない。片時も目を離さず、見つめていたい」
「ま……っ、まって!まだ続くの!?」
 頬が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。これでは褒め殺しだ。そんなの、たまったものではない。
「まだ、『まだ続くのか』と言われるほど、話してはいないと思うのだが」
「もう充分だよ……っ!」
「いや、充分ではない。よって続けよう。君は人間社会を知らず、至らぬばかりだった私を根気よく導いてくれた。その慈愛と面倒見のよさは……
「も、もういい……っ!もう分かったから、それ以上言わないでくれ……っ!」
 フリーナは掴まれた右手を奪還し、もう片方の手と合わせて耳を塞いだ。当然そんな程度で全てを防げる訳もなく。
 思わず後ずさると、がつん、と椅子にヒールが当たる。前にヌヴィレット、後ろに椅子。本当にもう、逃げ場がない。
「私を君のものにしてくれるのなら、やめてやれるかもしれないな」
 挙げ句の果て、どちらを選んでも“終わり”の脅しがかけられる。その声音は少し愉しげで、なんとも憎らしい。
……キミ、随分ずるくなったね……?」
 信じられない。あの清廉潔白、法律遵守の、常に“正しい”最高審判官さまが。
……君にだけだ」
 ヌヴィレットの目が細められ、今度は頬に手が伸びる。温かくて、大きな手。
「髪飾りを外しても?」
 もう片方の手が、そっと琥珀珠へとかかる。
…………
 そんなこと、答えられる訳がない。
「沈黙は肯定と同義とみなそう」
 けれども口を噤むフリーナに、ヌヴィレットは容赦なく追撃を加えてくる。
「黙秘権というものを知らないのかい。最高審判官ともあろうものが」
「知ったことではないな。ここはフォンテーヌではない上、私は休暇中だ。今の私は最高審判官ではなく、ただ一人の男として、ここにいる」
 熱い。頬も、視線も、言葉も、何もかも。
…………屁理屈だ」
「そうかもしれない。君曰く、私はずるくなったそうなので」
 本当にずるい男だ。堂々と開き直って、強引に迫ってきて。でもそれに流される振りをして、これから罪を犯そうとする自分は、もっとずるい女だ。
……それと」
 ヌヴィレットは語る。
「私は君を美化していると言うが、私に言わせれば、君の方こそ私を美化している。私は君を傷つけてでも君を欲し、あらゆる手段を講じて今君を追い詰めている、どうしようもなく醜い男だ」
 更には「いまだ君が理解しないことが不思議でならない」なんて付け加えてくる。
 フリーナはぱちりと瞬いた。言われてみれば、その通りかもしれない。今日だけでヌヴィレットには色々な仕打ちを受けた。
 七星まで抱き込んで罠にかけられたし、何を言っても引かないし、果ては脅しまでかけられた。
 つまりここにいるのは、ずるい男と、ずるい女。それならば。
 ……ずるい者同士、お似合いかもね。
 する、と髪飾りが抜けていく。はらりと落ちた横髪は、髪飾りを持ったままの指によって、器用に耳にかけられた。
……フリーナ」
 目の前には薄い紫色の瞳があって、長い睫毛に縁取られた瞼がそれを覆い隠す。
 ……やっぱり君は綺麗だよ。ヌヴィレット。
 ほのかな琉璃百合の香りに混じる水の清涼さを感じながら、フリーナはそっと目を閉じた。