riririnf
2025-03-15 10:03:45
40169文字
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ラスト・ワルツ

ヌヴィフリ逃亡書いてみた⑥
この話で璃月プレイアブルキャラは全員出した筈
(名前のみ、台詞のみ、匂わせのみ含む)
あと一話で完結予定。

 ふわり、甘やかな花の香りが鼻腔をくすぐる。それは同じく花の模様が描かれた茶飲みから漂っている。そして茶壺の中、香りの源泉たる琉璃百合が咲いている。
 舌の上にはハスの花パイ。ちょうど今、花の中心近くにある一番美味しい餡のところ。
 ああ、幸せ。視覚も味覚も嗅覚も、はなやかな気配に満たされている。これ以上の安らぎはない……
「ところで、最近鍾離さんとなにかあった?」
「ん゙ん……ッ」
 餡が喉にぐっ、と押し込まれる。そのまま詰まりかけたそれを必死に飲み込む。当然味わう余裕などない。……ああ、なんともったいないことを。
「あれま。大丈夫?」
 呑気に問うてくる声に答えることも出来ず、花茶を流し込む。勿論味わうためではない。いまだ喉につかえる餡を押し流すため、そして時間稼ぎの為だ。
 フリーナは一つ前に受けた質問を反芻する。鍾離となにかあったか、だって?──ありまくりだ。
 鍾離とは七日前に恋人関係となった。恋人としての彼は誠実かつマメで、毎日束の間でも時間を作って会いに来てくれるし、髪飾りをプレゼントされたりもしたし、デートだってしている。
 けれどそれは惚れた腫れたの色めいたものではない。鍾離の気遣いと優しさによって成り立つ、契約によって結ばれたものだ。
 フリーナにとっては非常に有益な、しかし鍾離にとっては何のメリットもない関係。そんな間柄であることを、みだりに人に広めてよいものか。
 この七日間で鍾離の恋人だという噂が急速に広まっていることは知っている。それを思うと無駄な足掻きというか、覚悟を決めろ、と言われるところなのかもしれないが、それでも自ら進んで肯定する気にもなれない。
 だって今後、鍾離に想い人が出来るなり、フリーナに愛想を尽かすなりして、彼がこの関係を撤回したいと願ったら?
 関係が知られていればいる程、別れを切り出しにくくなるだろう。
 それは避けたい。鍾離は先生と呼び慕われている程の人だし、散々お世話になり尽くしているのだから、極力迷惑をかけたくない。……もう、今更かもしれないが。
 そうして別れ話にまで考えが及んだところで、気付く。
 ……この契約って、別れるための条件がないんだよね。
 例えばいつまでだとか、こういうことをしたら駄目だとか、通常の契約──例えばフォンテーヌの契約書式ならば盛り込まれているような、解約事項や免責条項がまったくないのだ。
 口頭契約かつ、その場の流れで突然に提案されたものだから、と言われれば、それまでかもしれない。けれど“あの”鍾離が、契約における基礎的な事項を提示し忘れる、なんてことがあるだろうか。
 ……まさか、一生僕の面倒を見てくれるつもりじゃないだろうね……
 浮かんだ“もしも”にゾッとする。それは流石に鍾離に負担をかけ過ぎだ。当時そんなことまで覚悟して、契約を結んだ訳ではない。
 しかし、そんなことは絶対に有り得ない、とも言いきれないのが、鍾離の怖いところでもある。
 ……来たるべき時が来たら、僕から別れを切り出そう。 
 本来鍾離と交わしていた契約は『来たるべき時が来たら、一つ、鍾離の願いに応える』こと。それに基づき、フリーナは鍾離と恋人関係となっている。
 それに倣い、今後『来たるべき時』が来たならば、フリーナからこの関係を終わらせるのだ。
 別れるための条件がないのなら、契約を終わらせる方法は一つしかない。どちらかが別れ話──契約破棄を申し出ること。
 それは考えようによっては、契約違反になるのだろう。ならば、その責はフリーナが負うべきで、間違っても鍾離に背負わせてはならない。
 彼は「契約」に対して誠実だ。だからこそ、不実を働かせる訳にはいかない。
 決意を固めたフリーナに、またも軽やかな声が届く。
「フリーナ~?そんなに華麗に無視されると、流石の私も傷ついちゃうんだけど?」
 フリーナはハッと息を呑む。いつの間にか茶飲みを円卓の上に置いていた。時間稼ぎのていすら崩し、あからさまに相手を無視していたことになる。
「ご……っ、ごめんっ、胡桃!」
 なんの言い訳もしようがない。いや、言い訳するなど不誠実である。フリーナは卓向こうに座る友人──胡桃に対して、ただ真摯に謝罪した。
「いーや、許せないね!これはもう、ヒルチャー夢フォンテーヌ歌劇バージョンを披露してもらうしかないね!」
「ええ……っ!?」
 ぷん!と頬を膨らませて、そっぽを向く胡桃は、とても可愛らしくはあるけれど、その要求は中々ヘビーである。
「こ、ここで……?」
「当たり前」
 ここは、岩上茶室。二階の屋上テラスは屋根も壁もなく、ただ青空に開かれており、フォンテーヌで言うところのお茶会──すなわち早茶が楽しめる。
 そんな環境下で、歌。
 自慢ではないが、フリーナは歌にも肺活量にも自信がある方だ。伊達に五百年に渡り、歌劇の国で大スターを張ってはいない。
 そして更に言うならば、やる以上は全力で、がモットーだ。
 すなわち、開放的なロケーション×大スターの声量=とてもすごく目立つ=破滅へ一直線!の方程式が漏れなく完成してしまう。
 ……ど、どうする……っ!?
 ここは璃月。フリーナはこれでも正体──他国の元神であること──を隠して、ひっそりと暮らす身だ。目立つことはご法度である。
 背中に冷えた汗が流れる。友人への義理と、現実的なリスクがせめぎ合う。こんなことで、この生活は終わってしまうのか────、
「──ぷぷぷっ、フリーナってばホント面白いね」
「へ……っ」
 不意に胡桃が口元に手を当て、破顔した。
「この世の終わり、みたいな百面相しちゃって」
 きゃらきゃらと笑う様子に、先までの拗ねた気配はどこにもない。
 ……ま、また、からかわれた……っ!
 フリーナは悟る。胡桃とはいつもこうだ。時に勢いだったり、時に巧みな話術だったり、気付けばこうして彼女のペースに嵌り、いいように転がされている。
 頭の回転が恐ろしく早いのだ。さすが若くして七十七世代に渡って続く葬儀屋を継ぎ、切り盛りするだけのことはある。
 そう、彼女が凄いのだ。別にフリーナがちょろ過ぎる、という訳ではない。断じて違う。
 ひとしきり笑った胡桃は、唇の弧を保ったままに掌をひらめかせる。
「まっ、無理に答えなくてもいいってこと。従業員のプライベートにまで干渉しないよ。往生堂はホワイト企業だからね」
 そう言う梅の花の瞳は、フリーナが身につける琥珀珠の髪飾りに向けられている。
 考えてみれば、往生堂の宣伝だと日々街中を駆け回る彼女が、例の噂を知らないなんてことは無いだろう。しかも鍾離の上司でもあるのだから、誰かに噂の真相を訊ねられることもあったかもしれない。
 もっと言うなら、彼女と鍾離は仲がいい。常日頃行動を共にしているという訳ではないけれど、それでも互いに信頼し、尊重し合う、そんな深い絆があるのだと伝わってくる。
 だから本来、鍾離とフリーナの間に何があったのか、気にならない筈がない。
 それでも胡桃は、答えなくてもいいと言ってくれた。慌てる自分を気遣ってくれたのだろう。彼女は破天荒に見えて、その実思慮深い人だから。
 ……敵わないなあ。
 ふぅ、と吐息まじりの笑みが零れる。胡桃といい、鍾離といい、往生堂は傑物揃いだ。そして自分は本当に縁に恵まれている。
……ありがとう、胡桃」
「んもぉ~、またすぐにお礼を言うんだから。私とフリーナの仲でしょう?水臭いって!」
 困った子だねぇ、と言わんばかりに腕を組む彼女に苦笑を返す。こればかりは性分なので、なんと言われようとも、どうしようもない。
 誰かが自分に何かをしてくれるのは、決して当たり前ではないのだと、フリーナはよく知っている。受けた恩に対して礼を尽くすのは、それこそ当たり前のこと。
 また水神を演じていた頃は、お礼ひとつを言うにも、神として適切なのかどうかを第一に考えなければならなかったが、今は何に阿る必要もない。だから自然と感謝の言葉が口を突く。
 ……ああ、でも彼も、こうしてお礼を言うたびに、複雑そうな顔をしてたっけ……
 考え方はもっともで、共感出来ることではあるが、君のそれは行き過ぎであり、己を卑下しすぎている、と。
 あの時自分は、なんと返したんだったか。
……
 流れるように脳裏に浮かんだ彼の姿を、そっと目を伏せ追い払う。
 こんなことでは髪飾りに込められた『奇門遁甲』が、彼──ヌヴィレットを呼び寄せてしまわないとも限らない。
 フリーナは三日前、この髪飾りの効果を詳細に聞いていた。
 それは奥蔵山での遭難から救出され、不卜盧に一晩入院していた時。旅人とパイモンが帰った後、まるで彼女達が去るタイミングを狙っていたかのように訪れた鍾離が教えてくれたのだ。
 曰く、『奇門遁甲』はフリーナの望む道を示す占術の一種で、これまでヌヴィレットに会わなかったのは、その効果であること。
 けれども遭難時においては、宝盗団や魔物に見つかることを恐れる意識が悪い方に影響し、七星の手配でフリーナを捜索していた人達までもを避ける対象として見なしてしまった。その結果、フリーナの救出を遅らせてしまったこと。
 そこまで言われれば、あとは鍾離に言われるまでもなく、自然に導き出せた。ヌヴィレットがフリーナを発見出来たのは、フリーナ自身が願ったからだ、と。
 そして「すまないな」と申し訳なさそうな顔で謝罪する鍾離の意図も、理解した。
 一つは術の詳細を伏せ、遭難を長引かせたことへの詫び。
 けれど、それは仕方のないことだ。もし最初から髪飾りの細かな仕組みを聞かされていたら、フリーナは変に意識して、術の効果を無駄にしてしまっていたかもしれない。
 だからフリーナはまったく気にしていない。むしろ鍾離のもう一つの目的の方が、余程重要だった。
 それはフリーナの意思確認。これからもヌヴィレットから逃げ続けるつもりなのか。鍾離はそれを探りに訪れた。
 けれど鍾離に聞かれるまでもなく、その時にはもう、フリーナの答えは定まっていた。────彼に自分は、相応しくない。
 今、フリーナは真実自分の意思で髪飾りを身につけている。術の効果は本当に絶大で、二日前ヌヴィレットに別れを告げてから、一度も彼に出会っていない。
 ヌヴィレットが璃月に滞在するのは八日間。今日は七日目。今は昼近くだから、移動の時間も考慮すれば、明日の今頃には、彼はもうこの街にはいないだろう。
 ……気を弛めるな、フリーナ。何事も終わる間際が一番大切なんだ。
 それまで上手くいっていると思っていても、崩れるのは一瞬だ。一度瓦解すれば取り返しがつかないし、その終演がドラマティックなものになるとも限らない。 
 五百年に渡り演じ続けた舞台の幕引きが、あまりに唐突で、達成感もなにもない呆気ないものであったように。
「終わった?」
 なにやら口に含んだような声に顔を上げると、ハスの花パイを頬張る胡桃と目が合った。もぐもぐごくん、と、実に美味しそうにパイを堪能し終えた胡桃は、すっと片手を上げた。
「これで、二回目」
 掲げた手の指はピース……ではなく、二。
 その数字が意味するところは、フリーナの沈黙の数。目の前の胡桃を放って物思いに耽った、無礼の回数。──血の気が、引いた。
「ごめん……っ!」
 また、やってしまった。謝罪だ御礼だなんて考えていたそばから、このザマだ。
「確かにフリーナは、この堂主の寛仁大度に感謝するべきかもね」
「本当に悪かったよ……
 じとりと口の端を上げる胡桃に、しょんぼりと頭を下げる。申し開きのしようもない。
「私はいいけど?そんな調子で凝光さんの前でもダンマリしないでよ?」
 胡桃から齎らされた不意の忠告に、びくんっ!とフリーナの肩が跳ねた。
「うう……、嫌なことを思い出させないでおくれよ……
 両手で頭を抱える。あれは昨夜、鍾離と夕食を共にしていた時のこと。
 頭上から突然声が降ってきた。「やっと見つけました」と。
 声の主──月海亭の秘書、甘雨は、驚くフリーナに構うことなく話し続けた。「あなたを「空中宮殿」に招待いたします」。
「本当に……ビックリしたんだよ……
 あれは本当に、本当に心臓に悪かった。仮にも恋人の前で、情けない悲鳴を上げてしまう寸前だった。
 まず台詞が悪い。『見つけました』だなんて、逃亡劇を演じている只中の人間に言うものではない。
 そして立ち位置も悪い。どうして古来より、敵あるいは味方かどうかが分からない怪しい人物は、高い所から登場するのだろうか。そんな場所から、いきなり話しかけられたら、心臓が飛び跳ねるではないか。
 物理的に高い位置に立つことで相手を心理的に威圧し、優位を取るために効果的な手法だから。もっと言ってしまうと、物語の演出として効果的だから。……なんてことは、両の理由でかつて高所を有効活用していたフリーナは、誰よりもよく分かってはいる。けれども、それとこれとは話が別だ。
「凝光さんに招かれるなんて栄誉なことよ。私が代わってあげたいくらい。地位と富の頂点にいながら、美しく賢く、万物を見据えている。すっっっごく、かっこいいんだから!」
 身を乗り出して力説する胡桃の弁に、同意は出来る。彼女は為政者としても商人としても大成している、類稀なる才覚を持つ人物だ。
 異国の元神──フリーナという厄介者を受け入れてくれる度量もあるし、彼女と食事を共にするためだけに、数百万単位のモラが動くことが日常らしい。
 そんな偉大な人物の方から招きを受けたということは、胡桃の言う通り、栄誉なことではあるのだろう。
 でもそれは、ぷくぷく獣にモラを与えるのと同じようなものだ。元水神という過ぎたる仮初の威光こそあれど、今やしがない異国の演劇人でしかないフリーナに、七星のお相手なんて、荷が勝ちすぎる。
「出来ることなら、代わってほしいくらいだけれどね……
 それが出来れば苦労はしない。フリーナは溜息をつく。
 あるいは此度の招待が、元神としての知見を求めるものであったなら、どうにか胡桃と入れ替われないか、真剣に頭を悩ませていたかもしれない。
 しかし今回ばかりは、そうもいかない事情があった。
「今後の海灯祭の参考に、イリデッセンスツアーについて詳しく教えてほしい……なんて言われたらね。断る訳にはいかないさ」
 イリデッセンスツアー。それは母国フォンテーヌにおいて、多大な影響力を持つ音楽祭だ。
 フォンテーヌの芸術的な催しについて訊ねるならば、確かにフリーナ以上の適任はいないだろう。上に立つ者としての才覚はてんでなかったけれど、こと芸能に関しては、自身の才を疑ったことはない。更には五百年分の記憶を持っているのだから、尚更。
 芸術を愛する者としての知見を求められているならば、応えぬ訳にはいかないだろう。
 とはいえ、まさか異国の地でその名を聞くことになるとは思っていなかった。なんでも数年前に、とあるフォンテーヌの音楽家が璃月での開催を持ちかけてきたことがあるらしい。
「やったね~、海灯音楽祭!当時、旅人とパイモンが色々と動いてたよ」
「ああ……成程ね」
 やっぱり、あの二人か。それはシンプルかつ抜群の説得力を持つ解答だ。
 二人はテイワットで巻き起こる大小様々な事件に首を突っ込む。特に国を動かす規模の出来事となれば、そこに必ず名高き金髪の旅人とその相棒の姿あり、と相場が決まっている。
「懐かしいねえ、私も辛炎と一緒に歌ったんだよ。竜蟠 虎踞 羞花 閉月♪ってね」
 リズミカルな歌唱──ラップなるものを披露する胡桃は、ノリノリで肩を揺らす。その様子から、とても楽しい催しだったのだろうと伝わってきて、フリーナはふと笑みを零した。
 胡桃のよき思い出、その一助を我が国の文化が担えていたなら、それは大変嬉しいことだ。そう考えると、少し肩の力が抜けた。
 凝光にフリーナの知識を伝えることによって、今後璃月の人々が楽しんでくれる何かが形作られるなら、それはとても誇らしく、喜ばしいことだと、そう思える。
「──そろそろ行くよ。楽しい時間をありがとう、胡桃」
 フリーナは立ち上がる。約束の時刻より少し早いが、こういうのは余裕を持った行動が肝要だ。大事な面談や大舞台の前には、いつもフリーナはゆとりある行動を心がけていた。
 それに今やっと、凝光との対面について、建設的な思考になれたのだ。この勢いのまま、今日の山場を乗り越えたい。
「えっと、お金は……
「いいって、いいって!今日はこの堂主の奢りだって最初に言ったでしょ?」
 財布を取り出すフリーナを制し、胡桃は両の人差し指で自らを指し示す。加えて「まさか忘れちゃったの?」と小首傾げの上目遣い付き。
 相も変わらず賑やかな彼女に、自然と唇が綻ぶ。
 今日の早茶の誘いは突然だった。早朝に「お茶しーましょ!」と自宅のドアをどんどんと叩かれて──いや、ノックされたのは、寝不足気味のぼやけた頭には少々刺激が強かったが、いざ茶屋に連れ出されると、あっという間に時が過ぎていった。
 この時間がなければ、今頃身に余る招待を前に縮こまり、沈んだ気分のまま空中宮殿に赴かなければならなかっただろう。こうして笑みを浮かべることなど、とても出来なかった。
「──感謝するよ、胡桃」
 偶然なのか、どうなのか。常日頃おちゃらける彼女の態度から、その意図を読みきることは難しい。けれど、彼女の計らいにフリーナが救われたことは事実。
 だからフリーナは、そっと胸の前に手を当てて、本日何度目になるかのお礼を口にした。
「またぁ~!ホント頑固なんだから」
 なかば予想はしていたが、やはり胡桃は呆れ顔だ。
「次また付き合ってくれたら、それでいいから!」
 にっこりと屈託のない笑みを見せる胡桃に、フリーナは頷く。
「なら、次は僕に奢らせてくれ」
 それにまた胡桃が微妙な顔をすることも、もちろん予想済みで。
「はあ、堂主は悲しいよ。可愛い友人が、どこぞの客卿の如くの石頭になっちゃうなんて」
 今度はよよよ……と両手で顔を覆って泣き真似披露。
 フリーナ自身、歌劇のように言動が大袈裟だと言われることもあるけれど、胡桃はまた別格だ。見ていて飽きないし、そんなところが彼女の魅力だとも思う。
「では!そんな石頭な困ったさんに、堂主からの有難~い御説法!」
 胡桃は突如がばり、と顔を上げ、勢いよく立ち上がった。そのままずいずいと歩み寄られて、フリーナは思わず後ずさる。
「な、なんだい……っ?」
 逃げるなと言わんばかりに手を掴まれて、迫る胡桃は、にやりと口の端を上げた。
「陰陽は整然、運命は無常。誰にだって、死ぬ日はいつかやって来る」
……っ」
 ──死。
 フリーナはまさに三日前、奥蔵山で遭難し、己の『死』を強く意識した。だからこそ、いきなり何だと笑い飛ばすことなど出来ない。それは今のフリーナにとって、あまりに身近な話題だった。
「けれど死にも規則はある。だからこそ『生を大切に、死を恐れずに。心に従い、最善を尽くせ』」
 胡桃の唇はいまだ弧を描く。だが、その形は数瞬前の悪戯なものではない。穏やかだけれど、有無を言わさぬ絶対の気配。
 それは生と死の渡し守として、「境界」の摂理を知る者の顔。
 知らず息を呑む。ぴくりと手が跳ねた拍子に、その手を掴む胡桃の手首から、ちゃり、と数珠の音が聴こえた。
「悔いが残らないように生きる。それこそ正しいことなんだと思わない?」
 梅の花の瞳が細められる。その眼差しは秋の肌寒さを吹き飛ばす程に温かい。
 同様の温度がフリーナの手を包んでいる。逃げられない強さでありながら、それでも泣きたいくらいに優しい握り方だった。
…………
 フリーナはゆるりと目を閉じた。日々宣伝に街を駆け回る彼女のことだ。鍾離とのことは当然ながら、ヌヴィレットが今この街に滞在していることすら、把握しているのではないだろうか。
 それでも彼女は何も聞かない。強制もしない。ただこうして、温もりを分け与えてくれている。
 フリーナはそっと目を開けた。目の前には、変わらず穏やかな梅の花。
……覚えておくよ」
 彼女の言葉も、この手の温かさも。
「にひひ、素直でよろしい!」
 胡桃はにぱっ!と破顔した。先の荘厳とも言える空気が一瞬で霧散する。
「よし!じゃあ、行ってらっしゃい!」
 ぽんぽんと二の腕を軽く叩かれ、送り出される。離れていった温度に少しの寂しさを覚えながらも、フリーナは歩き出す。
 階段を降りて左に曲がり、緩やかな曲線を描く木製の橋に差し掛かる頃に顔を上げれば、さっきまでフリーナがいた席が視界に入る。そこにはまだ胡桃がいて、待ち構えていたように、ぶんぶんと手を振ってくれた。
「そうそう、ヒルチャー夢フォンテーヌ歌劇バージョンも、覚えててよ!」
「えっ!?」
 その話は、もう終わったのではなかったか。
「なにを驚いているの?歌わなくてもいいとは言ってないでしょ?」
「ええっ!?」
「猶予をあげたんだから、ちゃんと練ってきてよ?期待してるから!」
 ああもう本当に、彼女には敵わない。結局いつもこうやって、いいように転がされるのだ。
 軽く手を振り返しながら、紅葉舞い散る橋を渡る。ゆっくりと歩を進めるたびに木の軋む音が微かに響き、視界の先、活気ある紅色の街並みが迫る。
 三年前、初めてこの橋を渡った時は、不安と心細さでいっぱいだった。
 これからの生活のこと、母国に置いてきた全てのこと、そして彼をちゃんと過去に出来るかどうか。それらあらゆる懸念がフリーナを蝕んで、先行きを暗くさせていた。
 ……でも、
 この三年間は無駄ではなかった。ただ無為に過ごした訳ではなかった。
 沢山のひとに頼り、迷惑をかけ、今もそんな只中にいるけれど、それでも、かつて演じた、あの五百年の歌劇と同じではない。
 ……今はもう、独りじゃない。
 それが分かっただけで、今ここにいる意味は充分にある。
 ……ありがとう、胡桃。
 それを教えてくれた彼女に、心からの感謝を。
 ……ごめんね。
 そして同時に、心からの謝罪を。
 彼女曰くの有難い説法を、一つ無駄にしてしまった。
 『心に従い、最善を尽くせ』。とてもよい教えだと思う。彼女の言う“正しい”も、実にその通りだと思う。
 フリーナは自らの心に従う。その為に全力を尽くす。
 ──だからこそ、“会いたい”とは願わない。三日前、『死』の間際に抱いた悔いを、そのまま抱えて、生きていく。
 ざあ、っと秋の冷たい風が吹く。橋の上、横を見遣るとキラキラと光る異国の海原。
 この水平に日が沈んで、また昇り、夕暮れ色に街が染まる頃。ふと、ああ終わったんだな、と気付くのだろう。
 クライマックスに相応しい見せ場も何も無く、味気なく終幕を迎えるのだろう。
 脚本もスポットライトもない、世界からすれば取るに足らない、たった二人の男女の逃亡劇の幕引きなど、そんなものだ。…………けれど。

 ……それでいいよね。

 ドラマティックとは掛け離れた終演を、いつか笑って思い出せる日も来るだろう。